2017年03月23日

ふと思い立って畠山義就の話

こんばんは、今日は今年の旧暦2月26日に当たる直義の正統派命日!
そんな日になんですが、今日は『応仁』カテゴリのお話です。
実は、某スレに投稿しようと思って下書きをした話なのですが
いざ書き込もうと思ったら… なぜか全然書き込めない!!
なので諦めて自分のブログに記念投稿しておくことにしました。


では、まず初めにちょっと一言…
>>100の方、>>109の方
ありがとうございます!めちゃめちゃ嬉しいです!!
超亀ですみません、久しぶりに立ち寄ったもので。
折角応援を頂いていたのに、いまサイト情けない状態ですみません…


さて、ここからが応仁ネタです。
畠山義就の諱「義就」の読みは「よしなり」である!…という事については以前
『Muromachi通り』「畠山義就(その5)」(2014.7.16)
の冒頭で考察しましたが
今一度、色んな人の意見を聞きたいなぁ…と思って
例の「東寺百合文書」の記述が記された "時期" に着目して、話を展開してみた訳であります。


(↓以下、スレ用に書いた文章をそのまま転載します)

………………………

ところで、「義就」の読みについてなんですが
現在はかなり「よしひろ」のが優勢になってる?
でもやっぱり「よしなり」が正しいと思うのですよね。

「よしひろ」の出どころは、東寺百合文書・廿一口方評定引付という一次史料で
義政の御内書の写しの「義就」の「就」の部分に
小さく「ヒロト云々」って添え書きがある、というものですが
これって、寛正2年(1461)2月18日の記録なのですよ。

一方で、『応仁の乱』開始(1467)以降の時代の史料では
「よしなり」って読みの記録が複数残っています。
 『応仁略記』に「よしなり」
 『応仁私記』に「義なり」×3、「よし就」×2
 『金言和歌集』(略本)に「よしなり」
これらは日記ではありませんが
『応仁私記』と『金言和歌集』は実質一次史料と言っていい史料だと思うし
『応仁略記』は畠山家に近しい人物によるものらしい、って事と
『応仁私記』は当時をリアルタイムに知る当事者からの証言を書き留めた "聞書"
『金言和歌集』は将軍近習や奉公衆といった、幕府の元役人が多く関わっているらしい
…という史料の性質を考えると、これらの記述の重要度は侮れないものだと思います。


そもそも寛正2年(1461)って…
義就は享徳4年(1455)に諱を「義夏」から「義就」に改めて
この当時はまだ父持国の跡を継いだばかりの19歳で、しかもその5年後に在国隠居を命じられて
その翌年の事です。
つまりこの時の義就は
「諱を改めてまだ数年、若い、惣領の座を追われ在京していない」
っていう、わりとかなり影の薄い状態。

義就の知名度を思うに
元々管領家の当主だから、政治の中枢では知らぬ者はなかったでしょうが
この失脚以前の地位では「義就」という諱を口に出して呼ばれる事はそうなかったでしょうし
幕府での日数の浅さからも
諱の読みまで正しく知る人は、そんなに多くはなかったのではないか…と思われます。
一方、『応仁の乱』勃発後の天下では
それまでとは比較にならないくらい爆発的に世間に名が響き渡っただろう、という現実に加えて
一応幕府(東軍)の敵だから、遠慮なく「義就」って口に出して呼ばれまくっていたと思われます、下々に至るまで。

やっぱり、寛正2年の段階での「云々…」って自信無さげな記述より
広く天下に名が知れ渡った『応仁の乱』勃発以後の記録の方が
当時の人々が知り得た本当の事実を映し出しているのではないかと。

東寺百合文書は確実な一次史料だから
「よしひろ」の読みが採用されつつあるのだと思いますが
時系列的に義就を取り巻く現状の変化を考えると
これ一点だけで判断するのは、やはり不自然かと…
東寺百合文書も、その他の史料の記述も共に尊重して考察すれば

「諱の読みが知れ渡っていなかった時代は「よしひろ」と読み間違えられる事もあったけど
 本当の読みは「よしなり」」


これが最も妥当な結論かと思うのですが。

………………………


という訳でやっぱり

 義就は「よしなり」です!…と思います!!

そこまで突っ込まなくてもいいとか、別にどうでもいいとか思われてしまいそうですが
でも私は、史料の記述というものを
一言一句に至るまで最大限大切にしたいと、いつも思っています。
さらっと表面だけを読んで終わりにしてしまうのでは、あまりにももったいない。
もっと深く掘り下げて、一番深い所まで掘り下げて
そして真に正しい意味を解き明かす
それこそが「史料を尊重する」という事の、本当の意味だと思います。

(「義就の読みは「よしなり」である」という結論は決して
 「よしひろ」と記す東寺百合文書の記述を否定するものではなく
 東寺百合文書の記述を、記載時期まで含めてすべて肯定し尊重した結果です。)


すっごく拘って、馬鹿みたいに拘って、それで本当に馬鹿にしかされなくても
それでも、一番奥に眠る真実にたどり着いた時にはいつも―――

「この史料はきっと、真実を見つけてくれる事をずっと待っていたんだ…」

そう思える瞬間に出会う事が出来ます。

この、労力に見合わない下らない拘りの積み重ねが
もう過ぎ去った過去である歴史に新たな生命を吹き込んで
そうして蘇った歴史は、未来をつくる力を持っている―――
そう信じて、研究を続けてきました。



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(2) | 応仁日記(義政、義視)