2017年09月05日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)

おはようございます
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その1)」
の続きです。

『鶴岡八幡宮』の参拝を終え
境内東の鳥居から外に出て
次の目的地、初訪問の源頼朝の廟所『法華堂跡』へと、旅は続きます。

てくてく… 着きました!!


鎌倉『法華堂跡』

まあ10分とかからない感じです。


鎌倉『法華堂跡』に続く階段


この階段を上った先の、丘の上一帯が『法華堂跡』です。
源頼朝は、生前の自身の持仏堂だった「法華堂」に葬られ
ここは以後、源頼朝の廟所(墓所)として信仰され続けますが
後に廃絶し
現在は、江戸時代に整備された源頼朝の墓石が安置されています。
(階段下、向かって左側には、源頼朝を祀る『白旗神社』がありますが
 こちらは明治時代に新設されたものです。)


鎌倉『法華堂跡』空間


これは上った先の、とりあえず右の方の風景。
(※写真左側にちらっと見えるのが、階段上って正面の頼朝さんの墓石領域。)

『法華堂 "跡"』なので、まあ空間です。
でも時空のひずみが観測されそうな空間です。 (; ・`д・´)ゴクリ…



さて、この『法華堂跡』室町的には どうかと言いますと…

尊氏たちが固い決意を胸に西へと旅立った『建武一年合戦』の頃
足利高経の長男の足利家長(斯波家長)は、尊氏から鎌倉を託されるのですが
その少年大将足利家長と共に
幕府再興の未来を背負った足利軍の為に壮絶に戦い抜いた―――
相馬重胤(そうま しげたね)の終焉の地 なのであります!!


(※この話については、以下の記事を↓
 『Muromachi通り』
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」(2016.3.9)
 …てゆうかこの旅行記、まだ話思いっきし途中だったわ。)


建武3年(1336)4月16日
京都に滞在していた北畠顕家が、再び奥州へと戻るその帰国の途次
鎌倉周辺を通過する際に起こった「相模国片瀬川での戦い」
迫りくる北畠軍を迎え撃つべく
一族の相馬胤康(たねやす)が、まず最前に馳せ向かって討死
そして相馬重胤は、当時の鎌倉の中心部に位置する「法華堂」で自害して果てます。

この時の状況についてですが…
『法華堂跡』の東、『浄妙寺』周辺に当時の足利邸があった訳ですが
地理的に考えて、おそらく相馬重胤は初めから―――

西の片瀬川より迫る敵軍から、大将家長たちを逃がす目的で
(↑当時、鎌倉の主君として幼少の義詮(※尊氏の嫡男)がいた)
時間稼ぎのために「法華堂」に立て籠もった、つまり…
"自害前提" で盾になった のではないか?

と私は見ているのですが。


え、もしそうだったとしたら
色々となんかもうどうなの!?(´;ω;`)どうなの!!?(´;ω;`) どうすんの!!?
…という、抑え切れない溢れる何かに背中を押されて『法華堂跡』に行きました。


足利家長ファン、かつ
相馬重胤と、彼に従った相馬一族
これ以上ない初志貫徹戦いぶりと忠誠ぶりの大大大ファンな私としては
この鎌倉時代の代表的史跡『法華堂跡』
室町的な意味で聖地なのですよ、聖地!!

この戦で散った相馬重胤相馬胤康
前年、足利軍に属して少年大将足利家長に従うことを決めた時
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのです。
つまり、死ぬ覚悟で尊氏に属する決意をしているんですよ!!(´;ω;`)
こういう、「まさに武士!」的な最強最高エピソード、ほんと好きなんですが。

相馬重胤とかもう、何なの!!…ってくらいに最強でむちゃむちゃ好きです。
(だったら早く上の旅行記完成させろよって話ですが。)



『建武一年合戦』への旅立ち…
この後の足利軍に起こった事を、私達は知っています。
それはすべてが過去となった後世から見たら、当たり前の歴史なのかも知れない。
でも、自分たちの明日を知らずに生きていた彼らにとって
未来は、何も確かなものを約束してくれないでしかなかった。
建武政権と袂を分かち、戻れない道を行く事を決めた足利軍の、この時の決断出発
よりももっと暗い闇夜の果て
誰も届いたことのないを掴むような、無謀な一歩だったはずで―――


相馬重胤彼に従った一族
そして尊氏直義
彼らがそれぞれの胸に予感していた時代の大転換という姿なき巨塔
未来を知らない彼らが抱いていた絶望と希望というリアル

彼らの立場であの日の明日を想像すると
歴史って、本当に壮大なドラマなんだな…って思い知らされます。
全身に、蘇るような戦慄期待が押し寄せて心が震えます。

「結果」を当然と思わない、「未来を知らない」視点で感じる歴史
…という妄想ジャンル、わりとかなり興奮度高いと思うのですが
え、どうなの?
全国展開に向けて緊急会議なの?




さて、『法華堂跡』室町的時空のひずみに陥落した私は
再び道に戻り、次の目的地へ向けてさらに東へ進みます。

ところで、『法華堂跡』のすぐ東の少し丘を登った場所にも
「北条義時の法華堂跡」とか「三浦一族のやぐら」とか色々あったっぽくて
折角なので探してみようと思っていたのですが
『法華堂跡』の階段を下りた先の道端
超低空旋回飛行し続ける謎の黒アゲハ蝶に遭遇して夢中になっている間に
その事をすっかり忘れてしまい
一通り黒アゲハに気が済んだあと、満足してそのまま立ち去ってしまいました。
不覚です。


という訳で、ひたすら東へてくてくとぼとぼ進みます。
向かった先は…

…と話を続けたいところですが
長くなってしまったので次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その3)」
に続けることにします。



posted by 本サイト管理人 at 07:57| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月31日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その1)

おはようございます
先々週、いつもの一人室町ツアーをしに鎌倉に行って来たんですが
今回は、いつにも増して朝早く出発して歩き回り
初めての場所にもいくつか訪れたので
今日はちょっとその報告でもと。


という訳で早速、鎌倉に到着… なんと朝8時ちょい過ぎ!
早い! 早過ぎて前につんのめりそう!!

さて、まず最初に駅の南に進みます。
実は今回は、一つ目の目的地が、初訪問最大メインだったりします。
好きなもの最後にとっとく派の私としては、非常に斬新なプランニングです。

いつもは鎌倉に着いたらまず真っ先に
駅の北の『鶴岡八幡宮』を目指すのですが
今日は駅の南の…
元鶴岡八幡宮『由比若宮』(ゆいのわかみや)にやって来ました!!


鎌倉、元鶴岡八幡宮『由比若宮』


ここに… ここに一度訪れたいと、ずーーっと思っていたのですよ!
なぜならここは
私の大好きたろちゃんこと、源八幡太郎義家に始まった神社だから!!

以前『Muromachi通り』「源八幡太郎義家」(2014.8.16)の冒頭の
「武家源氏の "八幡様クロニクル" 」でちょっと触れましたが
鎌倉の『由比若宮』
康平6年(1063)、奥州平定を成し遂げた源頼義・義家父子がその帰途で
源氏の氏神「八幡大菩薩」へ勝利の感謝を込めて
京都の『石清水八幡宮』を勧請して建立した、平安時代の神社です。
この八幡社が約120年後
鎌倉時代の幕開けと共に
源頼朝によって、規模を新たに『鶴岡八幡宮』として生まれ変わる訳ですが
それゆえ『由比若宮』「元八幡」とも呼ばれています。


訪れてみると、とってもこぢんまりとした神社で
(↑創建当初は、また規模も違ったのでしょうが… )
盛大荘厳な現在の『鶴岡八幡宮』とは、まるで印象が異なりますが
それでも、ここが鎌倉八幡様の始まりの場所なんだ…
と思って時の流れを仰ぎ見ると
果てしないほど大きな存在を感じます。

境内の片隅の、現在は切り株だけになってしまっている松の木に
 「源義家公 旗立の松」
という小さな看板が添えられていました。
たろちゃんが、たろちゃんが源氏の白旗掲げた松… (´;ω;`)

あふれる感慨が時空を超えてゆきます。


以前話しましたが
うちの近所にも、源義家がちょっと立ち寄った〜的な神社があって
(↑ちょっと立ち寄っただけでも、千年近く言い継がれるたろちゃん
 マジ最強☆)

で、最近は毎朝のように、そのたろちゃん神社に立ち寄っては
たろちゃんに語りかけている私ですが
(↑別に菩提寺でもお墓でもないのに、たろちゃんがいると思ってる私
 マジとんだ勘違いしてる☆)

この日の朝も
「たろちゃん、今日は『由比若宮』に行くよ。一緒に行こうよ」
と言って、たろちゃんを誘ってやって来たのでした。

たろちゃん…
始まりはいつだって、小さな一歩なんだね―――



という訳で、朝一でメインを堪能し尽くして
再び駅の方へと戻ります。

まだまだ朝9時前という、おはよう感にあふれた時間帯ですが
この後の、ノンストップ無休憩探索に備えるべく
一休み&ブランチをすることにしました。

訪れたのは…
駅のちょっと西にあるスターバックス「鎌倉御成町店」!!
先日のどうでもいい記事「Ashikaga チョコレート Shogunate」で自分で適当なこと言ったからには責任もって行かないと…じゃなくて
ここすごいんですよ、お店の作りが。
全国にいくつかある、スタバのコンセプトストアというのの一つなんですが
漫画「フクちゃん」の作者の邸宅跡地に建てられた平屋の店舗で
テラスプールまである、ってゆう!


スターバックス「鎌倉御成町店」
(↑これは、店内からガラス越しに撮った写真)



さてさて、今日はここで夏の室町会議が開かれると聞いてやって来たんですが…
あ、あれ? 誰もいない…
( ^ω^)おっ?おっ? 時間まちがえたかお??
と、店内を見渡して挙動不審に―――
…なったりはしてませんが(うそです、少しキョロりました)
まあでも
残念ながら室町好きっぽい人も南北朝っぽい人も会議っぽいものも見当たりませんでしたので
一人、脳内室町会議に浸るため
ソファー席を確保して…


スタバでブランチ


私、8月は誕生日月なので
ここでケーキを食べようと、何日も前からワクワクしておりました。
(※このお店は、普通のスタバにはないケーキがある。)

写真左が「オレンジのシブースト」です。
誕生日モードなので、好きなだけ何でも頼んじゃえと
サンドイッチももりもりにして…
(゚д゚)ウマー

ああ、流石にお腹いっぱい。
このままソファーに沈み込んでまったりうとうと…
してる場合ではありません!
まだまだこれからは長い!!

という訳で
居心地の良さに後ろ髪を引かれながらお店を後にします。

ご馳走様でした!

鎌倉御成町のスタバ
( ^ω^)おっ?おっ? 日付まちがえたかお??




さて、再び駅から仕切り直して、本日のセカンドスタートです。
まずはいつものコースで『鶴岡八幡宮』へ。

境内に入ってすぐの左右に広がる「源平池」
この時期、が元気にもっさもさしております。


これは右手の「源氏池」

鶴岡八幡宮「源氏池」


こちらは左手の「平家池」

鶴岡八幡宮「平家池」



北条政子源頼朝の必勝を祈願して造らせたと伝わる「源平池」
「源氏池」に浮かぶ三つの島は、繁栄の "産" を意味し
「平家池」四つの島は "死" を意味する…
と言われる、歴史を刻んだ池ですが―――

(いわゆる)"源平合戦" の末に訪れた源氏の時代である「鎌倉時代」
源氏平家、あるいは
三代で幻となる源氏将軍と、平氏である執権北条一族
両者の間の因縁が安からぬものであるのは
たどらねばならなかった必然の歴史だったと思いますが
しかしそれゆえ
その先に訪れた「室町」という新しい時代には
源平の関係にもまた、新しい展開が待っていたのではないか―――
いや、はっきりと言えば


源平の新しい関係を迎えるために、鎌倉が終わり室町が始まったのです。


「…のです。」っておまえ… (´・ω・`)
いきなり何ドヤっと言い切ってんだよ?あほなの?とか思われそうですが
実はこれ、かなりあなどれない論点なのですよ。
というか、他のあらゆるすべてに最優先される最重要事項だったとすらいえるのですよ

尊氏さん的には。


鎌倉幕府への反旗とか、建武政権との決裂とか
将軍家として歩み始めた足利家の新時代
初期幕府に訪れた最大の危機『観応の擾乱』……

これらの歴史的大転換もすべては、"源平" と切り離せないところにあった

尊氏さん的には。


歴史って、「時の偶然」「人の恣意」の積み重ねのように思われていて
それゆえ、事象として軽視されがちな所がありますが
否、実際は
歴史って、その根底に流れる因果「普遍」(宇宙法則、物理法則)に繋がっています。
そんな見方する人は確かに多くはないかも知れませんが
しかし、少なくとも
足利尊氏という人には、そういう世界が見えていたようです。


生み出された結果である世界の「現実」と、世界を生み出す原因である「根源」
二通りの見方をしていた、という事です。
といっても、この二つはあくまで「一つの世界の別の側面であって
例えるなら「一つの世界を別の言語で表現したもの」に過ぎません。

「建武の出家騒動」(←浄光明寺の)とか
将軍になってからの政務放棄的意味不明スタンスとか
特に『観応の擾乱』での数々の奇怪な動きとか……

「考え無し」とか「軽く見積もって病気」とか言われる尊氏の
発言、行動、発想の謎を解明し、論理的に理解するには
尊氏が見ていたこの二通りの世界を、それぞれに叙述する必要があります。

(逆に言えば、そうする事で
 尊氏が極めて理に適った人間で、かつ頭脳明晰である事が証明される!!)



例えば…
尊氏が、先読み・先回りを得意としていたのは
世界を生み出す原因である「根源」を見る能力があったから、なのです。
(普通の人は、結果である「現実」を見て動く。)

以前、本サイト『2-9』「天を読む者」で紹介した
『六韜』(りくとう)の言葉をここで再び…

 聖人は天地の動きに徴す、たれか其の紀を知らん

(聖人は、天地の動き(根源)を把握しそれに順応する
 (聖人の他は)誰もその条理を知らない。)


でも、人には見えない世界が見えてしまうと
その言動を誰も理解してくれない…ってゆう。
(でも、少なくとも尊氏は、当時から人に愛されていたよね。)




あ、ああ…また話がおかしな国に迷い込んで来た。。
こういう話をするから友達が出来ないのは分かっているのですが
でも、こういう話したい…
こういう話したいけど、友達が欲しい… (´;ω;`)





ええと、話が逸れましたが
いま仮に、"源平の関係" から鎌倉室町を見るならば…

平安までの
政治の基準が権威縁故社会階級であった貴族の時代からの進化を求めて
「鎌倉」という、全く新しい武士の時代…すなわち
この国で道理に立脚した武家政治を実現するための時代」を切り拓くため
(その理不尽な代償として)敵対し傷つけ合う事を宿命として歴史を築いた両者は
次の段階では
天下に真の泰平を根付かせるため
その因縁に安らかな結末(※)を与える事を求められた

そのために訪れたのが、「鎌倉」の終焉であり「室町」の始まりだったと。

(※…なぜなら、宿怨という強大なエネルギーは
 現状を打破し、時代を動かす原動力となる…と同時に
 常に泰平を破ろうと作用する破壊力にもなるから。)


もちろん、彼らは(少なくとも大半は)
このような時代の流れの意味を、知らずに生きていた訳ですが。


「源氏」「平氏」という二つの存在は
どちらかが勝者となり、どちらかが滅亡するという
淘汰決着の為に生まれたのではなく
相対である事に意味がある…というか
「源平」とは
相対である為に生まれて来た「陰陽」のような関係にある
のだと思います。


二つの「融和」「均衡」、互いの「肯定」「尊重」「補完」
負の因縁の昇華により、天下泰平を目指すことが
足利家の家督尊氏に課せられた使命だった―――


…という秘密を推測させてやまない史料的事実が、よく見るとちらほらわんさかしていて
( ^ω^)おっ??おっ??? …ってなってる。


平氏である日向秀政(→改名して足利秀政)を「御父」と呼び
その娘「さぬ」と婚姻したのも
この尊氏が背負う宿命がさせた行動の一つだと、私は考えているのですが…
 (; −`д−´) むむむ。
あと、『観応の擾乱』での行動にも顕著に影響してるっぽくてぬぬぬ。

(※足利さぬについては
 「足利さぬ …のこと(その1)」(2017.6.17)と
 続きの関連記事をどうぞ。)





あーさて、いよいよ話逸れ過ぎですので
重要な話ですが、不本意ながら今回はこの辺にしておきます。

何が言いたかったのかと今さらながら言いますと
尊氏さんが秘めていた(…かも知れない)想いに敬意を払い
その祈りが届くよう、私からもささやかな助力がしたくて
「源氏池」「平家池」
二つの池に行って、二つの写真を撮って、等しく並べてみようと思った訳です
二つで一つの "互いの蓮" として
室町より愛を込めて―――




さてさて、話と旅を先に進めます。

「源氏池」の方には、池の中央に『旗上弁財天社』が鎮座ましましておりまして
ここにいつも群れを成している白鳩たちが好きで
最近は、鎌倉に来るたびに立ち寄っています。

大抵は木の上にいる事が多いか、池のほとりを思い思いに歩いていたりするのですが
この日はなぜか…


『旗上弁財天社』の白鳩たち


うずくまってプルプルしてた。

近付いて写真撮ってても、一向にテンション低いままで
なぜかいつもより毛並みが悪く
イライラしたり、真顔でつっつき合ったりしているものもいたりで
軽く見積もって世紀末なただならぬ空気に
慰めの言葉ひとつ、掛けることが出来ませんでした。

何やってるんだろう…と思いつつ
もんもんとしながら『旗上弁財天社』を立ち去ろうとしたその時―――
背後で一斉に飛び立った!!

振り返った鳥居の向こうには、高い木の枝に元気に止まる白鳩たちが…
え、マジなんだったの??

ここの白鳩たちは、朝10時まではプルプルしてる
とかいう習性があるのだろうか…?




さて、不思議な鳩たちにすっかり翻弄され尽くし終わった私は
いそいそと「本宮」へ。

日曜日ですが、まだ10時を回ったくらいなので混雑も無く
楽々スムーズ参拝です。

南無八幡大菩薩!!!


『鶴岡八幡宮』


いつ見ても安定の鶴岡、そびえ立つ八幡宮!!


この後、『白旗神社』歴代源氏を偲び
境内東の鳥居から外に出て
次の目的地、これまた初訪問の源頼朝の廟所『法華堂跡』へ向かいます。

てくてく…

…と話を続けたいところですが
長くなってしまったので次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)」
に続けることにします。


それでは最後に
元鶴岡八幡宮『由比若宮』初参拝記念!!…という事で
源八幡太郎義家の、時を越えて「ただいま八幡様」の図です。


『由比若宮』源義家


平安だろうと、平成だろうと、いつの時代でもお構いなしに
義家がいればそこに、その瞬間から、果てない未来が拓けて始まる
…そんなイメージです、源氏の英雄八幡太郎義家は。



posted by 本サイト管理人 at 08:57| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月17日

『新千載和歌集』の隠し扉(その3)

おはようございます
「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」の続きです。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)




それでは早速、前回の内容を踏まえつつ
『新千載和歌集』「雑歌 中」より
直義和歌と、それに続く4首をどうぞ。



貞和百首歌めされし時  左兵衛督直義
うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

述懐歌の中に  左近中将義詮
とにかくに 世の人ごとの なげかれて 心のうちの やすきまぞなき

百首歌たてまつりし時、おなじ心を
世の中の 人のうれへの あるにこそ おろかなる身の 程はしらるれ

建武二年人人題をさぐりて千首歌つかうまつりける次によませ給うける
後醍醐院御製
身にかへて 思ふとだにも しらせばや 民の心の をさめがたさを

百首歌めされし次に  御製
猶ざりに 思ふゆゑかと 立ちかへり をさまらぬ世を 心にぞとふ



(※「左近中将義詮」は、2代目将軍足利義詮(よしあきら)(※尊氏の嫡男)
 「御製」は、北朝の当今である後光厳天皇(の詠歌)を指します。)
(※御製(ぎょせい)は元々、天皇(上皇など)の作った詩歌・文章を指す普通名詞。)



(訳)
直義
この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
何を生きていく慰めにしたらいいのか…
義詮(一首目)
世の人々の嘆かわしい諸々がとにかく思い悩まれて、心が休まる暇がない。
義詮(二首目)
世の中の人々の憂いや苦しみを思うにつけ、我が身の愚かさを思い知る。
後醍醐天皇
この命に代えてもいい、と思っている事だけでも知らせたいものだが
民の心というのは、治め難いものであることよ…
後光厳天皇
ふと立ち止まって、我が心に問い直す。
いつまでも世が治まらないのは
自分が心のどこかで、疎かに思ってしまっているせいだろうか…と。




…という訳で。
『新千載和歌集』の撰集時期と
『観応の擾乱』の、禁忌にも近い暗黒な真相を考えた時
この配列は―――
極めて深い意図を込めた、本命級の隠し扉と言えそうですが…


(※後光厳天皇は、光厳上皇の皇子で
 『観応の擾乱』勃発以前まで当今であった崇光天皇の、同母弟
 本来、天皇に即位するはずの無かった弥仁王(=後光厳天皇)ですが
 『観応の擾乱』の非常事態の中で廃位されてしまった崇光天皇のあとに
 幕府によって極めて異例な形で擁立され践祚した、北朝の天皇です。)

(↑かなり端折った説明ですみません。)

(※『観応の擾乱』における、直義の突然の失脚
 そして唐突な義詮の登場と
 人々の思惑を超えて、長引きながら悪化の一途をたどる擾乱
 その一連を背後で結ぶ、ある明確な理由
 おっとこんな時間にピンポン来たよ誰だろう級のタブー… )

(↑もっと言いたい事あるので、下の方でもう少し暴露します↓)




さて、まずこの「配列」から一番に読み取れるのは
 直義 → 義詮(2首)
 後醍醐天皇 → 後光厳天皇

この二組の和歌の並びの「対比」である事は、異論がないと思います。


これは単純に
和歌の内容の類似性と社会的地位で「相似」をなしている、という
「和歌の表面から読み取れる基本情報」から容易に想定されるものですが
(特に義詮の和歌は2首とも、直義のにめっちゃ似てる… )
ではなぜ、このような目を引く「対比」を演出したのか?
…そこに、この配列の真の意図がある訳ですが
それは―――
上で示唆した事情、いわば
 「歴史の経緯の中における、各人の立場
これを表明するためだった、…のだろうと考えられます。

…何のために?
これはまあ、尊氏のやる事ですから
一言で言えば「太平を祈るために」という事でしょう。
この配列はつまり―――
「過去に許しを請う」ためのものなのです。


(前者は、過去、その地位にあった人
 後者は、現在、その地位にある人
 そしてその歴史的変遷が、どちらも尋常ではない…。
 その歴史をどう捉えているか、過去に対する現在の立ち位置、責任…
 それらをこの配列が "強く" 示唆しているのではないかと。)




歌に☆*。.:*・゚☆(−人−。)☆゚・*。.:*☆祈る



ま、とりあえずは先に
「和歌のぱっと見情報」を整理しておきますと…

直義義詮の和歌の方は
「世の中の人々の憂い」が共通の主題となっています。
そして、幕政を担う将軍(or 実質将軍)という立場にある者として
「人々の苦しみ(の軽減)に、最も重きを置いていた」という
為政者としての心構えを、読む者に印象付ける和歌となっています。

直義和歌の方は、一見、憂いているのは直義本人ですが
 『風雅和歌集』の「しづかなる…」の和歌も考慮すれば
 直義の憂いの元は「人々の憂いが絶えない世」である
 (だから、その人々の為に政治をしよう、って言ってる)という事で
 やはりテーマは「人々の憂い」であると読めるかと思います。)



後醍醐天皇後光厳天皇の和歌(御製)の方は
「治め難い世へのもどかしさ」が共通の主題となっています。
そして天皇として「この世を我が身そのものほどに思っている」
(だからこそ、治まらぬ世に深く苦悩する)という
天子本来の姿を、感情豊かに表現した和歌となっています。

古来、この国では
天子は徳によって天下を治めるもの、つまり、徳ある天子こそが民を安んずることが出来き
逆に天下が乱れるのは、自身の修養が足りない為だという認識があり
(端的に言えば)天子「存在そのものが天下の安危に直結する」
という感覚が、社会的に共有されていた訳でして
そういった背景を考慮すると
この2首の御製は、より実感のこもった歌に感じられると思います。


さらに言うと、この2首の次には
「雑歌 中」の部立の最後の歌として…

題しらず  伏見院御製
世をすくふ 心のうちの なほざりに 民のうれへを なすぞかなしき

という、伏見院(※後光厳天皇の曽祖父)の御製が配されていて
天皇「世に対する在り方・思い」
重ねて印象付ける仕様となっています。




…以上
それぞれの和歌の共通点を整理してみましたが
「過去と現在で同じ立場(将軍 or 天皇)から同じ主題を詠った」この二組の和歌を
続けて配置する」ことで
そこに何かしらの強い主張を感じずにはいられない、特徴的な配列となっている訳です。

(※直義和歌〜伏見院御製までの一連の6首の和歌は
 「雑歌 中」の部立の最後尾に位置していて、猶さら目立って見えます。)


特に注目なのは、義詮に関して
同様の和歌2首も配するという「強調」が見られますが
これはつまり―――
この配列に込められた意図において「最も重要なのは義詮」
という意味であり
ここに配列の真意が凝集されていると言っても過言ではない… かと。



擾乱の☆*。.:*・゚☆(−人−。)☆゚・*。.:*☆帰結



…さて
ここまでは、和歌自体とその配列の表面的な基本情報、つまり
単なる事実ですので「ふーん、そうだね」で済む話ですが
この先は…
『観応の擾乱』の真相が絡む考察となる、というか
この配列の意図が、『観応の擾乱』の真相を補強するものとなる訳で
(↑『新千載和歌集』の撰集時期から考えて)
色々と問題がある話になって来る訳であります、はい。


そもそも、この二組の和歌はそれぞれ
「過去(の人)→ (の人)の順に並んでいる訳ですが
「過去に倣(なら)う」あるいは「過去を踏襲する」かのように
「過去」同じ心を詠った「今」を追随させる配列がもう
非常に気になって仕方ない訳です。

だって、この擾乱の経緯を考えれば
直義を崇敬するかの如く、類似した義詮の和歌が後に続いてるって…
え?? え??
って感じですよね。
(※『観応の擾乱』において義詮
 なぜか直義を一方的に敵視し、ものすごく嫌っていた… )


つまり…
尊氏&二条為定による今回の隠し扉は、たぶんきっととても重い―――





という訳で、長くなってしまったのと
この先は、推測交じりの実験的な考察になるだろうと予想されるので
また記事を分ける事にしまして
次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その4)」に続きます。

情報としては今回で終わりでもいいかと思うのですが
 まあ折角なので、もう少し感想文を続けてみたいと思います。)





あ、上で「もう少し暴露する」とか言っといて忘れてました。
まあつまり『観応の擾乱』というのは―――

 義詮なんですよ!! 義詮!!

と言っても、全責任義詮にあるとまでは言わないし
そういう意味でもありませんが
「主眼を義詮に置いて、経緯を追うべき事件」である事は確かです。
では、続きは次回!



posted by 本サイト管理人 at 08:07| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月16日

『新千載和歌集』の隠し扉(その2)

おはようございます
「『新千載和歌集』の隠し扉(その1)」の続きです。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)



以前、このブログでも紹介した
直義の清さを象徴してやまない有名な和歌の一つ


うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

(この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
 何を生きていく慰めにしたらいいのか… )


これは『新千載和歌集』に撰出された歌なのですが
今日はこの和歌の意味を
周辺和歌との「配列」から考えてみたいと思います。



まずはじめに、(勅撰集の)和歌の配列について
簡単に復習(と予習)をしておきますと
和歌の配列には意味があり
 主題や含意、キーワードに関連性共通項を持つように並べられている」

(※配列の具体的な方法については、各種様々な手法があるようです)
という、基本の一つはだいたい分かって頂けたかと思いますが
これはつまり、和歌を文学的に見た場合の規則性です。

一方で、和歌というのは個人の作品ですから
「どういう思いを込めて誰が詠んだ歌か」という
私的な側面も重要になってくる歌もある訳で
そのような歌の場合
テーマ・単語の共通項のみならず
具体的「思い」や、「詠者」の関係に主眼を置いて配列する
という事もある訳です。

例えば、勅撰和歌集というものの性質を考えた場合
当今(or 治天の君)の詠歌や、その御代を言祝(ことほ)ぐ歌などで
意識的な配置・配列が見られる
…のは、分かり易い例だと思います。
(※当今(とうぎん)…当代の天皇。今上天皇。)


配列に込められたこのような意図については
先日から紹介しております…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
(『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちの論文で
『新千載和歌集』における後醍醐天皇尊氏の和歌の気になる並びについて
重要な考察がなされています。
どれも非常に興味深い内容です。
なので全部紹介したいところですが、流石にそれは無理 (´・ω・`) …と諦めようかとも思ったのですが、やっぱりとても参考になる考察なので頑張って一例だけ引用で紹介したいと思います。



(※以下、上記論文の p.43-44より引用。)

 たとえば次の神祇部の九八二・九八三番の配列。

元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を  後醍醐院御製
立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ(九八二)

                        等持院贈左大臣
諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり(九八三)

 九八二番の後醍醐天皇の歌は、新葉集にも採られたもので(巻第九・神祇歌 五九四)、
後醍醐天皇の神祇歌としては代表的な一首ということになろうか。
朝廷に仕える百官に向かって春日の神徳に心するように呼びかけている歌である。
それに続く九八三番歌は、後醍醐天皇のそれと同じ元弘三年立后月次屏風の際の尊氏詠で、
正しい政治がおこなわれている今日、
臣下一同、春日社に参拝して神を祀ると詠むものである。
ここでは、春日祭をテーマとしつつ、
天皇が臣下に呼びかけ、
臣下を代表する尊氏がそれに応えつつ天皇のすぐれた治世を言祝ぐ

という構図が形作られていると見ることができよう。

(※引用ここまで。 改行と強調は、私による適当です。)




…という訳で
大変鋭い指摘&解説で、和歌の配列の奥深さを感じてもらえたかと思います。
つまりここにも―――
執奏者尊氏と撰者二条為定による『新千載和歌集』の隠し扉が!!
しかも今回、超真面目なやつ。
尊氏二条為定は、やればむちゃむちゃ出来る子。



この様に「和歌は、詠者に関して意図的に並べられる場合もある」
という予備知識を踏まえて
今日の本題に進みたいと思います。




本題!☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆本題!




さて、この「うきながら…」の直義和歌は
為政者としての直義の天下への無私の献身
人間としての直義の利他・他愛といった
直義が生まれながらに持つ本質を鏡のように映し出した珠玉の和歌であります。

人々の苦しみを思うだけでも、この世を憂いてやまない直義ですが
政道においてもまた
道ある世を目指し夢見る直義にとって
道の守られない現状に向き合う日々は、嘆きの多いものだったでしょう。
(※↑この辺の心境については
 『Muromachi通り』「画像修正しました」(2014.10.21)冒頭の
 上杉憲顕に宛てた直義の自筆書状の意訳をどうぞ。)

それでも、この天下にある人々の為だと思う事が
苦しみの中にある直義の唯一の支えになっていた、そういう歌です。

直義にとって、政道を担うという事は「人の憂いを除く為」であって
自己の欲心や権勢、自尊心の充足の為ではなく
本当に直義って、自分よりも人、人の幸せこそが自分の幸せという
天から降って来たような生まれながらの聖人
ナチュラルにして菩薩、仏界からいらしたとしか思えない救世の弥勒候補
そろそろ人なのかどうかすら怪しくなってくる 謎の生命体直義―――


(また直義の話で今日が終わってしまうところでした。)


それからこの和歌は、前回の直義和歌と同様
『風雅和歌集』撰集の際に詠進された「貞和百首歌」の中の一首です。
貞和2年(1346)という、天下の実質将軍直義(←幕政的な意味で)が率いる初期幕府の最盛期
「天下執権人」(『園太暦』康永3年9月23日)としての直義のありのままの心
治天の君である光厳上皇に伝えた美しい歌であります。


ちなみに『風雅和歌集』といえば
「雑歌 下」に収められた為政者直義の和歌…

述懐の歌の中に  左兵衛督直義
しづかなる よはの寝覚に 世中の 人のうれへを おもふくるしさ

(静かな夜にふと目が覚めると
 世の人々の憂いや悲しみが胸に押寄せて… 苦しい )


『風雅和歌集』の撰者光厳上皇の心を射止めたのはこちらの歌でしたが
ほぼ同じ心を詠んだ今回の直義和歌も
それを御覧になった時の光厳上皇の感激やいかに… (´;ω;`) 滝滝滝
いやむしろ、安定の以心伝心ツーカーで (ゝω・) v ブィ☆
…とか、「貞和百首歌」は妄想が無限に捗って困る。

(※光厳上皇直義の関係についてのとあるエピソードは…
 『Muromachi通り』「直義の年齢(その2)」(2015.11.3)
 こちらの前半〜中ほどをどうぞ。)



さて
そんな、単独でも十二分に貴重な情報を提供してくれる今回の直義和歌ですが
実はこの和歌は
その「配列」が、非常ぉぉーーーに気になるものとなっているのです。
つまり、ある意味こっからが本番!!
…の可能性が無きにしも非ず。というか間違いなくたぶんそう。(←尊氏的な意味で)



という訳で、問題の配列を紹介…するその前に
『新千載和歌集』どういう時期に誕生したものかという事を
今一度確認しておきますと…

『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年の、延文元年(1356)6月
尊氏の奏請より撰集が決定、開始され
そして最終的な全巻の完成は
延文3年(1358)4月30日の尊氏の薨去を経た、延文4年(1359)12月


つまり…
『新千載和歌集』は謂わば
『観応の擾乱』尊氏の人生の、締めくくりとなった歌集」
と言う事も出来ると思います。
そう考えると益々、この勅撰集に託された想いが重みを増して来る訳ですが…。

(※『新千載和歌集』には「後醍醐天皇の鎮魂」という意図が込められている
 …などの、当勅撰集の特質・基本性格については
 先日の記事「直義のスクープ和歌は謎(その5)」を御覧下さい。)




それでは、以上の背景を意識しつつ
今度こそ本題の「配列」を…

…と思ったのですが
長くなってしまったので一旦切って
次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その3)」に続きます。



本題...*・゚(´・ω・:;.:... .本題:;.:....



結局今日も、8割直義で終わってしまいました。
あとの2割は、尊氏の気配が始まった感

次回、開かずの隠し扉の向こうから テッテレッテレー こんにちは…!!
…とふざけたいところですが
今回は真面目な話なので、真剣に行きたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 08:06| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月12日

Ashikaga チョコレート Shogunate

こんにちは。
ただ今、次回記事「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」以降を作成中なのですが
遅々として進まず
なかなか記事をUPする事が出来ません。
そろそろ自分でもイラッとが臨界気味に達してきました。
はぁ… (´・ω・`)

ああ、思っている事を言葉にするのって、ほんっと時間かかる。めんどくさい。
ちゃんとした文章にするのって、ほんっとむんどくさい。

まあ、どうでもいい感じのどうでもいい話なら別にどうでもいいのですが
わりと真面目な内容の場合は
私の性格的に完璧を目指してしまうので…
ほんっと、文章にするのむんどくさい。

なんかこう、頭の中を自動的に言語化する技術欲しい。
もしくは、私の頭の中を直接視聴してもらえる技術欲しい。
…いや、それはそれでかなり大問題だな。やば過ぎるな。

でも、話したい事たまり過ぎてしょうもないので
出来ればこう、日がな一日、室町ネタを勝手気ままにしゃべり尽くして
脳内領域を解放したい。ジャンクなファイル整理したい (´・ω・`)



ところで、「むっ茶むろまチーノ」って何ですか?
なんか、めっちゃ室町な感じですよね。
一見、抹茶フラペチーノっぽいようでもあり、似て非なるもののようでもあり…
まあ、前回記事で自分で適当なこと言ってみただけですけど
でもなんか、有りそうな気がしませんか?
え、しないですか、そうですか…。


でも、頼んでみれば意外と出て来るかも知れませんよ?
誰か、私とスタバで「むっ茶むろまチーノ」注文する勇気ある方いませんか?
まあ、私は恥ずかしいので後ろの方で隠れていますけど
無事注文出来たら、尊氏さんに献上しましょう。

結構、京都の「京都三条大橋店」あたりに出没してそうですよね、室町キャラたち。
三条殿のお膝元、三条通のあそこならきっと、むっ茶むろまチーノも…(ありません☆)

まあ私は、京都は残念ながら遠すぎるので
鎌倉の「鎌倉御成町店」あたりに直冬とか基氏とかが出没するのを期待して
鎌倉日帰り旅の時は、いつものコースに組み込んでみたいと思います。



てゆうか、思ったんですけど
"鎌倉" って(←現在の都市としての鎌倉って意味)
鎌倉時代とか鎌倉幕府を only な感じで推していますけど
まあ、当然ちゃ当然ですが
(寺院も遺構もほとんど鎌倉時代のものだし。
 その中で、いつもめちゃ混み竹の庭『報国寺』は相当に健闘している!)

でも…ですよ
鎌倉府を置いていた室町幕府
"鎌倉" にとっては、一応 かなり存在意義大きい と思うのですよね。
もっと "鎌倉" にとっての「室町」というものを
初代の尊氏さんの構想から、明確に掘り起こしてみた方がいいと思うのですよ。


というのも、私が思うに
尊氏さんは京都鎌倉「二大政党制」を目指していた形跡があるんですよね
天下を崩壊の危機に導いた『観応の擾乱』の収束と、その再発防止のために。
(つまり、尊氏さんはあの擾乱の原因をむっちゃ的確に見抜いてた。)
制度として完成を見た訳ではありませんが、構想としては…
これはどうなんでしょうか、世界初になったりするんじゃないでしょうか?
(世界政治史とかこれっぽっちも詳しくないので分かりませんが。)

わりとマジで、世界遺産ネタな気が…
やはり今こそ「鎌倉 in むろまチーノ」というものを再評価すべき―――

まあ、本拠地の京都にすらスルーされてる気味なので仕方ないか。
はい、解散ー…


って、諦めてどうするんですか!!
東西の室町幕府に属するっぽい方たち
西はスタバ「京都三条大橋店」、東は「鎌倉御成町店」に集って
至急、『室町復権再生会議 in サマー』を開いてください!!
私は鎌倉の方に参加しますので
それまでに、むっ茶むろまチーノを室町応援特別裏メニューとして用意…(しません☆)



まあ、むっ茶むろまチーノではありませんが
なんかすごそうな新作フラペチーノが一昨日発売されましたので
昨日、早速飲んで(食べて?)みました。

「スモアフラペチーノ クリスピーマシュマロ」とかいう
超チョコレート系のフラペチーノなのですが
あまりに尊氏さんが喜びそうな感じだったので
思わずその場で、タブレットPCでせこせこ記念お絵描きを始めてみてしまいました。
(流石に描き終わるまではいけませんでしたが。)


わたし的タブレットお絵描き!
まあ、液タブには遠く及びませんが、落書きは十分に楽しめました〜
…という絵↓


足利チョコレート将軍兄弟


超チョコフラペ (゚д゚)ウマー
なんかチョコとかビスケットとか色々サクサクしてて (゚д゚)ウマー
そのうちクリスピーなマシュマロがちょっとトロッとして来てまた (゚д゚)ウマー


尊氏さんのタレ目は、どうしても溶けたデロデロチョコレートを連想してしまうのですが
まあ、直義が目の前にいたら、チョコ目尻も溶けちゃうよね、しょうがないよね。


というか、スタバでお絵描きとか
なんて迷惑…(いやむしろ恥ずかしい)とか思われそうですが、大丈夫です
お盆休み初日の朝で、空いていましたから。

え、スタバが空いているほどの早い朝って一体…
朝いちからチョコでデロデロ。 何やってんだろう私。



posted by 本サイト管理人 at 13:29| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月04日

『新千載和歌集』の隠し扉(その1)

おはようございます
全6回にもわたり直義のスクープ和歌の話を語り倒したところですが
妄想が熱暴走して未だ冷めやらないので
今日は、その後日談的な〜何か、みたいな感じで
『新千載和歌集』の中の気になる歌を、いくつか見ていきたいと思います。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)


(それから、和歌の配列についての知識として…
 【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

 …を是非読んで頂きたいところですが
 入手の手間暇を考えるとそう簡単ではないと思うので
 ネットで公開されている論文として…
 【谷崎たまき『『古今和歌集』の構造と配列:恋の部を中心に』
 (『国文目白』51号 2012年2月)】

 …が参考になるかと思います。
 論文名で検索するとすぐ見つかります。
 (論文のネット公開は本当に有り難い!)
 和歌素人の私としては
 「和歌の並びって、意味があったんだ〜」
 という基本中の基本な知識に、純粋にわくわくしました。)




それでは参りたいと思います。
まずは「秋歌 上」より、直義の和歌


貞和二年百首歌めされし時  左兵衛督直義
露ながら ちくさ吹きしく 秋風に みだれてまさる 花の色かな

(露をまとったままの千草が、秋風に吹かれ乱れて
 花の色が一層艶(あで)やかさを増している… )



これは、ネットで検索すると丁寧な解説も出てきて
わりと知られた歌の一つだと思います。

「秋」の部に収められている歌なので
秋の野の情景を印象的に詠い上げた、野趣あふれる 季節の歌 です。

……。

ちょっと… 妄想を掻き立てられる様な気のせいがほんの少しだけ勘違いしてしまう気がしないでもない歌ですが。
(ちょっと? いやかなり… )


で、でも周囲の和歌を見ると
「秋風に みだれにけりな…」とか「…しをれぞまさる 花の色色」とか
「…秋の野の 花の下ひも とけもしぬらん」とか
わりと妖艶な表現が目に付くので
た、直義の和歌も、その中で見ると別に特に浮いているとかじゃないし
秋の野というのは、一般的にこう、艶っぽい印象を与えるものなんですよきっと。
(キャピった夏☆が過ぎて、しっとりした大人の落ち着きが出る季節〜というか
 すまない子供は帰ってくれないか的な熟した季節〜というか… )

だから直義だって、別に普通に秋の情景を詠っただけです!
なんか別のそういう二重の意味を持った歌だとか
そんなの考え過ぎです!!
直義が、そんなみんながドキッとしちゃうような大人な歌をしれっと詠んで人々の妄想心に火をつけた挙句に大炎上させて収拾不能な事態を招くような真似をする訳がありません!! ><


うん、そうだ。 そうに違いない。 落ち着け自分。




あーさて(少々取り乱してしまったので)
気を取り直して、この直義和歌の次の歌でも…


題しらず  前中納言匡房
たとふべき かたこそなけれ わぎもこが ねくたれがみの あさがほの花



「わぎもこ(吾妹子)」=「わぎも(吾妹)」
男性が妻・恋人などの女性を親しんで呼ぶ語。
「ねくたれがみ(寝腐れ髪)」は、寝て乱れた髪、寝乱れ髪のこと。
「あさがほ」は、「朝顔」と「朝の寝顔、寝起きの顔」の掛詞。
(※↑この朝顔は、秋の七草の一つで桔梗のことらしい。)

つまり―――

例える言葉が見つからないな〜 寝乱れた髪をした我が愛しい妻の朝の顔は…
じゃなかった、今の無し!今の無し!
朝顔の花は本当に綺麗だなぁ〜(棒読み)」


…という歌。



……。(←フリーズ中)

ぐわあぁっぁぁぁぁぁーーーーーっっっ!!! (←のけぞった)

なんちゅう歌を直義の歌のに持ってくるんですか!!
これじゃまるで直義の歌が…
…え、あれ?
てゆうかつまりこれはそのあの…

直義の歌も(もろ)そういう意味って言いたいのかぁぁっぁーーー?!?!!!

おい誰だ! こんな細工したやつは!!
わざわざ平安後期の大江匡房の歌まで持ってきて
狙い過ぎだろ!


(完全に遊ばれている… )


直義を何だと思っているんでしょうか?
それとも、直義ファンアクロバットなサービスしてるつもりなのでしょうか?
どんな気の利かせ方だよ。
これは、撰者の二条為定のセンス…な訳ないですよね
どう考えても尊氏の仕業入ってますよね?

またしてもやつの気配か…


 (´・з・) 〜♪


ちなみに、大江匡房(おおえのまさふさ)は当時の一大知識人&歌人
だから歌の文学的価値は間違いなし!の勅撰集の常連歌人!!
でも、だからって何もここに陳列しなくったって…(むしろ珍列)
しかも、この直義和歌の直前に配置された和歌の冒頭は
直義和歌と同じ「露ながら」で始まっていて
これは…
前後の和歌の関連性に、意地でも注目させようとの配慮に違いない!(疑惑)
どんだけ仕込みに抜かり無いんだよ。(深読)




では折角なので
この直義和歌を前後の歌と共に、少々書き出してみたいと思います。



建武二年内裏にて人人題をさぐりて千首歌つかうまつりける時、秋植物
弾正尹邦省親王
露ながら をるべきものを 宮城野の もとあらの萩に 秋風ぞ吹く

貞和二年百首歌めされし時  左兵衛督直義
露ながら ちくさ吹きしく 秋風に みだれてまさる 花の色かな

題しらず  前中納言匡房
たとふべき かたこそなけれ わぎもこが ねくたれがみの あさがほの花

広義門院
露ふかき 霧のまがきの 朝ぼらけ しをれぞまさる 花の色色




邦省親王は、後二条天皇(※後醍醐天皇の異母兄)の第二皇子です。
広義門院(西園寺寧子)は、光厳帝と光明帝の母上です。
「宮城野」は、萩の名所。
「もとあら(本荒)」は、草木の根元の方の葉がまばらなこと。
「朝ぼらけ」は、明け方、空がほんのり明るくなって来た頃。
「まがき」は、竹・柴などを粗く編んで作った垣根。

ちなみに、この4首の前には「萩」を詠んだ歌が並んでいます。



…こうして見ると
「露」とか「秋風」とか「朝」とか「花」とかの共通項で
一見、上手く繋がっているように見えはしますがしかし―――
騙されてはいけない!
なんか3首目の大江匡房の歌は、妙ぉ〜に浮いている気がする!!(独断)

(でも、この4首の周辺は総じて
 秋の「野辺」の広がりを感じさせる歌になっているのに
 この匡房の歌だけ、秋を表している部分「朝顔(桔梗)」だけですよ?)


この辺りは全体的に
秋の風情をしんみりと、しかし胸に迫るように印象的に詠んだ歌が並び
ひと際あざやかに「季節」という情緒を感じさせるこのエリアにおいて
直義&大江匡房の和歌のところだけ局地的に…


「秋歌」ってカテゴリ感、吹っ飛んでるんですけど!
ここだけ別の宇宙を形成してるんですけど!
何歌エリア?なんですかここは!!



この、あからさまな狙って仕込みました感
ばれてないつもりなのか、それとも、突っ込み待ちなのか。
いい加減、後世の私達がリアクションに困るような事するのやめて下さい ><

広義門院さまの歌も、若干、援護射撃しているような気もしますが
 そう見えるのは、私の目が曇っているからに違いありません。)




6世紀半の時を越えて☆。☆*☆。 c(・∀・っ)ミ *☆。☆*☆突っ込みま珍将軍
まだかな〜 まだかな〜




まあ、とりあえず
尊氏が狙って仕込んだのは分かった。
ただ問題は
もともと直義はこの歌を "そういうつもり" で詠んだのか?
それとも、たまたまそういう感じになってしまったのか?

重要なのはそこですよ!
つまり、どっちなのか!!
以下、わたし的二択↓


【1】やはり直義は基本的にうぶで清いので、素でこういう歌を詠んでしまっただけ。
単に文学的な美しさを追求したらこうなったってだけで
周囲が勝手に赤面していても、一向に何が問題なのか気付かない。
そんな「真面目過ぎて一周回って面白くなってしまう」いつもの直義の平常運転です。
深読みしちゃった人は、滝に打たれて心を清めて来て下さい!!

【2】いやむしろ、実は直義はこういう大人のジョークを平然と嗜むダンディズムなキャラで
逆に、意外と純情そうな尊氏を「(/ω\*)キャァァーーッッ ///」とか恥ずかしがらせて面白がっていた
とかいうまさかの意外性
え、でも、あの聖人直義がこんな濃厚な感じの魅力を纏っていたら
男女問わず(一方的に)落ちてしまう人続出で大変な事になっていたんじゃ…
でも直義は「他犯戒」を持していた鉄壁の禁欲星人なので
決して愛人なんていません!! ><




まあ、ネタ的には
【2】の方が、新たな境地が開けて美味しく頂ける様な気もしますが
ただ、この直義&大江匡房の珍列和歌
直義が【1】のようなキャラだからこそ面白いものになるのであって
直義が当たり前にそういうキャラ(=【2】)だったなら
尊氏も、こんな細工を「ピコーン!」とか思い付かないと思うのですよね。


普段、めったな事ではやる気を出さない(←少なくとも表向きは)あの策士将軍尊氏
本気でネタを仕込みに来ている様子からすると
やはり、実態は【1】に近いのではないか…
と思うのですがしかし
「本当に偶然こんな歌を詠んでしまった」というのは
確率的に考えると非現実的過ぎて
マジカルの域に達していると言わざるを得ない―――
相当、ネタの神様に愛されでもしない限り有り得ないですよね?
そうするとやはり【2】なのか…
いやでも、直義の事だからそんな事(=ネタ明神様の強烈庇護)もさもありなん…。


ただ、もし【1】に近いとしても
直義は実際は、そんなにうぶとか奥手ではなかったと思います。
自分の好きなもの、愛するものに対しては、人目を憚らず情熱を燃やすタイプなので
いつでも自分の感情は公言していた事でしょうw
(そして周囲は赤面する (/ω\*)キャアァァァーーー/// )

あ、でも、尊氏に対してだけは
どうやら本音を言えずにいたようです。
(↑政策や天下の事なら、言いたい事主張しまくっていたでしょうが
 そういう公的な信念や信条に関する事ではなく
 私的な感情(好意)については、回りくどい伝え方しか出来なかったようです。
 うぶ…。)



それから、妙な傾向なのですが
現在に伝わる直義の「恋歌」は(←勅撰集や私撰集に残るもの)
なぜか、「秘めた片思い」とか「つらさと涙をひたすら隠す恋」とか
一方的に耐え忍ぶ恋を詠ったものが多いのですよね…
(多い…というかむしろ、そればっか。)

妄想恋歌だとは思うのですが(たぶん…。それにしても凄まじいMっ気である)
でも妙にリアリティがあるので
もしかしたら、何かしら内に秘めて我慢していた想いがあって
それを恋歌として表現していたんじゃないかな…
とか激しく疑ってみたりしているのですが―――




(すみません、妄想が変な方向に溢れて氾濫を起こしてきました。
 灌漑がなってません。)





ええと、話を元に戻しますが…
この直義和歌は、詞書に「貞和二年百首歌めされし時」とあるように
「百首歌」(=応製百首(応制百首))として詠進された中の一首です。

(※百首歌(ひゃくしゅうた)とは…
 勅撰集の撰集が決定した後、撰歌の参考資料(候補)として
 選ばれた歌人たちが提出する百首の和歌のこと。)


しかも「貞和二年百首歌」つまり『風雅和歌集』のために詠進した百首歌なので
まさに、光厳上皇花園法皇の叡覧に供した訳です。
(※『風雅和歌集』は光厳上皇の親撰、花園法皇の監修。
 親撰とは、天皇(上皇)が自ら撰歌を行う事。)

だから、文学的に大真面目に詠んだ歌である事は100%間違いなし!!
だったりしますから
そう考えると、直義の実態はやっぱり【1】…
しかし、だとしたら「素でネタ化してしまう」という才能において
直義の戦闘力は想像を遥かに超えているという新事実が明らかになり
これは、今後の南北朝研究を根底から覆しかねない大論争を巻き起こ…(せやな。)


あるいは、第三の選択肢として
「そういう意味の歌を純心で詠んだ」という
【1】と【2】の折衷案みたいな可能性も考えられるかもですね。
つまり―――
【3】美しいものに対してうっとりと陶酔し過ぎてしまう傾向がある直義は
恥ずかしい歌も恥ずかしいものだと思わずに素で詠み倒しては
一人、自給自足的な耽美空間にトリップしてしばらく帰って来なくなる癖があったので
居合わせた人々は、突っ込んだらいいのかそっとしといたらいいのか分からず
ただオロオロたじろぐ者、紅潮した顔を両手で覆い指の間から様子をうかがう者
諦めて帰り支度を始める者、ポップコーンとコーラを買いに行く者らが入り乱れ
場は一瞬にして阿鼻叫喚の様相を―――




というか、この直義和歌は光厳上皇のお目に留まったと思います?
百首もあって、しかもそれが30人分くらいある訳ですから
詠進された「百首歌」のすべてを細部まで…とはいかなかったでしょうが
でももし、偶然にもお目に留まっていたとしたら―――

直義の清さをよく知り、心を通じ合う光厳上皇だからきっと
(/ω\*)キャアァァァーーー/// とかなってしまわれて…

(ちなみに、貞和2年(1346)当時は光厳上皇数え34歳、直義数え40歳。)





ああ、なんか考え過ぎて何が何だか自分でも分からなくなって来ました。
つまり… 直義って何なん?
なんでたった一首の和歌で、こんなにネタが無限膨張するの?
宇宙なの?


という訳で、私には答えを出す事が出来ません!
後は各自、妄想をフル展開して直義の実態解明に勤しんで下さい!!

私は疲れたので、スタバでコーヒーでも飲んで来ます! 以上!!




ベンティダブル引両エクストラブラザーズアド尊氏☆。☆*☆。 c(・∀・っ)ミ *☆。☆*☆エクストラ室町withエクストラホワイト直義バニラヘーゼルナッツキャラメルエクストラむろまちっぷオールむるくムクストラホイップむっ茶むろまチーノ





はい、そんな訳で本日は
直義和歌の背後に見え隠れする尊氏さんの隠謀について探ってみました。
(というか隠れてない、むしろ丸出し)


先日の直義和歌といい、今回の直義和歌といい
尊氏が『新千載和歌集』の撰集を望んだのは
もしかしたら
直義の思い出永遠として残すためだったのではないか… とか
思ってしまうのは
二人の絆に特別を信じる私の、妄想が見させる夢なのかも知れませんが
でも、尊氏を動かした動機の一つではあったんじゃないかな、と
思っています。





あーさて
直義和歌の事を語り出したらまた止まらなくなって
結局、今日はこれだけで終わってしまいました。
…というか
直義和歌に執拗に絡む尊氏が面白すぎて
全力で全方位から突っ込まずにはいられませんでした。

という訳で次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 07:40| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月30日

直義のスクープ和歌は謎(その6)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その5)」の続きです。
ようやく終章です。


『新千載和歌集』の成立背景と撰出和歌、その配列には
尊氏の意図が見え隠れする (´・з・) 〜♪

…という事実が明らかになった今
どう考えても、あの謎多き直義和歌の撰出&配列も間違いなく

   尊 氏 の 仕 業

巧妙なようでいてどこかずっこけるあのわざとらしさは
ワロス戦略将軍尊氏の、典型的な「尊氏節」(たかうじぶし)だったのですよ!!


そう、既に謎はすべて解けたのです。



あの歌は尊氏にとって
どうしても忘れる事が出来ない、大切な思い出だった。


誰があんな直義のプライベート和歌知ってたんだよ!
という謎には
「あの歌は、直義尊氏個人的に送った歌だった」
という答えを。

当初、詞書を添えずに掲載する予定だったのではないか
という推測には
尊氏的に、詳細を明かすには躊躇(ためら)われる事情があったから」
という理由を。

詞書に登場する女性は、直義の愛人でなければ誰なのか
という疑惑には
「彼女は、尊氏に関係する女性だった」
という推定を。

なぜ尊氏にとってこの歌が、そんなに大切だったのか
という問いには
落ち込んだ尊氏を慰めるための、直義からの優しさの歌だったから」
という愛を。



そうつまり―――
私はこう妄想してやまないのです


ある女性を京都に残してしまったのは尊氏だったのだと
そして、彼女が出家した事にショックを受けたのも尊氏だったのだと
その話を伝え聞いた直義
尊氏を慰めるために歌を送ったのだと
尊氏はこの時の直義の優しさが、ずっと忘れられないでいたのだと
それは、『観応の擾乱』という悲劇を越えた後でさえ
変わることのない「輝き」だった―――


 あの瞬間を、永遠の中に残したい


だがしかし!!
自分しか知らないはずのこんな私的和歌を勅撰集に撰出したら
尊氏の仕業だってばれてまう〜
というか、こんなプライベートを自ら天下大公開とか
俺もそこまでドMじゃねーし…
いや、周囲の目が気になったのではない!
直義がそれを許してくれるかどうか、尊氏には自信が無かったのだ―――

ならば、詞書を添えずにしれっと掲載しようと
策士将軍尊氏和歌友の二条為定と示し合わせて大胆な策に打って出た。
よし、これならどっから見ても、ただの憂き憂き出家和歌!


 やばい、俺 て・ん・さ・い

 (ゝω・) v イェイッ ☆☆



…と、ここで終われば良かった(?)のだが
どういう訳か一転して、最終的に詞書が掲載される事になった。
それはなぜかと言う事ですが―――


たぶん、最後に直義が許してくれたんじゃないかな。


私は、詞書を添えると方針転換した時期は
尊氏が世を去る直前、おそらく、遺言に近い形で
二条為定に意向が託されたのだと考えています。
『新千載和歌集』の最終的な完成は、この翌年の12月です。)

ただ…
やっぱりプライベート大公開には二の足を踏んだのか
主語目的語がうやむやな煮え切らない詞書にしてしまったら
直義愛人説とか生まれちゃうなんて…
天下の天才策士将軍尊氏大誤算てへ☆




室町名物☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍才将軍!




それでは、謎和歌の全容(?)が解明したところで
直義和歌最終意訳を完成させたいと思います。



建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける    左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき


(訳(妄想))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、(尊氏が)都に残し置いていた女が出家してしまった
という知らせを聞いて、(尊氏に)歌を詠んで遣わせた

あの方が出家してしまって、兄上が落ち込んでいると聞きました
旅を終えて再会を喜べるはずだったのに、また涙に袖を濡らすことになるなんて…
お痛み、お察しいたします。

直義より




この和歌で直義が
出家した(=墨染の衣に着替えた)」ことを表すために
袖の色が変わった」という、恋心を連想させるような表現を使ったのは
この女性尊氏との関係が、背景にあった為ではないかと思います。

つまりこれは「 "尊氏にとっての" 恋の歌 」であり
詠者である直義にとっての恋の歌ではなかったから
「恋」の部ではなく、「雑」の部に収められた
ってのもあるんじゃないかな〜 とか思います。


(あるいは、もう一つの可能性として…
 もともと初めから詞書も添える予定だったのだが
 しかしその場合、不要な誤解を防ぐ必要があるので
 詞書に登場する「女」ってゆうのは
 別に直義と恋仲にある訳じゃないよ!つまりこれは恋歌じゃないんよ!
 …という事を強調するために
 「雑」の部出家遁世エリアピンポイント墨染で念押しした
 ってパターンも考えられるかも知れません。
 でも結局誤解されますた。(´・ω・`) )




それでは、残る最後の疑問
「この出家してしまった女性とは、尊氏の愛人なのか?」
についてですが…
私は違うと思っています。

というのも
尊氏は(少なくとも)足利家の当主となる事が確定した以降は
かなり身持ちが固かったと思うので。
ならば、このただならぬ関係の女性は一体…??
となる訳ですが
実は私は…
もしかしてもしかしたとしてもしかするならばこれは―――
尊氏の知られざる側室「さぬ」なんじゃないかと
一人疑っております。

「それ以外に思い当たる女性がいない」ってだけで
証明してくれるものは何もありませんが
それでも、もしそうだったとしたらさぬは…

建武政権期に尊氏京都に呼ばれて
『中先代の乱』という非常事態に際しては、そのまま京都の安全な場所に留まり
しかし『建武一年合戦』で尊氏たちが九州に落ちて行った時は
流石に悲観して出家を決意し
でも、幸運にも尊氏たちが生還したので
完全にはにまではならなかったのだが、隠居に近い生活を送る事になって
だから、不思議なほど当時の記録に気配を見せず
尊氏の護持僧・三宝院賢俊による日常的な修法も行われていなくて
でもその子供たちは、尊氏のもとで大切に育てられていて―――


…と、色々と都合が良いように妄想解釈出来てしまって
どうにも止まりません。


先日の記事「足利さぬ …のこと(その3)」(2017.6.23)の最後で
「私の秘蔵(?)のさぬネタ」と言ったのは、この事だったのですが
蓋を開けてみたら、妄想の上に盛った妄想
ミラクルチョコレートトリプルプリンいちごチェリーサンデー抹茶ケーキ乗せホイップ増量キャラメルシロップはちみつパフェ
みたいな事になっててすみません。



夏の☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍パフェ



という訳で、「直義の謎のスクープ和歌」について
長らく内に秘めていた思いを語り尽くしてみました。

大胆にも、半ば妄想の冒険解釈を披露してしまいましたが
どうしてここまで冒険する気になったかというと…
確信が持てないものさえも含めて
尊氏が残した想いの一つ一つを、残らず拾い集めたいと思っているからです。


 尊氏を本気で知りたいと思ったら、冒険するしかない


…とか、どんだけ厄介な歴史的人物なんでしょうか。
でもそれだけ、どうしようもなく魅力的なのです。


ただ、たった一首の和歌ですらこれだけ時間がかかってしまう私には
尊氏さんの全容解明なんて…
マジ無理、考えただけで刻(とき)が見えます ><

『新千載和歌集』どころか、人生そのものに隠し扉仕込みまくってますからね、この将軍。
壮大な大規模プロジェクトを組んで欲しいです。
きっと日本の未来に…いや人類の未来に、多大な恩恵があると思います。



posted by 本サイト管理人 at 08:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月28日

直義のスクープ和歌は謎(その5)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その4)」の続きです。

さて、前回の記事では思い切った大胆予想で冒険してしまった訳ですが
別に、夏だからって羽目を外している訳ではありません。 (ゝω・) v キャピッ

『新千載和歌集』という勅撰集は
そんな冒険解釈を許してくれるほどに
ちょっと特殊な成立背景想いを秘めた歌集なのです。


そもそも勅撰和歌集とは
天皇の綸旨、または上皇(法皇)の院宣によって撰集される公的な歌集
平安時代の『古今和歌集』から、室町中期の『新続古今和歌集』まで
21集が存在します。
(↑最後の勅撰集『新続古今和歌集』
 後花園天皇6代目足利義教の治世のもの。お勧め!超お勧め!!)


このうち、17集目の『風雅和歌集』
花園法皇監修、光厳上皇親撰で
誕生間もない幕府の全盛期&安定期と、時を同じくして撰集が進められた歌集で
(↑つまりこれもお勧め!超お勧め!!)
貞和4年(1348)頃にほぼ完成し
尊氏直義の和歌も複数入選しています。


そして『新千載和歌集』は次の18集目にあたり
後光厳天皇の下命、撰者は御子左(二条)為定
『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年
延文元年(1356)6月に撰集が決定し
延文4年(1359)12月に全巻の完成となった、南北朝期の勅撰集の一つですが
なんと言っても『新千載和歌集』は…

 武家の奏請による勅撰集撰集の先例を開いた歌集」

として有名です。

つまりこの勅撰集は
尊氏が申し出て、朝廷がそれを承諾する」という形で撰集が始まり
以後、『新続古今和歌集』までの勅撰集で
足利将軍による奏請という形が継承されました。


そうなのです―――
尊氏さん、かなり斬新な事したのです。
和歌が大大大好きだったから…というのはもちろんあるでしょうが
尊氏が元来、意外なほど保守的で、朝家を殊のほか重んじていた事を考えると
これは尊氏にしては、極めて特異で大胆な発案&行動だったと言わざるを得ません。

(ちなみに、撰者を御子左(二条)為定(※以下、二条為定と表記)
 としたのも、尊氏の意向です。)



なぜ尊氏は、先例を乗り越えてまで勅撰集の撰集を望んだのか?
「そこには、何かしらの強い意図が存在したはずだ」
という視点で
『新千載和歌集』を詳細に分析し
撰出和歌の特徴配列
後醍醐天皇尊氏、撰者の二条為定の、それぞれ&三者の関係
崇徳院御霊鎮魂のために編まれたと考えられている『千載和歌集』との比較

…などから、その謎を解き明かした論文が

【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】


です。

「尊氏の意図」というものに注目した考察は素晴らしいの一言に尽きます。
というのも、尊氏の行動
一見、考え無しとか行き当たりばったりとか成り行きof成り行きに見えて
実はそのすべてに明確で強い意図が存在するので。



という訳で、詳しく紹介…したいところですが
ここでは、ごくごく簡単に結論だけ要約させて頂きますと…

「要所要所に後醍醐天皇を言祝(ことほ)ぐ歌を置き、
 全体としてあたかも後醍醐天皇のための勅撰集であるかのような
 相貌を見せている」『新千載和歌集』
後醍醐天皇の鎮魂を、撰集の大きな目的の一つとして構想された勅撰集であり
それは、執奏者である尊氏の意図によるものだと考えられる。

(※「」内、上記論文より引用。読み仮名と強調は私。)

という事です。
なるほど納得、全面同意です。


足利将軍の執奏によって勅撰集撰集がなされる先例を開いたことが、
 この新千載集のもっとも重要な文学史的意義と目されながら、
 尊氏がそうした挙に出た理由が問われることは、従来ほとんどなかった。」

尊氏自身の和歌好み」が理由の一つであることに間違いはないが
その点だけに「この問題を集約させてしまう」には
勅撰集撰集の奏請という行為は、前例のないことであるだけに」
あまりにも重大なことのように思われるのである。」


という鋭い着眼点より『新千載和歌集』を分析した当論文は

新千載集は、武家執奏によるはじめての勅撰集である。
 足利尊氏が、前例のない勅撰集撰集の奏請などという行動に出たのは、
 直接的には、後醍醐天皇の御霊を畏怖し、
 それを慰める必要を感じたからであったと考える。」


という結論で締めくくられています。
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)

従来、なにかとスルーされがちな尊氏の意図について(政治史でも、文化史でも)
その存在を掘り起こしてくれた、有り難い論文であります。 (−人−。)ナムナム

(※以上、結論に至る考察部分がまるで紹介出来なくてすみません。
 特に、和歌の配列に関する考察は
 実証的で示唆に富んでいて素晴らしいです。)




しかしそうすると…ですよ
モルダーな私としては、やはりこう考えずにはいられない訳ですよ

尊氏の事だから、他にも胸に秘めた想いを反映させているのではないか…?

と!!

そもそも、勅撰集というものが
「本来「治まれる御代の証」としての性格を有している」という基本に立ち返れば
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)
『新千載和歌集』だって普通に考えれば
太平の御代(※この当時は、後光厳天皇の治世)を象徴する為のものであった訳で
戦乱の終息を宣言し
人々の心に安心を与えたい、との願いも込められていたと思います。
尊氏ほど、神仏に捧げる法楽和歌を好んだ武将もいない…ことを思い起こせば
『新千載和歌集』の撰集そのものを "天への祈り" だと考えたのではないか?
とすら思います。

おそらく、託した想いは一つではなく
そのうちの一大目的が「後醍醐天皇の鎮魂」だった、とも言えそうですが
しかしこれは本来
暗黙の了解というか、公然の秘密というか
表立って公言した訳ではないマル秘プロジェクトに近い性質のものです。
(だから、上記論文のような分析で初めて見えてくる。)

ならば―――
他にも "尊氏の策" で忍ばせた隠し扉があるはず!! (; ・`д・´) ゴクリ…
なんたって
撰者に二条為定を推したのは、外ならぬ尊氏ですよ。


二条為定は、尊氏の和歌の師であり
康永4年(1345)冬に
尊氏に三代集(古今集・後撰集・拾遺集)を伝授したりしていますが
他にも尊氏は晩年、二条為定邸を自宅にしていたり…
という二人の関係を考えると
かなり個人的な意向も、内々にやり取り可能だったろうと思うのです。

(※鷹司東洞院(土御門高倉)の尊氏邸
 観応2年(1351)2月22日
 『観応の擾乱』の中でボコボコ&焼失してしまい
 その後(色々あって)一旦鎌倉に下ったのち再度上洛した尊氏は
 文和2年(1353)10月20日に、為定の二条万里小路第に移り
 延文3年(1358)4月30日に他界するまで、ここに住み続けます。
 ちなみに、為定自身は別の場所に住んでいたようです。)


もちろん、あくまでも勅撰和歌集ですから
「和歌」という文化伝統のために撰集される事が大前提でしょうが
しかしそれでも、そこに携わった人々の想いというものは
少なからぬ彩りを添えていると思うのです。

それは、歌の並びの中に今も咲き続ける
永遠(とわ)に色あせぬ花として…



という訳で
尊氏の奏請に始まった『新千載和歌集』誕生に秘められた想いと
執奏者尊氏、撰者二条為定の関係を考えた時
直義和歌の真相究明は、いよいよ佳境に突入するのであった―――



次回「直義のスクープ和歌は謎(その6)」
モルダー全開で参ります。
夏だし☆



posted by 本サイト管理人 at 08:45| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月25日

直義のスクープ和歌は謎(その4)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その3)」の続きです。


この歌は『新千載和歌集』に撰出されたものですが
勅撰集の和歌の配列には、ある程度のルールや意味があって
同一キーワード(単語や地名)を含む歌とか、同一の主題を詠んだ歌などは
連続して並べられるようになっています。
(つまり、前後周囲の和歌は、共通点関連性を持っている。(程度は様々ですが))

例えば、「秋」の部の前半の方には
「七夕」を詠んだ歌が連続で並べられている、といった具合です。
(※旧暦の7月は「初秋」に当たるので。)
「七夕」とか「天の川」とかいった単語が並ぶ中に
一首だけ「鹿」を詠んだ歌がぽつんと入っていたら、おかしい訳です。


この直義の和歌が収められているのは「雑」の部なので
守備範囲は広い訳ですが
それでもよく見ると、そこそこのカテゴライズの形跡が見出せます。


という訳で、直義和歌の前後をざっと観察してみますと
どうもこの辺は
憂き世への嘆きとか、そんな俗世にある我が身への悲嘆とか
だからと言って、世を捨ててみたところで一層しみる憂き世憂き身救われなさ、とか

遁世してもなお、逃げ場も慰めもない俗世の中で
独り脳内に山寺の鐘だけが遠く響く――― ような雰囲気の漂うエリアです。
ゴーーーン… (´;ω;`)

つまり―――

そんな憂き憂き出家遁世エリアのど真ん中に
空気を読まずに颯爽と現れる「愛人への恋歌」!!

って、なんでだよ!!


不自然です、実に不自然なのです。


実は、前回の解説で私が
「袖の色が変わった」を「出家した(=墨染の衣に着替えた)」と解釈すべき
もう一つの理由があるといったのは
直義和歌が、このエリアに位置していたからなのですが
(しかも、直前・直後の和歌には「墨染の」という単語がダイレクトに含まれる
 …という間違い無さ)

なのですが、なのですが…

しかしですよ
確かに、詞書が示す通りこの和歌は「出家」を詠った歌ではありますが
しかしそれでも、本質的には恋の歌です。
男女の心情が絡む歌がこのエリアに忽然と現れる、というは
どうにも不自然極まりない…と感じないではいられずにはいられない訳なのであります。




ではここで参考に
直義和歌の前後の歌を(適当なとこから適当なとこまで)
『新千載和歌集』より書き出してみたいと思います。



題しらず  藤原宗秀
花にそめ 紅葉に染めて まことなき 心の色の あだし世の中

信快法師
後の世も かくや歎かむ 身のうさに 猶のがれえぬ 心なりせば

徽安門院一条
いく程と 思ひながらも なげくこそ うき世をしらぬ こころなりけれ

宣光門院五条
今さらに うきをうしとて 驚くも 世のことわりを しらぬなりけり

安嘉門院四条
数ならぬ 身にも涙の こぼるるや いはきの山の しづくなるらん


あけくれ木のもとにのみすぐし侍りければ
身をかへたる心ちし侍りて思ひつづけ侍りける  大僧正行尊
木のもとは つひのすみかと 聞きしかど いきてはよもと 思ひしものを


世をのがれて後那智にまうでて侍りけるに、
そのかみ千日の山ごもりし侍りけることを思ひて
滝のもとにかきつけ侍りける  法眼慶融
三とせへし 滝のしら糸いかなれば 思ふすぢなく 袖ぬらすらん


山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の袖


…【ここに直義の和歌】…
建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける  左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな

是法法師
のがれても おなじうき世と 聞くものを いかなる山に 身をかくさまし




(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)




この後もまだまだ
憂き世、身を捨てる、身を隠す…と言った単語が続きます。


つまり…
なんというオーパーツ!!
と言いたいとこですが
ここはおそらく、逆に考えるべきなのだと思います。


勅撰集の配列パターンからすると
ここに位置する歌を「直義が愛人に対して詠んだ歌」だとするのは
やはりおかしいのではないか?…と。


詞書によれば、"ある女性" が出家した事は確かで
その事を、直義が歌に詠んだのも紛れもない事実ですが
しかし、この女性が "直義の愛人" だとは言い切れないのではないか…?
というかはっきり言って、前後の和歌のテンションからすると
これが愛人に送るために詠まれた歌だとは、どうしても思えないのです。

(※ネタ的に水を差すような事言ってすみません (´・ω・`)
 でも、『大日本史料』公認直義愛人ネタ
 ネタとしては永遠に不滅だと、私個人では思っております、はい。)



そう考えた場合、一つの可能性が浮上して来る訳で
これが「(直義にとっての)恋の歌」ではないのなら
歌を詠んで遣わせた相手はもしかして、この女性ではない "別の誰か" なのでは?―――


いや、それは穿ちすぎだろ(妄想の上に妄想盛ってるよ)と思われるかも知れませんが
私がここまで冒険的な解釈をするのには理由があります。



という訳で、ここで再び
直義和歌を含む前後4首に注目いたしますと…



山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の

(※詞書省略) 左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな



(適当な訳)
1首目
(出家して身を隠した超さみしい山里で)
これでこそ遁世というもの!と叫ぶ。(自暴自棄ぎみに)
3&4首目
出家したって、この世のに住んでいる事に変わりはないんだよね… (´;ω;`) と泣く。
(※「すみぞめ」は、「墨染」と「(世に)住む」の掛詞。)




直義和歌以外の3首には、すべて「墨染の(袖 or 衣)」というワードが含まれます。
直義和歌も「袖」が意味するのは「墨染の袖」だと言えますが
しかし、「墨染の」という同一単語が並ぶ中に
あえて(直接的には)それを含まない和歌をねじ込む…というのは
なんか…すごく… 違和感だと思うのですが。

これくらいのイレギュラー配列、別に普通かとも思ってはみたものの…。
「一首隔てて同一テーマ(単語)の歌を並べる」という複雑な配列法はあるようですが
それともちょっと違うような…
ってかそれどころか
3首目4首目の歌が、やたら似過ぎているのが気になってしょうがない。
よみ人しらずの歌まで探してきて、なんか…これでもかと "何かを" 駄目押ししている…??

そもそも歌の内容的にも
他の3首が、出家した自身の侘しさに直撃されているような歌なのに
直義のだけ、浮き過ぎてますよね?

直義和歌が、この4首の "間"(2番目)ではなく
最初(1番目)か最後(4番目)に来るのなら
(キーワード的になら)まだ分かるというものですが
なぜに… 割り込ませるのかと!!
なんかどう見ても「わざとらしい」んですよ! 色々と!!


そうつまり―――
私はこう大胆予想しているのです

何らかの理由があって、わざとこんな事をしたのではないかと!!

(ってゆうか誰が?)


……。


「モルダー、あなた疲れてるのよ」とかいう声が聞こえて来そうですが
大丈夫です。 私が疑っているのは、宇宙人みたいな人ですが宇宙人ではありません。



ところで、上掲の4首をもう一度見て頂きたいのですが
このエリアにはオーパーツってくらいの浮きっぷりを示す直義和歌
詞書が無いと、わりとしっくり馴染んでいると思いませんか?
若干の違和感に目をつぶれば、普通に憂き憂きムードいっぱいですよね。

「旅をしていた間に、親しかった誰かが出家してしまったのだろうな…」
という寂しさが胸いっぱいに広る
しょんぼりカタルシスがたまらない一首だと思います。

(あるいは、後に続く2首に共通性を見出すなら
 「出家しても俗世、から帰って来ても俗世
  どこに逃げても、憂き世は結局変わらない… (´;ω;`)ブワッ 」

 みたいな意味にもとれるでしょうか?)


うん、そうなんですよ
詞書さえ無ければ、さして気にも掛からず通過できるのですよ。

詞書があると
「は、はあ?? 女がどうしたって!!?」
ってなりますけど。


ただ一方で、詞書が無いとこの和歌は
ちょっと真意が解し難い…というか
「袖の色」といわれると、どうしても恋歌っぽく聞こえてしまうと思います。
そこで…
それを防止し、「袖の色」ってのは「墨染の袖」の事だよ!!
という事をアピールするために、こんなポジショニングを図ったのではないか…?
ここなら詞書が無くても
出家を詠んだ歌だって、誰の目にも明らかですからね。
逆に、詞書を添えるなら、何もここにねじ込む事はないと思うのです。


そうつまり―――
私は、更なるセカンド大胆予想をしているのです

この直義和歌は当初、詞書を添えずに掲載される予定だったのではないかと!!

!!?



「モルダー… (´・ω・`) 」とか呼ばれ出しそうですが
しかし、モルダーの 妄想 発想が無ければ、X-ファイルの謎は永遠に謎のままなのですよ!
冒険妄想を恐れたら、未知(と尊氏)未来永劫意味不明なのです!

私は普段は、考察には慎重に慎重を期していますが(小心者なので。プルプル)
しかし今回は… 冒険いたします。
夏だし☆ (ゝω・) v キャピッ



という訳で、この仮説のもとに強引に捜査を進めますと…

当初この和歌は、和歌単体で掲載される予定だった
それはなぜかと言えば
詞書の込み入った事情から察するに
隠しておきたい、あるいは、公にするには憚られる事情があったから
しかしこの和歌は、単独ではやや意味不明… ってゆうか
おそらく、単なる妄想恋歌と思われて終わる \(^o^)/
真相は伏せておきたいけど、事実の半分は記憶として正しく留めておきたい
(詞書無しに)和歌の真意をある程度伝えるためには―――
巧妙な配列によって、周囲の和歌から意味を察するように誘導する
コード【墨染】でがっつり前後を挟み
「これ出家の歌なんですよ、出家の歌!」と畳みかけるべく
後ろから2首の極似和歌で援護射撃し追い打ちをかける
完璧だ。
芸術の域に達した美しき完全犯罪
この真紅の薔薇を、我が愛しき直義への手向けとしよう―――
ふはははははっっっ!!!


(ただし、最終的に詞書が掲載されたため、この犯行は未遂と化し
 無駄な不自然さとまさかの直義愛人説が誕生しますた。)




つまり、謎はすべて解けたっっっ!!
(…せやろか?)

まあ、こう考えると
「そこまでしてこの直義和歌を撰出したのはなぜか?」
という新たな疑問が生じる訳で
そもそも「勅撰集にそんな細工施せる直義関係者がいるのかよ!」ってなる訳ですが
これに関しては… いますよね。


その人にとってこの和歌は
大切な思い出の和歌だったのではないかな。

どうしても
勅撰和歌集という最高の場所に、永遠に掲げておきたいと願うほどに
輝いた一瞬を記憶する歌だったのでしょう。




それでは次回「直義のスクープ和歌は謎(その5)」では
『新千載和歌集』という勅撰集の特質を考えてみたいと思います。

参考文献を先に紹介しておきますと…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちらの論文をどうぞ!


【深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』(笠間書院)2005】
 という書籍にも収録されているようですが
 すみません、未確認です。)



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