2017年07月28日

直義のスクープ和歌は謎(その5)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その4)」の続きです。

さて、前回の記事では思い切った大胆予想で冒険してしまった訳ですが
別に、夏だからって羽目を外している訳ではありません。 (ゝω・) v キャピッ

『新千載和歌集』という勅撰集は
そんな冒険解釈を許してくれるほどに
ちょっと特殊な成立背景想いを秘めた歌集なのです。


そもそも勅撰和歌集とは
天皇の綸旨、または上皇(法皇)の院宣によって撰集される公的な歌集
平安時代の『古今和歌集』から、室町中期の『新続古今和歌集』まで
21集が存在します。
(↑最後の勅撰集『新続古今和歌集』
 後花園天皇6代目足利義教の治世のもの。お勧め!超お勧め!!)


このうち、17集目の『風雅和歌集』
花園法皇監修、光厳上皇親撰で
誕生間もない幕府の全盛期&安定期と、時を同じくして撰集が進められた歌集で
(↑つまりこれもお勧め!超お勧め!!)
貞和4年(1348)頃にほぼ完成し
尊氏直義の和歌も複数入選しています。


そして『新千載和歌集』は次の18集目にあたり
後光厳天皇の下命、撰者は御子左(二条)為定
『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年
延文元年(1356)6月に撰集が決定し
延文4年(1359)12月に全巻の完成となった、南北朝期の勅撰集の一つですが
なんと言っても『新千載和歌集』は…

 武家の奏請による勅撰集撰集の先例を開いた歌集」

として有名です。

つまりこの勅撰集は
尊氏が申し出て、朝廷がそれを承諾する」という形で撰集が始まり
以後、『新続古今和歌集』までの勅撰集で
足利将軍による奏請という形が継承されました。


そうなのです―――
尊氏さん、かなり斬新な事したのです。
和歌が大大大好きだったから…というのはもちろんあるでしょうが
尊氏が元来、意外なほど保守的で、朝家を殊のほか重んじていた事を考えると
これは尊氏にしては、極めて特異で大胆な発案&行動だったと言わざるを得ません。

(ちなみに、撰者を御子左(二条)為定(※以下、二条為定と表記)
 としたのも、尊氏の意向です。)



なぜ尊氏は、先例を乗り越えてまで勅撰集の撰集を望んだのか?
「そこには、何かしらの強い意図が存在したはずだ」
という視点で
『新千載和歌集』を詳細に分析し
撰出和歌の特徴配列
後醍醐天皇尊氏、撰者の二条為定の、それぞれ&三者の関係
崇徳院御霊鎮魂のために編まれたと考えられている『千載和歌集』との比較

…などから、その謎を解き明かした論文が

【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】


です。

「尊氏の意図」というものに注目した考察は素晴らしいの一言に尽きます。
というのも、尊氏の行動
一見、考え無しとか行き当たりばったりとか成り行きof成り行きに見えて
実はそのすべてに明確で強い意図が存在するので。



という訳で、詳しく紹介…したいところですが
ここでは、ごくごく簡単に結論だけ要約させて頂きますと…

「要所要所に後醍醐天皇を言祝(ことほ)ぐ歌を置き、
 全体としてあたかも後醍醐天皇のための勅撰集であるかのような
 相貌を見せている」『新千載和歌集』
後醍醐天皇の鎮魂を、撰集の大きな目的の一つとして構想された勅撰集であり
それは、執奏者である尊氏の意図によるものだと考えられる。

(※「」内、上記論文より引用。読み仮名と強調は私。)

という事です。
なるほど納得、全面同意です。


足利将軍の執奏によって勅撰集撰集がなされる先例を開いたことが、
 この新千載集のもっとも重要な文学史的意義と目されながら、
 尊氏がそうした挙に出た理由が問われることは、従来ほとんどなかった。」

尊氏自身の和歌好み」が理由の一つであることに間違いはないが
その点だけに「この問題を集約させてしまう」には
勅撰集撰集の奏請という行為は、前例のないことであるだけに」
あまりにも重大なことのように思われるのである。」


という鋭い着眼点より『新千載和歌集』を分析した当論文は

新千載集は、武家執奏によるはじめての勅撰集である。
 足利尊氏が、前例のない勅撰集撰集の奏請などという行動に出たのは、
 直接的には、後醍醐天皇の御霊を畏怖し、
 それを慰める必要を感じたからであったと考える。」


という結論で締めくくられています。
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)

従来、なにかとスルーされがちな尊氏の意図について(政治史でも、文化史でも)
その存在を掘り起こしてくれた、有り難い論文であります。 (−人−。)ナムナム

(※以上、結論に至る考察部分がまるで紹介出来なくてすみません。
 特に、和歌の配列に関する考察は
 実証的で示唆に富んでいて素晴らしいです。)




しかしそうすると…ですよ
モルダーな私としては、やはりこう考えずにはいられない訳ですよ

尊氏の事だから、他にも胸に秘めた想いを反映させているのではないか…?

と!!

そもそも、勅撰集というものが
「本来「治まれる御代の証」としての性格を有している」という基本に立ち返れば
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)
『新千載和歌集』だって普通に考えれば
太平の御代(※この当時は、後光厳天皇の治世)を象徴する為のものであった訳で
戦乱の終息を宣言し
人々の心に安心を与えたい、との願いも込められていたと思います。
尊氏ほど、神仏に捧げる法楽和歌を好んだ武将もいない…ことを思い起こせば
『新千載和歌集』の撰集そのものを "天への祈り" だと考えたのではないか?
とすら思います。

おそらく、託した想いは一つではなく
そのうちの一大目的が「後醍醐天皇の鎮魂」だった、とも言えそうですが
しかしこれは本来
暗黙の了解というか、公然の秘密というか
表立って公言した訳ではないマル秘プロジェクトに近い性質のものです。
(だから、上記論文のような分析で初めて見えてくる。)

ならば―――
他にも "尊氏の策" で忍ばせた隠し扉があるはず!! (; ・`д・´) ゴクリ…
なんたって
撰者に二条為定を推したのは、外ならぬ尊氏ですよ。


二条為定は、尊氏の和歌の師であり
康永4年(1345)冬に
尊氏に三代集(古今集・後撰集・拾遺集)を伝授したりしていますが
他にも尊氏は晩年、二条為定邸を自宅にしていたり…
という二人の関係を考えると
かなり個人的な意向も、内々にやり取り可能だったろうと思うのです。

(※鷹司東洞院(土御門高倉)の尊氏邸
 観応2年(1351)2月22日
 『観応の擾乱』の中でボコボコ&焼失してしまい
 その後(色々あって)一旦鎌倉に下ったのち再度上洛した尊氏は
 文和2年(1353)10月20日に、為定の二条万里小路第に移り
 延文3年(1358)4月30日に他界するまで、ここに住み続けます。
 ちなみに、為定自身は別の場所に住んでいたようです。)


もちろん、あくまでも勅撰和歌集ですから
「和歌」という文化伝統のために撰集される事が大前提でしょうが
しかしそれでも、そこに携わった人々の想いというものは
少なからぬ彩りを添えていると思うのです。

それは、歌の並びの中に今も咲き続ける
永遠(とわ)に色あせぬ花として…



という訳で
尊氏の奏請に始まった『新千載和歌集』誕生に秘められた想いと
執奏者尊氏、撰者二条為定の関係を考えた時
直義和歌の真相究明は、いよいよ佳境に突入するのであった―――



次回「直義のスクープ和歌は謎(その6)」
モルダー全開で参ります。
夏だし☆



posted by 本サイト管理人 at 08:45| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
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