2017年06月23日

足利さぬ …のこと(その3)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その2)」の続きです。

さて、さぬの父、足利秀政の改名(日向→足利)の、いわく有り気さから考えても
(八幡大菩薩に誓ったらしい)両家のただならぬ関係から考えても
尊氏にとって、さぬとの婚姻は隠された深い意味がありそうだ…
というのは想像に難くない訳ですが
そうすると、さぬはかなり特別な側室…というか
「準正室」くらいの存在だったのではないかと思えてしまうのですが
にも拘らず…
どうにも、当時の記録上ではさぬの気配が全くしないのですよねぇ…


以前『Muromachi通り』「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
尊氏の腹心の僧、三宝院賢俊の日記『賢俊僧正日記』の中の
尊氏の家族「衰日と年齢」についての記述を3つほど紹介しましたが
これらには、さぬらしき女性の記述は全く見られない…
という事は
(賢俊による)さぬの日常的な修法は行われていなかったし
とりあえず尊氏邸には同居していなかったっぽい
というのは間違いないようです。



ただ、賢俊の日記にはちょっと気にかかる部分もあって
まず、暦応5年(1342)2月の記述を再掲いたしますと…


二月  御衰日
 将軍(尊氏)卅八卯酉  三条殿(直義)卅六丑未
 大方殿(上杉清子)七十三卯酉
 御台(赤橋登子)卅七丑未  三御台(直義室)卅六丑未
 鎌倉若君(義詮) 若君(聖王)四辰戌  三若君(基氏)三子午

 姫君  一ヽ姫君 六丑未

(※「三御台」「三若君」の「三」は、三条殿=直義のことです。
 三若君(=基氏)は尊氏の実子ですが、直義が養子として養っていました。)



この記述の「並び順」に関する特徴は
尊氏 → 直義 → 尊氏室 → 直義室 → 尊氏子(義詮・聖王)→ 直義子(基氏)
となっている事といえますが
ただ、男子まではいいのですが、女子(二人の姫君)についてが謎な訳で…

最下段の最初の「姫君」とは
この頃生まれたばかりの、赤橋登子の娘の「鶴王」と考えられるのですが
そうすると、(年上にも拘らず)6歳になる姫君がその後に書かれている
…というのが、どうにも疑問な訳でして。
うーん、ぱっと思い付くのは
この姫君が、赤橋登子の所生ではないからなのではないか…?
という可能性な訳ですが…。


でも「一ヽ姫君」の「一ヽ」の意味が分からない…
「三」じゃないから三条殿(=直義)の養女という訳でもないし
(※直義は、この翌年に生まれた尊氏の娘を養女にもらいます)
そもそも、この姫君は建武4年(1337)生まれ
記録に残る尊氏の娘としては、最初の女の子(長女)なので
赤橋登子が産んだ子だったとしたら、どこかに養子に出すとは考えにくい…
というか、「鶴王」がとても大切に育てられた様子からすると
やはり、この頃生まれた「鶴王」こそ、赤橋登子の最初の女の子であって
この6歳の姫君は、どう考えても母が違う…
まあつまりはっきり言って
さぬが生んだ姫君なのではないか…!!
と思ってしまった訳ですが。

つまり、二人の姫君の記述は
正室赤橋登子の姫君」「さぬの姫君」
と、正嫡の順番になっている、と。




それからもう一つ
賢俊の日記の貞和2年(1346)の記述(2か所)についてですが
赤橋登子の姫君に関して…


正月4日  上台 44 辰戌  同姫

10月13日  上台 44 辰戌  同姫


(※上台=赤橋登子。年齢の「44」は実際は漢数字です。)


と、どちらも赤橋登子に姫君が一人だけいるように書かれていて
この子は、この年に5〜6歳になる「鶴王」の事だと考えて間違いない訳ですが
しかし…
実はこの頃、尊氏にはもう一人姫君がいて
でもその子は、この年の7月7日に3歳で夭折してしまいます。

もしこの姫君も、赤橋登子の所生だったとしたら
正月4日の記述の方は
上台 44 辰戌  同姫 同姫
と書かれているはずなのに、なぜか一人分…

私は以前、上記の記事「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
この正月4日の「同姫」とは
「鶴王」「3歳の姫君」をまとめて記したものだろうと考えたのですが
よく考えたら、それはちょっと不自然かなぁ…と。

という訳で、つまり何が言いたいかというと
この年に夭折した3歳の姫君
赤橋登子の子ではない…ってゆうか、さぬが生んだ子なのではないか!
とこれまた思う訳です、はい。




妄想が☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆妄想を呼ぶ




と、こんな感じで妄想をたくましくすると
当時の記録上では、これまで影も形も見えなかったさぬの存在
なんか、見えて来た…かも…??

まあしかし
それでも「賢俊による修法が行われていなかったっぽい」というのは
やっぱり気にかかるし
この二人の姫君も、生年的には、赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないので
私は、考えらる可能性として
もしかしてさぬは… わりと早い時期に亡くなってしまっていたのではないか!?
という、(´;ω;`)な事態も考えてみたのですが…


しかし、ここにその可能性を打ち消してくれるかも知れない
気になる史料が一つありまして―――


【小松茂美『足利尊氏文書の研究 V解説篇』(旺文社)1997】
の、p.210-213 の解説の中で登場する書状なのですが…


これは、建武4年(1337)7月25日に発給された「足利尊氏寄附状」に関連して
その43年後の康暦2年(1380)6月3日に発給された文書で
(詳しい解説は、まるで省かせてもらいますが)
この文書を自筆でしたためたのが「平氏女」(へいしのめ)という女性で
その内容から、彼女は
「足利家一門の高貴な女性」(※上記文献より引用)
と考えられ
この文書が伝えられた多田院では、その伝来の途次でいつしか
この「平氏女」は、尊氏の正室の赤橋登子に擬定されて来たそうです。

室町時代初期の、地位の高い平氏の女性…といったら
北条一族の赤橋登子しかいないから、そう考えられて来たのも当然だと思いますが
しかし!!
既に貞治4年(1365)5月4日に60歳で没している赤橋登子が
康暦2年(1380)にしたためられた書状の発給者である訳がない…
つまり、この「平氏女」が誰なのか謎…
上記文献では
「しかしながら、それ(=赤橋登子)に代わるたれなのか、いま追及の手がかりがない。」
(※原文より引用。カッコ内は私による註。)

とされています。


…はい、という訳で
私はこの解説を読んだ時
「え、それって「さぬ」なんじゃないの!?」
と思ってしまった訳であります。

もしこの(かなり適当な)思い付きが正鵠を射ていたとしたら
さぬはわりと長生きしたって事になるので(※この時点で、尊氏没後22年)
ひと安心!…と言いたいとこですが
うーん、どうだろう…

というか、父の秀政が足利に改姓したのに
その後もさぬは「平氏女」と署名していたってことは…
え、つまりさぬは「足利さぬ」って自覚してた訳じゃないの??
それ(名字)とこれ(血筋)は別問題なの??
…いやそもそも
この「平氏女」をさぬと推定するのは、裏付けが無さ過ぎるので
これ以上、妄想に妄想を重ねても仕方ない訳で
赤橋登子の姉妹でもいたのかな〜
と考えるのが、現実的なところでしょうか。

まあ一応、私の勝手な「さぬ妄想」という事で語ってみました。




以上、尊氏の謎の室「さぬ」について
今のところ語れる事を、大略語り尽くしてみました。
まあつまり結論は… です。
だから妄想の余地∞無限大です。 やったね!

なので、もう少しだけ「さぬ」で引っ張りたいと存じますので
次回「尊氏さんの子供たち」をちょっとだけ解説したあと
満を持して
私の秘蔵(?)のさぬネタを披露したいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月18日

足利さぬ …のこと(その2)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その1)」の続きです。

ところで、タイトルについてなんですが
当時の社会では、結婚しても女性は家名を変えませんので
夫婦は別姓です。
(例えば、赤橋家出身の赤橋登子は、生涯赤橋登子です。)

しかしさぬの場合は、父が日向秀政から足利秀政に改名したので
娘のさぬも「足利さぬ」となったと思われます。
…ってことはですよ
尊氏とさぬは「夫婦で足利」だったのですよ!
一族や血縁者同士の婚姻じゃないのに!

まあ、だから何だという話ですが。
そもそも、当時の女性のフルネームが意識される事って
ほとんどなかったような気がしますが
しかしそれでも、敢えて言うと「さぬ」「足利さぬ」なんですよ!
もう、気になって気になってしょうがない…



ではまず、そんな尊氏の謎の室「さぬ」に言及した文献を再掲しますと…
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
の、p.189-190 の日録と、p.197の系図で
主な出典は『萩藩閥閲録』という史料です。

ちなみに、尊氏の室については他にも謎情報があって
二階堂氏の系図で、二階堂時綱の娘の注記に「尊氏妻」とあるそうですが
これは "たかうじ" は "たかうじ" でも
「佐々木 "高氏" の妻」の間違いですね。(※佐々木高氏=佐々木道誉)

鎌倉幕府御家人時代、尊氏の最初の諱は「高氏」だったので
それで後世の誰かが勘違いしてしまったのでしょう。

(倒幕後、建武新政権が始まって間もない元弘3年(1333)8月5日に
 後醍醐天皇から偏諱「尊」を賜って「尊氏」に改名しました。)



―――ちょっと余談―――

鎌倉幕府倒幕では、後醍醐天皇に従い大活躍した人物はたくさんいて
みんなそれぞれ恩賞にもあずかっている訳ですが
とはいえ、尊氏が後醍醐天皇の諱「尊治」(たかはる)から偏諱「尊」を賜った
…というのは、ミラクルスペシャルなのはもちろんですが
かなりイレギュラーな恩賞だったと思うのですが。

もともと(近臣の讒言さえなければ)極めて良好だった後醍醐天皇と尊氏の関係や
後醍醐天皇を慕い続けた尊氏の心中から思うに
後醍醐天皇が偏諱「尊」を授けた経緯って…

「あれ、高氏って尊氏にしても "たかうじ" じゃん?
 読み変わらないじゃん? ワロスwwwww
 じゃあ尊氏にしちゃえばいいじゃん? 問題なくね?www」

くらいの、ギャグに近いノリだったのではないかと…。
だとしたら―――
決裂後も生涯「尊氏」の名を名乗り続けた尊氏の気持ちはどんなものだったろう…
帝と笑い合った思い出… (´;ω;`)

ついでに言うと、「尊氏」って良い名前ですよねぇ〜
「足利高氏」「足利尊氏」とでは
なんかラグジュアリーさが雲泥の差、スペックが圧倒的に違う!!
すべては後醍醐天皇の御恩のお陰… (´;ω;`)

―――感想文おわり―――





さて、『萩藩閥閲録』とは
江戸時代に、萩藩が諸家に伝わる古文書家の系譜を集めて編纂した史料で
ここに、足利秀政の子孫(※秀政の3代後から家名を「大和」に変更)が所蔵していた
複数の書状の写しと代々の系譜が掲載されています。
そのうち、足利秀政尊氏から送られた書状の写しが4通
これが大変興味深い訳ですが
順不同で並んでいるので、それを内容から年代順に並べ替える必要があります。
以下に、書状の概略だけ紹介しますと…


【1】尊氏から足利秀政への遺言状
(先日紹介したもの。詳しくは…【『南北朝遺文 中国四国編』第3巻 2969】)
 日付:延文3年(1358)4月27日
 宛所:御父足利大和守殿


【2】いつもさぬに言ってるんだけどー
 秀政の猶子になりたい!(その証に)太刀を二振りちょうだい!
 (その後はちょっと意味が取りにくいのですが…)
 両家の安泰や繁栄への願いと、さぬの上洛が滞りなく進んだ事などについての書状
 (「おなじくは治世を給う可く候」とか「子孫の事〜」とか
  なにかと意味深な内容です。)
 日付:(年不詳)2月1日
 宛所:やまととのへ(大和殿=足利秀政)


【3】秀政の名字を「足利大和守」にすべきことと
 幕紋の沙汰(足利二つ引両紋の下賜)についての書状
 日付:(年不詳)8月16日
 宛所:日向殿(日向秀政=のちの足利秀政)


【4】東海道の先陣を務め、殊に関東で忠節比類ない戦いを見せた足利秀政への
 尊氏からの戦功を讃える感状
 (「大菩薩の記文に任せ、当家の子孫が朽ちることはないだろう」
  …という気になる文言も。両家について、八幡大菩薩に何を誓ったのか…?)
 日付:建武3年(1336)12月13日(←『竹之下・箱根の合戦』の最終日)
 宛所:御父大和守殿



さて、これらを年代順に並べ替えますと…
まず【1】は尊氏薨去の3日前なので、間違いなく4番目(最後)です。
そして【3】以外は宛所が改名後の「大和(守)」となっているので、【3】が1番目
【2】の時点では、まだ尊氏は秀政の猶子ではないので
【2】→【4】(=宛所が「御父」)の順番
ということで…

【3】(年不詳)8月16日
【2】(年不詳)2月1日
【4】建武3年(1336)12月13日
【1】延文3年(1358)4月27日


となる訳ですが
【3】は署名が「尊氏」となっているので
(それを信じれば)元弘3年(1333)8月5日以降
そして【2】では、尊氏は京都に在住しているようなので
(『中先代の乱』で直義救助に向かう)建武2年(1335)8月2日以前
…以上を踏まえると
年不詳の2つの書状は
【3】が元弘3年(1333)or 建武元年(1334)の8月16日
【2】が建武元年(1334)or 建武2年(1335)の2月1日

と推定される訳ですが
ただ、両家の意味深な関係、秀政を「契約」によって足利姓とし
さらには猶子になる事まで望んだ尊氏の真意を思うと
おそらくこれらの行為は、倒幕という宿命的な時代の変動に起因するものであった思われ
そうすると、尊氏は新政権が始まって日を置かずに行動に出たと考えるのが妥当…
という事で

【3】は、元弘3年(1333)8月16日
【2】は、建武元年(1334)2月1日


と考えて問題ないのではないかと思います。



(どちらにしても)さぬが尊氏に嫁いだのは
まだ室町幕府開始以前の、建武政権時代の事だったと推定されます。

(あるいは、側室として迎えるくらいなら、北条一族に憚りなく出来たとしたら
 もっと以前、鎌倉時代中の可能性も無きにしも非ずですが
 それでも、時代の変動を感じ始めた『元弘の変』開始(元弘元年(1331))よりも後
 父の足利貞氏が他界(元弘元年(1331)9月5日)して
 百箇日が過ぎた後の事だったのでは…?
 と、想像しています。)



建武新政権が始まり、尊氏が鎌倉に帰る事なくそのまま在京となった時点で
さぬは… おそらくは鎌倉にいたのだと思いますが
尊氏が、さぬを京都に呼んだと。

ここ、わりとポイントなので覚えておいて下さい。


(ちなみに、足利秀政の家系
 秀政の先代から「日向」を名乗っているし
 子孫は萩藩に仕えているし、もとはと言えば平氏だし
 西国に地盤のある一族かなぁ…とも思ったのですが
 ただ、秀政の先代の日向義高
 「足利式部少輔義直より軍倍を伝授」されたとあるので
 (足利義直が誰かは謎。『尊卑分脈』では見当たらず…
  うーん、吉良あたり?)

 既に鎌倉時代から、足利家とは関係を持っていたようだ
 …という事で、さぬは鎌倉から京都に上ったのだと推定しました。)




さて、書状の年代と、さぬとのだいたいの婚姻時期が判明したところで
次回「足利さぬ …のこと(その3)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:07| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月17日

足利さぬ …のこと(その1)

こんばんは、先日の記事「尊氏さんの命日(その1)」
謎の尊氏の室「さぬ」の事を紹介したら
私の中で俄かに、気になって気になって仕方ないモードが再燃してしまったので
もう少し話を続けたいと思います。


尊氏の室といえば、鎌倉幕府の御家人時代に鎌倉で婚姻した正室
北条一族出身の赤橋登子が有名ですが
しかしその後、新生幕府の初代将軍ともなったにもかかわらず
尊氏には側室に関する記録がまるで無い、というのも有名かと思います。

まあ、北条一族から正室を迎える前の青春時代では
竹若(庶子、長男)の母とか、直冬(庶子、次男)の母といった
非正嫡的な、一夜限り的な事はあった訳ですが
しかしこの時期は
まだ尊氏さん20代(場合によってはぎりぎり10代)ですし
政局とか大人の事情とかで正室が決まらず
悶々(もんもん)とした日々に耐えていた訳ですし
そのくらいのロマンスはいいじゃないか!!…と思います、はい。


(鎌倉時代の足利家の嫡男は、北条一族から正室を迎えるのが通例で
 それゆえ、北条一族の血を継いだ者が代々足利家当主となっていた訳だが
 家督を継ぐ予定だった尊氏の兄「高義」が21歳で他界してしまった事で
 (※この時、尊氏は元服前の13歳)
 高義の遺児はまだ幼いし
 次男尊氏の母は、上杉家の上杉清子だし
 足利家の家督どうすんのさ!!…という政治的な大人の事情が発生していた。
 最終的に、尊氏は赤橋登子を正室に迎え、家督の継承も決定したものの
 兄高義他界から少なくとも10年近く(最大12年ほど)
 立場の決まらぬ微妙な青春時代を過ごしていたのだった、マル。)


この辺の、尊氏の鎌倉時代の(しがない)身の上については
【清水克行『(人をあるく)足利尊氏と関東』(吉川弘文館)2013】
…の、p.20-30あたりをどうぞ。
この時代の尊氏に関しては、これで最終結論!ってとこまで達していると思います。



ちなみに、尊氏の第一子、竹若(たけわか)は
『元弘の変』(鎌倉幕府倒幕)に際し、戦乱の犠牲者として
元服前(10歳前後?)で早世する事になってしまう長男です。
その母は、足利一門の加古六郎基氏の娘
(当時、家督継承もあやしく立場の中途半端だった)尊氏の「最初の正室」
とも見られていますが
ただ、年代的に… うーん…?

加古六郎基氏って、足利頼氏の兄弟なので
基氏の娘と、足利頼氏のひ孫に当たる尊氏とじゃ、かなり世代が違うのですよね。
頼氏・基氏の兄弟の年齢が相当(20歳以上?)離れていて
(↑彼らは多兄弟で、基氏は末の男子なので有り得る)
基氏の娘も晩年(40〜50代くらい?)の子
…だと仮定すると
二人が同年代だったという事は十分に有り得るのですが
ただ可能性としては、尊氏よりも数歳は年上だったのではないかと。

それに加えて、足利家と加古家の家格差を考えると
やはり彼女は「尊氏の室」というより
身の回りの世話をする「家女房(侍女)」だったんじゃないかな〜
と思うのですが、そうすると…
身も固められぬ日々にもんもんが限界を突破した20歳そこそこの尊氏さんは
年上の彼女に抑えきれない魅力を感じて―――

…というとこまで想像してみた。




はい次、直冬(ただふゆ)の母についてです。
直冬の誕生秘話を伝えるのは『太平記』のみで、これは有名な逸話ですが
直冬は、その昔…
「尊氏がお忍びで一夜通いした越前局(えちぜんのつぼね)という女性が生んだ子」
だと。
直冬の生年は、嘉暦2年(1327)(尊氏23歳の時の子)との見解が最有力なので
尊氏22歳の時の 過ち ロマンスという事になります。


さて、この直冬の母について
なぜか現在では
「直冬の母は身分が低かった(だから直冬は尊氏に認知されなかった)」
と思われている事が多いような気がしますが
(極端な話、遊女だったとかいう説もある?)
でも、そんな事ないんじゃないかな〜 と思います。

というのも、彼女については
『太平記』では「越前局」(えちぜんのつぼね)あるいは「越前殿」
『足利系図』でも「越前局」と記されているのですが
この名称からして
素性がはっきりした結構な身分の女性だったと思われるので。
(ちなみに『尊卑分脈』では、直冬の母は「家女房」と書かれていますが
 まあこれは「正室ではない」程度の意味かと。)


しかも、足利家の御曹司が一目惚れ的な事をしてしまうくらいですから
かなり魅力的だった…というか、相当な美人だったのではないか
というのが私の予想なんですが。

ってことは、直冬は相当にかっこよかったのではないか!!

…というとこまで想像して
直冬ファンの私は昇天しました。


まあしかし、このような込み入った素性にも拘らず
後年の直冬が、目を見張る人望の厚さを示した事実からすると
ビジュアル的な素質の良さはあったように思います。
(というか、尊氏に(生き写しレベルで)そっくり… の疑い2000%。)






という訳で、尊氏の室については
若い時に(全然許せる範囲の)淡い話があるだけで
京都で将軍となってからは記録に残る側室はいない
というのがほぼ定説となっているかと思います。
(綺麗な将軍!!)


…なので、尊氏の子供たちについては
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
で、詳しく論じられていて全貌が明らかになっていますが
わりと子供が多いわりに、側室の記録がなく
え、(竹若と直冬以外)全部赤橋登子が生んだの??
という疑問があった訳ですが
ここへ来て…「足利さぬ」ですよ!!



といっても、さぬはあくまで特別な事情があって迎えた室なので
やっぱり尊氏さんは、自制心の強い綺麗な将軍だと思います!!



…と、持ち上げておいて何ですが
女の子は普通に好きそうなので
身持ちを堅くしていたのはたぶん
「他犯戒を持して」(by『太平記』)正室以外一切目もくれなかった弟直義にならった
というか、直義に嫌われたくなかったのが本音
だったに違いない!!

…というとこまで想像して悶(もだ)えました。




という訳で、全然さぬの話が出来なかったので
次回「足利さぬ …のこと(その2)」に続きます。




(ちなみに、直義には愛人がいた!とかいうスクープの元となっている
 有名な魅惑の(?)和歌がありますが
 あの歌の真相は… 後ほど解説したいと思います。)


(それから、尊氏さんがあちこち女色にふけらず
 特に将軍となって以降、決して無節操に側室を持たなかったのは
 本当は、真面目な理由がありますので
 (自分でネタにしておいて何ですが)
 頑張った(我慢した?)尊氏さんは、もっとみんなに讃えられていいと思います!)



posted by 本サイト管理人 at 20:10| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月13日

尊氏さんの命日(その2)

こんばんは、「尊氏さんの命日(その1)」の続きです。

尊氏が他界したのは延文3年(1358)4月30日
これは旧暦ですが、新暦で生活している現代においても
「4月30日」という日付には、気持ちの上では意味があると思いますし
「正統な命日」というと、やはり毎年の旧暦4月30日に相当する新暦の日も外せないし
そして、延文3年当時と同じ季節を感じたいなら
現行の太陽暦であるグレゴリオ暦に換算した日が
毎年、地球に対する太陽の位置が同じになる日な訳で
そうすると、延文3年4月30日は
グレゴリオ暦では1358年6月15日となります。


という訳で、直義命日と同様に
「尊氏さんの命日候補」を列挙いたしますと…


毎年、新暦の4月30日 (気持ち的に)

毎年、その年の旧暦4月30日に相当する新暦の日 (正統派、かつ、月の満ち欠け的に)
(※今年は5月25日。)

毎年、新暦の6月15日 (延文3年当時の、太陽の位置的に)



となります。

ただ、注意事項として
旧暦4月30日という日は、毎年存在するとは限りません。
(旧暦では、30日まである月と、29日までしかない月が交互にくる。)
だから、旧暦が4月29日までしか無い年は…
どうすんのさ…とか思ってしまいますが
まあ、普通に考えても、月齢的に考えても
新月(旧暦5月1日)の前日ということで
毎年旧暦4月の最終日(30日 or 29日)が、尊氏さんの正統派命日でよいようです。



という訳で、新暦4月30日も、今年の旧暦4月30日に相当する新暦5月25日
もうとっくに過ぎてしまっていますが
季節的(太陽の位置的)尊氏さんの命日ということで
追悼の意を捧げたいと思います。

尊氏の最期の日は、ぎりぎり春という印象でしたが
わりと梅雨真っ盛りの、夏に近い季節だったんだなぁ…と。




ところで、季節的な尊氏の命日は6月15日なのに
なぜちょっと早目の今日に記事をUPしたのかと言いますと
どうも、今年は(6月15日でなくて)6月14日の方が
延文3年(1358)4月30日当時の太陽の位置に近いのですよね。
まあ、太陽の位置は1日で1度ほどしか違わないのだから
そんな細かい事どうでもいいっちゃどうでもいいのですが
気分的に、今年は14日の明け方が、あの当時と一番近い空になるかな〜と思って
前日の今日(13日)に、間に合わせてみました。


明け方と言えば、直義尊氏
どちらも、夜明け前〜明け方くらいの時間に天に召されているのですよね。
そう考えると、なんかまた色々妄想してしまう訳ですが。
尊氏直義を追いかけていたんだろうな…とか
直義尊氏を迎えに来たのだろうな…とか
ありふれた妄想ですみません。

でも、夜と朝が触れ合う頃
もうすぐ近づく尊氏さんの季節に
空に祈れば、何かが届くような気がしてしまいます。



どうしても諦められなくて、私は今も、岐路に立ったままです。
大袈裟かも知れないけれど
私にとって歴史研究とは、社会貢献でした。
歴史の中に眠る、実在した過去の理念理想感動が、人の心に広がれば
今や未来をより良く出来ると信じていました。
夢を…見過ぎていたのでしょうか。
やり方が自己流過ぎたのがいけなかったのでしょうか。
思いのほか早く、目を覚まさなければならない日がやって来てしまいました。
それでも―――
一年に一度のあなたの季節に、明日を信じて祈ります。




posted by 本サイト管理人 at 22:59| Comment(0) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)

尊氏さんの命日(その1)

こんばんは、2か月半ぶりの更新となってしまいました。
「見てくれる人いるのかな…」とつぶやく弱気な心を振り払い
尊氏さんへの追悼を捧げようと思い立ちました。

まあ、3月頃さんざん「直義の命日」を語り尽くしておいて
尊氏さんスルーするなんて無いですからね。

(直義の命日についての関連記事は、こちらにまとめてあります↓
 「直義の時間、夜明け前」(2017.3.20))



尊氏さんの薨去に関する史料は
『大日本史料』延文3年4月30日にまとめられていますが
延文3年(1358)4月15日頃から癰瘡(ようそう。腫物)を患い
それが日に日に悪化して
4月30日の暁天(夜明け)に亡くなられたそうです。
時刻については、亥or子の刻(22時 or 0時前後。つまり夜中)と記すものもありますが
おそらく、夜半から容態が悪化して
明け方に息を引き取ったのではないかと思います。

(「暁天」は『五壇法記』、「亥or子」は『愚管記』の記述。
 『太平記』には「寅刻」(午前4時前後)とあります。)


癰瘡については、『太平記』のみが
「背」に出来たものと記していますが、事実なのでしょう。
享年、数え54歳。
直義に遅れること6年。
最愛の人を失って過ごした日々が
ここにようやく、幕を下ろしたのでした。




ところで、尊氏が病を患ったという記録は
晩年では、文和2年(1353)(※他界の5年前)に集中していて
この時はかなり大変な事態までいったようですが
幸いにも回復し、その後は特に深刻な病を繰り返していた風でもないのですよね。

もちろん、身体的にはもう無理は利かない年齢だったでしょうし
精神的にも弱ってしまう事は多かったでしょうが
しかし、癰瘡を患い始めてからたった半月で…
というのは
当時の人々からしたら、かなり思いもよらないというか
心の準備をする間もないくらい、唐突な出来事だったのではないかなぁ…
と、私は思っているのですが。
だとしたら、将軍尊氏を失った人々の悲しみはひとしおだった事でしょう。
うう… (´;ω;`)


ただ、尊氏自身は、心の準備は出来ていたようです。
義理の御父である、足利秀政(足利大和守秀政)なる人物に宛てて
他界の3日前の4月27日付で、遺言をしたためているので。
(『南北朝遺文 中国四国編』第3巻 2969)

おそらく、自分の死期を悟って
尊氏亡き後の幕府の事、天下の事
あらゆる後事を、抜かりなく、残る者たちに託したのでしょう。

(この時、最も多くを託されたのはおそらく…足利高経(斯波高経)です。
 尊氏が高経に託しただろう後事が
 管領制誕生の隠された真相だと、私は考えています。)




ちなみに、この足利秀政、非常ぉーーーに気になる人物ですが
彼はもともと "平姓" であり、日向秀政と言ったのですが
尊氏との契約により "源姓" に改めたのです。
しかも、時の源姓の頂点、トップオブ源氏の「足利」に!!

もっと言うと、「足利大和守秀政」の「大和守」(やまとのかみ)も
尊氏から名乗るように言われたものなのですが
その理由は、「大和」が「日本の惣名」だから。
そしてこの時同時に、足利の二つ引両紋も賜りました。

どんなスペシャルな人物だよ!! って感じですが
足利秀政は、尊氏の軍事の師範であると同時に
その娘の「さぬ」が尊氏に嫁いでいるのです。
(尊氏が足利秀政を「御父」と呼んでいるのは
 娘をもらい、彼の猶子となる事を望んだためです。)


…って、「さぬ」って誰だよ!!!



私はこの辺の話を
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
で初めて知ったのですが
そりゃあもう、驚いたのなんの。
ほとんど知られていない尊氏の室だし、平氏でありながら足利を名乗ったその父とか
ミステリー過ぎて、一見信じ難い話ですが
しかし、これは断言できます
確実に確実な史実ですよ。 なぜなら…

尊氏の生涯を探ると、このエピソードこそが
尊氏の生涯、その秘められた謎を裏付ける強力な証拠となってくれる
…というくらいの核心を突いた話で
色々と色々な事実に合致するのです。
『観応の擾乱』での尊氏の行動原理とか
実子の直冬(=直義の養子)に対する複雑な言動などにも関連してきます。


尊氏が自分の意志で娶(めと)った室、というと
尊氏ファンにはちょっと気が気じゃない存在かも知れませんが
(え、そんなんでドキドキしてるのは私だけですか…?)
尊氏さんには、深く思う所があったのです。
足利家のためにも、天下のためにも、そして、直義のためにも―――



さて、話が大幅にそれました。
尊氏さんの命日の話をしていたのでした。
仕切り直して「尊氏さんの命日(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 22:44| Comment(0) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)

2017年03月29日

三周年です

こんばんは、本日3月29日は… 本サイト開設三周年記念日です!!

まあ、だから何だという話ですが。
というか、サイト開設以来ただの1ページも増えていないフリーズサイトで
毎年、周年記念だけ祝う不毛さったら…

ちなみに、去年の二周年記念のブログ記事↓
『Muromachi通り』「二周年です」(2016.3.29)
「二周年です(…のおまけ)」(2016.4.8)

とは言え、今年は心が折れてしまって何も出来そうにないなぁ… と思っていたのですが
3年経つのに、まだ『応仁』すら語り尽くせていない私は
本当は『明応』を語りたかったのだ…
とかいう忘れかけた初心が蘇って心の奥がうずくので
急に思い立って、ものすごい久し振りに絵でも描いてみました。

私の原点公方11代目足利義材(よしき)(…というか義稙(よしたね))(右)と
義材の一蓮托生仲間、畠山尚順(ひさのぶ)(左)です。


義材と尚順
(※クリックすると拡大します。900×1200px)



義材はいつもドヤ顔です。
人生がコテンパンなので、それに負けないように生きていたら元気一杯になりました
…みたいな。

誰よりもコテンパンな人生を歩みながら、誰よりも晴れ渡った心で生きた二人にあやかって
三周年記念です。



posted by 本サイト管理人 at 20:32| Comment(8) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)

2017年03月23日

ふと思い立って畠山義就の話

こんばんは、今日は今年の旧暦2月26日に当たる直義の正統派命日!
そんな日になんですが、今日は『応仁』カテゴリのお話です。
実は、某スレに投稿しようと思って下書きをした話なのですが
いざ書き込もうと思ったら… なぜか全然書き込めない!!
なので諦めて自分のブログに記念投稿しておくことにしました。


では、まず初めにちょっと一言…
>>100の方、>>109の方
ありがとうございます!めちゃめちゃ嬉しいです!!
超亀ですみません、久しぶりに立ち寄ったもので。
折角応援を頂いていたのに、いまサイト情けない状態ですみません…


さて、ここからが応仁ネタです。
畠山義就の諱「義就」の読みは「よしなり」である!…という事については以前
『Muromachi通り』「畠山義就(その5)」(2014.7.16)
の冒頭で考察しましたが
今一度、色んな人の意見を聞きたいなぁ…と思って
例の「東寺百合文書」の記述が記された "時期" に着目して、話を展開してみた訳であります。


(↓以下、スレ用に書いた文章をそのまま転載します)

………………………

ところで、「義就」の読みについてなんですが
現在はかなり「よしひろ」のが優勢になってる?
でもやっぱり「よしなり」が正しいと思うのですよね。

「よしひろ」の出どころは、東寺百合文書・廿一口方評定引付という一次史料で
義政の御内書の写しの「義就」の「就」の部分に
小さく「ヒロト云々」って添え書きがある、というものですが
これって、寛正2年(1461)2月18日の記録なのですよ。

一方で、『応仁の乱』開始(1467)以降の時代の史料では
「よしなり」って読みの記録が複数残っています。
 『応仁略記』に「よしなり」
 『応仁私記』に「義なり」×3、「よし就」×2
 『金言和歌集』(略本)に「よしなり」
これらは日記ではありませんが
『応仁私記』と『金言和歌集』は実質一次史料と言っていい史料だと思うし
『応仁略記』は畠山家に近しい人物によるものらしい、って事と
『応仁私記』は当時をリアルタイムに知る当事者からの証言を書き留めた "聞書"
『金言和歌集』は将軍近習や奉公衆といった、幕府の元役人が多く関わっているらしい
…という史料の性質を考えると、これらの記述の重要度は侮れないものだと思います。


そもそも寛正2年(1461)って…
義就は享徳4年(1455)に諱を「義夏」から「義就」に改めて
この当時はまだ父持国の跡を継いだばかりの19歳で、しかもその5年後に在国隠居を命じられて
その翌年の事です。
つまりこの時の義就は
「諱を改めてまだ数年、若い、惣領の座を追われ在京していない」
っていう、わりとかなり影の薄い状態。

義就の知名度を思うに
元々管領家の当主だから、政治の中枢では知らぬ者はなかったでしょうが
この失脚以前の地位では「義就」という諱を口に出して呼ばれる事はそうなかったでしょうし
幕府での日数の浅さからも
諱の読みまで正しく知る人は、そんなに多くはなかったのではないか…と思われます。
一方、『応仁の乱』勃発後の天下では
それまでとは比較にならないくらい爆発的に世間に名が響き渡っただろう、という現実に加えて
一応幕府(東軍)の敵だから、遠慮なく「義就」って口に出して呼ばれまくっていたと思われます、下々に至るまで。

やっぱり、寛正2年の段階での「云々…」って自信無さげな記述より
広く天下に名が知れ渡った『応仁の乱』勃発以後の記録の方が
当時の人々が知り得た本当の事実を映し出しているのではないかと。

東寺百合文書は確実な一次史料だから
「よしひろ」の読みが採用されつつあるのだと思いますが
時系列的に義就を取り巻く現状の変化を考えると
これ一点だけで判断するのは、やはり不自然かと…
東寺百合文書も、その他の史料の記述も共に尊重して考察すれば

「諱の読みが知れ渡っていなかった時代は「よしひろ」と読み間違えられる事もあったけど
 本当の読みは「よしなり」」


これが最も妥当な結論かと思うのですが。

………………………


という訳でやっぱり

 義就は「よしなり」です!…と思います!!

そこまで突っ込まなくてもいいとか、別にどうでもいいとか思われてしまいそうですが
でも私は、史料の記述というものを
一言一句に至るまで最大限大切にしたいと、いつも思っています。
さらっと表面だけを読んで終わりにしてしまうのでは、あまりにももったいない。
もっと深く掘り下げて、一番深い所まで掘り下げて
そして真に正しい意味を解き明かす
それこそが「史料を尊重する」という事の、本当の意味だと思います。

(「義就の読みは「よしなり」である」という結論は決して
 「よしひろ」と記す東寺百合文書の記述を否定するものではなく
 東寺百合文書の記述を、記載時期まで含めてすべて肯定し尊重した結果です。)


すっごく拘って、馬鹿みたいに拘って、それで本当に馬鹿にしかされなくても
それでも、一番奥に眠る真実にたどり着いた時にはいつも―――

「この史料はきっと、真実を見つけてくれる事をずっと待っていたんだ…」

そう思える瞬間に出会う事が出来ます。

この、労力に見合わない下らない拘りの積み重ねが
もう過ぎ去った過去である歴史に新たな生命を吹き込んで
そうして蘇った歴史は、未来をつくる力を持っている―――
そう信じて、研究を続けてきました。



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(2) | 応仁日記(義政、義視)

2017年03月20日

直義の時間、夜明け前

こんばんは、今日は春分、「直義の日」です。
直義の命日には色々な捉え方があって、そのどれもに意味があると思いますが
「観応3年(1352)の春分の日だった」という事に気付いて以来私は
太陽の位置が同じになるこの日に、一番直義を近くに感じるようになってしまいました。

これまでの関連記事↓
「直義の季節(命日編)」(2017.3.3)
「直義の季節(春の月編)」(2017.3.6)
「直義の季節(あれ、なんかすごい事に気付いた…)」(2017.3.7)
「直義の季節(彼岸編)」(2017.3.14)

まあ、太陽の位置…というか、実際は太陽に対する地球の位置ですが
そう思うと益々、なんか考え込んでしまう…

ちなみに、観応3年(1352)2月26日(旧暦)の春分(…の瞬間)は15時半過ぎ
今日2017年3月20日の春分(…の瞬間)は19時半直前なので
今年は誤差も数時間です。


直義が亡くなった時刻は
『源威集』では2月26日の朝、『常楽記』では「卯時云々」(午前5〜7時頃らしい…)
となっていますが
おそらくこれは、発見された時刻であって
実際は真夜中過ぎ、少なくとも確実に夜明け前だっただろうと思われます、直義の事だから…
(↑この理由については、またいずれ。)
今これを書いている時刻(午前3時くらい)よりも、少し前かな…と。


って、もう過ぎてんじゃん!!
わ、私としたことが…
まあでも、今日3月20日(もしくは毎年「春分の日」)の0時〜夜明け前までは
「直義の命日シーズン」のクライマックス「直義時間」として
もんもんと物思いにふける時間、って事にしたいと思います。



(※ちなみに、上記の「真夜中過ぎ〜夜明け前だろう」というのは
 直義が自ら服毒し、亡くなった時刻についての推定です。
 (私は、直義は尊氏による毒殺でも病死でもなく、自死だと考えています。)
 ただ…、あまり考えたくないけれど
 「服毒したのは夜中だけど、息を引き取ったのは朝」という可能性も無きにしも非ず…
 知らせを聞いて駆け付けた尊氏の目の前で、助かる事なく永遠の眠りに…
 とか考えるともうやば過ぎるので無し!!この可能性は無し!!
 ってゆうか無しで!!!!!!
 本当にお願いします m(_ _)m )




posted by 本サイト管理人 at 03:33| Comment(0) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)

2017年03月14日

直義の季節(彼岸編)

こんばんは、一昨夜は直義の命日前、直近の大事な満月の日だったのですが…
関東では、曇り空で全く見えませんでした。
前日の夜空はすごく綺麗に晴れていたから、楽しみにしてたのに… (´;ω;`)
12日から13日に日が変わる直前、天の一番高い所で満月の瞬間を迎えたので
晴れた地域の夜空は、きっと特別な光に包まれていたことでしょう。


さて、まだまだ「直義の季節」は続いております。
とりあえず、これまでの関連記事↓
「直義の季節(命日編)」(2017.3.3)
「直義の季節(春の月編)」(2017.3.6)
「直義の季節(あれ、なんかすごい事に気付いた…)」(2017.3.7)

という訳で前回、「直義の命日は春分の日!!」という事実に気が付いて
え、そうすると「彼岸の中日」じゃん… それってつまり…
と、悶々としたところで終わった訳ですが。


(季節行事としての)「彼岸」(ひがん)とは…
「春分」または「秋分」を中日としてその前後各3日、計7日間のことをいいます。
(初日を「彼岸の入り」、最終日を「彼岸の明け」という。)

太陽が真東から上って真西に沈み、昼と夜の長さが(ほぼ)等しくなる「春分」(と秋分)は
「彼岸」「此岸」(しがん)、つまりは…
「あの世」(or 悟りの境地、涅槃)「この世」(or 煩悩の俗世)が最も近づく時期
と、日本では考えられていたようで
仏教の悟りの境地(=彼岸)を希求する思いから
古来この時期には「彼岸会」(ひがんえ)という法会を営んだり
先祖を供養する習慣が独自に発展した訳であります。




…という事はですよ
東西と昼夜、そして二つの世界が交差する「春分」にあちらの世界に帰った直義って…

 やっぱり菩薩だったんだよ!!

とかいう妄想をし出すと、もう本当っぽくって困る。
完全な妄想でしかないのに、直義の事だから有り得る… とか思えてしまう摩訶不思議。
尊氏のマニア過ぎる地蔵菩薩愛も、もしや重度のブラコンと表裏一体だったとかいう可能性…



ただ、ただですね
当時も「直義は春分の日に逝ってしまった…」という認識が(少しでも)あったかというと
これはなかっただろうと思われます。

というのも、当時の暦って、あまり厳密には正確ではなかったようで
二十四節気の算出法の違いから、現在の(正確な)暦とは
最大2日ほどのズレが生じるらしいです。
(つまり、観応3年(1352)2月26日は「正確な春分」ではありますが
 「当時認識されていた春分」とは違う可能性が高い、という事です。)


それに加えて、「彼岸の中日」を「春分」(or 秋分)とするようになったのは
実はわりと最近(江戸末期)の事で
それ以前は、「彼岸の中日」と「春分」(or 秋分)は一致させるものではなく
江戸前期以前の時代では
「春分」の2日後(場合によっては3日後)を「彼岸の入り」としていたので
「彼岸の中日」は「(当時の暦の)春分」の5〜6日後となっていたそうです。
(↑この辺の事は、「国立天文台」のHPの「暦計算室」の「暦Wiki」に詳しいです。)


…という訳で、中世の頃の実際を具体的に調べてみたところ
まず、二十四節気の一つ「立春」を『大日本史料』のデータベースで検索して
いくつか適当に検証したら
やっぱり1〜3日ほど、実際の立春より遅れておりました。
一方、春の「彼岸」については…
彼岸会の「結願」(けちがん。最終日のこと)が
実際の「春分」の12〜13日くらい後になっている例が見受けられます。
(現在の感覚だと、彼岸会の結願は「彼岸の明け(=春分の3日後)」となりそうですが。)
そこで、史料に明確に「彼岸の中日」の記述がある年を調べてみると…

文明15年(1483)、史料上では2月12日、実際の春分はその8日前
長享元年(1487)、史料上では2月25日、実際の春分はその8日前
長享2年(1488)、史料上では2月7日、実際の春分はその9日前
延徳元年(1489)、史料上では2月18日、実際の春分はその9日前
明応元年(1492)、史料上では2月22日、実際の春分はその9日前
(※上記の日付は旧暦表記です)


という事で以上、この頃の「彼岸」の7日間というのは
実際の「春分」とも、当時の暦での「春分」とも
 なんか重なっていない
…ってゆう。
(だから「春分の日」自体は、あまり意識されていなかったんじゃないかな…と。)


し、し、しかし!!
だからと言って「直義菩薩説」が覆った訳では…!!
(というかそもそもそんな説成立していない)

まあいいんです、私の中では直義は菩薩なので。
きっと尊氏の中でも、直義は菩薩だったに違いない―――


今年の彼岸の入りは3月17日(金)
中日(春分)が3月20日(月、祝日)「直義の太陽の位置的命日」
そして彼岸の明けの3月23日(木)はちょうど
今年の旧暦2月26日「直義の正統派命日」に当たります。
ああ、なんか今年の彼岸は直義に会えそう…

「春分」というのは、「太陽」が生まれ変わるような、新しい光を纏うような
そんな瞬間なので
夢窓国師と「夜半の日頭」を夢見続けた直義には、とっても相応しい日だと思います。



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(0) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)