2018年01月31日

☆☆Happy Birthday 尚順!!(旧暦編)

全世界の未確認サイレント畠山尚順ファンのみなさんこんにちは。
尚順の太陽の位置的誕生日を祝った前回の「☆☆Happy Birthday 尚順!!」に引き続き
今回は、本来の旧暦誕生日で celebrate 尚順ですはいではどうぞ!!!
(※今年の尚順旧暦誕生日は2月5日。今度はギリギリじゃない私えらい)


…とその前に
そんな訳でとりあえず私今かなり永正モードなんですが
タイムリーにもk-holyさんが永正18年の義材出奔事件あたりのブログ記事をUPされていたのを先日気付いて早速読ませて頂きました!!
こちらです↓↓
「「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)
 澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末」
(2018.1.19)
ただ、現在はもうコメント受け付けていないのですね、感想文書いたんですがw (´・ω・`) でも楽しかったです!
(※↑コメント書き込めました、ありがとうございます!2018.2.2)


さてさて、再度しつこく尚順誕生日の宣伝を致しますと
畠山政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)
文明7年(1475)12月20日生まれ。
グレゴリオ暦では1476年1月25日。(←天文学的な意味で)

日付的な誕生日である新暦12月20日
太陽の位置的(季節的)な意味での尚順の誕生日、新暦1月25日が過ぎ
最後のお楽しみ旧暦誕生日は、今年は来(きた)る新暦2月5日となります。
旧暦的という事はつまり
空には尚順が生まれた時と同じ月が浮かんでいるという事になります。
(↑地球に対する月の方角じゃなくて、月の形という意味で。)
ああ、宇宙を感じる。

(つまり旧暦時代の歴史上の人物の記念日は三度楽しめる!!
 ただし相当酔狂なファンでもない限りめんどくさい。
 酔狂なファンにとってはドムでジェットストリームアタック出来るのでたまらない。)



今度はお月様か〜
1月25日の尚順の太陽も良かったなぁ… ってゆうか尚順の誕生日がどれだけ需要あるのか分かりませんけど、でもまあ宇宙は「うんうん、尚順誕生日だねうんうん」っておじいちゃんみたいに喜んでくれていると思うので良いって事にしよう、うんうん。

という訳で尚順、またお祝いイラスト描いたよ!!
もう一度こういう事してみたかったんだよね!!


畠山尚順誕生日


( ゚Д゚) ハッ!!
秘仏で地蔵な尚順がこんな空気読まずに「斬ざん」みたいな顔しない!
仮にも満17歳まで京都で最上級クラスの貴公子として育った尚順がこんな
たったいま奈落の修羅界から別の生き物になって帰って来ましたみたいな顔しな…!!?

いや、するな。するする、厨子(ずし)の扉があいた時点で血沸き肉躍ってる。
戦闘モードに入ると本性出過ぎるのが尚順クオリティー

 赤澤ぶっ潰す!!!!!

みたいな。

このモードに入ると半径50mに「KEEP OUT」のテープが張られて善良な市民は近づけなくなる。
(だから普段は極力大人しくしている尚順はマジ博愛主義者天使



でももちろん
単なる殲滅好きの頭イカれた鬼畜外道とかいうのとは全然違うんですよ、尚順は。
絶対忠誠を誓う主君義材を京都に帰還させるという念願があって
そして河内国や大和国を自分たちと国人たちの手で守り抜くという目的があって
しかも、その戦いの中でものすごく大事なもの沢山失っているんですよ。
弟三人 (´;ω;`)
弟たちを一度に失った明応9年(1500)9月の大戦闘以降の尚順は、数年動きが無いのですが
相当こたえたのだろうな、どん底ですよ。 尚順壊れちゃう…
でも立ち上がるんです!!
一度地獄に落ちて這い上がってきたやつの強さはマジ半端ない。

 俺のホーム、地獄に招待してやるよ

くらいのマジ。



『興福寺英俊法印記』(in『多門院日記』)の
永正4年(1507)秋冬の大和国を舞台にした大戦闘はむちゃむちゃ熱過ぎて沸騰しますよね!!
めっちゃ展開早くて一見理解不能ですけど
なんか尚順が裏切ったとか何とか言われているアレは違うそうじゃない!!
尚順はテラ高度な 頭脳戦 しているんですよ!!
戦闘力的にも戦略力的にも最強だったから
大和国人たちがみんな尚順のもとに集まって大同盟組んだっていう。


てゆうか赤澤なんかと本気で仲良くする訳ないじゃん!! ぶーぶー!!ヽ(`Д´#)ノ
(大和を守りながら戦う尚順&大和国人たちに対して
 ひたすら殲滅・焼き尽くししか脳が無い…失礼、一辺倒の
 外来種な細川内衆赤澤一味の戦い方はマジど鬼畜。)


あれは、永正4年(1507)12月4日に尚順との和議を破った畠山義英方(←嶽山城にこもる)と戦わせるために
敵の敵は味方理論で、12月10日に尚順から(2秒前まで敵だった)赤澤にフレンド申請して
「お友達なら嶽山に行ってくれるよね(はーと」って甘い声かけつつ内心は
「うるあぁぁーーーー!!!」って赤澤嶽山城に背負い投げでぶち込んだ尚順の完全な
どS頭脳プレイ

(この3か月前の9月4日時点で、尚順&畠山義英&大和国人たちによる大大同盟が組まれてて
 京都から襲来するど鬼畜野郎たちから大和国を守るべく
 心を一つにして戦う事が誓われていた。 (※畠山義英は畠山義就の孫)
 ちなみに、尚順畠山義英のどちらから同盟を破ったかを記す一次史料はないけど
 でも義材から御内書もらってた畠山義英を、尚順の方から裏切る訳はないから
 これは畠山義英からとみて間違いないと思う。
 だいたい、あの大和国大戦闘真っ只中で、嶽山にこもっちゃってるんだし。)


義英よ… なぜあの局面で尚順との和議を破った?
まあ、赤澤たちの殺戮焦土鬼畜外道ぶりに恐れをなして(あるいは家臣たちの進言で)保身に舵を切ってしまったのだろうけど(…と私は見ている)
でも、みんな戦い続けているんやで。
大和国人の筒井・箸尾・十市たち(他諸々)なんて、何度這い上がったと思ってるんやで?
あそこでいち抜けたなんてたしたら、尚順が許すわけないじゃん!

「てめー義英舐めた真似してんじゃねーよぜってー許さねぇマジお前からぶっ潰すキョロキョロ(←なんが投げるもん探してる)お、ちょうどいい砲弾が落っこちてた(←赤澤の首根っこ掴む)うるあぁぁっっくらえ腰抜け野郎!!(たま)付いてねぇやつは大和から出て行っていいんだぜ戦えるやつだけについて来いやぁぁぁっぁーーーーーー!!!」

…だったと思う、見なくても分かる。


ちなみに、『不問物語』(or『瓦林正頼記』)の言う所の
尚順細川高国が大和国を猫ババしたくて、それには畠山義英が邪魔だから、2人は申し合わせて細川澄元(←赤澤長経の主君)と偽りの和議を結んで畠山義英退治を唆した」
ってゆう赤澤長経の推量は、あれは的外れまくりな大ハズレ。
だって前々年に義材に忠節を誓って「尚順と一緒に頑張ってくれるのむっちゃ嬉しい!」って義材から言われていた畠山義英を、尚順がそんな理由で敵に回す訳ないし。
畠山義英との同盟が破れたから、尚順が戦略変えざるを得なかっただけだし。

(↑そのままだと
 畠山義英と、赤澤率いる細川軍の "両方" と戦う事になりかねなくて非常にまずい。
 あるいは、以前のように義英方畠山細川内衆赤澤が手を組んでしまったらそれこそ厄介。
 だから尚順は、畠山義英が和議を破った時点で間髪入れずに赤澤にフレンド申請した。
 …もちろん、赤澤長経へ嶽山城攻撃の直接的な指示を出すのは主君細川澄元だから
 尚順はまず細川澄元に講和を持ちかけたと思われ
 そうすると、両畠山の和が破れたのが12月4日
 尚順が赤澤に馬と太刀を遣わせて嶽山城攻撃よろ!ってしたのが12月10日だから
 12月4日以降尚順は京都の細川澄元のとこへ爆速で早馬を飛ばしてたことになる。
 敵に一寸の隙も与えない、ものすごい驚異的な速さの判断力(そして決断力)。
 マジ尚順頭キレ過ぎる最強!!
 てゆうかこの一瞬で、敵に敵をぶつけて片付けようとか思い付く尚順は
 マジ絶対敵に回したくない男 No.1 !!!

(※上記の訂正 ―――2018.2.17
 失礼しました。「尚順と義英の同盟にひびが入り始めて
 尚順が細川澄元に和睦&嶽山城攻撃を持ちかけた時期」は
 12月4日より "以前" である事に気付きました。(おそらく11月下旬頃かと。)
 つまり、12月4日時点では既に尚順と細川澄元の和睦が成り
 義英の籠る嶽山城攻撃が決定&スタンバイ完了していた、と。
 …とは言え、尚順が間髪入れずに戦略変更した事に変わりはなく
 その期間が「12月4日〜12月10日(1週間くらい)ではなく
 11月17日辺り〜12月4日より少し前(2週間くらい)だった」
 という事ですので、尚順のプレイが最速である事に変更はありませんのでよろしくです。
 もう少し詳しくはこちらの記事をどうぞ→「まだ用意できてない」)




だから「細川高国尚順と組んでなんか企んでる」って裏を読んだつもりの赤澤長経
その余計な邪推を散々主君細川澄元に讒言したことにより、疑心に取り付かれた細川澄元細川高国の関係を無駄に悪化させて、結果的に主君細川澄元の没落を招いた。

まあでも、尚順には利用されてたけどな。
ってか永正5年(1508)正月17日にいよいよ嶽山城を落す段階になって気付くとかおせぇーよwwww
しかも騙されていたのは細川澄元ってよりおめーだよ!!!

というかもし細川澄元細川高国を疑って排除に動き出さなければ
細川家がそこで割れる事もなく
義材上洛後に細川澄元赦免を受けられた可能性は低くない(ってか高い)と思う。
義材たちの方針はどこまでも「和議・泰平」であって
 敵の排除殲滅復讐じゃない。マジ最高の公方。)

…いやでも、細川澄元は最終的には義澄の意向に従うだろうな。
あと、細川内衆間での不満噴出でどっちにしろ内部崩壊的に割れる運命は避けられなかっただろうな。。ってのが実際のとこだけど。



ああこの辺の話楽しい、大和熱すぎる尚順頭良すぎる!!
需要無いのは痛いほど分かっているけれど、でもきっともうすぐ宇宙が尚順を御開帳してくれるって信じてるマジ Happy Birthday 尚順!!!


おまけ
使い道がよく分からない尚順お祝いイラスト縮小無し原寸1600×1200px 1.15MB

畠山尚順誕生日1

畠山尚順誕生日2



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(10) | 明応日記(義材)
この記事へのコメント
永正モードに入ったのなら、その情熱のままサイトの作成を再開されたらいかがですかね。
ていうか前から思ってたんですけど、このサイトや他のブログも含めて、記事があっちこっちにとっ散らかっていて整理されていないため非常に読みづらいです。
Posted by N at 2018年02月02日 04:37
ご無沙汰しております。アクセス解析より、こちらで言及いただいてることに気付きました。ありがとうございます。
私のブログへのコメントについては、スパム対策として以前より「はてな」にログインしたユーザーのみ可能という設定にしています。
おそらく以前コメントしていただいた時に「はてな」のアカウントを作られているかと思いますので、お手数ですがログインしてコメントいただけると、嬉しいです。
あの記事で強引に押し込んだ赤松義村上げな妄想については、管理人様からは「ちがうだろ!」って突っ込まれるんじゃないかと内心ビクビクしております。
最近はTwitterで179さんの発言に感化されて、尚順・稙長父子にも深入りしようかと揺れているところですが、こちらの記事を読んでますます尚順を知りたくなりました。
"内衆間での不満噴出でどっちにしろ内部崩壊的に割れる運命は避けられなかった"というのは私も同感ですが、最近、高国が鞍馬寺で遁世しようとした時に澄元が説得して思い止まらせたという話を知って、義澄への対応といい、澄元って基本的に律儀で良い奴なんじゃないかって見直しました。
高国と澄元は両者共に政元が築いた負の遺産というかツケというか、それに振り回された一生だったと感じられてなりません。
Posted by k-holy at 2018年02月02日 12:32
>N様
おお!もしやNさんは稀少な明応永正推しですか!?
あ、でもこの前尊氏の肖像画にも突っ込まれていましたっけ。
サイトの作成というのは、史実解説の方ってより、歴史妄想創作の方って意味でしょうか??
実は昨日ようやく、あいまいだった大内義興のビジュアルが確定したので
もう史実解説してからとか言ってないで強引に妄想物語始めちゃおうかとか魔が差していた所なんですよ。
明応永正メンバー、良いやつばっかで大好きなんですよねぇ…
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月02日 17:52
>k-holy様
こちらこそ、またまた言及して頂いて嬉しいです!
それから、ログインしてからページを表示したらコメント書き込めました!
あとブラウザもいけなかったらしい。。(Firefox…orz)

いえいえ、むしろ赤松義村については「本当は義材に忠節を抱きながら、澄元派との縁や被官人たちの意向という現実があって、厳しい立場を強いられていた」って考えが、記事を読んで改めて固まりました。
戦では大抵澄元派に合力しているけれど、義材には請文を進上したりして精一杯応えていますもんね。 どうしても細川高国がダメだったらしい…
そこまで細川高国と細川澄元が決裂してしまったのも、本人たちの思惑とは別に運命に翻弄された結果という、この誰も悪くないのに感…。

細川政元が本当に専制政治を行えるような能力や意思がある傑物だったら
細川家はこうはなっていない訳で
「"内衆間の不満噴出〜"」は『瓦林正頼記』の記述からですが
京兆家の内衆というは、『明応の政変』よりもっと以前、『応仁の乱』後の時代からすでに驚くほど「緩怠狼藉」が激しくなっていたようなのですが、これは「統率が取れていない」というレベルの話じゃなく、政元時代の京兆家の状況って、実は想像以上に "異質なもの" になっていたんじゃないかと。
たぶん、高国や澄元みたいな人物が、本来の京兆家の家風なんだろうと思います。

おお! k-holyさんも尚順に目覚めてしまいそうなのですね!!
是非是非深入りしちゃってください!
でも、尚順を高評価(好評価)した論考ってまずないですよねw(´;ω;`)
当時の京都の公家界では、あんなに大人気なのに。
何とか盛り上げてやりたいです!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月02日 17:54
更新お疲れ様です。
 
実は私も以前この永正の錯乱時の両畠山と澄元の動きを調べていて、「澄元方は尚順に上手く利用されたのではないか?」と考えていました。
長経に太刀を送った記述見た時「うーわ絶対目は笑ってないよ尚順」って思いましたし。
ここで澄元側が義英に大打撃を与えた結果、義稙上洛後に結局澄元方と義英は組むものの、尚順に一網打尽にされてしまったようなものですしね。
 
応仁の乱の以降は両畠山の争いに軍事介入しない傾向があった京兆家が、この時は大軍を擁して義英を討伐していたことから、澄元が尚順の歓心買おうと熱心だったのかなとも思っていましたが。
 
それでも、これ以前とこれ以降の関係を考えると、尚順が澄元と結んで、京兆家(後は澄元流)と概ね結んでいる総州家が澄元に討伐されるという流れは大分難解ですしね。
尚順と同盟していたまさに12月から1月にかけて義澄・澄元が義稙と和睦して迎え入れようとする動きをしていたことを踏まえると(澄元自身は8月の時点で和睦を模索していたようですが)、
尚順は義稙を裏切ったどころか義稙を第一に重んじているからこそ、澄元と結んだとも言えますし。
そうなると義稙とも結べず義澄とも結べず孤立した義英の置かれた位置はどうなっていたんだ?となってしまいますが。
そう考えると管理人さんの「尚順が気先を制して澄元方と結んで義英を孤立させた」という指摘は興味深いです。
(生涯通して劣勢続きな上に、ターニングポイントではこんな感じで何かよくわからないうちに自分だけボコられてる義英にも若干同情しております)
 
 
上でholyさんが澄元について触れていますが、私も最近は特に義稙方の人物に傾倒激しくなっちゃってますが、対立陣営の澄元に関しても悪くは思えないんですよね。
三好・高畠らを制御しきれず、赤沢長経の讒言に惑わされた結果失脚してしまった弱さはありますが、
之長の横暴に怒って遁世したり、讃州家奉行人の越権を停止させている形跡があったりと、
必ずしも彼らを甘やかしていたわけではなく、彼なりに状況を改善しようとしていた様子が伺えるので。
(三好といい赤沢といい武力はあってもアレな人材が最大の支持基盤だったのがなぁ……って思いも)
 
ついでに高国の人物像に関してですが(holyさんのブログコメントを拝見しました)、「義晴政権下で栄華を極めた」と評される動向は、
飽くなき権力欲で邪魔者を排除した結果には思えず、むしろ戦の弱さなどから自身の権力基盤の脆弱さを自覚しており、
にも関わらず必ずしも本人の意図していない経緯から幼君を支える単独政権になってしまって(本音としては畠山義総や畠山稙長にも在京してほしかったのでは?という形跡が)、
多少強引でも将軍権力を利用して自陣営を強化せざるを得なかったって印象ですね。
義稙政権下での立ち回りもそうですが、自身の内衆編成でも非常にバランス調整に気を使っていたようで、苦労人イメージってのはまさにその通りだと思います。
 
長文失礼しました、ここ近年は畿内史研究も盛り上がっており、毎回新知見が得られることも多いです。
今まではその行動について否定的文脈が付きまとっていた人物でも、それなりにまともな行動規範を持っていたと印象が変わることも多く、つい熱くなってしまいますね。
Posted by 179 at 2018年02月03日 17:51
>179様
うわああーーすごいコメントありがとうございます!
ツイッターも方も読ませてもらいましたが(ブログのリンク嬉しいです!!)
すごい!急速に尚順の解剖解明が進んで行きそうな予感に胸熱です。

永正4年秋冬の尚順義英大和国人と、澄元の動きは絶対おかしいですよね。
私は以前から、『興福寺英俊法印記』永正4年12月16日の
「大和牢人は総州・尾州・京方、無尽に心任に転反云々」って記述が好きで
これはもしや尚順の攪乱作戦なんじゃないか??と疑っていたのですが
今回改めて突っ込んで調べてみたら、実際はもっととんでもなくて大笑いしてます。
だって、澄元陣営は大和を軍事制圧すべく進攻して来たのに
尚順と和睦した上、尚順の要求通りに動いているんですよ
どうしたらそんな事が可能になるのか―――
まさに「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ(AA」ですよね?
「おれは、奴(尚順)と戦っていると思ったら、いつのまにか奴のために戦っていた」
…って意味わかんないですよwww


あの時、澄元が尚順の要求を全面的に受け入れたのは、普通に考えたら異常な事
…ってのがカギですよね。
大和国での戦いでは赤澤たちのが圧倒的に優勢と言ってよく、大和国人たちは10月下旬と11月下旬に、2度も大きくボコられている(もう大和国は、焼け残った場所を記す方が早いくらい…)という状況にも拘わらず、尚順は降伏どころか、望み通りの条件で和睦を実現してしまったってゆう。
これ以前(今回の大和進攻前)、永正4年8月23日の和睦模索の件ですが
あれは『大日本史料』(※まだ未刊)の綱文では「澄元が義澄に義材との和睦を求めた」となっているのですが、実はもとの一次史料の記述にはそこまでは書いてないのですよね…。(確実なのは「義澄が義材の上洛阻止を望んだ」って事だけで。)
澄元は10月18日の時点では、自ら大和を討つべく出陣しかけてて、むしろ強気にさえ見えるのですが…。

12月15日には、幕府が(一時的にとは言え)和睦路線に舵を切った事を考えると、「西国蜂起」の注進で俄かに京方が震え上った状況を利用して、尚順が和睦を餌に相当甘い言葉を掛けたのだと思いますが
それにしたって、細川政元没直後の7月5日時点ですでに義材上洛を危惧しつつ、その上でずっと強弁な上洛阻止派だった義澄を、澄元はなぜ説得できたのか…
澄元自身、あれだけ大和国で優勢を保ちながら、なぜ方針転換したのか…
というか、なんかタイミング良過ぎますよね。
ちょっと話が長くなって来てしまったので、改めてブログ記事にしてみようかと思います。


ちなみに、上の『興福寺英俊法印記』12月16日の記述は
12月4日に尚順義英が決裂して、12月10日に尚順が赤澤たちに嶽山城攻撃を要請した後の状況な訳ですが
尚順が京方に馬と太刀を送った事を知っているはずの英俊が
尚順と京方を、同陣営ではなく別陣営と認識しているのが面白いですよねw
12月4日の尚順義英決裂時に、大和国人たちはほとんど尚順側へ参陣したってのも興味深いです。
尚順が私的な都合で義英を敵に回したのなら、それは窮地に立つ大和国そっちのけの裏切り行為な訳で、大和国人たちがついて来る訳がなかろうに…

つまりこれらから察するに、やはり義英方の大大同盟離脱は、義英方の独断離脱であって、そして尚順による赤澤との和睦は、やはり何か裏がある建前的なものだったらしいと。(そして大和国人たちは尚順とその裏作戦を共有していた、と。)
興福寺の英俊に入ってくる情報は、大和国人側の内部事情を含んでいるだろう事を考えると、どうにも深読みしてしまいますw


義英は… 何が悪かったのでしょうね、立ち位置的に。。
義材帰京後の時期も、基本的に尚順は和睦や住み分けの姿勢だったと思うのですが
要所要所でオウンゴール的に道を誤る義英方はどうしてそうなるのかと。
澄元が上洛直後にまさかの帰国騒動を起こしたのも、義澄の目を気にしての行為だと思うのですが、部下が… 部下のヒャッハーですべてが台無しになっていく澄元の青春って一体。
あと、ツイート見て私も思ったのですが、典厩家って何気に地雷ですよね。 一見、宗家京兆家を支えた賢才なイメージあるけど、実は応仁の乱の頃から地雷な助言してるっていう。


高国の評価についてですが…実は
私は応仁側から尚順にたどり着いた派なので、戦国側から来た179さんやk-holyさんたちに比べて、義晴以降の知識が恥ずかしいくらい全然ありません orz
だから永正〜大永初期までの印象で高国を語ってしまってます。。(戦国側からの高国評、すごく参考になります!!)
義晴時代の高国と言えば私は、義晴が東寺に布陣した大永7年〜享禄元年の合戦で
越前から助っ人に来て義晴高国方を勝利に導いた朝倉教景(のちの宗滴爺さん)が、高国の事後処理の不調に怒ってとっとと越前に帰っちゃった
…というエピソードくらいしか知らないのですが
この話で私は、高国は判断力や決断力に乏しい…というか「いつも額に冷や汗と縦線が出てるタイプ」って印象を持ってしまってますw
義晴期の幕政を知れば、もう少し見直したくなりそうですが
でもとりあえず「悪い奴じゃない」って予感は持ってます。

そうそう、なんか謂われなき誤解で批判されている人物を知ると、ムキになってしまうのですよね! え、あいつもこいつもみんな良いやつじゃん!って。 全員の全誤解を覆すまでは意地でも気が済まないって動機で歴史を調べている自分が時々謎になる訳ですが。
(長文、失礼しました。m(_ _)m )
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月04日 21:55
楽しく拝読させていただきました!

永正の錯乱における畠山と大和の動向、解釈が難しいですよね。
にわかレベルの至らない知識ですが、自分なりの解釈を、すこしだけ書かせてください。

まず、尚順の赤沢長経への和睦はわりと本気だったんじゃないかなと考えています。
京兆家はこのとき和睦推進派(成之・高国ら)対 反対派(尚春・政賢)
という対立があり、その中で尚順・成之・赤沢は薬師寺元一の乱の際の同盟者です。
赤沢を懐柔することで義稙の上洛を実現しようと考えていたのではないでしょうか?
それに対して義英が赤沢との和解を拒否、反乱に踏み込んだのではないかと。

ここで義英に対し尚順は遊佐順盛に兵を与えて派遣しているのですが、この遊佐順盛という男が何者なのか、という事を考えると従来と全く違った見方も出てきます。

まず畠山尾州家に仕えた遊佐氏ですが、政長に仕えた遊佐長直の死後、後を継いだのは遊佐筑前守順房という人物であったのではないか、と考えています。
この人物は明応4〜文亀4までの期間の書状が3,4通あります。
和歌山県史の資料において他にも遊佐さんは登場しますが、順盛だけは0でした。
遊佐順盛という人物は、少なくとも紀伊に影響力のある人物ではないはずです。
おそらくは河内方面、そう考えると順盛の出自は総州家ではないかと思います。
総州家の遊佐国助の子ともいわれていますが年代的に無理があるでしょう。
畠山総州家に仕えた遊佐氏は 遊佐国助-遊佐就家-遊佐就盛-遊佐家盛 となりますが、名前に『盛』のつく就盛もしくは家盛の縁者ではないかと思います(根拠一切無し)
総州家の遊佐氏は明応6年の総州家内訌で尚順の援軍を得ています。

長くなりましたが、つまり何が言いたいかというと、遊佐順盛は総州家に非常に近い人物で、尾州家と総州家をつなぐパイプ役である可能性があるんです。
そんな人物を嶽山城に派遣したということは、つまり尚順は義英との決戦を回避する術を模索していた可能性もあると思うんです。
こうなると船岡山合戦で死んだ遊佐河内守は総州家の人間だから順盛ではない、という考察もひっくり返りますし、尚順は船岡山合戦不参加ではないか、という見解も生じます。
船岡山合戦にて尚順は当然のように義稙派と言われていますが、実際には阿波細川とは長い付き合いがあり(船岡山合戦を主導したのは尚春・政賢派で三好らは不参加)、実は戦わない選択肢を取ったとしても尚順の道理には反しないんです。

長文失礼しました。
私の考えはあまりあてにしないでくださいね^^;いつも応援しています!
Posted by 尚順ファン at 2018年02月07日 00:35
>尚順ファン様
こんにちは! すごい、なんかすごい事になって来てて驚いています、立て続けにこんなハイレベルなコメントが頂けるなんて!!
尚順のファンを名乗る方たちの平均水準があまりにも高過ぎて、なんか変な笑いが込み上げて来ましたww

えっと、まずは遊佐順盛についてですが
彼の諱についての考察がとても興味深いです!
私は「遊佐順盛は尚順の重臣の一人」とだけ思っていて、出自までは考えたことがありませんでした。 尚順ファンさんの「諱から考えて、順盛は国助→…→家盛の家系の出身」という意見に賛同します!
ちなみに、ネットで検索すると『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』というので
「遊佐順盛は国助の子」と出るものの出典は…何かあるのかな?? というのも、続けて「船岡山城で戦死、号は印叟。」とありますが、これは事実とは違います。

wikipediaの船岡山合戦の項でも、遊佐順盛と遊佐印叟が同一人物とされていて混乱が生じていますが、遊佐河内守順盛は尚順方の人物、遊佐河内入道印叟は義英方の人物で、船岡山の戦いで戦死(切腹)したのは印叟です。(『大日本史料』永正8年8月24日)

遊佐順盛は、この翌年『後法成寺関白記』(※近衛尚通の日記)永正9年10月7日に
「"遊佐河内守順盛" が去年の夏に古今集を書写した御礼として天野(※河内の名酒)を進上して来た」という記録があって、元気に生きています。
今ざっと調べたところでは、少なくとも大永6年3月までは一次史料で存在が確認出来るようです。(『大日本史料DB』大永6年3月是月(稿))

遊佐順盛の署名・発給文書が見当たらない…というのもとても興味深いです。(というかすごい目の付け所ですw)
とりあえず、永正5年義材帰還以前のもので
いま手元にある資料では「粉河町史」に
「「誓度院旧蔵文書」50号は、花押の形状から成身院順盛ではなく遊佐順盛によるものである」とあるのですが、その書状自体の資料が無いのでなんとも。。(永正初期くらいのもののようですが…)
(質問のレベルが高すぎて、図書館に行かないと追いつけませんw)


ついでに永正8年8月の船岡山合戦には、尚順自身は参加していませんが、これは尚順がこの時すでに紀伊に在国していたためで、しかし京都とは密に連携を取っていたようで、8月12日には既に尚順自身が河内に出陣していて、「京中安全のもとか、珍重」と三条西実隆が喜んでいます。
(↑船岡山合戦の前哨戦として、7月半ばに和泉摂津河内で戦闘があって、京方が負けていたので。)

従来、尚順の紀伊在国は永正14年6月2日の義材の御内書(尚順は大内義興を介して義材に進退の事を懇望していた)をもって、この頃紀伊に隠居した、と考えられていると思いますが、実際はもっと早い時期のようです。
『後法成寺関白記』の記述から、少なくとも永正8年5月には紀伊在国は確か(←これについては、いずれブログ記事で触れたいと思います)、私はさらにもっと早い時期なのではないかと考えていますが。
(能登守護の畠山義元が、義材京都帰還の3か月後、永正5年9月には京都にいるので、尚順は紀伊への早期下向を念頭に、自身の代わり&幼少の稙長の後見として畠山義元を能登から呼んだのではないかと推測しています。)

ついでにいうと、そんな尚順が永正10年3月の義材の近江出奔の時だけ、突然京都に姿を現すのですが、実は前年11月3日に義材に呼び出されていたんですw
つまり、あの義材出奔事件は、深刻な将軍大名間の決裂事件というよりは、わりと愛情確認(忠誠確認)のためのパフォーマンス的な所があったようです。


で、話を戻しますと
遊佐順盛について、いつ頃から政長系畠山に仕えていたかという点も含めて…
『明応の政変』で紀伊に逃げ延びた尚順に同伴した、遊佐九郎次郎(『蔭凉軒日録』)あたりなのかなぁ…と。(自信は全くありませんが。)
この時、畠山政長と共に遊佐長直父子が自刃しますが、これによって政長系に仕えた第一の遊佐家が絶えて、順盛系の遊佐家が跡を継ぐことになったのかと想像してみました。

ただ、遊佐順盛が河内守を名乗るのは、結構後になってからの様なのですよね。
『大日本史料』(※未刊部分ですが)では、『興福寺英俊法印記』永正4年12月4日の「遊佐次郎左衛門尉」を、『不問物語』の記述から遊佐順盛に比定しています。
…と、ここで尚順ファンさんのコメントに戻るのですが
永正4年12月4日の両畠山決裂時に、義英は河内国嶽山城にこもりますが
遊佐次郎左衛門尉(順盛)は、嶽山城ではなく、義英方がいなくなった誉田城に入ったのです。(『興福寺英俊法印記』)

とはいえ…
>「つまり尚順は義英との決戦を回避する術を模索していた可能性もあると思うんです。」
これは私もすごい同感です!!
本当はあそこで決裂なんてしたくなかったでしょう。
というのも、尚順と義英の和睦は、永正元年12月に実現してから数年の時間を経ている(つまり俄かじゃない)し
当初の建前こそ、京都のクーデター政権の合意の元の和睦でしたが
その翌年には、義英が義材に忠節を誓っている事から、尚順が熱心に説得して義材陣営に引き入れたことは確実で、尚順は、義英との和睦を真剣に維持しようと考えていたと思います。 もちろんそれは、義材の上洛実現のために。

だから『不問物語』のいう赤澤長経の推量(尚順は大和国欲しさに義英の排除を望んだ)は、あまりにも浅薄と言わざるを得ません。(なのに、この辺わりと通説化しているのがやる瀬無さすぎです。。)


ところで、この永正4年秋冬の、尚順義英大和国人と、澄元赤澤たちの動向についてですが、どうも、かなり端折られて解説されているものばかりのようで…。

とりあえず手元で確認できる概説をざっと読み返してみたのですが(「和歌山県史」「粉河町史」「羽曳野市史」「藤井寺市史」とか「河内守護畠山氏とその城郭」「細川政元と赤沢朝経」あと畿内の合戦なんちゃらとか)
どうも基本的に、前提条件というか、あの時の大和国の状況を踏まえた見方がされていなくて、それゆえ、「平時に尚順と澄元方との和睦が模索された」とか「まず尚順と義英の和が破れて、そこから話が始まった」みたいな印象を受けてしまいます。
しかし、あれは大前提として、澄元方の大和国軍事制圧作戦があり
それが事の発端なのです。
(それに対抗するため、尚順たちが大大同盟を組んだ。)

だから、例えば平時とか、あるいは互いが同時に蜂起した戦いなら「講和」という話になってもおかしくはありませんが
しかし一方的な軍事制圧で、しかも対する大和国人たちはやられっぱなし…となれば
これは、相手に「降参」や「降伏」なら有り得ても、尚順側から和睦を持ちかけて澄元側が承諾(しかも尚順の要求を100%実行)なんて話は、普通に考えたらあまりにもおかし過ぎるのです。
(勝ってる澄元方からしたら「は?何言ってんのおまえ??」ってなるし、仮に澄元が内心和睦の提案を待ち望んでいたとしたら、そもそもあんな軍事制圧行動には出ないでしょう。)

つまり、この一連を読み解くには、あの時の澄元方の実情を時系列的に見ていく必要があるのですが、これは上で179さんへの私の返信コメントでも書いたのですが、改めてブログ記事にしてみたいと思います。
尚順方(つまり義材方)との和睦についての細川方の考えとしては、細川一族内部の意見というより、澄元は将軍義澄の意向に最大限応えようとしていたと感じます。
(上の返信コメントでも少し触れましたが、永正4年8月23日時点では、澄元は義材との和睦を勧めてはいないと思われます。)


永正元年の薬師寺元一の乱で、尚順が細川成之らに応じたのは、これは京兆家の隙をつく為でしょうね。
(このように、尚順は常に情報に敏感で、決して機を逃さずに行動する相当な戦略家だと思います。)
ただ、政元没前後では、京兆家の状況もだいぶ違うかなと思われます。
永正4年12月の頃ではもう、義材の上洛は時間の問題だったし
西国の大軍を引き連れた大内義興の御供での上洛となれば
今からあえて澄元との和睦を模索しなくても、時間稼ぎさえしていれば義材将軍返り咲きは実現したでしょう。
やはりあの時の澄元との和睦は、義英の突然の同盟離脱という不測事態への臨機応変な対処(尚順得意の最速スピーディーな機転)だったのであり
それは、大和国の為(大和国人たちの為)の一策だっとだと考えています。
(義英と澄元が元の如く組んでしまったらやばい、という意味では義材上洛の為でもありますが。)

…といっても、すべてが偽りなのではなく、仮に義澄と澄元が望んで、義材との和睦が実現していたとしたら、それはそれで尚順は良かったのだと思います。
だから、「わりと本気」という意味で、尚順ファンさんに同意です。

いずれにしても、尚順の行動の原点は「義材上洛の実現」この一点に尽きると思います。
つまり、これもまた尚順ファンさんに大大同意です。


こういう尚順の思考回路って、尚順好きにはわりと自然で当たり前に分かってしまうところだと思うのですが
でも、一般的な論説・論考ではほぼスルーされちゃってますよね。
こんなに分かり易い奴はいないのにw

こうしてネットの片隅から始まった話が、いつか尚順のすべてを明らかにして…
とか夢見てしまいます。
既にたった数日で、どんどん考察が寄り集まってひとりでに洗練されて行ってるし。
本当にすごいコメントどうもありがとうございます! 楽し過ぎましたw
長文過ぎてすみません m(_ _)m 懲りずにこれからもよろしくお願いします!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月08日 03:23
ひとつひとつご丁寧にお答えいただき、大変恐縮です!
とても勉強になります、錯乱していた永正が随分整理できました。
自分ももっと勉強しないと
まだまだ謎は多いですね、次の更新が楽しみです^^
Posted by 尚順ファン at 2018年02月09日 00:26
>尚順ファン様
いえいえ、こちらこそ!
尚順ファンさんの目の付け所が普通じゃなさ過ぎて(←もちろんすっごい良い意味で)
はっとする事ばかりです。
実はあれから、讃州家の動向が気になって気になってずっと考えているんですよ。
もし細川成之が、澄元を "義材派"(というか "隠れ義材派")として育てていたら
家督に就いた時点でもっと展開違ってただろうに…とか。
(高国とも協力関係でいられたはず。)

本当に、この辺は注目度低いし、大日本史料が未刊だし、勉強大変ですよね。
でも、稀少な尚順のファンの一人179さんは論文読みまくってて(しかもすごい理解力)
畿内の知識すご過ぎて全然追いつけなくてお茶吹いてますがw
私もみなさんを見習って頑張らないと〜と思いつつ、これからの展開にすごい期待しています!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年02月10日 01:30
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