2017年08月12日

Ashikaga チョコレート Shogunate

こんにちは。
ただ今、次回記事「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」以降を作成中なのですが
遅々として進まず
なかなか記事をUPする事が出来ません。
そろそろ自分でもイラッとが臨界気味に達してきました。
はぁ… (´・ω・`)

ああ、思っている事を言葉にするのって、ほんっと時間かかる。めんどくさい。
ちゃんとした文章にするのって、ほんっとむんどくさい。

まあ、どうでもいい感じのどうでもいい話なら別にどうでもいいのですが
わりと真面目な内容の場合は
私の性格的に完璧を目指してしまうので…
ほんっと、文章にするのむんどくさい。

なんかこう、頭の中を自動的に言語化する技術欲しい。
もしくは、私の頭の中を直接視聴してもらえる技術欲しい。
…いや、それはそれでかなり大問題だな。やば過ぎるな。

でも、話したい事たまり過ぎてしょうもないので
出来ればこう、日がな一日、室町ネタを勝手気ままにしゃべり尽くして
脳内領域を解放したい。ジャンクなファイル整理したい (´・ω・`)



ところで、「むっ茶むろまチーノ」って何ですか?
なんか、めっちゃ室町な感じですよね。
一見、抹茶フラペチーノっぽいようでもあり、似て非なるもののようでもあり…
まあ、前回記事で自分で適当なこと言ってみただけですけど
でもなんか、有りそうな気がしませんか?
え、しないですか、そうですか…。


でも、頼んでみれば意外と出て来るかも知れませんよ?
誰か、私とスタバで「むっ茶むろまチーノ」注文する勇気ある方いませんか?
まあ、私は恥ずかしいので後ろの方で隠れていますけど
無事注文出来たら、尊氏さんに献上しましょう。

結構、京都の「京都三条大橋店」あたりに出没してそうですよね、室町キャラたち。
三条殿のお膝元、三条通のあそこならきっと、むっ茶むろまチーノも…(ありません☆)

まあ私は、京都は残念ながら遠すぎるので
鎌倉の「鎌倉御成町店」あたりに直冬とか基氏とかが出没するのを期待して
鎌倉日帰り旅の時は、いつものコースに組み込んでみたいと思います。



てゆうか、思ったんですけど
"鎌倉" って(←現在の都市としての鎌倉って意味)
鎌倉時代とか鎌倉幕府を only な感じで推していますけど
まあ、当然ちゃ当然ですが
(寺院も遺構もほとんど鎌倉時代のものだし。
 その中で、いつもめちゃ混み竹の庭『報国寺』は相当に健闘している!)

でも…ですよ
鎌倉府を置いていた室町幕府
"鎌倉" にとっては、一応 かなり存在意義大きい と思うのですよね。
もっと "鎌倉" にとっての「室町」というものを
初代の尊氏さんの構想から、明確に掘り起こしてみた方がいいと思うのですよ。


というのも、私が思うに
尊氏さんは京都鎌倉「二大政党制」を目指していた形跡があるんですよね
天下を崩壊の危機に導いた『観応の擾乱』の収束と、その再発防止のために。
(つまり、尊氏さんはあの擾乱の原因をむっちゃ的確に見抜いてた。)
制度として完成を見た訳ではありませんが、構想としては…
これはどうなんでしょうか、世界初になったりするんじゃないでしょうか?
(世界政治史とかこれっぽっちも詳しくないので分かりませんが。)

わりとマジで、世界遺産ネタな気が…
やはり今こそ「鎌倉 in むろまチーノ」というものを再評価すべき―――

まあ、本拠地の京都にすらスルーされてる気味なので仕方ないか。
はい、解散ー…


って、諦めてどうするんですか!!
東西の室町幕府に属するっぽい方たち
西はスタバ「京都三条大橋店」、東は「鎌倉御成町店」に集って
至急、『室町復権再生会議 in サマー』を開いてください!!
私は鎌倉の方に参加しますので
それまでに、むっ茶むろまチーノを室町応援特別裏メニューとして用意…(しません☆)



まあ、むっ茶むろまチーノではありませんが
なんかすごそうな新作フラペチーノが一昨日発売されましたので
昨日、早速飲んで(食べて?)みました。

「スモアフラペチーノ クリスピーマシュマロ」とかいう
超チョコレート系のフラペチーノなのですが
あまりに尊氏さんが喜びそうな感じだったので
思わずその場で、タブレットPCでせこせこ記念お絵描きを始めてみてしまいました。
(流石に描き終わるまではいけませんでしたが。)


わたし的タブレットお絵描き!
まあ、液タブには遠く及びませんが、落書きは十分に楽しめました〜
…という絵↓


足利チョコレート将軍兄弟


超チョコフラペ (゚д゚)ウマー
なんかチョコとかビスケットとか色々サクサクしてて (゚д゚)ウマー
そのうちクリスピーなマシュマロがちょっとトロッとして来てまた (゚д゚)ウマー


尊氏さんのタレ目は、どうしても溶けたデロデロチョコレートを連想してしまうのですが
まあ、直義が目の前にいたら、チョコ目尻も溶けちゃうよね、しょうがないよね。


というか、スタバでお絵描きとか
なんて迷惑…(いやむしろ恥ずかしい)とか思われそうですが、大丈夫です
お盆休み初日の朝で、空いていましたから。

え、スタバが空いているほどの早い朝って一体…
朝いちからチョコでデロデロ。 何やってんだろう私。



posted by 本サイト管理人 at 13:29| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月04日

『新千載和歌集』の隠し扉(その1)

おはようございます
全6回にもわたり直義のスクープ和歌の話を語り倒したところですが
妄想が熱暴走して未だ冷めやらないので
今日は、その後日談的な〜何か、みたいな感じで
『新千載和歌集』の中の気になる歌を、いくつか見ていきたいと思います。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)


(それから、和歌の配列についての知識として…
 【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

 …を是非読んで頂きたいところですが
 入手の手間暇を考えるとそう簡単ではないと思うので
 ネットで公開されている論文として…
 【谷崎たまき『『古今和歌集』の構造と配列:恋の部を中心に』
 (『国文目白』51号 2012年2月)】

 …が参考になるかと思います。
 論文名で検索するとすぐ見つかります。
 (論文のネット公開は本当に有り難い!)
 和歌素人の私としては
 「和歌の並びって、意味があったんだ〜」
 という基本中の基本な知識に、純粋にわくわくしました。)




それでは参りたいと思います。
まずは「秋歌 上」より、直義の和歌


貞和二年百首歌めされし時  左兵衛督直義
露ながら ちくさ吹きしく 秋風に みだれてまさる 花の色かな

(露をまとったままの千草が、秋風に吹かれ乱れて
 花の色が一層艶(あで)やかさを増している… )



これは、ネットで検索すると丁寧な解説も出てきて
わりと知られた歌の一つだと思います。

「秋」の部に収められている歌なので
秋の野の情景を印象的に詠い上げた、野趣あふれる 季節の歌 です。

……。

ちょっと… 妄想を掻き立てられる様な気のせいがほんの少しだけ勘違いしてしまう気がしないでもない歌ですが。
(ちょっと? いやかなり… )


で、でも周囲の和歌を見ると
「秋風に みだれにけりな…」とか「…しをれぞまさる 花の色色」とか
「…秋の野の 花の下ひも とけもしぬらん」とか
わりと妖艶な表現が目に付くので
た、直義の和歌も、その中で見ると別に特に浮いているとかじゃないし
秋の野というのは、一般的にこう、艶っぽい印象を与えるものなんですよきっと。
(キャピった夏☆が過ぎて、しっとりした大人の落ち着きが出る季節〜というか
 すまない子供は帰ってくれないか的な熟した季節〜というか… )

だから直義だって、別に普通に秋の情景を詠っただけです!
なんか別のそういう二重の意味を持った歌だとか
そんなの考え過ぎです!!
直義が、そんなみんながドキッとしちゃうような大人な歌をしれっと詠んで人々の妄想心に火をつけた挙句に大炎上させて収拾不能な事態を招くような真似をする訳がありません!! ><


うん、そうだ。 そうに違いない。 落ち着け自分。




あーさて(少々取り乱してしまったので)
気を取り直して、この直義和歌の次の歌でも…


題しらず  前中納言匡房
たとふべき かたこそなけれ わぎもこが ねくたれがみの あさがほの花



「わぎもこ(吾妹子)」=「わぎも(吾妹)」
男性が妻・恋人などの女性を親しんで呼ぶ語。
「ねくたれがみ(寝腐れ髪)」は、寝て乱れた髪、寝乱れ髪のこと。
「あさがほ」は、「朝顔」と「朝の寝顔、寝起きの顔」の掛詞。
(※↑この朝顔は、秋の七草の一つで桔梗のことらしい。)

つまり―――

例える言葉が見つからないな〜 寝乱れた髪をした我が愛しい妻の朝の顔は…
じゃなかった、今の無し!今の無し!
朝顔の花は本当に綺麗だなぁ〜(棒読み)」


…という歌。



……。(←フリーズ中)

ぐわあぁっぁぁぁぁぁーーーーーっっっ!!! (←のけぞった)

なんちゅう歌を直義の歌のに持ってくるんですか!!
これじゃまるで直義の歌が…
…え、あれ?
てゆうかつまりこれはそのあの…

直義の歌も(もろ)そういう意味って言いたいのかぁぁっぁーーー?!?!!!

おい誰だ! こんな細工したやつは!!
わざわざ平安後期の大江匡房の歌まで持ってきて
狙い過ぎだろ!


(完全に遊ばれている… )


直義を何だと思っているんでしょうか?
それとも、直義ファンアクロバットなサービスしてるつもりなのでしょうか?
どんな気の利かせ方だよ。
これは、撰者の二条為定のセンス…な訳ないですよね
どう考えても尊氏の仕業入ってますよね?

またしてもやつの気配か…


 (´・з・) 〜♪


ちなみに、大江匡房(おおえのまさふさ)は当時の一大知識人&歌人
だから歌の文学的価値は間違いなし!の勅撰集の常連歌人!!
でも、だからって何もここに陳列しなくったって…(むしろ珍列)
しかも、この直義和歌の直前に配置された和歌の冒頭は
直義和歌と同じ「露ながら」で始まっていて
これは…
前後の和歌の関連性に、意地でも注目させようとの配慮に違いない!(疑惑)
どんだけ仕込みに抜かり無いんだよ。(深読)




では折角なので
この直義和歌を前後の歌と共に、少々書き出してみたいと思います。



建武二年内裏にて人人題をさぐりて千首歌つかうまつりける時、秋植物
弾正尹邦省親王
露ながら をるべきものを 宮城野の もとあらの萩に 秋風ぞ吹く

貞和二年百首歌めされし時  左兵衛督直義
露ながら ちくさ吹きしく 秋風に みだれてまさる 花の色かな

題しらず  前中納言匡房
たとふべき かたこそなけれ わぎもこが ねくたれがみの あさがほの花

広義門院
露ふかき 霧のまがきの 朝ぼらけ しをれぞまさる 花の色色




邦省親王は、後二条天皇(※後醍醐天皇の異母兄)の第二皇子です。
広義門院(西園寺寧子)は、光厳帝と光明帝の母上です。
「宮城野」は、萩の名所。
「もとあら(本荒)」は、草木の根元の方の葉がまばらなこと。
「朝ぼらけ」は、明け方、空がほんのり明るくなって来た頃。
「まがき」は、竹・柴などを粗く編んで作った垣根。

ちなみに、この4首の前には「萩」を詠んだ歌が並んでいます。



…こうして見ると
「露」とか「秋風」とか「朝」とか「花」とかの共通項で
一見、上手く繋がっているように見えはしますがしかし―――
騙されてはいけない!
なんか3首目の大江匡房の歌は、妙ぉ〜に浮いている気がする!!(独断)

(でも、この4首の周辺は総じて
 秋の「野辺」の広がりを感じさせる歌になっているのに
 この匡房の歌だけ、秋を表している部分「朝顔(桔梗)」だけですよ?)


この辺りは全体的に
秋の風情をしんみりと、しかし胸に迫るように印象的に詠んだ歌が並び
ひと際あざやかに「季節」という情緒を感じさせるこのエリアにおいて
直義&大江匡房の和歌のところだけ局地的に…


「秋歌」ってカテゴリ感、吹っ飛んでるんですけど!
ここだけ別の宇宙を形成してるんですけど!
何歌エリア?なんですかここは!!



この、あからさまな狙って仕込みました感
ばれてないつもりなのか、それとも、突っ込み待ちなのか。
いい加減、後世の私達がリアクションに困るような事するのやめて下さい ><

広義門院さまの歌も、若干、援護射撃しているような気もしますが
 そう見えるのは、私の目が曇っているからに違いありません。)




6世紀半の時を越えて☆。☆*☆。 c(・∀・っ)ミ *☆。☆*☆突っ込みま珍将軍
まだかな〜 まだかな〜




まあ、とりあえず
尊氏が狙って仕込んだのは分かった。
ただ問題は
もともと直義はこの歌を "そういうつもり" で詠んだのか?
それとも、たまたまそういう感じになってしまったのか?

重要なのはそこですよ!
つまり、どっちなのか!!
以下、わたし的二択↓


【1】やはり直義は基本的にうぶで清いので、素でこういう歌を詠んでしまっただけ。
単に文学的な美しさを追求したらこうなったってだけで
周囲が勝手に赤面していても、一向に何が問題なのか気付かない。
そんな「真面目過ぎて一周回って面白くなってしまう」いつもの直義の平常運転です。
深読みしちゃった人は、滝に打たれて心を清めて来て下さい!!

【2】いやむしろ、実は直義はこういう大人のジョークを平然と嗜むダンディズムなキャラで
逆に、意外と純情そうな尊氏を「(/ω\*)キャァァーーッッ ///」とか恥ずかしがらせて面白がっていた
とかいうまさかの意外性
え、でも、あの聖人直義がこんな濃厚な感じの魅力を纏っていたら
男女問わず(一方的に)落ちてしまう人続出で大変な事になっていたんじゃ…
でも直義は「他犯戒」を持していた鉄壁の禁欲星人なので
決して愛人なんていません!! ><




まあ、ネタ的には
【2】の方が、新たな境地が開けて美味しく頂ける様な気もしますが
ただ、この直義&大江匡房の珍列和歌
直義が【1】のようなキャラだからこそ面白いものになるのであって
直義が当たり前にそういうキャラ(=【2】)だったなら
尊氏も、こんな細工を「ピコーン!」とか思い付かないと思うのですよね。


普段、めったな事ではやる気を出さない(←少なくとも表向きは)あの策士将軍尊氏
本気でネタを仕込みに来ている様子からすると
やはり、実態は【1】に近いのではないか…
と思うのですがしかし
「本当に偶然こんな歌を詠んでしまった」というのは
確率的に考えると非現実的過ぎて
マジカルの域に達していると言わざるを得ない―――
相当、ネタの神様に愛されでもしない限り有り得ないですよね?
そうするとやはり【2】なのか…
いやでも、直義の事だからそんな事(=ネタ明神様の強烈庇護)もさもありなん…。


ただ、もし【1】に近いとしても
直義は実際は、そんなにうぶとか奥手ではなかったと思います。
自分の好きなもの、愛するものに対しては、人目を憚らず情熱を燃やすタイプなので
いつでも自分の感情は公言していた事でしょうw
(そして周囲は赤面する (/ω\*)キャアァァァーーー/// )

あ、でも、尊氏に対してだけは
どうやら本音を言えずにいたようです。
(↑政策や天下の事なら、言いたい事主張しまくっていたでしょうが
 そういう公的な信念や信条に関する事ではなく
 私的な感情(好意)については、回りくどい伝え方しか出来なかったようです。
 うぶ…。)



それから、妙な傾向なのですが
現在に伝わる直義の「恋歌」は(←勅撰集や私撰集に残るもの)
なぜか、「秘めた片思い」とか「つらさと涙をひたすら隠す恋」とか
一方的に耐え忍ぶ恋を詠ったものが多いのですよね…
(多い…というかむしろ、そればっか。)

妄想恋歌だとは思うのですが(たぶん…。それにしても凄まじいMっ気である)
でも妙にリアリティがあるので
もしかしたら、何かしら内に秘めて我慢していた想いがあって
それを恋歌として表現していたんじゃないかな…
とか激しく疑ってみたりしているのですが―――




(すみません、妄想が変な方向に溢れて氾濫を起こしてきました。
 灌漑がなってません。)





ええと、話を元に戻しますが…
この直義和歌は、詞書に「貞和二年百首歌めされし時」とあるように
「百首歌」(=応製百首(応制百首))として詠進された中の一首です。

(※百首歌(ひゃくしゅうた)とは…
 勅撰集の撰集が決定した後、撰歌の参考資料(候補)として
 選ばれた歌人たちが提出する百首の和歌のこと。)


しかも「貞和二年百首歌」つまり『風雅和歌集』のために詠進した百首歌なので
まさに、光厳上皇花園法皇の叡覧に供した訳です。
(※『風雅和歌集』は光厳上皇の親撰、花園法皇の監修。
 親撰とは、天皇(上皇)が自ら撰歌を行う事。)

だから、文学的に大真面目に詠んだ歌である事は100%間違いなし!!
だったりしますから
そう考えると、直義の実態はやっぱり【1】…
しかし、だとしたら「素でネタ化してしまう」という才能において
直義の戦闘力は想像を遥かに超えているという新事実が明らかになり
これは、今後の南北朝研究を根底から覆しかねない大論争を巻き起こ…(せやな。)


あるいは、第三の選択肢として
「そういう意味の歌を純心で詠んだ」という
【1】と【2】の折衷案みたいな可能性も考えられるかもですね。
つまり―――
【3】美しいものに対してうっとりと陶酔し過ぎてしまう傾向がある直義は
恥ずかしい歌も恥ずかしいものだと思わずに素で詠み倒しては
一人、自給自足的な耽美空間にトリップしてしばらく帰って来なくなる癖があったので
居合わせた人々は、突っ込んだらいいのかそっとしといたらいいのか分からず
ただオロオロたじろぐ者、紅潮した顔を両手で覆い指の間から様子をうかがう者
諦めて帰り支度を始める者、ポップコーンとコーラを買いに行く者らが入り乱れ
場は一瞬にして阿鼻叫喚の様相を―――




というか、この直義和歌は光厳上皇のお目に留まったと思います?
百首もあって、しかもそれが30人分くらいある訳ですから
詠進された「百首歌」のすべてを細部まで…とはいかなかったでしょうが
でももし、偶然にもお目に留まっていたとしたら―――

直義の清さをよく知り、心を通じ合う光厳上皇だからきっと
(/ω\*)キャアァァァーーー/// とかなってしまわれて…

(ちなみに、貞和2年(1346)当時は光厳上皇数え34歳、直義数え40歳。)





ああ、なんか考え過ぎて何が何だか自分でも分からなくなって来ました。
つまり… 直義って何なん?
なんでたった一首の和歌で、こんなにネタが無限膨張するの?
宇宙なの?


という訳で、私には答えを出す事が出来ません!
後は各自、妄想をフル展開して直義の実態解明に勤しんで下さい!!

私は疲れたので、スタバでコーヒーでも飲んで来ます! 以上!!




ベンティダブル引両エクストラブラザーズアド尊氏☆。☆*☆。 c(・∀・っ)ミ *☆。☆*☆エクストラ室町withエクストラホワイト直義バニラヘーゼルナッツキャラメルエクストラむろまちっぷオールむるくムクストラホイップむっ茶むろまチーノ





はい、そんな訳で本日は
直義和歌の背後に見え隠れする尊氏さんの隠謀について探ってみました。
(というか隠れてない、むしろ丸出し)


先日の直義和歌といい、今回の直義和歌といい
尊氏が『新千載和歌集』の撰集を望んだのは
もしかしたら
直義の思い出永遠として残すためだったのではないか… とか
思ってしまうのは
二人の絆に特別を信じる私の、妄想が見させる夢なのかも知れませんが
でも、尊氏を動かした動機の一つではあったんじゃないかな、と
思っています。





あーさて
直義和歌の事を語り出したらまた止まらなくなって
結局、今日はこれだけで終わってしまいました。
…というか
直義和歌に執拗に絡む尊氏が面白すぎて
全力で全方位から突っ込まずにはいられませんでした。

という訳で次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 07:40| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月30日

直義のスクープ和歌は謎(その6)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その5)」の続きです。
ようやく終章です。


『新千載和歌集』の成立背景と撰出和歌、その配列には
尊氏の意図が見え隠れする (´・з・) 〜♪

…という事実が明らかになった今
どう考えても、あの謎多き直義和歌の撰出&配列も間違いなく

   尊 氏 の 仕 業

巧妙なようでいてどこかずっこけるあのわざとらしさは
ワロス戦略将軍尊氏の、典型的な「尊氏節」(たかうじぶし)だったのですよ!!


そう、既に謎はすべて解けたのです。



あの歌は尊氏にとって
どうしても忘れる事が出来ない、大切な思い出だった。


誰があんな直義のプライベート和歌知ってたんだよ!
という謎には
「あの歌は、直義尊氏個人的に送った歌だった」
という答えを。

当初、詞書を添えずに掲載する予定だったのではないか
という推測には
尊氏的に、詳細を明かすには躊躇(ためら)われる事情があったから」
という理由を。

詞書に登場する女性は、直義の愛人でなければ誰なのか
という疑惑には
「彼女は、尊氏に関係する女性だった」
という推定を。

なぜ尊氏にとってこの歌が、そんなに大切だったのか
という問いには
落ち込んだ尊氏を慰めるための、直義からの優しさの歌だったから」
という愛を。



そうつまり―――
私はこう妄想してやまないのです


ある女性を京都に残してしまったのは尊氏だったのだと
そして、彼女が出家した事にショックを受けたのも尊氏だったのだと
その話を伝え聞いた直義
尊氏を慰めるために歌を送ったのだと
尊氏はこの時の直義の優しさが、ずっと忘れられないでいたのだと
それは、『観応の擾乱』という悲劇を越えた後でさえ
変わることのない「輝き」だった―――


 あの瞬間を、永遠の中に残したい


だがしかし!!
自分しか知らないはずのこんな私的和歌を勅撰集に撰出したら
尊氏の仕業だってばれてまう〜
というか、こんなプライベートを自ら天下大公開とか
俺もそこまでドMじゃねーし…
いや、周囲の目が気になったのではない!
直義がそれを許してくれるかどうか、尊氏には自信が無かったのだ―――

ならば、詞書を添えずにしれっと掲載しようと
策士将軍尊氏和歌友の二条為定と示し合わせて大胆な策に打って出た。
よし、これならどっから見ても、ただの憂き憂き出家和歌!


 やばい、俺 て・ん・さ・い

 (ゝω・) v イェイッ ☆☆



…と、ここで終われば良かった(?)のだが
どういう訳か一転して、最終的に詞書が掲載される事になった。
それはなぜかと言う事ですが―――


たぶん、最後に直義が許してくれたんじゃないかな。


私は、詞書を添えると方針転換した時期は
尊氏が世を去る直前、おそらく、遺言に近い形で
二条為定に意向が託されたのだと考えています。
『新千載和歌集』の最終的な完成は、この翌年の12月です。)

ただ…
やっぱりプライベート大公開には二の足を踏んだのか
主語目的語がうやむやな煮え切らない詞書にしてしまったら
直義愛人説とか生まれちゃうなんて…
天下の天才策士将軍尊氏大誤算てへ☆




室町名物☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍才将軍!




それでは、謎和歌の全容(?)が解明したところで
直義和歌最終意訳を完成させたいと思います。



建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける    左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき


(訳(妄想))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、(尊氏が)都に残し置いていた女が出家してしまった
という知らせを聞いて、(尊氏に)歌を詠んで遣わせた

あの方が出家してしまって、兄上が落ち込んでいると聞きました
旅を終えて再会を喜べるはずだったのに、また涙に袖を濡らすことになるなんて…
お痛み、お察しいたします。

直義より




この和歌で直義が
出家した(=墨染の衣に着替えた)」ことを表すために
袖の色が変わった」という、恋心を連想させるような表現を使ったのは
この女性尊氏との関係が、背景にあった為ではないかと思います。

つまりこれは「 "尊氏にとっての" 恋の歌 」であり
詠者である直義にとっての恋の歌ではなかったから
「恋」の部ではなく、「雑」の部に収められた
ってのもあるんじゃないかな〜 とか思います。


(あるいは、もう一つの可能性として…
 もともと初めから詞書も添える予定だったのだが
 しかしその場合、不要な誤解を防ぐ必要があるので
 詞書に登場する「女」ってゆうのは
 別に直義と恋仲にある訳じゃないよ!つまりこれは恋歌じゃないんよ!
 …という事を強調するために
 「雑」の部出家遁世エリアピンポイント墨染で念押しした
 ってパターンも考えられるかも知れません。
 でも結局誤解されますた。(´・ω・`) )




それでは、残る最後の疑問
「この出家してしまった女性とは、尊氏の愛人なのか?」
についてですが…
私は違うと思っています。

というのも
尊氏は(少なくとも)足利家の当主となる事が確定した以降は
かなり身持ちが固かったと思うので。
ならば、このただならぬ関係の女性は一体…??
となる訳ですが
実は私は…
もしかしてもしかしたとしてもしかするならばこれは―――
尊氏の知られざる側室「さぬ」なんじゃないかと
一人疑っております。

「それ以外に思い当たる女性がいない」ってだけで
証明してくれるものは何もありませんが
それでも、もしそうだったとしたらさぬは…

建武政権期に尊氏京都に呼ばれて
『中先代の乱』という非常事態に際しては、そのまま京都の安全な場所に留まり
しかし『建武一年合戦』で尊氏たちが九州に落ちて行った時は
流石に悲観して出家を決意し
でも、幸運にも尊氏たちが生還したので
完全にはにまではならなかったのだが、隠居に近い生活を送る事になって
だから、不思議なほど当時の記録に気配を見せず
尊氏の護持僧・三宝院賢俊による日常的な修法も行われていなくて
でもその子供たちは、尊氏のもとで大切に育てられていて―――


…と、色々と都合が良いように妄想解釈出来てしまって
どうにも止まりません。


先日の記事「足利さぬ …のこと(その3)」(2017.6.23)の最後で
「私の秘蔵(?)のさぬネタ」と言ったのは、この事だったのですが
蓋を開けてみたら、妄想の上に盛った妄想
ミラクルチョコレートトリプルプリンいちごチェリーサンデー抹茶ケーキ乗せホイップ増量キャラメルシロップはちみつパフェ
みたいな事になっててすみません。



夏の☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍パフェ



という訳で、「直義の謎のスクープ和歌」について
長らく内に秘めていた思いを語り尽くしてみました。

大胆にも、半ば妄想の冒険解釈を披露してしまいましたが
どうしてここまで冒険する気になったかというと…
確信が持てないものさえも含めて
尊氏が残した想いの一つ一つを、残らず拾い集めたいと思っているからです。


 尊氏を本気で知りたいと思ったら、冒険するしかない


…とか、どんだけ厄介な歴史的人物なんでしょうか。
でもそれだけ、どうしようもなく魅力的なのです。


ただ、たった一首の和歌ですらこれだけ時間がかかってしまう私には
尊氏さんの全容解明なんて…
マジ無理、考えただけで刻(とき)が見えます ><

『新千載和歌集』どころか、人生そのものに隠し扉仕込みまくってますからね、この将軍。
壮大な大規模プロジェクトを組んで欲しいです。
きっと日本の未来に…いや人類の未来に、多大な恩恵があると思います。



posted by 本サイト管理人 at 08:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月28日

直義のスクープ和歌は謎(その5)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その4)」の続きです。

さて、前回の記事では思い切った大胆予想で冒険してしまった訳ですが
別に、夏だからって羽目を外している訳ではありません。 (ゝω・) v キャピッ

『新千載和歌集』という勅撰集は
そんな冒険解釈を許してくれるほどに
ちょっと特殊な成立背景想いを秘めた歌集なのです。


そもそも勅撰和歌集とは
天皇の綸旨、または上皇(法皇)の院宣によって撰集される公的な歌集
平安時代の『古今和歌集』から、室町中期の『新続古今和歌集』まで
21集が存在します。
(↑最後の勅撰集『新続古今和歌集』
 後花園天皇6代目足利義教の治世のもの。お勧め!超お勧め!!)


このうち、17集目の『風雅和歌集』
花園法皇監修、光厳上皇親撰で
誕生間もない幕府の全盛期&安定期と、時を同じくして撰集が進められた歌集で
(↑つまりこれもお勧め!超お勧め!!)
貞和4年(1348)頃にほぼ完成し
尊氏直義の和歌も複数入選しています。


そして『新千載和歌集』は次の18集目にあたり
後光厳天皇の下命、撰者は御子左(二条)為定
『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年
延文元年(1356)6月に撰集が決定し
延文4年(1359)12月に全巻の完成となった、南北朝期の勅撰集の一つですが
なんと言っても『新千載和歌集』は…

 武家の奏請による勅撰集撰集の先例を開いた歌集」

として有名です。

つまりこの勅撰集は
尊氏が申し出て、朝廷がそれを承諾する」という形で撰集が始まり
以後、『新続古今和歌集』までの勅撰集で
足利将軍による奏請という形が継承されました。


そうなのです―――
尊氏さん、かなり斬新な事したのです。
和歌が大大大好きだったから…というのはもちろんあるでしょうが
尊氏が元来、意外なほど保守的で、朝家を殊のほか重んじていた事を考えると
これは尊氏にしては、極めて特異で大胆な発案&行動だったと言わざるを得ません。

(ちなみに、撰者を御子左(二条)為定(※以下、二条為定と表記)
 としたのも、尊氏の意向です。)



なぜ尊氏は、先例を乗り越えてまで勅撰集の撰集を望んだのか?
「そこには、何かしらの強い意図が存在したはずだ」
という視点で
『新千載和歌集』を詳細に分析し
撰出和歌の特徴配列
後醍醐天皇尊氏、撰者の二条為定の、それぞれ&三者の関係
崇徳院御霊鎮魂のために編まれたと考えられている『千載和歌集』との比較

…などから、その謎を解き明かした論文が

【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】


です。

「尊氏の意図」というものに注目した考察は素晴らしいの一言に尽きます。
というのも、尊氏の行動
一見、考え無しとか行き当たりばったりとか成り行きof成り行きに見えて
実はそのすべてに明確で強い意図が存在するので。



という訳で、詳しく紹介…したいところですが
ここでは、ごくごく簡単に結論だけ要約させて頂きますと…

「要所要所に後醍醐天皇を言祝(ことほ)ぐ歌を置き、
 全体としてあたかも後醍醐天皇のための勅撰集であるかのような
 相貌を見せている」『新千載和歌集』
後醍醐天皇の鎮魂を、撰集の大きな目的の一つとして構想された勅撰集であり
それは、執奏者である尊氏の意図によるものだと考えられる。

(※「」内、上記論文より引用。読み仮名と強調は私。)

という事です。
なるほど納得、全面同意です。


足利将軍の執奏によって勅撰集撰集がなされる先例を開いたことが、
 この新千載集のもっとも重要な文学史的意義と目されながら、
 尊氏がそうした挙に出た理由が問われることは、従来ほとんどなかった。」

尊氏自身の和歌好み」が理由の一つであることに間違いはないが
その点だけに「この問題を集約させてしまう」には
勅撰集撰集の奏請という行為は、前例のないことであるだけに」
あまりにも重大なことのように思われるのである。」


という鋭い着眼点より『新千載和歌集』を分析した当論文は

新千載集は、武家執奏によるはじめての勅撰集である。
 足利尊氏が、前例のない勅撰集撰集の奏請などという行動に出たのは、
 直接的には、後醍醐天皇の御霊を畏怖し、
 それを慰める必要を感じたからであったと考える。」


という結論で締めくくられています。
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)

従来、なにかとスルーされがちな尊氏の意図について(政治史でも、文化史でも)
その存在を掘り起こしてくれた、有り難い論文であります。 (−人−。)ナムナム

(※以上、結論に至る考察部分がまるで紹介出来なくてすみません。
 特に、和歌の配列に関する考察は
 実証的で示唆に富んでいて素晴らしいです。)




しかしそうすると…ですよ
モルダーな私としては、やはりこう考えずにはいられない訳ですよ

尊氏の事だから、他にも胸に秘めた想いを反映させているのではないか…?

と!!

そもそも、勅撰集というものが
「本来「治まれる御代の証」としての性格を有している」という基本に立ち返れば
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)
『新千載和歌集』だって普通に考えれば
太平の御代(※この当時は、後光厳天皇の治世)を象徴する為のものであった訳で
戦乱の終息を宣言し
人々の心に安心を与えたい、との願いも込められていたと思います。
尊氏ほど、神仏に捧げる法楽和歌を好んだ武将もいない…ことを思い起こせば
『新千載和歌集』の撰集そのものを "天への祈り" だと考えたのではないか?
とすら思います。

おそらく、託した想いは一つではなく
そのうちの一大目的が「後醍醐天皇の鎮魂」だった、とも言えそうですが
しかしこれは本来
暗黙の了解というか、公然の秘密というか
表立って公言した訳ではないマル秘プロジェクトに近い性質のものです。
(だから、上記論文のような分析で初めて見えてくる。)

ならば―――
他にも "尊氏の策" で忍ばせた隠し扉があるはず!! (; ・`д・´) ゴクリ…
なんたって
撰者に二条為定を推したのは、外ならぬ尊氏ですよ。


二条為定は、尊氏の和歌の師であり
康永4年(1345)冬に
尊氏に三代集(古今集・後撰集・拾遺集)を伝授したりしていますが
他にも尊氏は晩年、二条為定邸を自宅にしていたり…
という二人の関係を考えると
かなり個人的な意向も、内々にやり取り可能だったろうと思うのです。

(※鷹司東洞院(土御門高倉)の尊氏邸
 観応2年(1351)2月22日
 『観応の擾乱』の中でボコボコ&焼失してしまい
 その後(色々あって)一旦鎌倉に下ったのち再度上洛した尊氏は
 文和2年(1353)10月20日に、為定の二条万里小路第に移り
 延文3年(1358)4月30日に他界するまで、ここに住み続けます。
 ちなみに、為定自身は別の場所に住んでいたようです。)


もちろん、あくまでも勅撰和歌集ですから
「和歌」という文化伝統のために撰集される事が大前提でしょうが
しかしそれでも、そこに携わった人々の想いというものは
少なからぬ彩りを添えていると思うのです。

それは、歌の並びの中に今も咲き続ける
永遠(とわ)に色あせぬ花として…



という訳で
尊氏の奏請に始まった『新千載和歌集』誕生に秘められた想いと
執奏者尊氏、撰者二条為定の関係を考えた時
直義和歌の真相究明は、いよいよ佳境に突入するのであった―――



次回「直義のスクープ和歌は謎(その6)」
モルダー全開で参ります。
夏だし☆



posted by 本サイト管理人 at 08:45| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月25日

直義のスクープ和歌は謎(その4)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その3)」の続きです。


この歌は『新千載和歌集』に撰出されたものですが
勅撰集の和歌の配列には、ある程度のルールや意味があって
同一キーワード(単語や地名)を含む歌とか、同一の主題を詠んだ歌などは
連続して並べられるようになっています。
(つまり、前後周囲の和歌は、共通点関連性を持っている。(程度は様々ですが))

例えば、「秋」の部の前半の方には
「七夕」を詠んだ歌が連続で並べられている、といった具合です。
(※旧暦の7月は「初秋」に当たるので。)
「七夕」とか「天の川」とかいった単語が並ぶ中に
一首だけ「鹿」を詠んだ歌がぽつんと入っていたら、おかしい訳です。


この直義の和歌が収められているのは「雑」の部なので
守備範囲は広い訳ですが
それでもよく見ると、そこそこのカテゴライズの形跡が見出せます。


という訳で、直義和歌の前後をざっと観察してみますと
どうもこの辺は
憂き世への嘆きとか、そんな俗世にある我が身への悲嘆とか
だからと言って、世を捨ててみたところで一層しみる憂き世憂き身救われなさ、とか

遁世してもなお、逃げ場も慰めもない俗世の中で
独り脳内に山寺の鐘だけが遠く響く――― ような雰囲気の漂うエリアです。
ゴーーーン… (´;ω;`)

つまり―――

そんな憂き憂き出家遁世エリアのど真ん中に
空気を読まずに颯爽と現れる「愛人への恋歌」!!

って、なんでだよ!!


不自然です、実に不自然なのです。


実は、前回の解説で私が
「袖の色が変わった」を「出家した(=墨染の衣に着替えた)」と解釈すべき
もう一つの理由があるといったのは
直義和歌が、このエリアに位置していたからなのですが
(しかも、直前・直後の和歌には「墨染の」という単語がダイレクトに含まれる
 …という間違い無さ)

なのですが、なのですが…

しかしですよ
確かに、詞書が示す通りこの和歌は「出家」を詠った歌ではありますが
しかしそれでも、本質的には恋の歌です。
男女の心情が絡む歌がこのエリアに忽然と現れる、というは
どうにも不自然極まりない…と感じないではいられずにはいられない訳なのであります。




ではここで参考に
直義和歌の前後の歌を(適当なとこから適当なとこまで)
『新千載和歌集』より書き出してみたいと思います。



題しらず  藤原宗秀
花にそめ 紅葉に染めて まことなき 心の色の あだし世の中

信快法師
後の世も かくや歎かむ 身のうさに 猶のがれえぬ 心なりせば

徽安門院一条
いく程と 思ひながらも なげくこそ うき世をしらぬ こころなりけれ

宣光門院五条
今さらに うきをうしとて 驚くも 世のことわりを しらぬなりけり

安嘉門院四条
数ならぬ 身にも涙の こぼるるや いはきの山の しづくなるらん


あけくれ木のもとにのみすぐし侍りければ
身をかへたる心ちし侍りて思ひつづけ侍りける  大僧正行尊
木のもとは つひのすみかと 聞きしかど いきてはよもと 思ひしものを


世をのがれて後那智にまうでて侍りけるに、
そのかみ千日の山ごもりし侍りけることを思ひて
滝のもとにかきつけ侍りける  法眼慶融
三とせへし 滝のしら糸いかなれば 思ふすぢなく 袖ぬらすらん


山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の袖


…【ここに直義の和歌】…
建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける  左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな

是法法師
のがれても おなじうき世と 聞くものを いかなる山に 身をかくさまし




(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)




この後もまだまだ
憂き世、身を捨てる、身を隠す…と言った単語が続きます。


つまり…
なんというオーパーツ!!
と言いたいとこですが
ここはおそらく、逆に考えるべきなのだと思います。


勅撰集の配列パターンからすると
ここに位置する歌を「直義が愛人に対して詠んだ歌」だとするのは
やはりおかしいのではないか?…と。


詞書によれば、"ある女性" が出家した事は確かで
その事を、直義が歌に詠んだのも紛れもない事実ですが
しかし、この女性が "直義の愛人" だとは言い切れないのではないか…?
というかはっきり言って、前後の和歌のテンションからすると
これが愛人に送るために詠まれた歌だとは、どうしても思えないのです。

(※ネタ的に水を差すような事言ってすみません (´・ω・`)
 でも、『大日本史料』公認直義愛人ネタ
 ネタとしては永遠に不滅だと、私個人では思っております、はい。)



そう考えた場合、一つの可能性が浮上して来る訳で
これが「(直義にとっての)恋の歌」ではないのなら
歌を詠んで遣わせた相手はもしかして、この女性ではない "別の誰か" なのでは?―――


いや、それは穿ちすぎだろ(妄想の上に妄想盛ってるよ)と思われるかも知れませんが
私がここまで冒険的な解釈をするのには理由があります。



という訳で、ここで再び
直義和歌を含む前後4首に注目いたしますと…



山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の

(※詞書省略) 左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな



(適当な訳)
1首目
(出家して身を隠した超さみしい山里で)
これでこそ遁世というもの!と叫ぶ。(自暴自棄ぎみに)
3&4首目
出家したって、この世のに住んでいる事に変わりはないんだよね… (´;ω;`) と泣く。
(※「すみぞめ」は、「墨染」と「(世に)住む」の掛詞。)




直義和歌以外の3首には、すべて「墨染の(袖 or 衣)」というワードが含まれます。
直義和歌も「袖」が意味するのは「墨染の袖」だと言えますが
しかし、「墨染の」という同一単語が並ぶ中に
あえて(直接的には)それを含まない和歌をねじ込む…というのは
なんか…すごく… 違和感だと思うのですが。

これくらいのイレギュラー配列、別に普通かとも思ってはみたものの…。
「一首隔てて同一テーマ(単語)の歌を並べる」という複雑な配列法はあるようですが
それともちょっと違うような…
ってかそれどころか
3首目4首目の歌が、やたら似過ぎているのが気になってしょうがない。
よみ人しらずの歌まで探してきて、なんか…これでもかと "何かを" 駄目押ししている…??

そもそも歌の内容的にも
他の3首が、出家した自身の侘しさに直撃されているような歌なのに
直義のだけ、浮き過ぎてますよね?

直義和歌が、この4首の "間"(2番目)ではなく
最初(1番目)か最後(4番目)に来るのなら
(キーワード的になら)まだ分かるというものですが
なぜに… 割り込ませるのかと!!
なんかどう見ても「わざとらしい」んですよ! 色々と!!


そうつまり―――
私はこう大胆予想しているのです

何らかの理由があって、わざとこんな事をしたのではないかと!!

(ってゆうか誰が?)


……。


「モルダー、あなた疲れてるのよ」とかいう声が聞こえて来そうですが
大丈夫です。 私が疑っているのは、宇宙人みたいな人ですが宇宙人ではありません。



ところで、上掲の4首をもう一度見て頂きたいのですが
このエリアにはオーパーツってくらいの浮きっぷりを示す直義和歌
詞書が無いと、わりとしっくり馴染んでいると思いませんか?
若干の違和感に目をつぶれば、普通に憂き憂きムードいっぱいですよね。

「旅をしていた間に、親しかった誰かが出家してしまったのだろうな…」
という寂しさが胸いっぱいに広る
しょんぼりカタルシスがたまらない一首だと思います。

(あるいは、後に続く2首に共通性を見出すなら
 「出家しても俗世、から帰って来ても俗世
  どこに逃げても、憂き世は結局変わらない… (´;ω;`)ブワッ 」

 みたいな意味にもとれるでしょうか?)


うん、そうなんですよ
詞書さえ無ければ、さして気にも掛からず通過できるのですよ。

詞書があると
「は、はあ?? 女がどうしたって!!?」
ってなりますけど。


ただ一方で、詞書が無いとこの和歌は
ちょっと真意が解し難い…というか
「袖の色」といわれると、どうしても恋歌っぽく聞こえてしまうと思います。
そこで…
それを防止し、「袖の色」ってのは「墨染の袖」の事だよ!!
という事をアピールするために、こんなポジショニングを図ったのではないか…?
ここなら詞書が無くても
出家を詠んだ歌だって、誰の目にも明らかですからね。
逆に、詞書を添えるなら、何もここにねじ込む事はないと思うのです。


そうつまり―――
私は、更なるセカンド大胆予想をしているのです

この直義和歌は当初、詞書を添えずに掲載される予定だったのではないかと!!

!!?



「モルダー… (´・ω・`) 」とか呼ばれ出しそうですが
しかし、モルダーの 妄想 発想が無ければ、X-ファイルの謎は永遠に謎のままなのですよ!
冒険妄想を恐れたら、未知(と尊氏)未来永劫意味不明なのです!

私は普段は、考察には慎重に慎重を期していますが(小心者なので。プルプル)
しかし今回は… 冒険いたします。
夏だし☆ (ゝω・) v キャピッ



という訳で、この仮説のもとに強引に捜査を進めますと…

当初この和歌は、和歌単体で掲載される予定だった
それはなぜかと言えば
詞書の込み入った事情から察するに
隠しておきたい、あるいは、公にするには憚られる事情があったから
しかしこの和歌は、単独ではやや意味不明… ってゆうか
おそらく、単なる妄想恋歌と思われて終わる \(^o^)/
真相は伏せておきたいけど、事実の半分は記憶として正しく留めておきたい
(詞書無しに)和歌の真意をある程度伝えるためには―――
巧妙な配列によって、周囲の和歌から意味を察するように誘導する
コード【墨染】でがっつり前後を挟み
「これ出家の歌なんですよ、出家の歌!」と畳みかけるべく
後ろから2首の極似和歌で援護射撃し追い打ちをかける
完璧だ。
芸術の域に達した美しき完全犯罪
この真紅の薔薇を、我が愛しき直義への手向けとしよう―――
ふはははははっっっ!!!


(ただし、最終的に詞書が掲載されたため、この犯行は未遂と化し
 無駄な不自然さとまさかの直義愛人説が誕生しますた。)




つまり、謎はすべて解けたっっっ!!
(…せやろか?)

まあ、こう考えると
「そこまでしてこの直義和歌を撰出したのはなぜか?」
という新たな疑問が生じる訳で
そもそも「勅撰集にそんな細工施せる直義関係者がいるのかよ!」ってなる訳ですが
これに関しては… いますよね。


その人にとってこの和歌は
大切な思い出の和歌だったのではないかな。

どうしても
勅撰和歌集という最高の場所に、永遠に掲げておきたいと願うほどに
輝いた一瞬を記憶する歌だったのでしょう。




それでは次回「直義のスクープ和歌は謎(その5)」では
『新千載和歌集』という勅撰集の特質を考えてみたいと思います。

参考文献を先に紹介しておきますと…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちらの論文をどうぞ!


【深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』(笠間書院)2005】
 という書籍にも収録されているようですが
 すみません、未確認です。)



posted by 本サイト管理人 at 09:23| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月21日

直義のスクープ和歌は謎(その3)

こんばんは、だいぶ間をあけてしまいましたが
「直義のスクープ和歌は謎(その2)」の続きです。

さて、ここで一旦基本に立ち戻り
当該和歌の文学的な考察をしておきたいと思います。



ではまず、詞書と和歌の再掲を…


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける    左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



(だいたいの訳(仮))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、都に残し置いていた女の様子が変わってしまった
という知らせを聞いて、歌を詠んで遣わせた

あなたが変わってしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…





さて、「袖」というのは昔から一般に「涙」と関連付けられます。
こぼれたを(和服の)で拭う、からです。
「袖を濡らす」=泣く
「袖の露」=袖にかかる涙、悲しみの涙

…などをはじめとして、様々な表現がありますが
和歌においてはやはり、恋に関する涙である事が多いです。


上記の直義の和歌では
(彼女の)「袖の色」が変わってしまった悲しみで
(直義の)「旅衣」(の袖)が「露けき」

となっています。
(※露けき…「露けし」(=露に濡れてしめっぽい、涙がちな)の連体形。)




ところでこの和歌は
以下の『古今和歌集』の歌を背景にしたように思うのですが…
(違うかな? でも少しは参考にはなると思うので紹介してみます。)

これは「離別歌」であって、恋歌っぽいけど恋歌ではないのですが


貞辰親王の家にて、藤原清生が近江介にまかりける時に
むまのはなむけしける夜によめる   紀利貞

今日別れ 明日はあふみと思へども 夜やふけぬらん 袖の露けき



藤原清生が近江に赴任となり、貞辰親王の家でその送別会を開いた夜の歌。
「あふみ」は、「近江」「逢ふ身」を掛けています。
近江は京都から1日で行ける距離なので
今日別れても、明日には(あなたは)近江に着く
(1日で逢いに行ける場所なのだから、悲しくなんてないはずなのに)
夜が更けて露がおいたためであろうか、袖がしめっぽいなあ…
で濡れている訳じゃないんだからね、そんなんじゃないんだから…(しくしく))
という意味の歌です。

(※参照【久曾神昇 全訳注『古今和歌集(二)』(講談社学術文庫)初版1982】
 詞書と和歌は、適宜ひらがなを漢字に改めてあります。)



つまり、別れは悲しいけれど、再会は嬉しいもの
という気持ちが含まれます。


なので、上記の直義和歌の解釈にも
その意味を(逆説的に)込めて
「旅立ちの別れで袖が濡れてしまうのは当然だけど、帰って来たら喜べるわーい!!
 …のはずだったのに、やっぱり袖が露けき …ってなぜ(´;ω;`)??」

という涙目感を読み取ってみました。




さて次に、「袖の色が変わる」の解釈ですが…

(※注意事項※
 以下の考察は、"和歌本体" の分析および試行錯誤、と思って下さい。
 詞書(ことばがき)を正しく考慮した場合
 かなりしなくていい無駄な考え方をしている…という事を
 この記事を大方書き終えた後に知ったのですが
 ちょっと訳あって、私の無駄な考察過程を残しておきます。(/ω\*)ハズカシイ
 詞書については、この下の方で説明します。)



これが恋の歌だった場合
(たぶん)最も一般的な解釈は
「あなたを想って涙を流し過ぎて、涙が枯れて血の涙となり
 袖の色が(くれない)に変わってしまった」

というものだと思います。
つら過ぎる恋想いの激しさを表す、比喩的な表現です。


ただ、この表現は
それほどに泣いた側が、自分の心を歌にする場合、あるいは
相手につらさを訴える場合に用いるものかなぁ…という印象があるので
今回の和歌の場合は、ちょっと当てはめ難いようです。

まあ、無理矢理考えれば…
「直義に会えない悲しみで、袖の色に変わるほどに泣いた彼女の
 心の痛みに同情して、直義も涙がちになった」
と出来ないこともないかもですが
うーん… やっぱり
「血の涙」「露けし」に温度差があり過ぎますかね、同じ涙でも。


ならば、もう少し単純に考えて
「袖」「色」も、どちらもを連想させる言葉なので
「袖の色が変わった」=「心変わりした(愛が冷めた)」
とも読めるかと思ったのですが
ただ… あまり(ってかほとんど)和歌の知識ないので
こういう用例があるのかどうか分かりません。(´・ω・`)
(一見したところ、一番シンプルで無難な解釈かな、とは思うのですが…。)




さて、それじゃあ一体何なのさ…という話になって来る訳ですが
この他に、「袖の色が変わる」といって思い付くものと言えば…
「墨染の袖」(すみぞめのそで)があります。
(※墨染(の衣)=僧衣)

実は、別のある理由からも(←次回の記事で解説します)
この和歌における「袖の色」とは、比喩的な "恋心" の問題というより
実際の「衣の色」と解すべきである事が分かります。
そうすると実は…

「袖の色が変わる」=「墨染の衣に着替える」=「出家する」

となって、女性は俗世を捨ててしまったという事になるのです。 Σ(゚Д゚;)ナント!!? 




※※※

…と、以上が私の無駄足考察過程ですが
こんな回りくどい考え方をしなくても
実は、詞書を読めば、女性が出家した事は一目瞭然でした。
というのも
先日、前回の記事に頂いたねこ様からのコメントで教わったのですが
詞書の「女のさまかへ侍る…」の「さまかふ(様変ふ)」という言葉には
(「様子(趣)を変える、姿かたちを変える」という意味と共に)
「出家する」という意味があったからです。

(私は、「さまかふ」を一語だと思っていなくて
 「さま」を、漠然とした「様子」とか「容姿」だと訳していました…orz )


なんという無知ぶり!!(´;ω;`)
本当にすみません&いつも有り難うございます m(_ _)m

そんな訳なのですが、ただ…
もしも詞書が無く、和歌だけを単独で見た場合
こんな誤解をしかねないんじゃないかな〜という事例を示しておきたくて
一応、ここに書き残してみた次第であります。

というのも、この和歌単独では
 「袖の色」の意味が実に曖昧 (とも出家ともとれる)
…という事が
どうやら、この和歌に秘められた真実の一側面らしい…
と、私が深読み観測しているからであります、はい。

※※※




さて、話を戻しますと…
つまりこの女性は
(彼女が直義の愛人だと仮定した場合の話ですが)
「直義がもう戻って来ないと悲観して、早まって出家してしてしまった」と。
京都に帰って来た直義はその事を伝え聞いて
「そ、そんな…orz」と絶望した
という訳ですが―――

しかし、しかしですよ
確かに、尊氏直義たちが京都を敗退した時には
もう、世を捨てて出家するしかない心境だったでしょうが
彼らが帰って来た時点では
世界は「これから尊氏直義の新時代が始まる!!」という
希望明るさに満ちていたと思うのですよ。
そんな乗りに乗った時代の雰囲気を考えると
若い女性が世を捨てて悲観したまま…というのは、どうにもちぐはぐな印象を受ける…。

何より、もし戦況による不本意な出家だったのだとしたら
気持ちは冷めていない可能性が高い訳で
直義も和歌を送るなら
こんな「俺たち、終わったんだね…」なんてしょぼくれた哀愁を漂わせてないで
還俗を勧めてよりを戻そうとすればいいじゃないのさ!
…とか思うんですが。

(え、それとも、そうやってかわいそぶった振りしつつ
 さりげなく「俺の気持ちはまだ冷めてないんだけど…」
 とか伝えて相手の反応見てるの? そんな作戦なの??)


…まあいいか。
そんな訳で、「出家してしまった愛人に未練を告げる歌」だと考えた場合
それはそれでやや疑問は残るのですが
詞書より(それから、次回に説明するもう一つの理由もあって)
この女性が「墨染の衣」に着替えて「出家」してしまったという事自体は
間違いない事実といえます。


従って、これを直義和歌の意訳に反映させますと…


袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

(訳(完?))
あなたが出家してしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…



…ひとまず、こんな感じで。





あと、一応確認しておきますと…
この和歌は、直義が愛人に向けて詠んだものではないのでは?
(ってか、直義の愛人なんていたの??)

…とは言いましたが
それは、この歌が「妄想の産物である」という意味ではなく
(↑歌というのは今も昔も
 妄想シチュエーションで詠まれる(作詞される)事が多いものですが)
当然の事ながら
詞書で具体的な背景が語られている事から
「直義が事実に基づいて詠んだ、実話の和歌である」
という点に疑いはありません。


いずれにしても私は
これが『新千載和歌集』に撰出された和歌である、という事に
それほど単純な歌ではないのではなかろうか…との予感を抱いています。



という訳で、今日は和歌の文学的な解釈を試みてみました。
なんか頼りない解説ですみません (´・ω・`)
次回「直義のスクープ和歌は謎(その4)」では再び
その謎に迫りたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 21:15| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月30日

直義のスクープ和歌は謎(その2)

こんばんは、「直義のスクープ和歌は謎(その1)」の続きです。

まずは、詞書和歌を再掲しますと…


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける   左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき


(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



(だいたいの訳(仮))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、都に残し置いていた女の様子が変わってしまった
という知らせを聞いて、歌を詠んで遣わせた

あなたが変わってしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…



(※ちなみに「袖の色」の解釈の仕方が難しいところですが…
 これについては、また後ほど。)



なんという涙目な和歌 (´;ω;`)!!!
ハートブレイク(?)な直義に幸あれ!!

…というのが、一見したところのこの和歌の意味でありまして
(ただし、泣いてはいても、必ずしも失恋歌という訳ではないかもです)
これでも十分に おもしろエピソード 興味深い逸話ではあるのですが
しかしそれでも、真実が別の姿をしているなら
それを知りたくなる訳です。




さて、あまりに面白いので
この歌の背景をもっと知りたくて、まじまじと見つめていたところ
なんか変な事に気付きました。

この歌が収められているのって、「雑歌」の部立(ぶだて)なんですよ。

歌集というのは(特に勅撰集は)
その中に「部立」(ぶだて)という区分が設けられていて
歌がその種類によって分類されています。
四季(春・夏・秋・冬)、恋、雑、羈旅(きりょ)、離別、哀傷、釈教、神祇、慶賀…
などが主なところですが
もしこの和歌が、直義愛人に向けて詠んだものなら
「恋」の部に収められているはずなんじゃないかと…?

まあ、ちょと「旅」とか他の要素もあるので雑部に分類されたのかな〜
とも考えたのですが
しかし、さらによくよく見ると、やっぱりどうも変なのです。



そもそも…
この時期に「直義は京都に愛人がいた」…って?

直義は、建武新政権が開始した年の元弘3年(1333)12月14日
関東の統治に当たるべく、京都を立って鎌倉に拠点を移している訳ですが
次に京都の地を踏んだのは、約2年後の建武3年(1336)正月11日
しかも、この時の滞在はせいぜい半月ちょっと。 その上、合戦真っ只中

東国から京都に攻め上って、新政権軍との死闘を繰り広げると同時に
半月の間に京都で愛人を作ってプライベートも充実☆
…って、どんな早業なんですか!!

というか、京都を敗退した時には
尊氏直義のおじの上杉憲房を含む勇士たちが「命に代えて二人を逃がした」
という、あの感動のエピソードを残した壮絶な戦があったほどで
愛人作るような暇があったとは思えない…


直義は、おじの上杉憲房の件でも
九州での少弐貞経(妙恵)と一族家人の戦死の件でも
部下の犠牲には、人一倍心を痛める誠実な性格の主君なので
(↑一人で引きこもって喪に服し始めようとする(『梅松論』))
日々家臣が散りゆく合戦のさなかに
自己の快楽を求める精神的衝動は生まれないんじゃないかな〜と。

というか、平時でさえ筋金入りの禁欲大好きマンなんだから
死が隣り合わせの戦場なんて、それこそ涅槃に片足突っ込んだ仏教僧の境地だったはず。


その上『梅松論』によると…
この京都での対戦時、足利軍は
「両将、浮勢にて河原に御控ありしゆへに、軍勢の心そろわず…」
つまり、どこかの寺院とかとかに本陣を定めずに
大将である尊氏直義も「河原にいた」とかいう臨時営業状態だったので
みんなの心が揃わなかったそうで
(それが敗因だったので、4か月後の再上洛の際には「東寺」に陣を構えた、と)
そうするといよいよ
そんな浮ついた環境で、どうやってちゃっかり愛人作ったんだよ!
と突っ込まずにはいられない訳です。



考えられる可能性の一つとしては(かなり有り得ないけど)
「直義は、鎌倉から愛人を連れて来ていた」
というパターンかも知れませんが
そうすると、駿河国の手越河原でも、箱根でも
女性としてあれほどの大合戦を潜り抜けた、というミラクルもすごいですが
(特に手越河原では、直義は一旦は討死を決心しています(『梅松論』))
そこまで戦場をついて回れるのに
なぜ、京都では置いて行かれることになってしまったのか…?
京都撤退後、尊氏直義たちは、しばらく丹波兵庫でぐずぐずしていたのだから
追いかける事は出来ただろうに。
というか、そこまで深い直義の関係者だったなら
当時の京都に残るなんて、アウェイ過ぎて危険極まりないですし。

そう考えると、やはりこの女性はもともと京都の人
(少なくとも、それまで京都にいて、京都に居場所のある人)
…だとしか思えないのですが
でもそうすると、京都で直義と関係を持てそうなタイミングが見いだせない…



残る可能性としては
戦場には、個人的な女性の同伴というのはそうそうなかったでしょうが
遊女の出入りはあったと思うので
彼女も、そんな遊女の一人として直義と出会った―――
…とかいうベタなストーリーも考えてみましたが
しかし、そんな一朝一夕の関係なら
この様な歌まで送って未練を告げるような、深い関係だったことと矛盾するし
「一夜とはいえ、燃えるような恋に落ちた」…というのなら
戦場に出入りする遊女であればそれこそ
丹波でも兵庫でも、九州まででもついて行けるはず。
「京都専属の遊女だっらから、(プロ意識で)自ら京都に残った」というのであれば
和歌の詞書に「(直義が)彼女を都に残し置いた…」という言い方がされているのは
おかしい訳で。

あるいは、ついて来ようとする彼女を制止して
「すぐ戻る!!」とかかっこいい事言い放って、戻れなかっただけとか?
そういえば、『梅松論』によると
直義は、九州への退却を説得する尊氏の言う事に耳を貸さず
「都に攻め上りて命捨つべし!!」
何が何でも京都に戻ろうとしていたんだったな…


…って何を言ってるんですか!!
あれは、天下の未来のためなら
命を塵よりも軽くして戦い抜く直義魂が炸裂しただけです!! ><


だいたい、天下の行く末を賭けた戦場で遊女にうつつを抜かす直義…とか
どこの並行宇宙の直義だよ!!…ってレベルのキャラ改変ですが。

直義は自分で「俗人で俺ほど禁戒を犯さぬ人間はいない!!(ドヤッ」
と豪語していたほどの人物なのですよ。(『太平記』)
当時すでに数え30歳だから、「若さゆえの過ち…テヘ」とかいう訳でもないでしょうし
そもそもこの頃は
直義が憧れてやまない無学祖元(の頂相)に受衣して2年と経たない時期。
それこそ、フレッシュかつ強烈な禁欲禁戒フィールドを張っていたと思いますよ。

やはり、戦時に愛人…って
人物像的にどうにも無理があり過ぎる…。
だいたい、こんな背徳的なアバンチュールを、なにも勅撰集で採用しなくても―――


そう、これは勅撰集なのですよ!
勅撰集に撰出されるには、ちょっとプライベートに過ぎる歌のような気がするのですが…?
極秘案件ですよね、常識的に考えて。
それがよりにもよって、キングオブオフィシャルな勅撰集で天下大公開!!
有り得ないですよ。

そもそもよく考えたら…
『観応の擾乱』の中で悲劇的な最期を迎え
当時すでに故人だった直義の、こんな秘密の和歌を

一体誰が知っていたというのですか!!


謎です。あまりにも謎です。


出会うはずのない恋、いるはずのない愛人、知られるはずのないロマンス…
直義は、誰に向けて、誰の心を詠んだのか―――


しかし、この和歌の謎はまだまだこれでは終わりません。
という訳で次回「直義のスクープ和歌は謎(その3)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:54| Comment(4) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月27日

直義のスクープ和歌は謎(その1)

こんばんは、今日は
ずーっと話したかった、直義のあのスクープ和歌について
語り始めたいと思います。


直義と言えば、もう毎回しつこく解説していますが
清廉潔白謹厳実直誠実謙虚頭脳明晰
政治に私曲を一切挟まず
首尾一貫して「道理」に基づく言動は、いつでも果てしなく高潔
でも単に真面目なだけの堅物(かたぶつ)ではなく
人との交流が大好きで
人への思いやりに溢れていて
愛する者への情熱は誰よりも深く
新しいものをどんどん取り入れる好奇心とか
道理に適うとあれば、古いしきたりに囚われることなく自由な発想が出来る柔軟性とか
輝く理想の未来を信じて、不可能すら可能にしようとする信念とか
そんな果てのない夢を全力で追い続ける、どこまでも透き通った純粋な心とか

ああもうどこをとっても、史上最高の…!!☆※@!!☆?っっ!!


…ってまあ、褒め出すと切りがないのでこの辺にしておきますが
その他、直義の特徴としましては
和歌や連歌などを見るに、とても機知に富んでいる…というか
ユーモアのセンスも存分にあったようです。
まあ、頭の良い人って大抵、ギャグとかネタの引き出し多いですからね。

直義は、いつでもキリッと常時クール、というイメージが強いかも知れませんが
実際は、よく笑うとても明るい人だったようです。


ま、敢えて欠点を言えば…
人懐っこ過ぎて、警戒心が無さ過ぎる、とか
人を信じ過ぎて、疑う事を知らない、とか

そんな危なっかしい直義を、裏でフォローする尊氏の気持ちにもなって下さいよ!
毎回、どんだけヒヤヒヤしてたと思ってるんですか!!
某畠〇山さんとか、某〇細川さんとか、某上杉〇さんとか、某足利高経とか
あらゆるエージェントを駆使して弟を守る健気な兄、尊氏

まあ、伏字になってませんが。 ってか、高経は丸出しですが。



話がそれました。
直義の事になると、どうしても理性が吹き飛んで仕方ありません。
まあつまり、直義は本当に面白い…というか、かわいい(ポッ
…と尊氏さんが言っております。



さて、そんな直義は
とにかく、清く正しく美しい一途な心の持ち主なので
 「他犯戒」(たぼんかい)を持していた!! (『太平記』)
という話を先日しました。
「正室の他には女性関係を持たない」という(仏教としての)戒律、つまり
側室が当然の時代にあって、正室onlyを貫いていたのですよ!!

(※直義は俗人でありながら、既に建武元年(1334)頃には
 無学祖元の頂相(ちんぞう。肖像画)を拝して受衣
 弟子の礼を執っています。)



新生幕府の主導者という、側室持ち放題の地位&経済状況にもかかわらず
しかも、正室との間になかなか子供が出来なかったにもかかわらず

 正室以外は目もくれない!!

って、どんだけ 変わりもん の中のなのでしょうか。
素晴らしき貞操観念。 歴史的特別天然記念物です。


…ただ、私が思うに
実際のところは「仏教的な信条として身持ちが固かった」っていうより
直義の一途な情熱と、正室が足利一門の渋川家のお嬢さんで、かつ同い年である事からして
二人は(当時としては稀少な)「幼馴染の果ての恋愛結婚」だったのではないかな〜
と。
つまり…
「子供が出来ないなら側室持てばいいYO!」と方々(ほうぼう)から勧められまくるも
「あ、いえ、妻に惚れているので…」とは恥ずかしくて言えない直義は
「漢は黙って他犯戒!!」とかかっこいい事言って周囲を黙らせていた
とかいう真相。

…って、すみません。
多くの直義ファンに断固賛同を拒否されるような推測をしてしまったような気がしますが
まあ、私はもう既に、これに気付いた時の絶望は乗り越えました。
とかかっこいい事言ってみる。


まあでも、異母兄高義(たかよし)の早世後、足利家を継ぐ立場となって
鎌倉幕府の執権北条一族から、政治的に正室を迎えるまでにも
様々な紆余曲折があったらしい尊氏の場合を思うと
立場上、色々と制約の多かった兄の尊氏に比べて
弟の直義は、自分の気持ちのままに、かなり自由に生きる事が出来ていたのではないかな。

それはすべて、兄の存在のお陰で
でも別の見方をすれば
弟の自由のために、ひたすら堪(こら)え性を身に付けていったらすっかりドM将軍と化してしまった兄尊氏
…などという真相。




こっから☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆本題




さて、元来清廉で、予想通りの鉄壁な貞操観念を持つ直義ですが
しかし…!!
そんな直義のイメージに真っ向から異議を投げつける破壊力満タンの和歌がありました。
これは、直義の和歌の中でも1、2を争う有名な歌ですが…

尊氏の晩年(つまり直義亡き後)に撰集が始まった
後光厳天皇時代の勅撰和歌集『新千載和歌集』
詞書(=和歌の趣意、簡単な解説)と共に登場する直義の和歌―――


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さまかへ侍るよしをききてよみてつかはしける

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



尊氏たちが、入京成功後まさかの反撃敗退で丹波に逃げたのが建武3年(1336)正月末
そして、予想外の九州逃避行のち、そこからの復活快進撃で
Uターン足利軍が再入京を果たしたのが同年5月末
つまりこれは、幕府設立直前の
建武新政権との "一年合戦" の頃の逸話という訳です。

(※当時の解説は、本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)




―――※ちょっと余談―――

直義・尊氏たち足利軍が「打倒!新田義貞」を掲げて鎌倉を飛び出し
『竹之下・箱根の合戦』で最初の勝利を収めた建武2年(1335)11〜12月から
翌正月の京都での合戦、九州没落、復活上洛、5月の『湊川の戦い』、再入京
そして最終的に足利軍の優勢が確定したことで和平協定を結び(11月2日)
『建武式目』を制定して幕府再建を宣言する建武3年(1336)11月7日までの
約1年間の一連の合戦についてですが…

これほど歴史的に重大な意味を持つ大転換期の1年のわりに
特に「なんとかの乱」とか名前がついてないのは不憫…というか不便なので
私は個人的に『建武一年合戦』との命名を提案したいのですが。
賛同してくれる方、お待ち申し上げております m(_ _)m

まあ、本当は『建武一年戦争』ってしたかったのですが
それだと、モビルスーツとか赤い彗星の人とか出て来るあれになってしまうので
自重しました。

ちなみに、『建武一年戦争』とは
建武世紀002(ダブルオーツー)11月2日に
直義(アルテイシア)が新田義貞にブチ切れて始まったまさかの一年戦争です。
突然の宣戦布告に腰を抜かすほどびっくりしたキャスバル兄さん(尊氏)
思わず中立コロニー・サイド浄光明寺で出家しそうになりましたが
直義の危機を知って一転、尊氏専用ザクで出陣しました。

―――※ガンネタ終わり―――


しかしそうすると
ガンダムを操縦しているのはセイラさん(=アルテイシア)という事になりますが
ガンダムに乗った直義(アルテイシア)」というのは
史上最強の足利軍を率いながら
いまいちその性能を十分に生かし切れない史実の直義と合致して丁度いい…

すみません、ガンネタ終わってませんでした。
というか、ガンダムの救援に駆け付けるシャア専用ザクって…(胸熱)
(※シャア=キャスバル兄さん=アルテイシアの兄)


いや待てよ、尊氏がシャアってことは
大佐(=シャア)が拾ったララァ「さぬ」って事になって
『観応の擾乱』で実妹アルテイシア(直義)を(知らずに)討ちそうになってしまうシャア(尊氏)
さぬ「大佐、いけない!!」とか言って止めに入って―――


ああいい加減にしよう、刻(とき)が見えて来た…







さて、話がそれました。
この直義の和歌は、昔から有名で、かつ物議を醸して来たのですが
それはなぜかと言いますと…
『大日本史料』第6編之16(大正7年刊行)の、直義の卒伝(p.122〜)で
この和歌の注釈に―――

 愛人ノ許ニ遣ハセル和歌

と記されているからです!!
あ、あ、あ、愛人ってwwww


つまり、この和歌はこう解釈されているのです。

建武3年(1336)正月に、一旦入京に成功した足利軍は
反撃にあって予想外の九州落ちを余儀なくされてしまう訳ですが
そのせいで、直義の愛人京都に置いてきぼりにされてしまったと。
半年もせずに、直義は九州旅行から帰って来るものの
その間に彼女の様子が(すっかり)変わってしまった…との情報を伝え聞いた直義は
その哀れなる胸の内を、和歌にして彼女のもとに送った
…という、ちょっと悲しい(?)エピソード。

つまり―――
あの直義に愛人がいた!!…という大スクープ!!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?
…な訳です。




さて、直義ファンの多くは
直義の清廉な性格が好き、という方が多いのではないかと思うのですが
この和歌はどう受け止められているのだろう…
と、直義ファンの一人である私は、常々興味津々でした。
ちなみに、私はと言いますと
この和歌を知った時には… わりと肯定的に受け入れられました。
(↑当初は、直義の性格をそこまで深く知らなかったのもありますが。)
直義もこういうところあるんだwww これはスルー出来ない突っ込みポイントwww
という感じ。
むしろ、あの直義だからこそ面白い!…と思いました。
だから、これはこれで良かったのです。

しかし―――

『新千載和歌集』の中のこの和歌を、再度よく読んでみたところ…
どうも色々とおかしい点が存在する事に気付いてしまい
一通り考え直してみた結果
なんか別の何か…な和歌であるらしい事が判明しました。

実はこれは、直義が愛人に対して送った和歌ではないかも知れないのです。
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!? (一応)


直義の「意外性」を楽しんでいた方には、ちょっと残念(?)なお知らせかも知れませんが
やっぱり直義は「他犯戒を持して」いたのだ!!
という事実が再確認できた(…かも知れない)のは、めでたしめでたしかと。



ちなみに…
『太平記』って、初期の原型を留めたものとか
少し後の時代に、関係者の証言や当時の日記等の記録をもとに
色々と書き加えられたり書き換えられたりしたものとか
いくつかの諸本が伝わっているのですが
原型に近い『太平記』で「直義は他犯戒を持していた」と書かれている所が
後世の(色々加筆された)バージョンでは

左兵衛督直義は、他犯戒を持しながら、破戒の罪のある上に…

ってなっているものがあるのですよ!
(つまり「正室だけと言いながら浮気してた」と。)

おそらくこれは、『新千載和歌集』の直義和歌の誤解から
後になって書き換えられたんじゃないかなぁ〜と思うのですが
(この書き換えのために、その後の文とのつながりが
 ちょっと意味不明な感じになっている)
だとしたら、昔からこの和歌は
直義に愛人がいた証拠と解されていた、という事になります。

まあ、普通に詞書を読めばそうなりますよね。



では、この魅惑の和歌の真相とは―――
という話は、次回「直義のスクープ和歌は謎(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:08| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月25日

尊氏さんの子供たち

こんにちは、前回「足利さぬ …のこと(その3)」であれこれ話題に挙げたので
「尊氏さんの子供たち」について
ここで簡単にまとめておきたいと思います。

尊氏さんは、正室の赤橋登子以外に、明確な側室の記録がないのもあって
子供もそんなに多くない印象がありますが
実は、わりといるのですよね。 ただ…
幼くして亡くなってしまった子が非常に多いのです (´;ω;`) うぅ…



◇◇◇「尊氏の子」◇◇◇

竹若(たけわか)
 ? 〜 正慶2年=元弘3年(1333)5月8日 10歳前後くらい?
 尊氏長子、母は加古六郎基氏の娘

直冬(ただふゆ)  長門探題、のち鎮西探題
 嘉暦2年(1327)? 〜 応永7年(1400)3月? 74歳 慈恩寺玉渓谷道昭
 母は越前局(えちぜんのつぼね)、幼名新熊野殿、直義猶子

義詮(よしあきら) 2代目将軍
 元徳2年(1330)6月18日 〜 貞和6年(1367)12月7日 38歳 宝篋院殿道惟瑞山
 母は赤橋登子(北条久時の娘)、幼名千寿王

男子
 ? 〜 建武元年(1334)7月16日  生後まもなく?

女子
 建武4年(1337)〜 康永元年(1342)10月2日 6歳

聖王(しょうおう)
 暦応2年(1339)〜 康永4年(1345)8月1日 7歳

基氏(もとうじ) 初代鎌倉公方
 暦応3年(1340)〜 貞治6年(1367)4月26日 28歳 瑞泉寺殿玉巌道マ
 母は赤橋登子、幼名光王、直義猶子

鶴王(たづおう)(女子)
 暦応4〜5年(1341〜1342)? 〜 文和2年(1353)11月9日 12〜13歳?
 母は赤橋登子、卒後2年の三回忌の頃「頼子」と命名

女子
 康永2年(1343)〜 貞和3年(1347)10月14日 5歳
 直義養女、法名了清(りょうせい)

女子
 康永3年(1344)〜 貞和2年(1346)7月7日 3歳

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(※生没年月日の後ろの年齢は、享年です。)





「尊氏の子供達」を詳述したのは
もう何度も紹介していますが
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
この文献の p.1-9 を御覧ください。
ただ、義詮のすぐ下の男子(建武元年(1334)7月16日卒)については
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
の、p.197の系図で知りました。
(※原典は『常楽記』です。)




さて、上記の10人の内
成人したのは、直冬義詮基氏の3人だけ… (´;ω;`)
といっても、長生き出来たのは直冬ただ一人ですよ。
夭折してしまう子が多かったので
尊氏さんのもとには、常時1〜3人の子供がいた程度です。
(※義詮は、成人するまでずっと鎌倉です。)

一方、上記の子供たちの内
直冬基氏(光王)、女子(了清)の3人は、直義の養子(猶子)となっていて
さらに直義には、貞和3年(1347)6月8日に実子「如意王」が生まれますので
一時期ですが、直義は最大4人の子供に囲まれていた時代がある、ってゆう。

つまり…
尊氏は子供に恵まれたのに、弟の直義にはいつまでも実子が出来なかった」
(※如意王が生まれたのは直義41歳の時。ほぼ奇蹟。)

という対照的な二人ですが
実際の家庭的には、子供のにぎやかさはほとんど同じだったのです。
なにそれ、ほのぼの!


尊氏と直義は、将軍の地位を半分こしたようなものですが
実は、子供も半分こしてたってゆう。
ついでにいうと、運命そのものも半分こ。
源八幡太郎義家の転生(魂…ってか体?)も半分こ。
どんだけ仲良いんだよ!!


今もどこかで、チョコレート半分こしたりしているのでしょうか。
スタバ行ったら、ラテフラペドーナツスコーン
全部きっちり半分こしているんでしょうか…
まあいいか、そんな妄想は。




さて、尊氏の子については
今回ちょっと保留してしまったのですが…
もう一人、「英仲法俊」という禅僧がいるそうです。
(※詳しくは、上記1つ目の文献 p.7-8 を御覧ください。)

『日本洞上聯燈録』(※曹洞宗の僧の伝記を集成したもの。江戸時代成立。)によると
暦応3年(1340)5月21日に生まれた彼は
幼い頃より仏書を好んだので、父(尊氏)が禅宗の道を歩ませ
やがて永徳2年(1382)に3代目将軍足利義満が創建した丹波国「円通寺」の開山となり
応永23年(1416)2月26日に77歳で示寂したそうです。
生年が、赤橋登子の男子、基氏(光王)と同じなので
母は別人ということになります。

…という事は、彼こそさぬが産んだ子なのではないか!?
と思いたいところなのですが
しかし、英仲法俊の母は――― 彼が7歳の時に亡くなってしまっているそうなのです。

貞和2年(1346)というと
京都での尊氏直義時代の真っ盛り、って時代です。
やっぱりさぬは、かなり早い時期に他界… と一瞬考えてしまいますが
うーん、しかし
足利秀政(さぬの父)への書状で
尊氏が、両家の子孫の繁栄を妙に気にかけていた様子からすると
子供を幼少期から出家させるだろうか…?

とすると、彼の母は第三者の可能性が高くなりますが
そうすると、え、尊氏さんどういうことなの??
とかいう疑問がめくるめく沸いて来てしまうので
まあ、この件は深く考えないでおきたいと思います、はい。





さて、話を元に戻しますと
上記の10人の尊氏の子の内
竹若直冬については、正室赤橋登子の子ではない事がはっきりしていますが
では…
「それ以外の8人は、全員赤橋登子が産んだのか?」
という疑問が、謎としてが存在します。
そうだ、という意見も、いやどうだろう…という見解もあるようですが
ただ、史料的に、明確に赤橋登子の子だと判明しているのは
義詮基氏鶴王の3人だけ
だったりします。
生年的には、全員赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないのですが
でもそうすると、かなり連年で出産していて、なかなかすごい事にはなります。


という訳で、残りの5人をそれぞれ見ていきますと…
まず、直義の養女となった女子(了清)
やはり嫡出(=母が正室赤橋登子)の可能性が高いと思います。
その他の女子については
最初の女子(建武4年(1337)生まれ、享年6歳)
最後の女子(康永3年(1344)生まれ、享年3歳)
前回のブログ記事で、「母がさぬっぽい?」と考察した2人の姫君です。
まあ、確証はありませんが
でももし、最初の女子(享年6歳)が赤橋登子の長女だったとしたら
直義のところに養女に出されていたのは
次女となる鶴王だったのではないかな、順番的に
と思います。


次に、男子で幼名が判明している聖王についてですが
結論から言うと、彼も嫡出ではないのではないかなぁ…と思います。
というのも、聖王は、基氏(光王)の1年前に生まれたですが
直義に養子に出されたのは、弟の基氏(光王)なので。
(※基氏(光王)の母は、確実に正室赤橋登子です。)

この時代は、直義が幕政を主導していたので
その直義の後継ぎとなると、相当な地位を約束されることになります。
例えばもし、聖王も赤橋登子が産んだ子だと仮定した場合
この当時は、赤橋登子の長男義詮が "鎌倉の主君" として遠く関東に在住していたので
「自分の子(男子)を一人は手元に置いておきたい…と望んだから
 弟の基氏(光王)が養子に出されることとなった」
…とも考えられなくもありませんが
しかし、嫡男義詮の弟として手元に置いておくより
当時の幕政主導者、直義の養子とした方が
将来の立場が圧倒的に高くなるのは(少なくとも当時の時点では)目に見えていた訳で
我が子を思えばこそ、普通はを養子に出すのではないかと。
(聖王が成人まで生きたとしたら
 立場が 弟基氏(光王)>兄聖王 となりかねない…。)



なので、聖王も母が違う…?と思った次第でありますが
ただ、千寿王(義詮)や光王(基氏)と同じ、尊い感じ(?)の幼名からしても
また、亡くなった時の朝廷(北朝)の対応からしても
(↑天下触穢とするか、とか、雑訴や文殿沙汰の停止とか)
母が違くても、子供たちはみな尊氏のもとで大事に育てられていたようです。



あと最後に、義詮のすぐ下の男子ですが
この子は、『常楽記』 建武元年(1334)7月16日条で(←建武新政権時代です)
「足利殿御子息他界」と記されているだけで、生年は不明ですが
おそらく、生後まもなくだったのではないかなぁ…と思います。

というか、この前年元弘3年(1333)の鎌倉幕府倒幕に際しては
当時、鎌倉にいた尊氏の嫡男、当時4歳の千寿王(義詮)は
家臣の手で密かに鎌倉の館から脱出し
また、尊氏長男の竹若
この頃、母方の伯父のいる伊豆の走湯山権現にいたのですが
上洛を試みた途次、北条方の者に見つかって討たれてしまう
…という、激しい出来事があったので
出来ればこの子は
世の中が一旦静まった建武新政権開始以降に、京都で生まれていて欲しい…
とかいう、私の願望で
そう思ってみました。

しかしそうすると、この男子の母は…
個人的にはさぬも有り得る…と思っていますが
まあ、赤橋登子の可能性が高いでしょうか?




以上、生母についてまとめると…


竹若 … 加古六郎基氏の娘
直冬 … 越前局

義詮(千寿王)… 赤橋登子
男子(赤橋登子?)
女子さぬ?
聖王さぬ?
基氏(光王)… 赤橋登子
鶴王赤橋登子
女子(法名、了清)… 赤橋登子?
女子さぬ?


竹若と直冬以外の8人中
正室赤橋登子の所生と思われるのが4〜5人
別の母(さぬ?)と思われるのが3人
といった結果となりました。

これなら、赤橋登子的にも、わりと現実的かと思います。うん。




という訳で、今日は「尊氏さんの子供たち」について
思う存分突っ込んだ話を展開してみました。

本日の要旨は「半分くらいは、さぬが産んだ子っぽい」という結論ですが
まあ、なんだかんだ言って一番言いたかったのは
尊氏直義は、子供を半分こしたのだよ!!」
これに尽きますね、ええ。


それでは、さぬの事を語り尽くしたところで
次回、直義のあの和歌の話をしたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 17:18| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)