2018年02月13日

直義の最期に関するあれこれ(avay様への返信コメント)

以下は「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」に頂いた
avayさんのコメントへの返信です。
あまりに長くなってしまったので、ブログ記事として投稿しました。

返信コメントという形式ではありますが、もし興味がある方がいましたら
どうぞ(avayさんのコメントと合わせて)読んでみて下さい。

ただ、下記の本文中にも断りを入れましたが
(この私の返信コメントには)人によっては不快に思われる人物評を含みます。
もちろん、私の好悪による評価ではなく、あくまで客観的考察の範疇のものですが
イメージを損ないたくないという方は、スルー奨励です。

(それから、最後の最後は私の近況感想文です。すみません m(_ _)m )



………………………………

>avay様
始めましてこんにちは! コメントありがとうございます!!
室町仲間が増えてとても嬉しいです。それからテーマへの賛同も。
「観応の擾乱」「応仁の乱」「明応の政変」には
なんとうか、室町の序破急のようなものを感じて
その深い真意の探求に取り付かれています。


さて、直義の最期についてですが
基氏元服の翌日ということから尊氏の毒殺はない、という見解に私も同意です。
この辺りは比較的一次史料が充実していて
それらの記述を一つ一つ再検討する事で、尊氏への誤解も解け始めていて嬉しいですが
やはりまだ今は、諸説が並立しているのが現状のようですね。


直義が自ら命を絶ったという可能性を指摘しているのは
私は今のところ
別ブログの「暑中御見舞い申し上げます」(2015.8.5)で紹介した
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
しか知りません。
私は諸般の背景から、これ以外の可能性は無いとほぼ確信していますが
ただ確かに、義詮の直義への異常な敵意を考えた場合
義詮による毒殺説は一考の余地があるかも知れません。

ちなみに私は、当時京都にいた義詮が(尊氏の目を盗んで)そこまで巧妙な事を実行するのは不可能に近い(←能力的にも、置かれた立場的にも)との考えから
この仮説は早期に可能性を絶ってしまっていました。

(ついでに、病死説についても付け加えておきますと…
 たとえ急病だったとしても、少なくとも1〜2日前、まして半日前なら
 体調不良くらいの兆候は出ると思われ
 そうしたら基氏の元服は延引になっていたんじゃないかと思うのです。
 残る可能性としては
 基氏の元服を見届けて、ほっと肩の力が抜けた瞬間の本当に偶然の自然死…
 という可能性は現実的にゼロとは言い切れないので
 こればっかりは何とも言えませんが…。
 公式には「病死」と発表されながら、世間では毒殺が噂されたり
 少年基氏の心に生涯消えぬ影を落としたことを考えると
 疑問が残るほどに兆候の無い「突然の出来事」だったのは確かだと思います。)



という訳で一通り検討した結果、結論から申し上げますと
(ほぼ)「ない」と言っていいと思います。



では以下、avayさんの論点に沿って私の思う所を述べてみたいと思いますが
この論点を拝見するに、avayさんはとても深い知識をお持ちで、史料的考察をなされているので、私もその姿勢で論じてみたいと思います。

…というのも、以下の私の記述には
一般的な(あるいは小説などの)イメージを大切にされている方にとっては
非常に不快に感じるかも知れない…というか残念な事実が含まれるのですが
あくまで史料的考察であって、好悪に基づいた意見ではない事を了解して頂けると有り難いです。
(決して、各人のイメージを傷付ける意図はありません
 ってことでよろしくお願い致します。)


それからもう一つ、以下の私の見解は
考察思考過程すっ飛ばして「ほぼ結論のみ」の記述となっています。
(所々少しだけ論拠も紹介していますが、不親切で本当にすみません…orz )

というのも私は、本サイト『2-9』「歴史を見る目」でつらつら語ったように
「史料の記述をいく通りにも組み合わせて最適解を導き出す」
という方法で考察しているのですが
(つまり、これらの結果が史料に直接書いてある訳ではない)
その全思考過程を解説するのは、今すぐには困難でして
なので、いきなりこんな結論だけ言われてもきっと全然納得できないと思いますが
今のところの
「私が一次史料を中心に(※)導き出した一応の最適解」
(※…もちろん、適宜『太平記』や『梅松論』などの史料も参照しています。)

という事で受け取って頂けると嬉しいです。

(それゆえ、私の見解は一般の説とはかなり隔たりがあります。
 なので(他もみなさんも)テストや試験対策には絶対に参考にしないで下さい
 泣きを見る事になります (`・ω・´)b )




ではまず
義詮は師直が殺害された事で直義を恨んでいたのか?(義詮と師直は親しかったか?)
…という事ですが、これは
義詮高師直は "ある利害関係" において接近していましたが、義詮は(利害抜きの)心情としては、高師直にそこまで強い親愛の情を抱いてた訳ではなさそうです。
ゆえに、「何としても高師直のために仇を取ろう」という類の純粋な「恨み」は燃やさなかっただろう、というのが妥当な見解かと思います。

(その後の輪をかけた対立再燃を考えると
 "戦で負けた事" や "自分の立場" などといった
 別の意味での強い恨みは抱いていたでしょうが。)

それよりも、高師直敗死時に義詮を支配していた感情は
「恨み」よりも「(バレる)恐怖」だったと言えます。
義詮はただひたすら「バレる事を恐れていた」(あるいは「バレたと思って恐れていた」)のです。
何がバレるかというと…「義詮が高師直と手を組んで企んでいたという事実」です。
(↑企みの内容はもちろん、直義の失脚と義詮の将軍就任です。)

2月27日に尊氏が、2月28日に直義が入京したのに対し
義詮の帰京は3月10日。
義詮が帰る事を「頻りに難渋」していたのは(『園太暦』観応2年3月6日)
自身の罪が問われる事を非常に恐れていたためだと思われます。

(義詮と高師直の与党で、今度の反乱の主要人物だった7人は
 一旦罪に問われ、その後罪を許され所領の安堵を受けています。
 (『観応二年日次記』観応2年4月2日) )


それから
高師直敗死後の時期に、義詮が突然花押の形状を変える事、そして
以前の花押が高師直のそれと非常によく似ている事はわりと有名ですが
これは、高師直との関係を隠すためだったと言えます。

『太平記』には
これまでは、執事の立場として栄華を極めた高師直の恩恵にあずかろうと
多くの人々が彼の配下となって、烏帽子の折り方や直垂の紋様で高師直派閥たることを前面にアピールして大手を振っていたのに
高師直敗死後は打って変わって、人目につかぬよう姿を変えて顔をそむけ、かつて高師直派閥だったことがバレて後ろ指さされるのを心底恐れていた
…という話があって
なんて無常な手のひら返し…という感じですが
その手のひら返しの筆頭が、実は義詮だったっていう…。


まあ、尊氏はすべてお見通しで行動していた訳ですが
直義は人を信じて清すぎる心の持ち主なので
この時点では義詮の本心には全然気付いていない(あるいは、義詮は高師直に引きずられただけの可哀想な立場って思ってた)ようですがw

まだ戦の真っ最中、直義は(いま戦っている敵であるはずの)尊氏と義詮に対して
二人が無事に帰洛出来るようにと、その息災安穏を祈願しているのです。
祈祷を依頼された尊円親王が尊勝法を修しております。
(↑直義が尊円親王に修法を依頼するのは、相当に本気で特別だった証拠かと。)
(『大日本史料』観応2年正月21日)




次に
義詮は御前沙汰を行う事で直義の権限を奪ったのか?
…という事ですが
義詮が御前沙汰を志向したのは、これは制度上の良し悪しという観点からではなく
義詮自身の絶対王政的権力への強い願望ゆえと言えます。

つまり、直義の権限を奪うために御前沙汰を導入した、というよりは
その絶対的権力志向ゆえ、直義(そして尊氏)が目指し築き上げた「理非究明型の道理に基づく政道」を拒否し "結果的に" 破壊してしまった
といた方が適切です。
(↑ここのとこ、もしavayさんの言わんとしている事と私の解釈が違っていたらごめんなさい。ちょっと自信がありません…。)


義詮直義&尊氏、どちらが目指した政治が正しいかという事については
今、現代人が多様な価値観で議論するのは自由ですが
しかしやはり、歴史的意義を論ずるのならば
普遍的な理想・価値観というものに準拠した評価を下す責任があるかと思います。
古今東西を貫くこの普遍的理想・価値観というものは
例えば『建武式目』にもよく表れていますが
中世武士も読んでいた漢籍『六韜』『三略』などで学んで判断評価するのが一番手っ取り早いかと思います。

もちろん、答えは「直義&尊氏」
よく、直義が目指した政治は鎌倉的で古いと評価されますが
しかしこの問題は
(時間的な)新旧ではなく「普遍」で評価しないと間違ってしまいます。
北条泰時や直義が目指した政治理念は
古いどころか現代ですら実現に至っていない「普遍的に正しい理想の政道」でした。
それが壊され、両将軍(尊氏と直義)が築いた太平の日々が音を立てて崩れて行った
『観応の擾乱』が長引いた背景・根底には
まさにこの、不義と理不尽に対する人々の憤りが流れ続けていたのです。




すみません、少々話が逸れました。
続いて
南朝との講和条件に直義の追討が入っていたのは義詮の意向か?
…という事についてですが、これは
この時の正式な綸旨に関して言えば「尊氏が求めたもの」でしょう。

といってもこれは正しくは
「南朝の意向を見越した尊氏が、あえて策略的に求めたもの」
(かつ「この時は不本意でもこうせざるを得なかった事」)
であって
尊氏は「(文字通り)直義を追討するため」にこの条件を求めたのではなく
「直義を追討させないため」に、対直義戦における南軍の指揮権を自身が一括して掌握し、勝手な行動を抑止する事を意図して求めたのです。(さらにもう少し詳しく理由を後述↓)
もちろん、尊氏の真意を知らない義詮は文字通りに受け取って満足したと思いますが。

これ以前、義詮与党(←当然尊氏は含みません)は
幕府分裂内乱誘発を画策して、南朝との密通を謀っていたために
この時点で実は、全国的な大合戦が勃発寸前、まさに危機的状況でした。

この時の尊氏を含めた正式な南朝との和睦(というか全面降伏)は
(それに先立つ)義詮与党の陰謀の延長線上にあるので
その意味では、「直義追討」はもともと義詮の望みではあった訳ですが
尊氏はこの危機的状況を回避するため、現状の不利を逆手に取ったのです。

つまり、南朝への全面降伏自体が尊氏の策。
一般に、尊氏は
「直義派討伐のために、綸旨という錦の御旗南朝の軍事力を目当てに降伏した」
とされていますが、実際は
「合戦を未然に停止するための最速かつ唯一の方法として
 南朝への全面降伏という想像を超える手段に出た」

のです。


(少し混乱されてきたかも知れませんが
 尊氏は本心では、義詮とその与党による南朝との陰謀に激怒しています。
 尊氏が南朝との講和に乗り出したのは、この陰謀を骨抜きにするため
 つまり、軍事力増強のためではなく、軍事力解体のためです。)

(それからもうひとつ重要な事は
 尊氏はこの擾乱を通して最初から最後まで
 本当の意味で直義を敵だと認識した事は、ただの一度もありません。)




この正式な和睦(降伏)において「直義追討」を求めた尊氏の目的は
実は細かく言うともう一つ詳述を必要とする話があるのですが
(和睦交渉自体に継時的な変化があって複雑です)
ここでは主要な2つを挙げておきます。

一つには、(直義および直冬との戦闘において)南軍の指揮権を掌握する事
(↑これについては、綸旨に対する尊氏の請文に明言されています。
 (つまり推理ではなく事実)(『大日本史料』観応2年10月24日)
 それからもうご存知かと思いますが
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】…の p.291 が参考になります。)


そしてもう一つ
この時尊氏はどうしても「鎌倉へ東下する口実が欲しかった」のです。

一般には、尊氏は「直義を追討するために鎌倉に向かった」とされていますが
実際は「鎌倉に向かうために、直義追討を口実にした」のです。




最後に
義詮が直義の殺害を目論んだ場合、義詮の手足となって動く人間はいたか?
…という事ですが
まず前提として、義詮は「高師直の仇を討つために命日に直義を殺害する」という
明らかに高師直との関係がバレるような行為をしようとは、考えなかったと思います。
1つ目の論点で述べたように、義詮は高師直敗死後、無関係を装っていたので。
ただそうは言っても、1年前とは状況が違うので
仮に「思い直して復讐に出た」として検討してみますと…

例えばもし、手段として「刺殺」を選んでいたなら
京都から、素性も分からぬ差し違え覚悟の刺客(捨て駒)を送り込む事は出来たでしょうが
しかし「毒殺」となると
食事に毒を盛るには、(計画段階も含めて)しばらくの間直義の居所に出入りしても怪しまれない人間でなければならず
周囲の者達とも顔見知りでそれなりに信頼を得た者、となれば
そのような人物はいなかっただろうと思われます。

というのも、尊氏は鎌倉への東下に際し
共に東下することを望む義詮を、断固拒否しているのです。
従って、義詮の手足となり、かつ直義のそば近くに近寄れるような危険な人物を
尊氏が東下に随行させた可能性はかなり低いでしょう。
そもそも尊氏は、そこまで警戒していたと思います。
直義を守るために、鎌倉での直義の周囲には目を光らせていたでしょう
しかし、直義自身が望んだ死を防ぐことは出来なかった…





さて、一応avayさんが提示して下さった論点については大まかに返答したつもりですが
なんというか、非常に説明不足で本当にすみません。
この辺の考察を集中してやったのが、もう2年半以上前になるので
記憶を掘り返しつつ、今はこれが精一杯、という感じです。

それから上でも述べたように、私の『観応の擾乱』に関する考察は
ほぼ全容にわたって、一般の説とは乖離しています。
なので、こう断片的に述べられても非常に理解しづらく
むしろ混乱させてしまっただけかも知れません。

とても整理された論点で、着眼点も鋭く、avayさんは相当勉強されていると思うので
(学術書や主要な学説に沿ってではなく)この様な説で返答するのは
むしろ失礼になるんじゃないかとも思いながら
しかし私が解説できる『観応の擾乱』はこれ以外にないので
思う所を語らせてもらいました。


最後に、『観応の擾乱』の考察に際して良い視点を得られた論文を挙げておきます。
(ご存知かもしれませんが…)

【桃崎有一朗
 『観応擾乱・正平一統前後の幕府執政「鎌倉殿」と東西幕府』
 (『中世史研究』第36号 2011年5月)】

【田中奈保
 『高氏と上杉氏―鎌倉期足利氏の家政と被官―』2005
 …田中大喜編『下野足利氏(シリーズ中世関東武士の研究 第九巻)』(戒光祥出版)2013】






ところで―――
ここまでの記述で
義詮の性格というのはなんかかなりアレな感じ…と思われたかも知れませんが
実はこの義詮の性格上の問題が、『観応の擾乱』の最大の要因の一つだったりします。
なのですが…
最近の研究の傾向では、急速に義詮の再評価・高評価が進んでいるので
この辺の話は非常にしにくかったります…orz(w



実を言うと、私はつい最近までずっと「尊氏直義時代」に傾倒していたのですが
3年くらいやってみた手応えとして、どうも私の考察はあまり賛同を得られないということに気付きまして(気付くの遅すぎですよねw)
精神力も底を突いたので、しばらく『観応の擾乱』方面からは離れようと思っていました。
事実は明らかになって欲しいですが、私一人が叫んでいてもどうにもならないですし
何より、私は上手く人の心に届く文章を書く事が出来なかった
というのが、地味にショックだったりもします…w
「観応」「応仁」「明応」の中では
一番「観応」が研究の層が厚いし、イメージが定着しファンも多いので
私はもしかして、どこかで誰かのイメージを傷つけてしまっていたのかも知れませんね…


その点、今のところ注目度の低さでは無双の『明応の政変』〜永正
とても自由に語れるし、将軍義材畠山尚順は最強すぎるし
久々に私の心が燃え上がっているところですw
彼らに開眼したのは実は尊氏直義よりもずっと前で、私の原点だったりします。

『観応の擾乱』尊氏直義時代については今後は
あまり重い話にならない事を、時々気が向いた時に語ってみようか…くらいに考えています。



なんか、最後の方はご質問と関係ない私事になってしまってすみません m(_ _)m
拙い解説ですが、少しでもavayさんのインスピレーションの元になれば幸いです。
尊氏直義は、本当に無限の魅力にあふれた素晴らしい将軍なので
どうぞ、たくさんたくさん探求なさって下さい。
そしてもしよかったら、いつか「明応」にも足を踏み入れてみて下さい。
是非是非、お待ちしております!!
 
長文、失礼致しました。



posted by 本サイト管理人 at 03:21| Comment(7) | 観応日記(尊氏、直義)
この記事へのコメント
自分の急な申し出に対して詳細な御返答を頂き、誠にありがとうございます。非常に興味深い内容でした。

>たとえ急病だったとしても、少なくとも1〜2日前、まして半日前なら
>体調不良くらいの兆候は出ると思われ
>そうしたら基氏の元服は延引になっていたんじゃないかと思うのです。

病死説の可能性についてもお答え頂きありがとうございます。直義の体調が悪かったのなら基氏の元服は延引されていたのでは、というのはハッとしました。
延引というのは考えませんでした。
肝臓癌説を採る場合、黄疸以外に何かしらの症状は無かったのか、という事も考える必要がありますね。
医療分野にかけては全くの素人ですので、この辺りは正直自信は無いのですが。

>高師直敗死後の時期に、義詮が突然花押の形状を変える事、そして
>以前の花押が高師直のそれと非常によく似ている事はわりと有名ですが
>これは、高師直との関係を隠すためだったと言えます。

直義が亡くなったのが高師直の命日だったという結果から逆算して
義詮と師直の両者が親しかったから意趣返しも兼ねてこの日に殺害したのでは、とも考えましたが
師直の死後、花押を変えた義詮の態度はビジネスライクのようにも見えますね。
両者の間に信用はあっても親愛は無かったのかもしれません。
義詮と直義の対立の原因を師直に求めるのには、慎重であるべきでしょうか。
義詮の最初の花押が師直のそれに似ていた事は存じていましたが、
それを変更した時期についてはあまり注目していませんでした。

>つまり、直義の権限を奪うために御前沙汰を導入した、というよりは
>その絶対的権力志向ゆえ、直義(そして尊氏)が目指し築き上げた「理非究明型の道理に基づく政道」を拒否し "結果的に" 破壊してしまった

御前沙汰は(義詮にとっての)理想の政治の実現だったのか
それとも直義との政争の一環だったのか、という事を考えていたのですが
流石に政争・政局として捉えるのは少々穿ちすぎた見方でしたか。

>この時の正式な綸旨に関して言えば「尊氏が求めたもの」でしょう。

今回の御返答の中で正直一番意外だったのがこの部分でした。
自分は直義が帰洛をしやすい環境を整えるために
尊氏が南朝との和睦をしようとしたところ、
義詮がこれを逆手にとって綸旨の中に直義追討を盛り込むように南朝を誘導した、
(もしくは佐々木導誉が義詮にそのような入れ知恵をした)
義詮と導誉が尊氏を出し抜いて決めた事だと考えていました。

『園太暦』によれば尊氏が講和条件に不満を抱いていた事や
講和交渉は義詮と導誉と則祐が主導した事が確認できるといった説明が
亀田俊和先生の著書でなされていたので
(恥ずかしながら『園太暦』の原文は確認していないのですが)
「やはり尊氏は直義との戦いを望んでいなかった」
「あの綸旨は尊氏の意図したものでは無かったのだ」
と(私情ではありますが)安堵したのですが
あの綸旨が尊氏の求めた物だとすると
もう一度ロジックを組み立て直す必要があるようです。
結局のところ、尊氏は南朝をどうするつもりだったのでしょう?
和睦はいずれ破綻するものと最初から割り切っていたのでしょうか。

>食事に毒を盛るには、(計画段階も含めて)しばらくの間直義の居所に出入りしても怪しまれない人間でなければならず
>周囲の者達とも顔見知りでそれなりに信頼を得た者、となれば
>そのような人物はいなかっただろうと思われます。

よくよく考えてみれば毒殺というのは下準備が必要で
中々ハードルの高い暗殺方法ではあります。
義詮が動かせて、なおかつ直義暗殺に協力する動機のある人物となると
高一族庶流の人間というのが真っ先に思い浮かびますが
そうした者が直義の居所に出入りするのは難しそうですね。

>最近の研究の傾向では、急速に義詮の再評価・高評価が進んでいるので
>この辺の話は非常にしにくかったります…orz(w

そうですね。かつては愚将という評価が一般的だったようですが
近年での評価は以下のようになるでしょうか。
「義詮は南朝との和睦を遵守しようとしていた。光厳上皇らの身柄の確保を優先しなかったのもその一環であり、義詮に非は無い」
「神南の戦いでの圧勝ぶりは、愚将どころかむしろ名将」
「一度直冬に京を取らせてから補給路を断ち尊氏の軍勢と挟撃した戦略は圧巻」
「かつて楠木正成が後醍醐天皇に献策した幻の戦略は義詮が完成させた」
「半済令により恩賞確保と寺社本所領の保護を一挙に解決した」
「大内弘世や山名時氏を帰参させ、南北朝時代を事実上終結させた」
「室町幕府が長期政権になったのは義詮の功績。徳川秀忠と並ぶ優秀な二代目」
ざっとこんなところでしょうか。
自分は息子によく似た謀略の英雄なのかなあと漠然と考えておりました。
順番から言えば義満が義詮に似ていると言うべきですが。
(ここでいう謀略とは山名氏清と大内義弘を滅ぼした事を指します)

今回、非常に丁寧な対応をして頂き改めてお礼を申し上げます。
Posted by avay at 2018年02月13日 18:50
>avay様
いや〜改めてお見それ致しました。
尊氏直義時代の探求が終わってから…と言わず、すぐにでも『明応の政変』方面にスカウトさせてもらいたいですw
私はこれから明応方面に移住するので、ご一緒にいかがでしょうか^^


直義最期の直前の様子については
『太平記』に
「2月26日忽(たちま)ちに死去し給ひけり、俄かに黄疸という病に犯され…」
さらに「天正本」に至っては
「(それまでは)病床に伏し給う事もなくて …… 俄かに逝去(黄疸で)」
とあって
病気の兆候は微塵も感じさせない記述になっていますね。


>義詮と直義の対立の原因を師直に求めるのには、慎重であるべきでしょうか。
これは高師直敗死後という意味ですよね? ええ、その通りだと思います。

義詮にとって、直義というのは "自分の願望を達する上で" 邪魔な存在だったのです。
それから、義詮は非常に被害妄想が強かったようですね。
親と過ごした時間の少なさという、育ちの不幸はあると思いますが…。
直義はあんなに気を遣って義詮の執政を後見しようと努力していたのに
義詮の方は、直義の中に敵意しか見出していなかった訳です。
(これも原因はあると思いますが。)

でも、直義以上に敵視されていたのが直冬で、これが大元凶だった訳ですが。


>流石に政争・政局として捉えるのは少々穿ちすぎた見方でしたか。
すごく鋭くてユニークで見事な読みだと思います。
もし両者が怜悧狡猾な傑物なら、良いドラマになりそうですね。

ただ残念ながら義詮は、そのような人物ではありませんでした。
義詮の御前沙汰というのは結局…「御政道違(たが)う」(『難太平記』)
つまり、間違った政治以外の何ものでもなかった訳です。
ちなみにこれ、尊氏&直義の意見ですw


(直義追討の綸旨について)
>今回の御返答の中で正直一番意外だったのがこの部分でした。
いえいえ、私がちょっと衝撃的な書き方をしてしまったせいで誤解を与えてしまったようですが、もう一度読み返して頂ければ、誤解が解けると思います。
>「やはり尊氏は直義との戦いを望んでいなかった」
>「あの綸旨は尊氏の意図したものでは無かったのだ」
まさにその通りですよ。
ただあの南朝和睦交渉については、継時的な変化があり非常に複雑で
そもそも端的に説明する事が不可能です、はい。

>和睦はいずれ破綻するものと最初から割り切っていたのでしょうか。
尊氏は、"ある条件" がそろった時に破綻する事を知っていました。
そして、その条件がそろう事を全力で阻止すべく行動していました。
その意味では、尊氏は和睦の永続を、出来れば信じたかったでしょうね。
でも現実には、破れる日が来る事は分かっていたでしょう。


>高一族庶流の人間というのが真っ先に思い浮かびますが
たとえ高一族の中で高師直の仇を討とうと望む者があったとしても
高一族が討てる仇の対象は、直義ではなく上杉一族まででしょう。
ここは非常に誤解されているところですが
当時の常識では、主君直義と高師直を並列に見る事は出来ません。
あまりに格が違いすぎて、まさに「有り得ない」です。

(まあ、義詮の命令で…となれば有り得ない事もないかも知れませんが
 そんなあからさまな危険人物、尊氏がまず近付けさせませんね。)


最後に近年の義詮評について。
ええと、これは最近の一般論でしょうか?? 全項目が謎ですw

>「義詮は南朝との和睦を遵守しようとしていた。光厳上皇らの身柄の確保を優先しなかったのもその一環であり、義詮に非は無い」
これはまさに愚将の確証ですね。
義詮とその与党は、南朝と手を組んだつもりでいて、実は南朝に疑われ利用されていたのです。 それに全く気付かず、自分たちは狡猾に直義派を出し抜いたと思って得意の絶頂になっていた。
一方ですべてに気付いていた尊氏、と。

>「神南の戦いでの圧勝ぶりは、愚将どころかむしろ名将」
神南の戦いの詳細を伝えるのは『太平記』ですが
義詮方はかなり押されまくっているのですが…?
山名軍、相当良いとこまでいってます。
「天正本」に至っては、義詮は「もはやここまで、腹を切ろう」とか言ってて
両軍それぞれに奮闘し、多大な損害が出た大合戦だったのは確かですが
戦いが激しかったわりに、何か最後は、和田・楠軍がなんか分からんけど退却してしまったので山名軍も仕方なく山崎に帰った (´・ω・`) ので一応義詮方が勝ったって事でって事で。…みたいな終わり方なのですがw

>(それ以下)
尊氏。…の一言で片付きます。
(細かく言うと、尊氏と足利高経(斯波高経)の関係も関わってきますが。)


どうでしょう、avayさん「明応〜永正」方面にいらっしゃいませんか?w
この考察力、実に素晴らしいです!
一次史料にはまり始めたらきっと、あっという間に真実を掘り起こしてしまわれると思いますよ。

『観応の擾乱』時期に関しては『大日本史料』が全刊行済みで
全てネット上のデータベースで公開されているので、まずはそこから覗いてみて下さい!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月13日 23:59
改めて返信ありがとうございました。
色々と考えさせられました。

観応の擾乱については近年になって
新たに分かってきた事もある一方で
まだまだ諸説が乱立していて悩まされる部分もありますが
いつか霧が晴れるように尊氏たちの追い求めたものの真実の姿が
多くの人の目にハッキリと見えるようになると良いですね。

明応の政変については、観応の擾乱以上に霧が深いというか
今の所五里霧中と言いますか、とりあえず
細川政元が政変以降の幕府を牛耳ったというよりは
どちらかと言えば領国経営を重視していたため
京兆専制という呼称はあまり実態にそぐわない
という事ぐらいは分かってきましたが
それ以外は本当にサッパリですね。
最近になって六角高頼の動向にも注目すべきなのかな
という気はしていますが。
Posted by avay at 2018年02月15日 19:42
>avay様
ここまで語ってから改め言うのもなんですが
やはり私の解説では余計な混乱を招いてしまっただけかも知れないと
少し申し訳なさが胸につかえています。

そうですね、霧なのでしょうね…。
私は尊氏の見ていた世界で語るのが本当の『観応の擾乱』だと確信していたのですが
尊氏の見ていた世界を知らない当時のすべての人々にとっては
今目の前で起きている不可解で困難な現実こそが『観応の擾乱』であって
それが真実だった訳です。

『観応の擾乱』も『明応の政変』もそうですが
どこに注目するか、何を以て解き明かしたかと捉えるのか
それによって回答は異なるのかも知れません。
現実として起こっている表面の事象を語るのが歴史なのか
それとも
その事象を生み出す根源に基点を置き、両者を因果から解くのが歴史なのか
その問題を考えた時
私はいつも無意識のうちに、当たり前に後者こそが歴史の真の姿だと信じていたので
通常とは異なる答えにたどり着いてしまったのでしょう。

まあでも、「歴史にはロマンがある」これだけは
誰にとっても共通の真実だと思うので
これからもその心を共有出来たら嬉しいです。
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月15日 20:50
こんばんは。観応の擾乱から離れるとのことですが、もったいないような気がします。
私はもともと世界史のほうを広く浅く調べていましたが、あるとき南北朝に、というより直義にはまってしまいました(にわか中のにわかのくせに何度もコメントしていました、すみません)。最近はまた世界史を調べているので観応の擾乱からは遠のいていますが、貴方のブログを拝見するのは楽しみでした。
貴方のブログに出会わなければこれほど深くはまることはなかっただろうし、一次史料を読む大切さを知ったのも貴方のおかげです。本当にありがとうございました。
Posted by ねこ at 2018年02月15日 21:26
>ねこ様
お久しぶりです、コメントありがとうございます!
『観応の擾乱』については…正直未練があるのでしょうね。未練があるから離れると言い切ってみたのですが…。

>貴方のブログに出会わなければこれほど深くはまることはなかっただろうし、一次史料を読む大切さを知ったのも貴方のおかげです。
すごく心から嬉しいです。今一番欲しい言葉でした。
欲しいものというのはいつの世も、諦めた時にやって来るものですね…w

尊氏直義時代については、ちょっと思い入れが強過ぎたのかも知れません。
好き過ぎるのも考えものですね。
また時が来たら、語れる日が来るんじゃないかと思っています。
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月16日 00:35
>直義が自ら命を絶った
この説についてはどうなんだろう?という気がします。
当時の価値観では死は穢れですし、可愛い猶子の基氏が元服した翌日に自害するのは不吉なんじゃありませんか?
息子基氏だけでなく兄尊氏の未来に呪いをかけたも同然なのでは。
直義がそんな真似をするとは思えませんし、突発的な自然死のほうがありうると思うのですが。


あとそういえば尊氏の正室である赤橋登子は、尊氏の庶子直冬への認知に極力反対したとも言われていますが、もしかして義詮の直義&直冬への強烈な敵意には生母の赤橋登子の影響があったりするんでしょうかね。
尊氏の正室であるのに赤橋登子への言及がこのサイトでやけに少ないのは、登子にも何か含むところがあるのかなと思っていましたが。
Posted by N at 2018年04月19日 07:08
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