2016年05月05日

ひとまず尊氏直義観

こんにちは、GW三箇日ですね。 もんもんとしてますか?

もんもんは溜めると体に良くないので
なんかしらの手段を講じて発散した方が良いですよ。


さて、初めにお知らせですが
ブログ『Muromachi通り』『バーボンMuromachi』のデザインをちょっといじって
横幅を広げてみました。「M通り」の方はさらにサイドバーに変更。)
なんか窮屈だなぁ…
と前々から思いつつ、気のせいかと思って見て見ぬ振りをしていたのですが
試しに広げてみたらこの開放感!!
やっぱり気のせいではありませんでした。
ちょっともんもんも解消されました。



というか、『Muromachi通り』とは別に
このチラ裏ブログ『バーボンMuromachi』を始めたのはそもそも
『Muromachi通り』の方のように史料・文献に基づく歴史解説となると
どうしても記事を書くのに時間がかかってしまうのですが
しかし、日々歴史の事を考えていると
言いたい事が後から後からわらわらと溢れ来ては、ぎゅうぎゅう背中を押して来て
言いたい、なんかてきとーに言いたい!!
という押さえ切れないもんもんに襲われ
目下記事の作成にも支障が出て来る始末なので
とりあえず、史料解説とか気にしないで
思った事を思った時に言葉にしてしまおうと思った訳で。

まあ、先日の『Muromachi通り』「2016年GW企画 国宝『神護寺三像』」
史料根拠の提示すっ飛ばして言いたい事言いまくってますが
こんな風にたまには
考察過程抜きで結果だけ言い放ちたいのです。

(そんなフライング解説に、どれほどの需要があるかは分かりませんが。
 え、やっぱり誰も待ってないですが、そうですか… ('A`) )





以下↓☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆チラ裏全開!!





ところで、現在の一番メジャーな "尊氏直義観" ってどんなもんだろう?
と最近よく考えるのですが
近頃は、尊氏直義の人間的な面に注目した研究も進んでいて
かなり愛情の深い兄弟だった事が見直されつつありそうで嬉しいですが
ただ一方で、今もやはり
『観応の擾乱』二人の政治的対立とする理解が圧倒的に主流なので
そこに生じた溝が埋められないまま放置されている…ような??
なので、人によって仲良かったり悪かったりと様々で
メジャーな説のない妄想自由時代みたいな事になっているような気がしないでもない…
まあつまり、よく分からないです、はい。



(※ちなみに、『観応の擾乱』の真相については
 根本の原因やその変遷本当の対立構図
 かなりなにその地動説で、ちゃぶ台が地面から壮大にひっくり返ります。
 そもそも、政道に「正しかるべき」正しさを求め
 「天下政道 "私"(=私曲)あるべからず」と公言していた尊氏
 道理に則り無私に徹する直義の政道をこそ望んでいたのであって
 本来、二人の間に政治的対立は起こり得ないし
 尊氏直義政治の場から排除、なんて事は
 常識的に考えると有り得ない話なのです。
 …え、普通に現存文書に「直義誅伐…」とか書いてあるじゃん
 何言ってんのあほなの?…とか思われそうですがw
 しかし、それはあくまでで観測した目に見える文字
 これを重力波で観測(…するようなつもりで考察)し直してみると…
 全く別の宇宙が現れて
 これまで未解決だったあらゆる疑問
 尊氏の数々の不可思議な挙動から
 南朝帰順問題、鎌倉問題、直冬問題、高経問題まで

 すべての矛盾が嘘のように綺麗さっぱり繋がって万事解決!です。
 尊氏何の為に戦っていたのか?
 『観応の擾乱』は一体何から起こったのか?

 この辺がポイントです。
 ……。
 すみません、またフライングしますた ('A`)ウッウー )


(※重力波については「下野の国からチョコクッキー」
 「KAGRAで宇宙の話」をどうぞ。)




うん、まあいいか。

ちなみに、私の尊氏直義観の第一印象はというと…
当初は直義の事ほとんど知らなかったから印象そのものがない、すまんw
でも『応仁』『明応』の予備知識として調べ始めた頃の感覚は
結構標準的なイメージだったと思うのですが
尊氏てきとー直義実直
そこまで通じ合った何かがある兄弟だとは思ってなかった、といったところです。

それが今となっては、異次元な宇宙に移り住んでしまったかのような
この吹っ飛ばされ感… (´−ω−`)



私の話は、現在の一般的な説と違い過ぎて
そろそろ信用失い始めてるんじゃないかなぁ…と、自分でも薄々思っているのですが
私も初めからこんな考えを持っていた訳ではなく
当初はもちろん通常の感覚でしたし、それに疑問を抱くつもりもありませんでした。

というのも「初代将軍足利尊氏」ともなると
メジャー過ぎて存在が大き過ぎてどうも敬遠してしまう…というか
場末でちまちまやりたいタイプの私が入り込む隙間など無い!
と決め付けていたのでw


…と、そんな訳だったのですが
ただ、ちょっとした切っ掛けでちょっとおかしいな?と思う所を
もうちょっと調べてみようと思ってちょっとした気分で探究を始めてみたら
ちょっとどころじゃなく大変な事に気付いてしまって
ちょ、ちょっとちょっとどうなってるのさこれ!!と驚いて
史料の沼に本格的に嵌り込んでゴボボボ…とした結果
通説とは大幅に違った見たこと無い生き物(という名の真相が掴めてしまって
自分でも「なにこのクリーチャー…」とか戸惑っていたりします。


実は、あまりに意外な事実が続々と明らかになってくるもんだから
何月何日に何に気付いたかを、途中から日記にメモするようにしていたのですが
(↑ちなみに、今もまだぽつぽつと新事実に気付く事があって探求は終わらない… )
それを見返してみると
なんて遠くに来てしまったのだろう… と、自分でもなんか気が遠くなります。
やっぱり初めの段階ではまだ
『観応の擾乱』は、少なからず尊氏直義の決裂だと思っていたし
その頃の尊氏は、「清水寺の願文」直義の幸せを願った頃の尊氏とは
もう変わってしまったのかもしれない…
あの願文は、一時の感情の高ぶりでしかなかったのかもしれない…
という可能性も持っていました。

(もちろんこれについては
 尊氏直義に対する感情は変わっていない…どころか
 より一層深くなっていたとすら言えるのですが。
 実際、決裂&毒殺エンドよりつらいで (´;ω;`)
 "最愛の果ての絶望" とういのは… )



私も以前は、みんなと同じ景色を見ていたはずなのに
気付けばこの景色を見ているのは私だけになっていた、という感じで
ちょっと本当の事言うと… かなり空しいw (´;ω;`)
私の相手してくれるの妄想の中の尊氏さんくらいww

でも、知ってしまったからにはもう後には戻れない
私が見ている景色を真実だと信じてくれる人はいるのだろうか
所詮、トンデモ説として笑われているだけだろうか
…という不安は、もうめちゃんこあるのですが
それでも、そんな不安よりも
本当の二人を知ってもらいたいという思いのが遥かに優るので
こうして歴史の片隅から細々と発信を続けている訳であります。




以下↓☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆尊氏直義全開!!




まあ、そんな訳で今日のところは
私の今の尊氏直義観を好き勝手述べてみますと
一般には
尊氏のがちょっと頼りない所があって、しっかり者の直義がサポートしていた」
という感じかと思いますが
実際は、直義のが危ういところがあって
(↑これは悪い意味ではなくて「綺麗過ぎる故に疑う事を知らない」という意味で)
なので、常に尊氏が陰で目を光らせていた
(=何かあったらすぐ助け舟出す、ただし気付かれないようにw)
という感じです。

(※実は『観応の擾乱』も、事の起こりは二派の政争などではなく
 とある陰謀によって引き起こされたものなのですが
 最初の段階では、直義はその真相をほとんど知らなかったのですよ。
 つまり、一方的な被害者だったのです。
  (´;ω;`) 直義かわいそ過ぎる…
 ちなみに当然真相に気付いていた尊氏は、最悪の事態を回避しようと
 その陰謀を骨抜きにするべく(陰で)奔走したのですが… うーん )




それから、尊氏のが感情的で、直義堅物って思われていますが
実際は、尊氏は非常に本心を隠すタイプ
(↑といってもこれも良い意味で。人に暗い部分を見せない為に
 どんな時も断固としてワロス仮面を外さない、ある意味孤高の将軍
 なにそれかっこいい (´;ω;`) )

一方、直義は全く隠さず何でも言っちゃう性格だから、表情も豊かだっただろうし
人への思いやりに溢れまくった人ですから
冷たい堅物どころか、一緒にいてこんなに温かさを感じる人もいなかろうと。
(↑この誤解はほんと出来るだけ早く解けてほしい…
 マジ直義はぬくぬくやで (´・ω・`) )

直義は、禅僧達からの評価が非常に高いのですが
人の本質の求道者たる禅僧達に人気絶大なら
俗人からも、男女問わずもてただろうなぁ〜と思う。


尊氏は基本的に、人前では極力明るく振舞う強い人間だけど
(↑たまに "演技で" いじけて見せる事はありましたが。
 なんか鬱とか言って遊ばれてますけど!実際はワロス仮面の下の素顔
 神仏の前か、足利高経(=いわゆる斯波高経)にしか見せてませんよ
 …まあ鬱ネタはそれはそれでおもろいから好きだけどw)

反面、直義喜ぶ時悲しむ時も目一杯素直だから
意外にも「守ってあげたい」と思わせるのは
尊氏より直義の方だったのだろうなとw


尊氏は、決断力の早さや、戦での的確な軍配
 恐怖の中で笑みを浮かべる底知れぬ余裕や、慈悲深さ
 …といった要素からするに
 "頼もしさ" "包容力" という点で絶大な支持を受けていた
 というのが実際でしょう。
 優柔不断と言われてるのは、どうも根拠が見出せないのですが??
 建武2年(1335)11月〜12月の奏上出家出陣騒動は
 それぞれ明確な意志に基づく行為なので。)




みんなに支え守られるドジっ子尊氏、というキャラ感は
結構主流派だし、かなり愛されていると思うので
それを否定するのも無粋だな… とは思うのですが
でも、表面的にはそんな感じだったのは確かだと思うw
何より本人が、本当はそうでありたいと思っていたのではないかなぁ…と。
軽々しく振舞ってみんなに慕われていたいと言っていたという『梅松論』の記述や
その他の無邪気なエピソードからすると。

ただ… 頭が良過ぎたばっかりに
世の中の流れから人の心の奥底まで、なんでも見通してしまって
それは本人にとっては、結構孤独な事だったんじゃないかと思います。

それなのに
生涯、天下を愛し続けた優しすぎる将軍なのですよ (´;ω;`)
たぶん日本一…いや、宇宙の果てまで探し回ってもこんな将軍いない…



それから直義自身の主観では
 「自分は全精力を傾けてを支えている!!」
と思っていたと思いますw
もちろん、それはそれで合ってはいるのだけど
 「守っているつもりが守られていた
という直義の実態がなんとも…w 
(本当にドジっ子天然なのは直義だと思う… )

つまり、どちらも表面的にはこれまでの一般的なイメージそのもので
ただ「中身がまるで逆」ってゆう。


なんというか、基本的にこの兄弟は
見た目中身が逆でズコー!な上に
いつも尊氏は何でも知っているけど、直義は何も知らなくってこれまたズコー!!
そんな兄弟。

おそらく、直義の正体でさえも
尊氏だけが知っていて、直義本人は生涯知る事はなかったんじゃないかと―――




おっと☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆その話はそこまでだ




という訳で、今日は思った事ばっかになりましたが
これらの考察結果は一応すべて
本サイト『2-9』「歴史を見る目」で述べたように
脳内で3Dロボを無数に構築する無理ゲーを繰り広げた結果であり
最大限客観性を保って最も合理的唯一解を求める事を目指したものです。
まあ、私の脳みそのやる事なので
まだ理論に穴が残っている可能性はありますが(すまぬ… (´;ω;`) )
でも、私の主観による好悪で理論を曲げるような事は決してしていませんので
ご安心下さい。


言いたい事言ったら
お蔭でまたもんもんが少し軽くなりました。
めでたしめでたし。



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posted by 本サイト管理人 at 17:38| Comment(4) | 観応日記(尊氏、直義)

2016年05月22日

結願の日

こんにちは、先日(5月8日)は無事に
GWの "尊氏直義認定祈願" 修法結願(けちがん)のを迎えましたので
本サイトTOPページを元に戻しておきました。

(※この話は先日の…
 『Muromachi通り』「2016年GW企画 国宝『神護寺三像』」
 当ブログ「『Muromachi通り』通信【2016年GW企画】」を。)


修法と言っても
凡人風情が律儀に10日間きっちりなむなむしただけですが。


ところで生直(なまただ)って、普通に生直(きすぐ)と読むと
素直で言行に飾りのない事、生真面目って意味の言葉で、まんま直義なんですが
つまり、やっぱり直義は生に限るって事なんですよ!!

…まあいいか。
いやむしろ、生より妬いている直義の方が… ってそんな好みもどうでもいいか。


まあでも「修法」というのは
この時代は、公家だけでなく室町将軍の必須ネタでもありますし
特に尊氏直義時代は、主宰の意図を探ると見えて来るのもがあったりするので
是非気に留めておいて下さい。




五大虚空蔵法☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆尊星王法あんど五壇法!!
テッテレッテレー 天下泰平!!




さて今日はちょっと
前回の記事「ひとまず尊氏直義観」の補足をしたいのですが…
先日頂いたコメントを切っ掛けに
やや言い足りなかった部分の補足
もう一歩踏み込んだ直義論を展開してみましたので
こちらのコメント欄も合わせて御覧頂ければと思います。
(私の返信コメントは「本サイト管理人」名義の長文です。)


で、改めて記事本文を読み返して思ったのは
確かに、言われてみると全体的に尊氏age仕様になっていて
相対的に直義がそうでもないみたいな論調になっている…ような気がしなくもない
もちろん、そんなつもりは全く無かったのですが
何と言うか私は…
自分の中であまりに当たり前の事実だったが故に

直義は、右に出る者の無い実務能力を持った「天下執権の人」(※)である」
(※…『園太暦』康永3年9月23日、12月22日)


という、大事な大前提を言い忘れて
直義の意外な部分だけを並べてしまったので
何それどこの直義だよみたいな事になってしまっていたかも知れません。


まあ、直義については本サイト『2-2』をはじめ
これまでも散々言及して来たので
「どんだけスペシャルな存在か」という私の基本の直義評
だいぶ伝わっているかと思っていたのですが…
というか直義ageしすぎだろおめー!!」くらいに
うざがられているかと思って、むしろちょっと控えていたんですが
(うそです。あんま控えてません)
まあともかく、現在のメジャーな直義評といえばやっぱり
【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
…が決定版です。 特に p.224-228、p.262-263 あたりを。
一部引用しておきますと…


「こんなふうに直義は論理的な考えかたの持主であり、
 自制心に富み、ケレンのない誠実な人であった。
 容易に妥協しない、筋を通す人間だったことも、
 これまでの行動で理解できよう。」

(p.225-226 より引用)
(※けれん(外連)…はったり、ごまかし。)


これが実証史学の第一人者による紛れもない実証的考察結果!!
まさに 直 義 !!
…ただ、これに続く
「こういう人間は人に冷たい感じを与える。…(以下略)」
という所とか、それからp.246-249 の部分は
"直義は旧来の名門武家惣領家のみを優遇した"
みたいな誤解を生みそうで、所々ちょっと異議有りですが。
(失礼なこと言って本当にすみませんw)
でも、不動の1位を誇る南北朝期本の頂点(本だけでなく中世史家としても)の著者
直義理解の第一人者(=つまり直義ファン)でもあるとか
ほんとに有り難い話であります。
この本のお蔭で、どれだけ直義の良さが知れ渡った事か。




ありがてぇありがてぇ☆*:.。.:*・゚(−人−。)゚・*:.。.:*☆なむなむなむなむなむなむ…




まあそんな訳で、一応ここで私からも改めて明言しておきますと
直義の人間性執政の能力の高さは日本史上でもトップレベルであって
政道の理念・実務の両面で
ここまで高度に洗練された事が出来た人物は
直義の他には、鎌倉幕府の執権北条泰時北条時頼あたりくらいかと。
はっきり言って、現代よりも未来を行ってると思います、彼らは。

敢えて違いを言えば
北条は理念遂行の為ならドライになれる割り切ったプロ意識があったけど
直義は自分でも
善根に心を傾け過ぎると、政道の支障となって
 世の中が上手く治められなくなってしまうのではないか…」
 (『夢中問答集』)

と不安を抱いていたらしい、という優し過ぎる所がある訳ですがw
でもそれが直義の最大の長所であり
それを時代が求めていたからこそ
あの動乱の中から、尊氏直義という二人の将軍が誕生し
長い歴史を繋いでいく定めを受ける事になった、のではないかと。




それから、つい尊氏を重点的に語ってしまったのは
私にとって一通り探究した結果
直義より尊氏のが「既存のイメージが大きく覆って驚きが大きかったから」
というのもあります。

なんと言うか
直義「これまでのイメージの上に、新たに新イメージが加わった」
という感じなのですが
尊氏の方は「これまでのイメージそのものが覆ってしまった」
という感じで
尊氏てきとーと思っていた私には)正直、初めはかなり受け入れ難く
え、え、マジでそんな切れ者だったの??
と一人であわあわ焦りながら (((( ;゚Д゚))))アワワワワワ…
すぐには信じないで、あくまで可能性の一つとして慎重に調査を進めたのですが
結果はまあ… その通りでした。

同時代の人々から見た尊氏というのは
 (現代のイメージに近い)ゆる目で慈愛に満ちた親しみ易さを持つ一方
 非常に将軍らしい不動の貫禄を備えていたようで
 天岸慧広によれば高さ低さ
 夢窓疎石によれば平寛孤峻(緩さと孤高)」
 を合わせ持った人だそうです。)



もちろん、この尊氏観は私の主観という訳では無いのでご安心下さい。
もともと私はそんなに尊氏ファンではなかったので(すまんw)
自ら好んで尊氏ageする動機は持ち合わせておらず
ただ単に客観的事実なので受け入れた
& これが切っ掛けでめっちゃファンになってもうた

という次第です。


というか、歴史考察においては
普遍的道理に基づく善悪の評価は必要不可欠なものですが
(↑"過去から学ぶ" というのは、人間の根源的な知的活動なので。
 これを正しく行えた人間だけが進化・発展出来る、とも言える)

しかしそれ故、主観的好悪で考察を曲げてしまおうものなら
その時点で研究の価値は地に落ちて、これまでの苦行が水の泡…となってしまうので
客観性の保持は、極めて重要です。


例えば私もかつて
直義好きとして)『観応の擾乱』がつらくて直視出来ない… (´;ω;`)
とか怯んでいた頃は、知識も浅く、それ以上踏み込む予定もなかったので
心の赴くままに 高もろ○お ムキィィィーーーーー!!!!
と思ってぷりぷりしていただけですが
本格的に史料から探究すると決めてからは、主観を封印し
客観的立場からの事実の追究評価に徹しました。

(この辺の話はいずれ解説する事になりますが
 『観応の擾乱』以前直義高師直の関係って
 これまで思われてたのとかなり…
 というかむちゃむちゃ違うのですよこれが。
 だから『観応の擾乱』全容評価もだいぶ変わって来る訳です。
 一言だけフライングしておくと…
 直義は本当に優しい主君だったんだなぁ…と。(´;ω;`) )




ついでに言うと私は、道理・道義的に正しい人間が大好きなのですが
(というか、私の好きの基準はそれでしかない)
直義や(イメージが変わった後の)尊氏
それで "結果的に" 好きになっただけであって
好きだから良い人認定して持ち上げる、とか
まして都合よく史料を曲解したり取捨選択するという事は
そもそもしない(というかしたくない)ので
どうぞその点もご理解下さい。

(まあ逆に言うと、道理・道義的に(極端に)悪い所が見つかると
 すぐ嫌いになってしまうのですがw
 しかし、なるべくそのものではなく行為について断じて
 「なぜこんな間違いを犯してしまったのか?」
 と考察するように心掛けています。
 …自分も(全然)完璧な人間じゃないしね (´・ω・`) )





さて、ちょっと話が逸れましたが
そんな訳で私も以前は、尊氏の事をてきとー兄貴www」とか書いて
適当に解説してしまっていた事があるのですが(本当にすみません)
尊氏の実態を知るようになってから慌てて訂正した、ってゆう。(せこい)
(本サイト『2-2』は、少しだけ当初の論調の面影を残してありますが。)


まあ良く考えたら
単に運がいいだけであんなに戦が強い訳ないですからね。
尊氏はめっちゃ頭の回転の速い極めて優秀な人物だった」
というイメージは
なんか唐突で何それどこの尊氏だよ!って感じかもですが
(…え、そうでもないですか?
 (二股派ではない)尊氏単独ファン尊氏像って結構こんな感じ??
 この辺疎いのでよう分からん… )

しかし…
 
「これだけ優れていたにも拘わらず、なぜ直義に政務を譲ったのか?

というのが、実は最大の焦点だったりするので
尊氏はあんま何も考えてない単なるラッキー☆ボーイという理解だと
直義に政道を任せたのも至極当然(=自分じゃ出来ないから)
で話が終わってしまい
この最重要な核心を見逃してしまう事になるので
やはり、尊氏の正しい人物像は確立しておく必要があるかと思います。




大賢は☆*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆なるが如し




あと、記事本文ではなく(私の)返信コメント自体も
もしかしたらちょっと誤解を招きそうな部分があるので
補足の補足をしておきますと…

まず、尊氏政務執行能力があった事を示すのに
観応3年(1352)正月以降の鎌倉での執務を例に出しましたが
まあ普通に、倒幕〜幕府再興(=建武3年(1336))まで時期も
尊氏発給文書は各種たくさん残っていますね。
それ以降の直義執権時代は、恩賞関連などのごく限られたものだけになるものの
それ以前の尊氏を普通に知っている当時の人々からしたら
尊氏に政務は無理」という認識は皆無だったろうと思われます。

それなのになぜ現代では
"尊氏できない子" 感が優勢を占めているのか、というのが面白い所ですがw
(まあ、将軍になってから政務に(一見)ほぼノータッチじゃ無理もないか)
でも改めて当時の史料を見直すと
『梅松論』はもちろん今川了俊の『難太平記』や東国武士の『源威集』
(将軍となって以降は)『太平記』でも、その他日記諸記録説法などなど
当時の人々からは
(極めて良い意味で)"将軍らしい将軍" として見られていたんだな〜
という印象を強く受けます。

(とは言え、適当でいい所は本当に適当…というのもまた尊氏の一面ですが
 一方で、一見てきとーwwとか思われる所も
 実は強い考えがあってやってる事だった、みたいな場合があって
 (↑これは私欲企みではなく、正しい信条決意に基づくもの)
 気付いた後で (((( ;゚Д゚))))アアアアァァァーーーー ってなりました。)




それから直義について
「建武」から「暦応」への改元で「文」の字を提案した話は
本来一般的には
「文治」を志した直義の政道方針を象徴するエピソードとして
よく引用される "良い話" です。
(※参照は【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の p.227-228 を。 どうもこの本で言及されている事は
 共通認識として扱ってしまいがち… )


それを踏まえた上で
ただ当時の社会通念(とにかく先例最重視、先例に無い事をするとなると
軽く錯乱が始まる)
を考慮すると、ちょっと無邪気のような…w
という意味であって
しかし私は "ここまで" を含めて、直義らしいすごく良い話だと思っています。

より良い天下を夢見てひた走る直義の頭の中には
 社会常識に遠慮して善行を諦める」という発想がそもそも無いw
 ただ、この改元の件については
 公式の強引な要求…というのではなく
 どうも内々のちょとした善意の発案程度の話だったようですが
 (『大日本史料』暦応元年8月28日)
 とは言え "善行とあらば何ものをも恐れなくなる" という大胆さ
 他でも随所で見られる直義の特徴で、私も大好きな所なのですが
 この直義の考え方に最も共感を覚えていた公家側の人物と言えば…
 間違いなく光厳上皇、ってゆう。)



と言っても、当然ながら直義
道理に悖(もと)るような先例・社会通念の壊し方は決してしていません。
普段は人一倍謙虚礼儀正しく
守るべきものは律儀過ぎるくらい大切にする秩序を重んじる人物」であった事は
(天下への意を同じくする)光明天皇・光厳上皇への崇敬をはじめ
数々のエピソードが示す通りで
直義がいたからこそ、善悪の崩壊しかけたあの時代がギリギリで秩序を取り戻した
というくらい功績のある人ですが
しかし、それは決して盲目的に古い慣習に追従していたのではなく
道理に照らして "守るべきもの" "越え得るもの" とを適切に判断していた
という、合理的かつ能動的な思考の持ち主なのです。

(つまり直義は「時代を守ると同時に時代を動かした」と言えるかと。
 どちらかだけが出来る人間は珍しくありませんが
 両方を(正しく的確なバランスで)遂行出来る人物は
 歴史上でも数えるほどかと思われます。)




"天下の為" という根本姿勢も
よくある自己正当化の建前ではなく
あるいは、理念だけ空回りして実際の考えや行動が全然天下の為になってない…
…ような空論でもなく
しっかりと(天道)に根ざした道理・道徳を身に付け
衆心悦怡」(天下万民の喜び)
利益(りやく)平等(「利生塔仏舎利安置状」)を祈り
万民の塗炭を救い」「撫民の仁政(『吉野御事書案』)
の実現を常に追い求めていた直義
現実を見据えた公平公正廉直な政治を実践しています。
(この辺の信条は『建武式目』やその『追加法』にも良く表れています。)




こんな(ちょっと誤解されかねない)ややこしい話をしたのはなぜかというと
直義は「考え方が古風でひたすら懐古的だったが為に
新しい時代に応じた政道を行えず、支持を失って失脚した」

…みたいに解釈されている事がありますが
決してそんな事ない!!という事を示したかった、ってのと
もう一つ、一般に直義は
真面目清廉な人間性と、傑出した執政能力を評価される人物で
直義のすごさを説明するにはそれだけでも十分過ぎるとは思うのですが
しかし私は、それすら直義の一面であって
直義の真価はその "ビジョン" にこそあると考えているからです。
未来図を描く特殊能力とでも言いましょうか。)

そして、そのビジョンに推進力を与えていたのは
光厳上皇、夢窓国師、直義
この三者が等しい価値観・天下観を共有していた、という事実であって
ここに、初期幕府の最大級の特徴があると考えています。



直義の政策を指南し支えていたのが夢窓国師…というのは
良く知られた事実ですが
これら天下の諸政策(…例えば『天龍寺』建立や全国「安国寺利生塔」
各種供養などなど、味方も遍く弔い、天下の安寧を願い仏法を紹隆
国家の秩序形成から万民の救済をも目指した大事業の数々…)
には
常に光厳上皇の関与が見られ
「直義の政策を権威の面で保証し
 国家事業としてのダイナミックな展開を可能にしていたのが光厳上皇だった」

という点もまた、非常に重要かと思います。

(これは、光厳上皇の立場から見れば
 花園帝から受け継いだ理念を現実として形にしてくれるのが
 武家である直義だった、という事になるかと。
 「天下の為には武家と力を合わせるべき
  (武家の安寧天下安全の源)」
 という考えを光厳上皇が抱かれていた事については
 『Muromachi通り』「直義の年齢(その2)」
 上から3分の1辺りをどうぞ。)



この時代の北朝は、どうもひどく過小評価されていて
史上最も…とすら言いたくなる高尚な政道理念がほとんど顧みられる事もなく
全く力の無い何も出来ない存在…みたいに未だに思われているのが
残念極まりない訳ですが
当時の治天の君(=院政で政務を執り行う上皇)光厳上皇だったからこそ
直義の理想が思うままに大きく羽ばたけた
といっても過言では無いのです。

(もし少しでも、天下万民の繁栄より
 自身の栄華朝家の権威高揚を優先するような価値観の帝だったら
 確実に直義とは上手く行ってないと思う。
 光厳上皇は本当に少しもそういう邪念が無いマジ菩薩帝、というか…
 ある意味尊氏直義をも凌ぐ大菩薩帝やで (´・ω・`)
 民の為なら容赦なく自分のすべて犠牲に出来る、とかいう
 最強最後大菩薩帝なんやで (´・ω・`) )



王道撫民の価値観を共有するこの三者が同時代に生まれ合い
国家事業を主導する地位にあったというのは
改めて考えると信じられないような奇蹟だと思うのですが…
シナリオ書いたの誰だよ状態。
(しかも揃いも揃って徳の高さ菩薩レベル
 菩薩ファンにはたまらんラインナップ… (−人−。)なむー )




他勢力と比較した場合の "北朝幕府の特異性" とでも言いましょうか
あの時代に
 「なぜ最終的北朝幕府が天下を治める地位に就いたのか?」
という問いについて
単に「武力で優ったから」というのは結果に過ぎず
武力で優れるほどに人心を得たのはなぜか?」
という点を考える必要がある訳ですが
(↑この点も「武士の得られる方を選んだだけ」
 との理解に留まっていますが、それも一面ではそうだとしても 
 それだけだったならもっと勢力が拮抗して
 2〜3年政権の交代を繰り返していたはずでは?と思う)

つまり、あの時代の対立構造の根本には
単なる軍事力権威の優劣、利害の大小ではない
もう一つの "真の視点" があったのではないかと。


実は、北朝幕府南朝では
国家のビジョン天下の捉え方に関して "明確な違い" があるのですが
この根本の思想面での対立勝敗こそ
この時代の根底(言い換えれば『太平記』の根底に流れる真の命題であり
そして、実にその戦いは時代を超えて続いている、すなわち…

 現代にも問われるべき大命題である

…という話については
まあとりあえず今日はこの辺で、いずれまた。
一言だけ言っておきますと
光厳上皇、夢窓国師、直義は… 現代より遥かに未来を行ってると思う。




(以上、光厳上皇直義の関係ばかり言及してしまいましたが
 光厳上皇は、尊氏に対しても非常に厚い信頼を寄せいていて
 尊氏もまた等しく深い敬愛の念を持っていた
 …という事実については、これは『観応の擾乱』以降の世界で
 とっても泣ける話の序章となるので覚えておいて下さい。)

(ちなみに、擾乱中の尊氏の(北朝に対する不誠実な)行動は
 みな解釈の誤りなのでご安心下さい。
 (尊氏やった… (´;ω;`) )
 ただし、事件の真相は別の意味で落胆悲歎罪業に満ちたものなので
 こちらは覚悟しておいて下さい… orz )





初期幕府の研究というのは
幕府創設まで『観応の擾乱』前後の "戦乱期" の政治史に比べて
幕府開始 〜『観応の擾乱』までの "幕府安定期" の政治史の分析が
やや盲点になっているような気がするのですが
しかしこの期間は
尊氏や、特に直義思想・人間性をダイレクトに反映した
文書文化史料が多数残されていて
尊氏直義ファンにはお宝ざくざくのボーナスステージだったりするのです。
(もれなくスペシャルアイテム
 "直義の未来図" がゲット出来ます (; ・`д・´)なぬ!!? )

これらの分析によって
尊氏直義の人物像二人の関係性が正しく理解されれば
(二派の対立的に解釈されて来た)幕府の構造
『観応の擾乱』の解明が一気に進むのではないかな〜と。


(とりあえず、この時期の参考になる文献は…
 【西山美香『武家政権と禅宗 ――夢窓疎石を中心に』(笠間書院)2004】
 …の、T部「初期室町政権と夢窓疎石」
 をどうぞ。 かなり世界が広がる…というか
 読んだ前後で世界が変わる文献です。)





そろそろ☆*:.。.:*・゚( − Д−)゚・*:.。.:*☆終わります




という訳で
今日も史料的に情報価値の無い面白くない話になってしまいましたが
今後の解説に先立つ見通しという事で、一応記してみました。


尊氏直義も、それぞれ本当に素晴らしい人物だという事と
二人の真価を問うには、この時代を少し違う視点で描き直す必要がある(と思う)
という事を言いたかったのですが
まあ、説明が下手なので上手く伝わっている自信がありません。

でも私は、二人の事を深く知ってから日本史のイメージが変わった…というより
日本のイメージが覆ったってくらい衝撃を受けました。


(どこの星から来た宇宙人だよみたいな客観的な言い草ですがw
 でも、日本人による日本史の理解って
 (↑これは研究者による歴史学ではなくて、国民意識的な意味で)
 大事な視点を欠いているというか
 勝ち負けとか形式上の権威とか絶対的で圧倒的な権力とかいった
 "表面" を追い過ぎていて
 本当に重要な部分がブラックボックス化してしまっているため
 未だに自分達の事がよく分かっていない
 (あるいは、分かったつもりで誤解している)
 …みたいな所がある。)



…ってまあいいか。

本当はこの辺も上手く伝えたいのですが
なかなか力不足で限界を感じつつあります。
(先が遠すぎて心が折れてきた (´・ω・`) )

その点、直義はすごいですね
あんな無限のロマンチストはいないと思いますw
誰もが現実に妥協してしまうような所でも、独り情熱を絶やす事なく
人々を "感化" していく力を持っている。
直義の願文とか仏舎利奉納状とかは、自筆のものが結構残っているのですが
どれもなんか… キラキラ光っているのですよw
泰平の天下を夢見ている時の直義の清く澄んだ心には
無限の未来が見えていたんだろうなぁ…と。


私も相当感化されたのだと思います。
だからこうしてあほみたいにのめり込んで、色々知る事が出来たのであって
そろそろ折れそう… (´・ω・`)
とか言ってる場合じゃないんですが(訓練の足りない室町マニア… )
でも、文献読んで史料漁って考察繰り返して
意識朦朧の苦行の果てにようやくゴールが見えたかと思ったら
たどり着いたのはスタート地点だった
…とかいう「え、え、」な事態に遭遇してプチ虚無。(←今ここ)



たぶんこの時代には
現在失われてしまったもの、蘇るべきものが隠されていて
尊氏直義が見ていた世界が大きなヒントになるはず…
というところまでは分かった(…ような気がする)のですが
宝の地図があまりに果てしない大きさで
これ全部一人で描くとか、マジ折れそう… (´・ω・`)



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posted by 本サイト管理人 at 17:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2016年06月24日

足利基氏25歳

こんばんは、先日はようやく
義堂周信作、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ)による
「令叔直義に捧げる三部作を紹介出来て感無量でありますが
解説だけで終わってしまったので、今日は久々に妄想イメージ図を描いてみました。

(※関連記事はこちら↓
 『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」
 『バーボンMuromachi』「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」


と言っても、解説の方もまだちょっと気になる所はあるのですが…
例えば
直義基氏は観応3年(1352)2月頃「一緒に月を見た夜がある(たぶん)」
…とか言ってみたものの、やっぱ飛躍し過ぎかな〜と思ったり
それから直義の緇衣(しえ。墨染めの衣)
亡くなった時に実際に着ていたものか? それともあくまで遺品の一つか?
…というのも気になって気になって仕方ないし(もちろん前者であって欲しい…)
そもそもこの詩は
「貞治3年(1364)2月26日の直義十三回忌の為に詠まれた」に違いない!
…という推測も、9割方そうだろうとは思うけど、絶対と言う保障も無く―――


どれも確かめようが無いので、これ以上考えても無限ループでしかない訳ですが
でもまあ、可能性として最も高い説を採用したつもりですので
強引にマイ解釈で三部作のイメージ図を作成してみました。

貞治3年(1364)2月26日
亡き養父を想い続ける12年目の足利基氏25歳(数え)です。




足利基氏、月




足利基氏、花




足利基氏、衣




基氏初登場!! …のわりに完成度低くてすみません。
しかも、私の中でのデフォルト基氏
直義が見た最後の姿であろう、元服直後の数え13歳の基氏ですので
今回の25歳バージョンはイレギュラーだったりします。(初登場なのに… )
デフォが幼君なので、25歳でもちょっと幼めです。


(ちなみに、意外に思われるかも知れませんが(それとも当然かな?)
 観応3年(1352)2月25日の基氏の元服式には
 尊氏と共に "間違いなく直義も参会している" …と思われます。
 詳しくはまた後日。)




私は直義がものすごく好きなせいで
直義を好きだった直義以外の人物に感情移入してしまうのですが
基氏は…
もうめちゃめちゃ気持ち分かる! 手に取るように分かる!!
(…と自分では思い込んでいる。)
この三部作を読んでいると、ほとんど基氏になりきっちゃって指先まで痛くなってくる
(…というくらいには重症。)

まあとにかく、基氏は全直義ファンの代弁者ですよ。
よくぞこんな史上最高超名作を残してくれた!!
歴史的にも文学的にも感動的にも、奇蹟としか言いようがない!!



ところで…
紫荊花は、あくまで "花蘇芳" という名で知れ渡ったのが江戸時代であって
 それ以前から細々と日本に渡来していただろう」
と推測しましたが…
まあ、禅僧の来朝最盛期な鎌倉時代後期に
「鎌倉幕府の別格御家人足利家の邸宅(or 隣の「浄妙寺」)に
 大陸の珍しい花の咲く樹が植えてあった」

というのは十分に有り得る無理の無い話だと思います、うん。

(というか、当時紫荊の樹があったとしても
 それは直義の居た「浄妙寺」「大休寺」周辺なのか?
 それとも基氏の住む「足利邸」の庭なのか?
 というのもむっちゃ気になるポイントですが… まあいいいか。)


ちなみに、現在の「浄明寺」の境内は四季折々の花の咲く素敵な場所ですが
ちょっと検索した感じでは紫荊(花蘇芳)の樹は無いようです。
(…たぶん。 もしあったらどんなに小さな樹でも嬉しいので
 知っている方がおられましたら教えて下さい m(_ _)m )



当時の紫荊花はどんな花を咲かせていたのだろう〜
とか考え出すと止まりませんが
もし、いつかまた「浄妙寺」の境内で紫荊の樹が満開に花をつけて
その隣に小さな看板でも立てられてこの詩が添えられて…
そんな日が来たとしたら
直義にとっての最高の弔いになるだろうなぁ… と夢見てしまいます。

というか、基氏に感情移入する全直義ファンの聖地になるに違いない!!
そしたらきっと、基氏が流し続けた
春の花のような笑顔に変わる事でしょう。


…と、今日もバーボン室町の片隅で
淡い妄想に耽る夜であった。



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posted by 本サイト管理人 at 23:53| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2016年06月30日

観応3年、春の夢

こんばんは、今日は基氏妄想図第二弾です。

(※前回はこちら→「足利基氏25歳」

未だに直義基氏の妄想が止まらないので
最近絵描いてなかったし、もうひと妄想です。


というか、足利基氏というとやはり "初代鎌倉の主" としての研究が主流で
『観応の擾乱』においてはあくまで第三者という扱いですが…
まあ、擾乱当初はまだ幼かったせいで、事件への直接的な関わりが薄く
「『観応の擾乱』と基氏」という視点で議論される事が少ないのも当然ですが
しかしこれが意外と
むしろ真相解明 "要"(かなめ)となるポジションにいたりするのです。


というのも基氏
観応2年(1351)12月、駿河国薩埵山(さったやま)での
"西の尊氏""東の直義" 両軍の合戦の後(※合戦自体は尊氏の勝ち)
和睦した二人の間で交わされた密談の事や
直義亡き後、鎌倉で1年と数ヶ月尊氏のもとで教育された事
その後、鎌倉殿(=鎌倉公方)として関東を統治する過程で見せた方針意志
…などなど
一見、瑣末と見過ごされがちな関連性を有していて
これら基氏を取り巻く細かい事情を繋ぎ合わせると―――

一般には、『観応の擾乱』は観応3年(1352)2月26日の
直義の他界を以て終了したと捉えられている事が多いですが
(↑繰り返しますが、これは非常に大きな誤解ですので要注意です)
むしろ "その後の基氏" を探る事で
事件の顛末から尊氏直義の真意まで『観応の擾乱』の核心部分が浮かび上がってくる
という、スペシャルなカラクリとなっていたりします。


その上、基氏は人間的にも尊氏と直義の子に相応しい立派な人物で
(↑なんかちょっと変な言い方ですみませんw でも間違っちゃいない… )
流行り病(はやりやまい)で28歳で早世してしまったのが
なんとも残念で残念で仕方ありませんが
にも拘わらず、尊氏直義研究の鍵となる隠れたメインキャラで
言ってみれば…
 「尊氏直義の遺志のすべてを託された二人の希望
というくらいの存在ですので
今からイメチェン準備しておいて下さい。
(というか基氏こそ、二人亡き後の世界の主役… Σ(゚Д゚;)!!!!??? )

(※この時期の鎌倉については
 かなり概要ですがこちらでも少し語っています↓
 『Muromachi通り』「夏休みの宿題(その3)」





という訳で、今日の妄想は観応3年(1352)1〜2月の鎌倉
擾乱がほんの一瞬だけ小康状態にあった、幻のような春の瞬間です。



足利直義足利基氏

(※クリックすると拡大します。1000×750px)



基氏(※幼名光王)は元服前なので、髪が(わらわ)モードです。
でも数え13歳(満11〜12歳(1〜2月ならたぶんまだ11歳))にしては幼すぎる…
とは自分でも描いてる途中で気付いたのですが
き、きっと元服式理髪(※成人の髪型に整える事)した瞬間
急に大人っぽくなるに違いない!…という設定にして強引に描き進めてしまいました。

というか、私の中でのデフォルト基氏は「13歳理髪後」なので
「13歳理髪前」の今回は、またしてもイレギュラーってゆう…


ちなみに、幼名が「光王」(こうおう)なので金髪っぽくしてみました。
"重要な鍵を握る人物" という暗喩だったりもします。
私の中では、養父直義や兄の直冬(※尊氏実子、直義養子)から
(ひかる)と呼ばれている設定です。

(意外と見過ごされているように思いますが
 直冬基氏直義のもとで(少なくとも数年は)
 「同じ屋根の下、家族として過ごした実の兄弟」という事実は
 なかなか重要かと思います。(二人は約13歳差異母兄弟
 妄想的にもかなりの萌えどころかと。)




というか、直冬基氏「むちゃむちゃ直義に懐いていた」
という事実は誰しも認める所だと思いますが
調べれば調べるほど笑っちゃうくらいの慕われ方で
一体直義どんな育て方したのだろう…
とか、ものすごく疑問なのですが
しかしこれは、直義の性格を分析しているとわりと簡単に理解出来ます。
つまり…
直義にとって尊氏の子である直冬基氏って
尊氏の分身…というか「ちっこい尊氏」でしかないんですよw

だから、理屈じゃなくもう心の底から可愛がっただろう事は確かですが
しかし単に甘やかすのではなく
立派な人間に育て上げる為にせっせと薫陶を施したようなのです。
(実際、直冬基氏は非常に人望があります。
 その他エピソードはまたいずれ。)


薫陶(くんとう)って
によって人を感化し、優れた人間に育て上げる事」という意味で
もとはを焚いて薫りを染み込ませ、土をこねて陶器を作り上げる事」
から来ている言葉ですが
文字通り、毎日心を込めてきゅっきゅきゅっきゅこねこね磨き上げていたもよう…
優しいだけではなく、常に気を掛け心を添わせてくれる人というのは
子供にとって最良の愛情を感じさせるのでしょう。
でなきゃここまで愛されないと思う。



さて、そんな親子関係から見えてくるもう一つの事実は…
一般に、基氏や特に直冬
「養父直義を慕っていたから、実父尊氏に反感を抱いていた(憎んでいた)」
というような解釈をされいますが
それは極めて不自然な誤解だったりします。
直冬基氏は、養父直義を敬愛していたからこそ
「直義がこの世で一番愛する兄尊氏は、二人にとっても大切な人だった」
と解した方が、その他の事実と上手く合致するし解釈として自然です。

例えば…
直冬は、両殿(=尊氏直義)の為、あるいは父尊氏の為に戦っている
と明言している文書願文が存在するのに
それを(通説と折り合いが付かないからと言って)
すべて虚偽と切り捨ててしまうのは、少々安易過ぎる発想かと思います。

もし、そんな嘘で騙そうと考えるような人物だったとしたら
直冬に高い人望と統率力があったという事実と整合性が取れないし
(周りの人間も、それ程馬鹿じゃないだろうに)
さらに、当時の武士が神仏に嘘をつくというのは現実的に有り得ない
(そんな不敬な事するくらいなら初めから願文など書かないだけの話。
 神仏に嘘をつけば恐ろしい罰を受けるとの共通認識があったからこそ
 軍忠などの申告の際に「誓文」が有効だった訳で
 願文の内容を虚偽と見做すのは、極端に現代的過ぎる発想かと)

…という訳で「直冬、実父憎悪説」
論理的・実証的に、かなり早い段階で却下される説だったりします。


もちろん、中には言葉のままに解釈すべきでない情報もありますが
史料は(特に一次史料は)"最大限生かして" 成り立つ説を探し当てる事が
たった一つの正解にたどり着く唯一の方法です。


(↑これをすると自ずと(真に)裏を読むべき史料も浮かび上がって来ます。
 『太平記』でさえ(…といったら失礼ですがw)
 喧伝や物語上の捏造だといって簡単に切り捨てるのではなく
 深く背景を読み解く事で、隠れた別の事実が姿を現す事もあります。
 特に尊氏関連の言動や文書には、その裏に真意が隠れているものが多い。
 なんて厄介さんなの… (´・ω・`) )




という訳で、ちょっと話がそれましたが
これまで基氏は注目度低め、直冬は大誤解」という二人でしたが
むしろこの兄弟こそ

『観応の擾乱』の真相 "二人の父" 尊氏直義の真意を背負っている

という、新太平記時代のスペシャル大注目な兄弟ですので
めっちゃイメチェン待機していて下さい。




直冬基氏兄弟☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆来るでこれ




ところで
先日『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」にコメントを頂いて
(↑一つ目の2016年06月25日のねこ様からのコメントです。私の返信はそのすぐ下)
またまた三部作の解釈で脳内スパイラルが始まってしまったのですが
其の二の「対花懐昔」での紫荊花について
やっぱり、半分は故事としての意味(=兄弟仲も込められているかも…
と思い直しております。

というのも、もし基氏
直義は自ら命を絶った」という事を知っていたら(あるいはそう認識していたら)
の話なのですが
尊氏直義は観応3年(1352)正月5日に鎌倉入りした時点で既に和睦していて
(※『難太平記』『源威集』
 この時の和睦の密談内容は、基氏も大方聞かされているはず)

2月25日の元服式にも、なんら変わりなく同席していたはずですが
それなのに、その翌朝突然に直義が一人先立ってしまったのだとしたら
直義の胸の内を知らない基氏からしたら
「なぜ…」という思いが圧倒的に強かったのではないか?と思うのです。


兄の直冬直義から
「立派な人間となって将軍尊氏)の御助けとなるように」(『難太平記』)
常々言い聞かされていたように
基氏も幼少の頃から
尊氏に対する直義の思いを聞かされていたのは、間違いないと思われますが
そうすると素直に考えたら
直義の死に直面した基氏の心境は

仲直りしたのに、もう何も心配しなくていいはずだったのに
 なぜ、あれだけ好きだった人を置いて逝ってしまったのか…」


という疑問に苛(さいな)まれ続けていた、とするのが
最も自然な推測かと思われます。
(もちろん、基氏自身も先立たれた絶望的な悲しみがあったでしょうが
 ここでは「紛紛世事乱如麻」=『観応の擾乱』を背景として
 尊氏直義の関係に絞って考えています。
 それから、子供だった当時より大人になってからの方が
 益々強くそう感じるようになっていったのではないかなと。)



12年経ってもその疑問答えが見出せずに苦しみ続けていた
という基氏の、闇を彷徨うような心を
故事としての紫荊花(=仲の良かった尊氏直義)に降るで表現した
…とは、かなり考えられるかもな〜と
今さらながらに思った訳であります。



ただし、三部作全体として見た場合
其の二の花を架空の花とするのはやはり不自然なので
(「に対して…」と言っている辺り、実際に対面しているのでしょう)
たとえ紫荊花でなくても
何かしら記憶に焼き付いていた花はあったのでしょうが
ただ、観応3年(1352)にしろ貞治3年(1364)にしろ
2月26日では、春の花が咲くには若干時期が早いかな〜とも思われるので
(まあ、当時と今とで気候の違いも有るので何とも言えませんが)
おそらく実際に咲いていたとしてもそれは
2月26日を過ぎて、直義が完全に居なくなってしまった頃
真っ白な春の中に、無音で咲いていた紅色の花… みたいな
すべてが無くなってしまった世界の中の追憶的な存在だったかと。
なんか悲し過ぎますが (´;ω;`)

(※ちなみに旧暦2月26日
 観応3年(1352)では新暦3月12日
 貞治3年(1364)では新暦3月30日です。)

(※2017.3.6追記―――
 すみません、上記の新暦の日付は「ユリウス暦」でした!
 現行の太陽暦である「グレゴリオ暦」への変換では、旧暦の2月26日は…
 観応3年(1352)では新暦3月20日
 貞治3年(1364)では新暦4月7日となります。
 誠に申し訳ありません m(_ _)m
 …これは、貞治3年の方は、春の花咲きそろってそうですね。)





ところで、直義が自ら命を絶ったのだとしたら
そこには "強い理由" があったはずで
(なんたって、あの兄上大大大好き直義
 尊氏を置いて逝ってしまった…というのは
 これは想像以上の大問題かと)

これは、当時の擾乱の真相現状変遷と直義の性格の深層まで
とことん追求してようやく見えてくる…かも…
くらいのめっちゃ微妙な難問なので
私もようやく核心に指先が届いた…程度で、今でも無限ループしていますが
幼い基氏が分からなかったのは当然としても
当の尊氏はどこまで直義の思いに気付く事が出来たか?というのは
尊氏直義ファンとして、むちゃむちゃ気になるポイントであります。


(これは史料的証拠が少な過ぎて、推測の上の憶測でしかありませんが
 おそらく(なんでもお見通しの)尊氏でさえも
 確信を持つには至らなかったのではないかなぁ…と想像しています。
 ただ、生涯尊氏直義に謝り続けていただろうと思われます。
 これはほぼ間違いない事実。)




もし現代に二人が甦ったら
どうやってわだかまりを解いて行くのだろう…
…という妄想が、私の脳内物語のスタートだったりします。
二人にはどうしても、あの時伝えられなかった本当の気持ちを打ち明けて
途切れた明日の続きを始めて欲しい… 新しい物語で―――


…と、小さな願いをつぶやくバーボン室町の片隅であった。




という訳で、今日の妄想はここまで。
最後に初代鎌倉公方足利基氏初登場記念と致しまして
本サイトTOPページを更新してみました。


ああまた、義材の季節が終わってしまった… `;:゙;・(゚ε゚ )ブーッ!! ←義材



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posted by 本サイト管理人 at 22:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2016年08月13日

夏の室町くん

こんばんは、すっかり真夏の真っただ中ですね。
折角夏なので夏らしくしないともったいないと思い、またまた壁紙を作成してみました。
今回は、夏空に映える室町くんバージョンです。 いらねー


夏の室町くん

(※クリックすると拡大します。1920×1200px)


相変わらず幸の薄めな室町くんである。

(※むろまくま室町くんについては
 『Muromachi通り』「夏休みの宿題(その4)」をどうぞ。)



室町くんは、歴史の場末酒場「バーボン室町」でもいつも隅っこの方で
みつはち入りみかんジュースをちびちびおいしそうに飲んでいます、一人で。
たまに入荷するみつはちマンの特選コムハニー(※蜂の巣ごとハチミツ)がメニューにある時は
真っ先に注文してとっても嬉しそうにもぐもぐしています、一人で。

そんな室町くんの今年の夏は… 特に予定はありません。





ところで、本当にどうでもいい話なのですが
前々回の「バーボン総目録【2016年】」のおまけの珍魚画像に関して
話しそびれた事がありまして
私は、むろま珍魚すくい画像を作成する時はいつも
真ん中へんに「ぴとっとひっついた珍魚」を忍ばせていますが
(※初代→『Muromachi通り』「夏休みの宿題(その4)」
 二作目→『Muromachi通り』「チラ裏総目録「観応日記」」
 三作目→ 上の前々回 )

これは、一番最初の画像作成の時に "偶然" 出来て以来
吉例として毎回登場させる事にした「ぴと珍魚」(…と、いま命名しました)です。
(つまり二作目以降は意図的に作成。)

で、"偶然" というのはどういう事かと言うと
ペイントソフト(※クリスタを使っています)のペンツールの設定で
ペン先3種類の "むろま珍魚のイラスト" に設定すると
画面をなぞるだけで各むろま珍魚ランダムかつ無限に描写されるのですが
この自作の "むろま珍魚ペン" を使って適当にペンを動かしていたら
たまたま絶妙にひっついた二匹が誕生していた、ってゆう。


折角なのでこのぴと珍魚
「どんなに大きい水槽に移してあげても決して至近距離から離れない
 極めて稀に現れる仲の良い縁起物金魚(四葉のクローバー的な)」

という設定にしてみた… まではいいのですが
しかしあまりのひっつきっぷりに、いつしか尊氏直義にしか見えなくなってしまい
以来私の中では、左の赤いの直義で、右の橙色尊氏という事になっています。

しかしそうすると、残った桃色
ベガ(織姫)とアルタイル(彦星)ばっかイチャイチャしてて独り天の川で浮遊する非リアデネブ、みたいな可哀相な夏の大三角ポジションになってしまうので
とりあえず桃色
尊氏と直義の元ネタ(=転生元)である源八幡太郎義家、という設定にしてみました。

(※義家尊氏直義の転生関係については
 『Muromachi通り』「源八幡太郎義家」「正月奉納連画 第二弾」を。)



ちなみに私は
(誰にも言ってませんが)脳内で八幡太郎義家「たろちゃん」と呼んでいるので
「たろ珍魚」と命名したいと思います。
しかしそうすると「ぴと珍魚」の「たか珍魚」「ただ珍魚」という事になり…
どうでもいいですね、そんな設定。




とは言えそうなると、前々回のむろま珍魚秘話によれば
(最後の三匹の生き残りである)義家尊氏直義でどうやって繁殖したんだよ!!
という大変な問題が発生してしま… まあいいか。
…いや、よくないな
人によっては大問題(良い意味で)になってしまうので、きちんと設定を詰めておきますと
むろま珍魚は有性生殖ではなく
「転生生殖システム」(てんしょうせいしょく しすてむ)を採用していますので
たろ珍魚(1個体)からはぴと珍魚(たか+ただの2匹)が
ぴと珍魚(2個体)からはたろ珍魚(1匹)が生まれます。

しかしそうすると、何世代たっても個体数が3以上に増えない…
という困った状態になってしまうので
たろ珍魚ぴと珍魚は生涯に1回以上の産卵をするという設定が望ましく
とりあえず、群れ全体の転生率(=生涯産卵数)1を超えれば
むろま珍魚の生息数は増加が見込めるかと。
(※なお、転生生殖システムにおける孵化率100%です。
 理由…孵化しないと悲しいから。)


…まあどうでもいいんですが、そんな設定。



ついでに言うと、むろま珍魚は金魚なだけに卵生ですが
ぴと珍魚が産んだ卵(1個)からは、1匹たろ珍魚が孵化し
たろ珍魚が産んだ卵(1個)からは、たか珍魚ただ珍魚2匹が一緒に出てきます。
てゆうか
ぴと珍魚が卵産む時は、たかただのどっちが産むんだよ!!
とかいう細かい事は気にしないで下さい。
…いや、気になるな
たぶん、半分づつ材料買ってきて一緒にこねこねしているんじゃないでしょうか。




さて、これで珍魚の繁殖問題と言う大問題が解決しました。
めでたしめでたし。
でも、魚って結構雌雄同体のものがいるので
別に有性生殖でも何の問題もなく繁殖すr… まあいいか、そんな本当の話は。
クマノミは生まれた時はみんなオス
群れの中で一番大きく成長した1匹がメスになるし
チョークバスのペア(つがい)なんて
一日に何回もオスメスの役割を入れ替えて互いに卵産むらしいですよ。
…いやだから、いいんですよそんな事は、そんな事は!!



ちなみに、むろま珍魚は基本的に雌雄同t…じゃなくて妖精なので
性別はもちろんの事、言うなれば万能細胞多能性珍細胞ですので何にでもなり得ます。
たろとかたかとかただとかはあくまで属性(固有名詞ではなく普通名詞)であって
はそれぞれに色々ですので
捕まえてみるまで中身は分かりません。

(※例1:チンギョ目 ムロマチンギョ科 タロチンギョ属 アシカガヨシキ
 例2:チンギョ目 ムロマチンギョ科 タカチンギョ属 モチ
 例3:チンギョ目 ムロマチンギョ科 タダチンギョ属 謎の美少女 )



捕まえてみるまで正体が分からないとか
「むろま珍GYO!!」がゲーム化されたら大変ですよ
「なんだよまた高経かよ、チッ」とかいうブーイングが方々(ほうぼう)から聞こえて…
失礼な! 足利高経様超レアキャラですので滅多にお目にかかれません。
探す人もそんなにいません。

ちなみに、タカチンギョ属高経タダチンギョ属高経では
初期性能(生態)が大幅に異なります。
FFエクスカリパーエクスカリバーくらい違う、タカ系高経は全くやる気を出さない。

(※エクスカリパーは、どんなに強い敵でもどんなに弱い敵でも
 お構い無しにダメージ1だけ与える聖剣エクスカリバーの偽物
 別に弱いのではなく、安定してやる気がないのである。)





以上、むろま珍魚の「転生生殖システム」についてのどうでもいい研究成果でした。
とは言え、こうしてむろま珍魚の生態を観察する事によって
既にこれまで歴史学的アプローチでは
『難太平記』今川了俊の証言や、現存の直義自筆書状などの解析から
「義家 → 尊氏+直義」という転生案件が明らかになっている訳ですが
実はこの反応は可逆的転生輪廻を繰り返している!」
という驚愕の事実が生物学的に判明し…!!?

…とか、自家妄想を基になんかすごい事発見した気になってしまうのは
真夏の太陽で頭が茹だった初期症状だと思います。



とは言え、歴史上の人物生物として(つまり生身の人間として)観察するのは
侮れない視点ではあります。
人間である彼らにはがあり、その心が彼らの行動を規定しているのなら
歴史史料から "心" を読み解く事は、歴史的事実の解明にとって
実は最も鍵となる作業なのではないかと。

特に尊氏直義については、そのをダイレクトに反映した史料が多く残されていて
彼らの行動の真意は、そこからかなり高い精度で求める事が可能です。
尊氏の理解不能な言動の数々も、もしかしたら
源氏の転生生殖システムを知っていたが故の必然的なものだったのかも知れ…
って、何言ってるんでしょうか私。

とは言え、半分はのせいだけど、半分はのせいじゃないかも知れないので
尊氏プロファイリングに挑もうと考えている方がいましたら
ほんの少しだけ頭の片隅に置いておいて下さい。




ちんぎょ☆*☆。☆*☆。 c(・∀・っ)ミ *☆。☆*☆。☆ちんぎょ




ところで、見えない重要人物足利高経斯波高経についてですが
いつも元気素直タダチンギョ属高経(=ただ珍高経に比べて
タカチンギョ属高経(=たか珍高経が常時だるそうに泳いでいるのは
わりとかなり仲良しな高経直義に対して
尊氏高経の相性が悪いから… という設定にしたいとこですが
もう少し複雑な珍魚事情があったりします。


まあ確かに歴史的には
『観応の擾乱』での高経は基本、直義方としての活躍が目立つのは周知の事実ですし
それ以前の幕府ほのぼの時代では
(京都の)新熊野社に参詣する際、直義が潔斎(物忌)の為に高経んちを精進屋として
一週間ほどお泊りしたり(まあ他に御供も沢山いますが)
(『大日本史料』康永3年5月17日)
(※物忌(ものいみ)…神事に臨む際、一定期間飲食・言行を慎み不浄を避ける事。
 ※精進屋(しょうじんや)…物忌して心身を清める為にこもる建物。)

それから、長門国二宮の「忌宮神社」に一緒に自筆の法楽和歌を奉納したりと
(『大日本史料』康永3年12月15日)
ただ珍高経には、なかなか素敵な思い出があったりします。  ゚o。c(・∀・っ)ミ スイスイー


(※前者の新熊野社参詣は、熊野社本山で遷宮があった為に
 京都の新熊野社本山の儀式で厳かに参拝を行った、というものですが
 「殿」である折り烏帽子・浄衣姿の直義の前後に多数の幕臣その他が列する
 非常に荘厳な行列だったようです。(※浄衣(じょうえ)…清浄な白い狩衣)
 た、直義かっこいい (*´ д`*)
 しかし、結構な儀式だったにも拘わらず尊氏は参列していません。
 しかもこれも康永3年(1344)… 気になる…
 ちなみに、この参詣行列には高経も後陣に連なっていています。
 たまには出没する。)

(※後者の自筆法楽和歌
 以前『Muromachi通り』「夢想の結果」(→尊氏直義の)
 「室町的鎌倉旅行記(その2)」(→高経の)で画像を紹介したものですが
 一見みんな似ているものの
 尊氏のは、建武4年(1337)11月15日に単独で奉納されていて
 直義高経のは、康永3年(1344)12月15日に一緒に奉納されています。
 7年も間があいているのに書式が同じである事から
 直義と高経の奉納が尊氏の指示である事は間違いない…(←他にも理由あり)
 …ので、これはどちらかと言うとただ珍高経のほのぼのエピソードと言うより
 背後にたか珍高経の気配を感じるミステリーなのですが
 なぜ尊氏は忘れた頃に二人に同じ事をさせたのか? しかもまた康永3年…
 という気になる史料ですので、ちょっとだけ覚えておいて下さい。
 ちなみに、さらに7年後に
 今度は直冬(※尊氏実子で直義養子)が同じ書式の法楽和歌を奉納している…
 直冬は、タダチンギョ属のものしか存在しないと思われがちですが
 実は、タカチンギョ属の超稀少種 "たか珍直冬" が生息…!!?
 …しているかも知れないかも知れないので
 これもちょっとかなり覚えておいて下さい。)



さて一方、尊氏との関係ではこれも周知のように
『太平記』の「鬼丸・鬼切」の話
(↑『Muromachi通り』「室町的鎌倉旅行記(その2)」最後をどうぞ)
で語り継がれる変ちくりんな仲の悪さ
不動の通説になってしまっている訳ですが… c(・A・っ)ミ ウッウー 。o゚

高経の家系は、足利家嫡流となっていてもおかしくないやんごとない高家格だった為
尊氏に対抗心を燃やして『観応の擾乱』直義方に属して反尊氏的行動を繰り返し
 尊氏もまた、高経を冷遇し疎んじていたので、二人は全く冷え切った仲だった」

とされていて
今となっては二人の関係を顧みる人もとんと見かけませんが
実は… あの仮面将軍尊氏すべての秘密を打ち明けるくらいに
心から信頼する唯一無二の友だった
…という、最高に美味しすぎるポジショニングを決め込んでおきながら
しかし、色々と隠さなければならない事情があった為に
巧妙にとか虚無とか被りつつ(にゃー)尊氏ツンツン関係を装っていた
それが、高経様周囲からは見えない本当の理由、にゃは☆
…という
私がしばしば(しつこく)語っている話を思い出して頂きたいのですが…

(※参照…『Muromachi通り』「暑中お見舞い申し上げます」
 後半のてきとーなネタバレコーナーの ( ゚Д゚) < その三
 それから上掲の「室町的鎌倉旅行記(その2)」の後半ほか
 「正月奉納連画2016 第二弾」 「将軍兄弟プロファイリング」
 あと、高経たの字も出てきませんが前回の
 『バーボンMuromachi』「『Muromachi通り』通信【将軍兄弟profiling】」
 心の目で見れば…いる?)


つまり―――
タカ系に属するたか珍高経
浮いてんのか流されてんのか分からないやる気の無さは "世を忍ぶ仮の姿"
二人の友情を隠す為に "そういう振り" をしていたって事なんですよ!!
ホントウハ ゚o。c(・∀・っ)ミ スイスイー


(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


たからもしこの夏、どこかでだるそうに泳ぐたか珍高経を見付けても
棒でつんつんしたりしないであげて下さい。
本当はその小さな金魚のの中に
ぴちぴちスイスイしたい熱い気持ちを隠しているのですから。

直義亡き後の『観応の擾乱』クライマックス
尊氏の敵として戦った最終決戦での高経が、ある約束を秘めていたように―――



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posted by 本サイト管理人 at 00:33| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月17日

足利さぬ …のこと(その1)

こんばんは、先日の記事「尊氏さんの命日(その1)」
謎の尊氏の室「さぬ」の事を紹介したら
私の中で俄かに、気になって気になって仕方ないモードが再燃してしまったので
もう少し話を続けたいと思います。


尊氏の室といえば、鎌倉幕府の御家人時代に鎌倉で婚姻した正室
北条一族出身の赤橋登子が有名ですが
しかしその後、新生幕府の初代将軍ともなったにもかかわらず
尊氏には側室に関する記録がまるで無い、というのも有名かと思います。

まあ、北条一族から正室を迎える前の青春時代では
竹若(庶子、長男)の母とか、直冬(庶子、次男)の母といった
非正嫡的な、一夜限り的な事はあった訳ですが
しかしこの時期は
まだ尊氏さん20代(場合によってはぎりぎり10代)ですし
政局とか大人の事情とかで正室が決まらず
悶々(もんもん)とした日々に耐えていた訳ですし
そのくらいのロマンスはいいじゃないか!!…と思います、はい。


(鎌倉時代の足利家の嫡男は、北条一族から正室を迎えるのが通例で
 それゆえ、北条一族の血を継いだ者が代々足利家当主となっていた訳だが
 家督を継ぐ予定だった尊氏の兄「高義」が21歳で他界してしまった事で
 (※この時、尊氏は元服前の13歳)
 高義の遺児はまだ幼いし
 次男尊氏の母は、上杉家の上杉清子だし
 足利家の家督どうすんのさ!!…という政治的な大人の事情が発生していた。
 最終的に、尊氏は赤橋登子を正室に迎え、家督の継承も決定したものの
 兄高義他界から少なくとも10年近く(最大12年ほど)
 立場の決まらぬ微妙な青春時代を過ごしていたのだった、マル。)


この辺の、尊氏の鎌倉時代の(しがない)身の上については
【清水克行『(人をあるく)足利尊氏と関東』(吉川弘文館)2013】
…の、p.20-30あたりをどうぞ。
この時代の尊氏に関しては、これで最終結論!ってとこまで達していると思います。



ちなみに、尊氏の第一子、竹若(たけわか)は
『元弘の変』(鎌倉幕府倒幕)に際し、戦乱の犠牲者として
元服前(10歳前後?)で早世する事になってしまう長男です。
その母は、足利一門の加古六郎基氏の娘
(当時、家督継承もあやしく立場の中途半端だった)尊氏の「最初の正室」
とも見られていますが
ただ、年代的に… うーん…?

加古六郎基氏って、足利頼氏の兄弟なので
基氏の娘と、足利頼氏のひ孫に当たる尊氏とじゃ、かなり世代が違うのですよね。
頼氏・基氏の兄弟の年齢が相当(20歳以上?)離れていて
(↑彼らは多兄弟で、基氏は末の男子なので有り得る)
基氏の娘も晩年(40〜50代くらい?)の子
…だと仮定すると
二人が同年代だったという事は十分に有り得るのですが
ただ可能性としては、尊氏よりも数歳は年上だったのではないかと。

それに加えて、足利家と加古家の家格差を考えると
やはり彼女は「尊氏の室」というより
身の回りの世話をする「家女房(侍女)」だったんじゃないかな〜
と思うのですが、そうすると…
身も固められぬ日々にもんもんが限界を突破した20歳そこそこの尊氏さんは
年上の彼女に抑えきれない魅力を感じて―――

…というとこまで想像してみた。




はい次、直冬(ただふゆ)の母についてです。
直冬の誕生秘話を伝えるのは『太平記』のみで、これは有名な逸話ですが
直冬は、その昔…
「尊氏がお忍びで一夜通いした越前局(えちぜんのつぼね)という女性が生んだ子」
だと。
直冬の生年は、嘉暦2年(1327)(尊氏23歳の時の子)との見解が最有力なので
尊氏22歳の時の 過ち ロマンスという事になります。


さて、この直冬の母について
なぜか現在では
「直冬の母は身分が低かった(だから直冬は尊氏に認知されなかった)」
と思われている事が多いような気がしますが
(極端な話、遊女だったとかいう説もある?)
でも、そんな事ないんじゃないかな〜 と思います。

というのも、彼女については
『太平記』では「越前局」(えちぜんのつぼね)あるいは「越前殿」
『足利系図』でも「越前局」と記されているのですが
この名称からして
素性がはっきりした結構な身分の女性だったと思われるので。
(ちなみに『尊卑分脈』では、直冬の母は「家女房」と書かれていますが
 まあこれは「正室ではない」程度の意味かと。)


しかも、足利家の御曹司が一目惚れ的な事をしてしまうくらいですから
かなり魅力的だった…というか、相当な美人だったのではないか
というのが私の予想なんですが。

ってことは、直冬は相当にかっこよかったのではないか!!

…というとこまで想像して
直冬ファンの私は昇天しました。


まあしかし、このような込み入った素性にも拘らず
後年の直冬が、目を見張る人望の厚さを示した事実からすると
ビジュアル的な素質の良さはあったように思います。
(というか、尊氏に(生き写しレベルで)そっくり… の疑い2000%。)






という訳で、尊氏の室については
若い時に(全然許せる範囲の)淡い話があるだけで
京都で将軍となってからは記録に残る側室はいない
というのがほぼ定説となっているかと思います。
(綺麗な将軍!!)


…なので、尊氏の子供たちについては
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
で、詳しく論じられていて全貌が明らかになっていますが
わりと子供が多いわりに、側室の記録がなく
え、(竹若と直冬以外)全部赤橋登子が生んだの??
という疑問があった訳ですが
ここへ来て…「足利さぬ」ですよ!!



といっても、さぬはあくまで特別な事情があって迎えた室なので
やっぱり尊氏さんは、自制心の強い綺麗な将軍だと思います!!



…と、持ち上げておいて何ですが
女の子は普通に好きそうなので
身持ちを堅くしていたのはたぶん
「他犯戒を持して」(by『太平記』)正室以外一切目もくれなかった弟直義にならった
というか、直義に嫌われたくなかったのが本音
だったに違いない!!

…というとこまで想像して悶(もだ)えました。




という訳で、全然さぬの話が出来なかったので
次回「足利さぬ …のこと(その2)」に続きます。




(ちなみに、直義には愛人がいた!とかいうスクープの元となっている
 有名な魅惑の(?)和歌がありますが
 あの歌の真相は… 後ほど解説したいと思います。)


(それから、尊氏さんがあちこち女色にふけらず
 特に将軍となって以降、決して無節操に側室を持たなかったのは
 本当は、真面目な理由がありますので
 (自分でネタにしておいて何ですが)
 頑張った(我慢した?)尊氏さんは、もっとみんなに讃えられていいと思います!)



posted by 本サイト管理人 at 20:10| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月18日

足利さぬ …のこと(その2)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その1)」の続きです。

ところで、タイトルについてなんですが
当時の社会では、結婚しても女性は家名を変えませんので
夫婦は別姓です。
(例えば、赤橋家出身の赤橋登子は、生涯赤橋登子です。)

しかしさぬの場合は、父が日向秀政から足利秀政に改名したので
娘のさぬも「足利さぬ」となったと思われます。
…ってことはですよ
尊氏とさぬは「夫婦で足利」だったのですよ!
一族や血縁者同士の婚姻じゃないのに!

まあ、だから何だという話ですが。
そもそも、当時の女性のフルネームが意識される事って
ほとんどなかったような気がしますが
しかしそれでも、敢えて言うと「さぬ」「足利さぬ」なんですよ!
もう、気になって気になってしょうがない…



ではまず、そんな尊氏の謎の室「さぬ」に言及した文献を再掲しますと…
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
の、p.189-190 の日録と、p.197の系図で
主な出典は『萩藩閥閲録』という史料です。

ちなみに、尊氏の室については他にも謎情報があって
二階堂氏の系図で、二階堂時綱の娘の注記に「尊氏妻」とあるそうですが
これは "たかうじ" は "たかうじ" でも
「佐々木 "高氏" の妻」の間違いですね。(※佐々木高氏=佐々木道誉)

鎌倉幕府御家人時代、尊氏の最初の諱は「高氏」だったので
それで後世の誰かが勘違いしてしまったのでしょう。

(倒幕後、建武新政権が始まって間もない元弘3年(1333)8月5日に
 後醍醐天皇から偏諱「尊」を賜って「尊氏」に改名しました。)



―――ちょっと余談―――

鎌倉幕府倒幕では、後醍醐天皇に従い大活躍した人物はたくさんいて
みんなそれぞれ恩賞にもあずかっている訳ですが
とはいえ、尊氏が後醍醐天皇の諱「尊治」(たかはる)から偏諱「尊」を賜った
…というのは、ミラクルスペシャルなのはもちろんですが
かなりイレギュラーな恩賞だったと思うのですが。

もともと(近臣の讒言さえなければ)極めて良好だった後醍醐天皇と尊氏の関係や
後醍醐天皇を慕い続けた尊氏の心中から思うに
後醍醐天皇が偏諱「尊」を授けた経緯って…

「あれ、高氏って尊氏にしても "たかうじ" じゃん?
 読み変わらないじゃん? ワロスwwwww
 じゃあ尊氏にしちゃえばいいじゃん? 問題なくね?www」

くらいの、ギャグに近いノリだったのではないかと…。
だとしたら―――
決裂後も生涯「尊氏」の名を名乗り続けた尊氏の気持ちはどんなものだったろう…
帝と笑い合った思い出… (´;ω;`)

ついでに言うと、「尊氏」って良い名前ですよねぇ〜
「足利高氏」「足利尊氏」とでは
なんかラグジュアリーさが雲泥の差、スペックが圧倒的に違う!!
すべては後醍醐天皇の御恩のお陰… (´;ω;`)

―――感想文おわり―――





さて、『萩藩閥閲録』とは
江戸時代に、萩藩が諸家に伝わる古文書家の系譜を集めて編纂した史料で
ここに、足利秀政の子孫(※秀政の3代後から家名を「大和」に変更)が所蔵していた
複数の書状の写しと代々の系譜が掲載されています。
そのうち、足利秀政尊氏から送られた書状の写しが4通
これが大変興味深い訳ですが
順不同で並んでいるので、それを内容から年代順に並べ替える必要があります。
以下に、書状の概略だけ紹介しますと…


【1】尊氏から足利秀政への遺言状
(先日紹介したもの。詳しくは…【『南北朝遺文 中国四国編』第3巻 2969】)
 日付:延文3年(1358)4月27日
 宛所:御父足利大和守殿


【2】いつもさぬに言ってるんだけどー
 秀政の猶子になりたい!(その証に)太刀を二振りちょうだい!
 (その後はちょっと意味が取りにくいのですが…)
 両家の安泰や繁栄への願いと、さぬの上洛が滞りなく進んだ事などについての書状
 (「おなじくは治世を給う可く候」とか「子孫の事〜」とか
  なにかと意味深な内容です。)
 日付:(年不詳)2月1日
 宛所:やまととのへ(大和殿=足利秀政)


【3】秀政の名字を「足利大和守」にすべきことと
 幕紋の沙汰(足利二つ引両紋の下賜)についての書状
 日付:(年不詳)8月16日
 宛所:日向殿(日向秀政=のちの足利秀政)


【4】東海道の先陣を務め、殊に関東で忠節比類ない戦いを見せた足利秀政への
 尊氏からの戦功を讃える感状
 (「大菩薩の記文に任せ、当家の子孫が朽ちることはないだろう」
  …という気になる文言も。両家について、八幡大菩薩に何を誓ったのか…?)
 日付:建武3年(1336)12月13日(←『竹之下・箱根の合戦』の最終日)
 宛所:御父大和守殿



さて、これらを年代順に並べ替えますと…
まず【1】は尊氏薨去の3日前なので、間違いなく4番目(最後)です。
そして【3】以外は宛所が改名後の「大和(守)」となっているので、【3】が1番目
【2】の時点では、まだ尊氏は秀政の猶子ではないので
【2】→【4】(=宛所が「御父」)の順番
ということで…

【3】(年不詳)8月16日
【2】(年不詳)2月1日
【4】建武3年(1336)12月13日
【1】延文3年(1358)4月27日


となる訳ですが
【3】は署名が「尊氏」となっているので
(それを信じれば)元弘3年(1333)8月5日以降
そして【2】では、尊氏は京都に在住しているようなので
(『中先代の乱』で直義救助に向かう)建武2年(1335)8月2日以前
…以上を踏まえると
年不詳の2つの書状は
【3】が元弘3年(1333)or 建武元年(1334)の8月16日
【2】が建武元年(1334)or 建武2年(1335)の2月1日

と推定される訳ですが
ただ、両家の意味深な関係、秀政を「契約」によって足利姓とし
さらには猶子になる事まで望んだ尊氏の真意を思うと
おそらくこれらの行為は、倒幕という宿命的な時代の変動に起因するものであった思われ
そうすると、尊氏は新政権が始まって日を置かずに行動に出たと考えるのが妥当…
という事で

【3】は、元弘3年(1333)8月16日
【2】は、建武元年(1334)2月1日


と考えて問題ないのではないかと思います。



(どちらにしても)さぬが尊氏に嫁いだのは
まだ室町幕府開始以前の、建武政権時代の事だったと推定されます。

(あるいは、側室として迎えるくらいなら、北条一族に憚りなく出来たとしたら
 もっと以前、鎌倉時代中の可能性も無きにしも非ずですが
 それでも、時代の変動を感じ始めた『元弘の変』開始(元弘元年(1331))よりも後
 父の足利貞氏が他界(元弘元年(1331)9月5日)して
 百箇日が過ぎた後の事だったのでは…?
 と、想像しています。)



建武新政権が始まり、尊氏が鎌倉に帰る事なくそのまま在京となった時点で
さぬは… おそらくは鎌倉にいたのだと思いますが
尊氏が、さぬを京都に呼んだと。

ここ、わりとポイントなので覚えておいて下さい。


(ちなみに、足利秀政の家系
 秀政の先代から「日向」を名乗っているし
 子孫は萩藩に仕えているし、もとはと言えば平氏だし
 西国に地盤のある一族かなぁ…とも思ったのですが
 ただ、秀政の先代の日向義高
 「足利式部少輔義直より軍倍を伝授」されたとあるので
 (足利義直が誰かは謎。『尊卑分脈』では見当たらず…
  うーん、吉良あたり?)

 既に鎌倉時代から、足利家とは関係を持っていたようだ
 …という事で、さぬは鎌倉から京都に上ったのだと推定しました。)




さて、書状の年代と、さぬとのだいたいの婚姻時期が判明したところで
次回「足利さぬ …のこと(その3)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:07| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月23日

足利さぬ …のこと(その3)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その2)」の続きです。

さて、さぬの父、足利秀政の改名(日向→足利)の、いわく有り気さから考えても
(八幡大菩薩に誓ったらしい)両家のただならぬ関係から考えても
尊氏にとって、さぬとの婚姻は隠された深い意味がありそうだ…
というのは想像に難くない訳ですが
そうすると、さぬはかなり特別な側室…というか
「準正室」くらいの存在だったのではないかと思えてしまうのですが
にも拘らず…
どうにも、当時の記録上ではさぬの気配が全くしないのですよねぇ…


以前『Muromachi通り』「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
尊氏の腹心の僧、三宝院賢俊の日記『賢俊僧正日記』の中の
尊氏の家族「衰日と年齢」についての記述を3つほど紹介しましたが
これらには、さぬらしき女性の記述は全く見られない…
という事は
(賢俊による)さぬの日常的な修法は行われていなかったし
とりあえず尊氏邸には同居していなかったっぽい
というのは間違いないようです。



ただ、賢俊の日記にはちょっと気にかかる部分もあって
まず、暦応5年(1342)2月の記述を再掲いたしますと…


二月  御衰日
 将軍(尊氏)卅八卯酉  三条殿(直義)卅六丑未
 大方殿(上杉清子)七十三卯酉
 御台(赤橋登子)卅七丑未  三御台(直義室)卅六丑未
 鎌倉若君(義詮) 若君(聖王)四辰戌  三若君(基氏)三子午

 姫君  一ヽ姫君 六丑未

(※「三御台」「三若君」の「三」は、三条殿=直義のことです。
 三若君(=基氏)は尊氏の実子ですが、直義が養子として養っていました。)



この記述の「並び順」に関する特徴は
尊氏 → 直義 → 尊氏室 → 直義室 → 尊氏子(義詮・聖王)→ 直義子(基氏)
となっている事といえますが
ただ、男子まではいいのですが、女子(二人の姫君)についてが謎な訳で…

最下段の最初の「姫君」とは
この頃生まれたばかりの、赤橋登子の娘の「鶴王」と考えられるのですが
そうすると、(年上にも拘らず)6歳になる姫君がその後に書かれている
…というのが、どうにも疑問な訳でして。
うーん、ぱっと思い付くのは
この姫君が、赤橋登子の所生ではないからなのではないか…?
という可能性な訳ですが…。


でも「一ヽ姫君」の「一ヽ」の意味が分からない…
「三」じゃないから三条殿(=直義)の養女という訳でもないし
(※直義は、この翌年に生まれた尊氏の娘を養女にもらいます)
そもそも、この姫君は建武4年(1337)生まれ
記録に残る尊氏の娘としては、最初の女の子(長女)なので
赤橋登子が産んだ子だったとしたら、どこかに養子に出すとは考えにくい…
というか、「鶴王」がとても大切に育てられた様子からすると
やはり、この頃生まれた「鶴王」こそ、赤橋登子の最初の女の子であって
この6歳の姫君は、どう考えても母が違う…
まあつまりはっきり言って
さぬが生んだ姫君なのではないか…!!
と思ってしまった訳ですが。

つまり、二人の姫君の記述は
正室赤橋登子の姫君」「さぬの姫君」
と、正嫡の順番になっている、と。




それからもう一つ
賢俊の日記の貞和2年(1346)の記述(2か所)についてですが
赤橋登子の姫君に関して…


正月4日  上台 44 辰戌  同姫

10月13日  上台 44 辰戌  同姫


(※上台=赤橋登子。年齢の「44」は実際は漢数字です。)


と、どちらも赤橋登子に姫君が一人だけいるように書かれていて
この子は、この年に5〜6歳になる「鶴王」の事だと考えて間違いない訳ですが
しかし…
実はこの頃、尊氏にはもう一人姫君がいて
でもその子は、この年の7月7日に3歳で夭折してしまいます。

もしこの姫君も、赤橋登子の所生だったとしたら
正月4日の記述の方は
上台 44 辰戌  同姫 同姫
と書かれているはずなのに、なぜか一人分…

私は以前、上記の記事「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
この正月4日の「同姫」とは
「鶴王」「3歳の姫君」をまとめて記したものだろうと考えたのですが
よく考えたら、それはちょっと不自然かなぁ…と。

という訳で、つまり何が言いたいかというと
この年に夭折した3歳の姫君
赤橋登子の子ではない…ってゆうか、さぬが生んだ子なのではないか!
とこれまた思う訳です、はい。




妄想が☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆妄想を呼ぶ




と、こんな感じで妄想をたくましくすると
当時の記録上では、これまで影も形も見えなかったさぬの存在
なんか、見えて来た…かも…??

まあしかし
それでも「賢俊による修法が行われていなかったっぽい」というのは
やっぱり気にかかるし
この二人の姫君も、生年的には、赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないので
私は、考えらる可能性として
もしかしてさぬは… わりと早い時期に亡くなってしまっていたのではないか!?
という、(´;ω;`)な事態も考えてみたのですが…


しかし、ここにその可能性を打ち消してくれるかも知れない
気になる史料が一つありまして―――


【小松茂美『足利尊氏文書の研究 V解説篇』(旺文社)1997】
の、p.210-213 の解説の中で登場する書状なのですが…


これは、建武4年(1337)7月25日に発給された「足利尊氏寄附状」に関連して
その43年後の康暦2年(1380)6月3日に発給された文書で
(詳しい解説は、まるで省かせてもらいますが)
この文書を自筆でしたためたのが「平氏女」(へいしのめ)という女性で
その内容から、彼女は
「足利家一門の高貴な女性」(※上記文献より引用)
と考えられ
この文書が伝えられた多田院では、その伝来の途次でいつしか
この「平氏女」は、尊氏の正室の赤橋登子に擬定されて来たそうです。

室町時代初期の、地位の高い平氏の女性…といったら
北条一族の赤橋登子しかいないから、そう考えられて来たのも当然だと思いますが
しかし!!
既に貞治4年(1365)5月4日に60歳で没している赤橋登子が
康暦2年(1380)にしたためられた書状の発給者である訳がない…
つまり、この「平氏女」が誰なのか謎…
上記文献では
「しかしながら、それ(=赤橋登子)に代わるたれなのか、いま追及の手がかりがない。」
(※原文より引用。カッコ内は私による註。)

とされています。


…はい、という訳で
私はこの解説を読んだ時
「え、それって「さぬ」なんじゃないの!?」
と思ってしまった訳であります。

もしこの(かなり適当な)思い付きが正鵠を射ていたとしたら
さぬはわりと長生きしたって事になるので(※この時点で、尊氏没後22年)
ひと安心!…と言いたいとこですが
うーん、どうだろう…

というか、父の秀政が足利に改姓したのに
その後もさぬは「平氏女」と署名していたってことは…
え、つまりさぬは「足利さぬ」って自覚してた訳じゃないの??
それ(名字)とこれ(血筋)は別問題なの??
…いやそもそも
この「平氏女」をさぬと推定するのは、裏付けが無さ過ぎるので
これ以上、妄想に妄想を重ねても仕方ない訳で
赤橋登子の姉妹でもいたのかな〜
と考えるのが、現実的なところでしょうか。

まあ一応、私の勝手な「さぬ妄想」という事で語ってみました。




以上、尊氏の謎の室「さぬ」について
今のところ語れる事を、大略語り尽くしてみました。
まあつまり結論は… です。
だから妄想の余地∞無限大です。 やったね!

なので、もう少しだけ「さぬ」で引っ張りたいと存じますので
次回「尊氏さんの子供たち」をちょっとだけ解説したあと
満を持して
私の秘蔵(?)のさぬネタを披露したいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)