2018年01月25日

☆☆Happy Birthday 尚順!!

全国の未確認畠山尚順ファンのみなさんこんにちは。
先日、179さんから
「『Muromachi通り』通信【二周年…のおまけ】」(2016.4.8)
に頂いたコメントの返信の補足をブログ記事にしようと思っていたのに
全然筆が進まなくてすみません、ああああああ

折角私の中で畠山尚順熱が再燃したのに
このところ、精神力がカラカラに干からびて久しいので
思うように文章が進まないまままたよぼよぼしてた。( "・ω・゛)ヨボーン

ああでも、もうすぐ尚順の(太陽の位置的)誕生日だしぃー
と思って立ち上がってみたみた。

ちなみに、畠山政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)
文明7年(1475)12月20日生まれ。
グレゴリオ暦では1476年1月25日。(←天文学的な意味で)

一次史料の記録は『長興宿禰記』文明7年12月20日
『大日本史料』では第8編の8のp.643、文明7年雑載
「畠山左衛門督、初男子誕生」とあって
このとき父の政長は数え34歳、わりと年齢いってからの誕生なので
待望の男の子だった事でしょう。


という訳で、日付的な誕生日である新暦12月20日はとっくに過ぎてしまいましたが
太陽の位置的(季節的)な意味での尚順の誕生日は
今日、1月25日となります!! 542年目の誕生日!
ついでに旧暦では、今年は2月5日となるので
月の形的には、来月2月5日も尚順誕生日を楽しめます。やったね!

というか、当日ギリギリに誕生日報告されても…とか思わないでもありませんが
まあ明応〜永正に活躍した尚順の誕生日などほぼ全地球人がノーマークだろうしまあいいか。
でもちょっと心が潤ったのでツイッターで「尚順」検索したら
永正近辺に食い付く 179さんk-holyさん の怒涛のツイートが目に飛び込んできて
あああ私も語り出したい!!ってちょっと気持ちが頑張って来たです。
高国…どうでもいいんだけど細川高国については語らねばならぬ、どうでもいいんだけど。

私もツイッター始めようかな… でもつぶやく日常が無いんだよね。
スタバは良く行くんだけど、スタバなうとか言ってればいいの? え、ちょっと古い?
(というか、ツイッターって勝手にリンクしていいの??
 ダメだったら「おいよせ(´・ω・`)」って言って下さい。)


まあそんな訳で、とりあえず今日は尚順の誕生日祝いだけですみません。
…だけってこともないか
尚順、誕生日おめでとう!!!
オブジェと化していたペンタブを引っ張り出して
めっちゃ久々にお祝いイラスト描いたよ!!
一度こういう事してみたかったんだよね!!


畠山尚順誕生日


( ゚Д゚) ハッ!!
尚順はこんなスカした顔しない!!
こんなスカした顔で壁ドンしたりしない!!!

戦の時だけ畠山義就畠山政長を足して通常の3倍にして限界までオーバークロックして液体窒素でも冷却追っつかないレベルで爆熱したままとんでもない戦い方するけれど
ひとたび大勝利すれば勝利の美酒には目もくれんと、そそくさと大好きな紀伊に帰って厨子(ずし)に引き篭もっちゃう 秘仏な 尚順の本当の姿は、こもってよぼってお茶大好きなおじいちゃん地蔵的な何か。


畠山尚順


ひどい線画。てゆうかこれ下書き。


というか、私前々から密かに思っているんですけど
尚順の「甚だ美麗」と言われたその卓越した美貌って
『明応の政変』の原因の一端になってしまったんじゃないかって…
(あくまで "一端" ですが。)

だって尚順って
もともと細川政〇元とは関係が良かったでしょ(というか可愛がられてた?)
で、後から上洛して来て将軍になった義材に可愛がられてたでしょ。
そしてなぜか大名たちの中で細川〇政元 "だけ" は
新米将軍義材に意味不明に非協力的だったでしょ。(近江の遠征とか)
つまり―――
ああ、まあいか細川政元〇のことは。話がやばくなる。
ってゆうか伏字になってないや。
(ちなみに、義材細川政元は同年生まれで、尚順の9歳年上。
 『明応の政変』以前のこの時期は、尚順は10代半ば〜後半。)


話を戻すと
だから本人は自分の容姿がわりとコンプレックス…というかトラウマだった可能性。

常日頃、目立たないようかっこ悪いように努力するんだけど
やっぱり目立っちゃってかっこ良くって、結局いつもしょっぱい思いする
負けっぱなしの可哀想な超絶イケメン源氏御曹司(※ただし戦うと最強)
…とかいう複雑なキャラ付け、私の中で。


ああ、そんな妄想披露している場合じゃないや。
もう一度この辺の史料ちゃんと読みたい、私も高国談義に参加出来るようスペック上げなきゃ。
…いやまあ、高国はどうでもいいんだけどね、高国は。



posted by 本サイト管理人 at 23:50| Comment(0) | 明応日記(義材)

2018年01月31日

☆☆Happy Birthday 尚順!!(旧暦編)

全世界の未確認サイレント畠山尚順ファンのみなさんこんにちは。
尚順の太陽の位置的誕生日を祝った前回の「☆☆Happy Birthday 尚順!!」に引き続き
今回は、本来の旧暦誕生日で celebrate 尚順ですはいではどうぞ!!!
(※今年の尚順旧暦誕生日は2月5日。今度はギリギリじゃない私えらい)


…とその前に
そんな訳でとりあえず私今かなり永正モードなんですが
タイムリーにもk-holyさんが永正18年の義材出奔事件あたりのブログ記事をUPされていたのを先日気付いて早速読ませて頂きました!!
こちらです↓↓
「「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)
 澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末」
(2018.1.19)
ただ、現在はもうコメント受け付けていないのですね、感想文書いたんですがw (´・ω・`) でも楽しかったです!
(※↑コメント書き込めました、ありがとうございます!2018.2.2)


さてさて、再度しつこく尚順誕生日の宣伝を致しますと
畠山政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)
文明7年(1475)12月20日生まれ。
グレゴリオ暦では1476年1月25日。(←天文学的な意味で)

日付的な誕生日である新暦12月20日
太陽の位置的(季節的)な意味での尚順の誕生日、新暦1月25日が過ぎ
最後のお楽しみ旧暦誕生日は、今年は来(きた)る新暦2月5日となります。
旧暦的という事はつまり
空には尚順が生まれた時と同じ月が浮かんでいるという事になります。
(↑地球に対する月の方角じゃなくて、月の形という意味で。)
ああ、宇宙を感じる。

(つまり旧暦時代の歴史上の人物の記念日は三度楽しめる!!
 ただし相当酔狂なファンでもない限りめんどくさい。
 酔狂なファンにとってはドムでジェットストリームアタック出来るのでたまらない。)



今度はお月様か〜
1月25日の尚順の太陽も良かったなぁ… ってゆうか尚順の誕生日がどれだけ需要あるのか分かりませんけど、でもまあ宇宙は「うんうん、尚順誕生日だねうんうん」っておじいちゃんみたいに喜んでくれていると思うので良いって事にしよう、うんうん。

という訳で尚順、またお祝いイラスト描いたよ!!
もう一度こういう事してみたかったんだよね!!


畠山尚順誕生日


( ゚Д゚) ハッ!!
秘仏で地蔵な尚順がこんな空気読まずに「斬ざん」みたいな顔しない!
仮にも満17歳まで京都で最上級クラスの貴公子として育った尚順がこんな
たったいま奈落の修羅界から別の生き物になって帰って来ましたみたいな顔しな…!!?

いや、するな。するする、厨子(ずし)の扉があいた時点で血沸き肉躍ってる。
戦闘モードに入ると本性出過ぎるのが尚順クオリティー

 赤澤ぶっ潰す!!!!!

みたいな。

このモードに入ると半径50mに「KEEP OUT」のテープが張られて善良な市民は近づけなくなる。
(だから普段は極力大人しくしている尚順はマジ博愛主義者天使



でももちろん
単なる殲滅好きの頭イカれた鬼畜外道とかいうのとは全然違うんですよ、尚順は。
絶対忠誠を誓う主君義材を京都に帰還させるという念願があって
そして河内国や大和国を自分たちと国人たちの手で守り抜くという目的があって
しかも、その戦いの中でものすごく大事なもの沢山失っているんですよ。
弟三人 (´;ω;`)
弟たちを一度に失った明応9年(1500)9月の大戦闘以降の尚順は、数年動きが無いのですが
相当こたえたのだろうな、どん底ですよ。 尚順壊れちゃう…
でも立ち上がるんです!!
一度地獄に落ちて這い上がってきたやつの強さはマジ半端ない。

 俺のホーム、地獄に招待してやるよ

くらいのマジ。



『興福寺英俊法印記』(in『多門院日記』)の
永正4年(1507)秋冬の大和国を舞台にした大戦闘はむちゃむちゃ熱過ぎて沸騰しますよね!!
めっちゃ展開早くて一見理解不能ですけど
なんか尚順が裏切ったとか何とか言われているアレは違うそうじゃない!!
尚順はテラ高度な 頭脳戦 しているんですよ!!
戦闘力的にも戦略力的にも最強だったから
大和国人たちがみんな尚順のもとに集まって大同盟組んだっていう。


てゆうか赤澤なんかと本気で仲良くする訳ないじゃん!! ぶーぶー!!ヽ(`Д´#)ノ
(大和を守りながら戦う尚順&大和国人たちに対して
 ひたすら殲滅・焼き尽くししか脳が無い…失礼、一辺倒の
 外来種な細川内衆赤澤一味の戦い方はマジど鬼畜。)


あれは、永正4年(1507)12月4日に尚順との和議を破った畠山義英方(←嶽山城にこもる)と戦わせるために
敵の敵は味方理論で、12月10日に尚順から(2秒前まで敵だった)赤澤にフレンド申請して
「お友達なら嶽山に行ってくれるよね(はーと」って甘い声かけつつ内心は
「うるあぁぁーーーー!!!」って赤澤嶽山城に背負い投げでぶち込んだ尚順の完全な
どS頭脳プレイ

(この3か月前の9月4日時点で、尚順&畠山義英&大和国人たちによる大大同盟が組まれてて
 京都から襲来するど鬼畜野郎たちから大和国を守るべく
 心を一つにして戦う事が誓われていた。 (※畠山義英は畠山義就の孫)
 ちなみに、尚順畠山義英のどちらから同盟を破ったかを記す一次史料はないけど
 でも義材から御内書もらってた畠山義英を、尚順の方から裏切る訳はないから
 これは畠山義英からとみて間違いないと思う。
 だいたい、あの大和国大戦闘真っ只中で、嶽山にこもっちゃってるんだし。)


義英よ… なぜあの局面で尚順との和議を破った?
まあ、赤澤たちの殺戮焦土鬼畜外道ぶりに恐れをなして(あるいは家臣たちの進言で)保身に舵を切ってしまったのだろうけど(…と私は見ている)
でも、みんな戦い続けているんやで。
大和国人の筒井・箸尾・十市たち(他諸々)なんて、何度這い上がったと思ってるんやで?
あそこでいち抜けたなんてたしたら、尚順が許すわけないじゃん!

「てめー義英舐めた真似してんじゃねーよぜってー許さねぇマジお前からぶっ潰すキョロキョロ(←なんが投げるもん探してる)お、ちょうどいい砲弾が落っこちてた(←赤澤の首根っこ掴む)うるあぁぁっっくらえ腰抜け野郎!!(たま)付いてねぇやつは大和から出て行っていいんだぜ戦えるやつだけについて来いやぁぁぁっぁーーーーーー!!!」

…だったと思う、見なくても分かる。


ちなみに、『不問物語』(or『瓦林正頼記』)の言う所の
尚順細川高国が大和国を猫ババしたくて、それには畠山義英が邪魔だから、2人は申し合わせて細川澄元(←赤澤長経の主君)と偽りの和議を結んで畠山義英退治を唆した」
ってゆう赤澤長経の推量は、あれは的外れまくりな大ハズレ。
だって前々年に義材に忠節を誓って「尚順と一緒に頑張ってくれるのむっちゃ嬉しい!」って義材から言われていた畠山義英を、尚順がそんな理由で敵に回す訳ないし。
畠山義英との同盟が破れたから、尚順が戦略変えざるを得なかっただけだし。

(↑そのままだと
 畠山義英と、赤澤率いる細川軍の "両方" と戦う事になりかねなくて非常にまずい。
 あるいは、以前のように義英方畠山細川内衆赤澤が手を組んでしまったらそれこそ厄介。
 だから尚順は、畠山義英が和議を破った時点で間髪入れずに赤澤にフレンド申請した。
 …もちろん、赤澤長経へ嶽山城攻撃の直接的な指示を出すのは主君細川澄元だから
 尚順はまず細川澄元に講和を持ちかけたと思われ
 そうすると、両畠山の和が破れたのが12月4日
 尚順が赤澤に馬と太刀を遣わせて嶽山城攻撃よろ!ってしたのが12月10日だから
 12月4日以降尚順は京都の細川澄元のとこへ爆速で早馬を飛ばしてたことになる。
 敵に一寸の隙も与えない、ものすごい驚異的な速さの判断力(そして決断力)。
 マジ尚順頭キレ過ぎる最強!!
 てゆうかこの一瞬で、敵に敵をぶつけて片付けようとか思い付く尚順は
 マジ絶対敵に回したくない男 No.1 !!!

(※上記の訂正 ―――2018.2.17
 失礼しました。「尚順と義英の同盟にひびが入り始めて
 尚順が細川澄元に和睦&嶽山城攻撃を持ちかけた時期」は
 12月4日より "以前" である事に気付きました。(おそらく11月下旬頃かと。)
 つまり、12月4日時点では既に尚順と細川澄元の和睦が成り
 義英の籠る嶽山城攻撃が決定&スタンバイ完了していた、と。
 …とは言え、尚順が間髪入れずに戦略変更した事に変わりはなく
 その期間が「12月4日〜12月10日(1週間くらい)ではなく
 11月17日辺り〜12月4日より少し前(2週間くらい)だった」
 という事ですので、尚順のプレイが最速である事に変更はありませんのでよろしくです。
 もう少し詳しくはこちらの記事をどうぞ→「まだ用意できてない」)




だから「細川高国尚順と組んでなんか企んでる」って裏を読んだつもりの赤澤長経
その余計な邪推を散々主君細川澄元に讒言したことにより、疑心に取り付かれた細川澄元細川高国の関係を無駄に悪化させて、結果的に主君細川澄元の没落を招いた。

まあでも、尚順には利用されてたけどな。
ってか永正5年(1508)正月17日にいよいよ嶽山城を落す段階になって気付くとかおせぇーよwwww
しかも騙されていたのは細川澄元ってよりおめーだよ!!!

というかもし細川澄元細川高国を疑って排除に動き出さなければ
細川家がそこで割れる事もなく
義材上洛後に細川澄元赦免を受けられた可能性は低くない(ってか高い)と思う。
義材たちの方針はどこまでも「和議・泰平」であって
 敵の排除殲滅復讐じゃない。マジ最高の公方。)

…いやでも、細川澄元は最終的には義澄の意向に従うだろうな。
あと、細川内衆間での不満噴出でどっちにしろ内部崩壊的に割れる運命は避けられなかっただろうな。。ってのが実際のとこだけど。



ああこの辺の話楽しい、大和熱すぎる尚順頭良すぎる!!
需要無いのは痛いほど分かっているけれど、でもきっともうすぐ宇宙が尚順を御開帳してくれるって信じてるマジ Happy Birthday 尚順!!!


おまけ
使い道がよく分からない尚順お祝いイラスト縮小無し原寸1600×1200px 1.15MB

畠山尚順誕生日1

畠山尚順誕生日2



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(10) | 明応日記(義材)

2018年02月05日

月が綺麗ですね

全宇宙の明応世代ファンのみなさんこんにちは。
前回前々回とあれだけ畠山尚順の誕生日を推し推しに推しといて
今年の旧暦誕生日である今日を無言でスルーするのもなんなので
とりあえず挨拶してみました。
晴れた地域のみなさん、今夜は月が綺麗ですよ!
尚順が生まれた時の月(形的に)ですよ! 素敵ですね。


前回の話についてはまだまだ補足したい事があるのですが
まあひとまず今夜は

尚順、誕生日おめでとう!!!

…だけなのもなんなので
ちょっと後日談的な何かでも。



前回の永正4年(1507)秋冬の大和国大戦闘の翌年
永正5年(1508)6月8日
『明応の政変』から15年の時を経て遂に
流浪将軍 義材 が大歓声の中、京都への帰還を果たしました。
めでたしめでたし。

…で終わるのもなんなのでもう少し説明しますと
義材帰京に先立ち
これまで京都にいたクーデター政権陣営の将軍足利義澄
細川宗家(京兆家)家督の細川澄元たちは京都を捨てて没落していて
そして義材
これまで周防国の大内義興(よしおき)のところで長々とお世話になっていた訳ですが
この度満を持して、西国から大内義興の御供によるクルージングで上京したのでした。


というか、永正5年(1508)正月17日に河内国の嶽山城(←畠山義英がこもる)が
細川家内衆の赤澤たちの攻撃で落城した後
本来、大和国を軍事制圧しに来ていたはずの細川軍赤澤たち
大和国人たちへの攻撃をどうしたのかって思うかも知れませんが…
よく分からないんだな、これが。
大和国の様子を伝える『興福寺英俊法印記』がこの時期は永正4年12月までしかない
ってのもありますが
まあなんだ、なんかうやむやになってしまったらしい
あんなえらい大乱闘だったわりに。
尚順、どんなイリュージョン使ったん?



さて、義材帰還で平和が戻り、祝賀ムードに溢れる京都でしたが
なんとそこへ!!
空気も読まんと、あの赤澤一派大和国に再び乱入して来たのです!!
そしてボコられる大和国人筒井… ひどい (´;ω;`)
(『大日本史料』永正5年7月19日)


ここでハリウッドなら

大和を救う漢、畠山尚順が決着をつけるべく立ち上がり―――

とかいうヒーローものにするんでしょうが、実際は…
その通りなんだな、これが。
(『大日本史料』同上)


7月19日に河内国に出陣した尚順
交野の極楽寺にこもって赤澤一派(※与同勢力多数)の攻撃を受ける大和国人たちを救うべく駆け付けます。

尚順優しい!! (´;ω;`)

しかも、極楽寺は(防戦的に?)良くないとのことで
尚順は大和国人たちと共に若江城へと移動するのですが
若江城は河内守護畠山家の主要城の一つですから、セキュリティ万全マイホーム(豪邸)にご招待ってことで

つまり尚順優しい!! (´;ω;`)

しかし、懲りずに追い回してくる赤澤一派。しつこい。
(前回、尚順たちに遊ばれたのが相当頭に来ていたんだろうか…)
戦場はさらに、若江城から高屋城へと移り、大戦闘が続きました。
(『大日本史料』永正5年7月26日)
(若江城では、尚順方の後詰めでさすがに敵は手も足も出ず撤退。
 高屋城でも尚順は自身後詰めを指揮。圧勝。)


しかし、本気モードに入った尚順相手では
戦う前にカウントダウンが始まっていたようなもの。(え、前回はじゃあ遊び…)
7月28日、赤澤長経は大和国初瀬で生け捕られ、最期となったのでした。なむ。
(『大日本史料』永正5年7月28日)


ええと、どんな極悪非道の悪人でも、滅びた者には無常を感じたいところですが
しかしですよ
赤澤(※1年ほど前に赤澤朝経赤澤長経に代替わりしている)というのは
もう本当にどうしようもなく鬼畜外道な戦闘を繰り返していたようで
この敗北の報に対する公家たちの感想がもう…

「悪人悉く没落滅亡、不可思議の天道なり」(『実隆公記』)とか
近衛尚通なんて「春日御罪也」って2回も書いてるし。(『後法成寺尚通公記』)
大切な事なんですね、分かります。
まあ大和国荒らしまくってたからな。
(※大和国に鎮座まします春日社の神様は藤原氏の氏神。)

つまり、春日の神様に代わって天誅を下した尚順はもう京都公家界ってか大和国ってか
全国全宇宙のヒーローな訳ですよ!!
お前はどうしてそうかっこいいのかと。


これは大祝賀戦勝パーティーを開かねばなるまい!!


…という話の続きはまた次回。



では最後に
この度、明応世代のキャラを少しずつ描いていこうと思い立ちまして
まずは第一弾
周防国・長門国ほか西国を一手に治めるスーパー大名
大内義興(よしおき)です!!


大内義興



なんで尚順の話をしている時に義興なのかと。
まあ、大内さんは1番じゃないとわりと拗ねちゃうところがあるので。
でも、尚順のヒーロー話の回でビジュアルUPなんてしたらもっと怒っちゃうかも…

いや大丈夫大丈夫、表面では喧嘩コントしているけど
彼ら本当は仲良いから大丈夫、うん大丈夫。 うん… (´・ω・`)




posted by 本サイト管理人 at 23:55| Comment(0) | 明応日記(義材)

2018年02月21日

お知らせ2つと伊勢の事

こんにちは、今日はまずお知らせが2つあります。

まず1つ目
先日の「☆☆Happy Birthday 尚順!!(旧暦編)」
少々訂正がありましたのでお詫び申し上げます m(_ _)m


永正4年秋冬の大和戦の最中、それまで同盟関係にあった両畠山(=尚順義英の和が
12月4日に破れた時の尚順の行動を分析して↓こんな事言ってしまいましたが…

…もちろん、赤澤長経へ嶽山城攻撃の直接的な指示を出すのは主君細川澄元だから
尚順はまず細川澄元に講和を持ちかけたと思われ
そうすると、両畠山の和が破れたのが12月4日
尚順が赤澤に馬と太刀を遣わせて嶽山城攻撃よろ!ってしたのが12月10日だから
12月4日以降、尚順は京都の細川澄元のとこへ爆速で早馬を飛ばしてたことになる。

よくよく史料読み返したら、
「12月4日時点で既に、尚順細川澄元の間で和睦は締結済みだった」
って事に気付きました。てへ。


『興福寺英俊法印記』『多門院日記』)の12月4日条には
両畠山(=尚順と義英)の和が破れた」
という記述と共に
摂津衆一万ばかりが河内に入国。細川尚春細川高国は堺に。」
と記されていて
12月4日時点で、細川澄元方の援軍が現地へ派遣されていた、ってゆう。
(↑これらの細川軍は『不問物語』の記述より
 大和国殲滅隊ではなく、尚順への援軍である事が分かる。)

つまり、尚順が京都に早馬を飛ばしたのは
これ "以降" ではなく、これ "以前" の事ってことで、すまぬ (´;ω;`)

12月4日というのはあくまで
尚順と義英の和睦の "破綻開始時点" ではなく
もうすっかり事後、尚順は既に先手を打って戦略変更済みで
互いに敵方となって "戦闘開始が決定事項となった時点" です。

…とすると
尚順と義英の和は12月4日 "以前" に破綻し始めていたという事になる訳で
(↑おそらく、修復不可能なフェーズに入ったのが11月半ば辺りと予想)
この(たぶん)想定外の「両畠山の同盟破綻」という事態に際し
尚順は一転戦略変更して
京都の細川澄元「和睦&嶽山城攻撃」を持ちかける訳ですが
その時期は、11月17日直近かそれ以降になると推測されます。
(↑11月17日までは、細川被官赤澤による大和焦土化戦が続いていて
 少なくともこの時点までは、尚順と細川澄元は敵陣営だったので。)

そして、12月4日にはもうすっかり新同盟を結んでしまっていた、と。


(↑この11月17日〜12月4日
 いったい何がどうなってこんな不可能意味不明な逆転現象が起きたんだ??
 ってことが最大の謎な訳ですが。)



つまり、「同盟破綻 避けられない気配 → 新戦略発案&決断」
ほんの数日でこなした神速尚順の早馬プレイが健在である事に変わりはありませんので
やっぱり尚順 最強に出来る子!!!

…という事を上記ブログの本文中にも訂正を入れておきましたのでよろしくです。

(※ちなみに、畠山尚順は畠山政長の子で
 畠山義英は畠山義就の孫です。)


ところで、この永正4年秋冬の大和戦については、改めてもうちっと詰めた話をしたい
と思っているのですが
気が方々(ほうぼう)に散り易い性格なのでいつになるかは分からん。
でもおもろ過ぎるので早くまとめたい。




さて、2つ目の報告です。
私、先日遂に twitter を始めました。(→こちらです。)
そろそろチラ見しているだけでは追いつけなくなって来たので
尚順ネタを拾いに行くことに致しました。
私、ネットは基本ROM専のSNS超初心者なので
今のところ全然正しい活用法出来ていませんが、どうぞよろしくお願い致します m(_ _)m




さて、以上でお知らせは終わりですが
お知らせだけなのも何なので
明応世代キャラ第2弾!!
伊勢貞陸(さだみち)と伊勢貞遠(さだとお)兄弟の初お披露目です。


伊勢貞陸と伊勢貞遠


兄弟と言っても、義理なんですが。
貞陸の実父で、伊勢宗家(伊勢守家)当主の伊勢貞宗(さだむね)が
同族(分家の下総守家)の貞遠を猶子にしたので
この二人は兄弟とみなされていました。
(群書類従『長禄二年以来申次記』続群書類従『澤巽阿弥覚書』『伊勢系図(別本)』)

(※ちなみに、政所頭人伊勢貞宗
 私が勝手にきのこる先生と呼んでいる室町幕府の超能吏です。
 応仁世代の人物ですが、『明応の政変』〜永正の義材将軍復活時代までも
 活躍(てゆうかもろ暗躍)する、やばすぎるキーパーソンです。)


伊勢一族なんて、政所頭人を務めた宗家伊勢守家に限らず
みんながみんなってくらい
申次とか奉公衆とか御供衆とか、それぞれに幕府の役人として働いていた訳で
そうすると
貞宗はあえて貞遠を養子にする必要あったんか??…とか思う訳ですが
そこで考えてしまうのは
もしかして貞遠は、相当器量が良かったのではないか?と。

当時はやはり、御供や使いの者というのは容姿容儀が重視されていたようで
貞宗がわざわざ貞遠を養子にしたのは
自分のそばに置いて、重要な仕事をさせる為だったのではないかなぁ〜
とか思ってみてみる。
実際、貞遠は将軍付近での仕事が目に付く気がしますし
(↑まあこれは貞遠に限った事ではないが)
武家故実書『殿中申次記』を書いたりしてますし。
『伊勢系図』でも、貞遠は「義政公へ奉公」と書かれていますが
まあ8代目義政に限らず歴代将軍に仕えています。
もちろん、義澄にも義材にも。


というか、私は明応世代の義材陣営の標語
「必ず京都に戻る」という決意を表して「We'll be back !!」としていますが
この二人(貞陸貞遠兄弟)は帰って来るも何も
義材流浪の15年間、最初から最後まで京都にいたんですねどね。
そんで普通に新将軍義澄に仕えていたんですけどね。
にも拘らず
義材が京都に帰って来てからは、普通に義材に仕えているんですけどね。
ってなにそれ

あ・や・し・い !!

…と言わざるを得ない訳ですが
彼らはつまり(父の伊勢貞宗も含めて)
京都に居ながらにして「We'll be back !!」だったんですよ!!
…としか考えられないんですよね。



まあそれにしても、伊勢家自体誰それ状態なのに
伊勢貞陸どころか伊勢貞遠まで出して来られてもおめー誰だよ感ぱないですが
しかしですよ
実は貞遠には、"義理の兄" 貞陸だけではなく
"実の兄" が別にいて
この貞遠の実兄、伊勢貞仍(さだより)ってのがまた
将軍義材流浪時代の重要人物の一人でして…
『明応の政変』を語る上ではもう、絡まずにいられないポジショニングかまして来るんですよ。
(※伊勢貞仍は、初め貞頼貞仍に改名してのちに出家して宗吾。)


実は貞仍貞遠兄弟は、『明応の政変』勃発当初
義材の河内国正覚寺の陣に祗候していたために、京都の自宅を焼かれしまいます。
(↑おそらく…ってか間違いなく、クーデター政権側による見せしめ)
そして二人は、成す術無く5日後に上洛する事になる訳ですが…

(※これは『晴冨宿禰記』明応2年閏4月3日条と
 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月5日条より。
 この件ついては、なんかの文献・論文で知ったはずなんだけど
 それが何だったのか思い出せない…
 明応関連の知識、ホント頭からぶっ飛んでる
 一から入れ直しとかどうしようマジつらい (´;ω;`)www)



さて、この政変によって将軍義材は河内国で身柄を拘束され
京都に護送→幽閉ののち、都を脱走して越中国(※畠山尚順の分国の一つ)に逃れ
We'll be back !! を掲げた流浪生活がスタートする訳ですが
では一方、貞仍貞遠兄弟はどうしたかというと―――

弟の貞遠は、京都に残って義父貞宗&義兄貞陸と共に新将軍義澄に仕え
実兄の貞仍は、京都から越中国の義材のもとに駆け付けて15年の流浪生活を共にするのです。
って―――

あ・や・し・い !!

この貞仍の行動を、宗家の伊勢貞宗貞陸が知らない訳はないですからね。
それを示唆するヒントの一つとして
15年後に義材と共に京都帰還を果たした貞仍
京都残留組の貞宗貞陸貞遠と、普通に仲良くやっています。
つまり―――

あ・や・し・い !!


『明応の政変』〜義材帰還までの伊勢家の行動は
「両陣営をうまく渡り歩いた」とか
「義澄方から義材方に転向した」と評されている事が多いかも知れませんが
(…てゆうか、意味不明過ぎてほぼまるでスルーされているのが現状)
しかし彼らは最初から最後まで―――
「一貫していた」
と私は思います。

だから、義材流浪の15年間ずっと京都にいた伊勢貞陸貞遠義兄弟
「We'll be back !!」のメンバーってことになってます。




という訳で以上、明応世代キャラ第2弾
伊勢貞宗の嫡男 政所頭人伊勢貞陸と、二人の兄を持つ謎の美青年(?)伊勢貞遠でした。


ちなみに、私の中のイメージでは
伊勢貞陸は、一応頭脳派系策略家風を漂わせているけれど
肝心なところで今一歩父の貞宗に及ばないのでみんなにずっこけられるタイプ。
一見どSっぽいけど、仮面の下は突き抜けたどM
なんだろうこのイメージ。(我ながら)
でも
見た目は 絵に描いた女の様 を目指して、内には 鬼神をねじ挟んどけやゴラァァ
とかいう美学の一族ですよ?(それはあくまで伊勢貞藤の変態美学。)
だいたい、どMでもなければあんな公方様たちの世話を甲斐甲斐しく焼いていられないですよ!!
…あんなとは失礼な。
あんな愛しい公方様たちもいまい。
(尽くしちゃう伊勢の気持ち分かる (´;ω;`) すごく分かる (´;ω;`) )



まあいいか。
最後に、ついでですのでかなり昔に作った伊勢家系図です。


伊勢家系図


赤字応仁世代(※ただし貞親は、応仁でも活躍したけど年齢的にはひと世代上)
青字明応世代
応仁世代でありながら、明応世代期にも活躍した貞宗は二色刷り
それから、世代的には応仁と明応の間だけど
主に明応世代期に活躍した貞仍新九郎盛時紫字
点線(…)は猶子関係、二重線(=)は婚姻関係
1〜10の数字は、宗家伊勢守家の歴代当主
…となっています。

(※私の勝手な分類ですが
 「応仁世代」は1440年代生まれ、一部1430年代も含む
 「明応世代」は1470年代生まれ、一部1460年代も含む
 でもって
 伊勢貞仍と伊勢新九郎盛時は、その間の1450年代生まれ、と。
 ちなみに、伊勢貞仍の生年は史実ですが
 伊勢新九郎盛時の生年は、現在主流の学説に基づきます。
 以前は、もっとじいさんってされてましたよね。)

伊勢新九郎盛時は、いわゆる北条早雲のことです。
貞遠は、新九郎の事を九ちゃんって呼んでそうなイメージ。
どうでもいいか。


そんな事よりどうです
見事にみんな 通字が「貞」!!
(盛定と盛時だけ、また別の家系ですが。)
なんか↓こんなのがいっぱいいる感じでかわいい

( ´・ω・)( ´・ω・)(・ω・`) (・ω・` )

【審議中】
   ∧,, ∧  ∧ ,,∧     どうする?
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つ と ノ(ω・`)   どうする?
| U (  ´・) (・` ) と ノ
u-u(l  ) (   ノ u-u
    `u-u'. `u-u'


こんなに気になる一族もいまい。
一族総出で公方様のお世話しまくりですよ。
そのうえ美学突き抜けているし。 伊勢貞藤とか、伊勢貞藤とか。
もう最高。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 明応日記(義材)