2017年07月25日

直義のスクープ和歌は謎(その4)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その3)」の続きです。


この歌は『新千載和歌集』に撰出されたものですが
勅撰集の和歌の配列には、ある程度のルールや意味があって
同一キーワード(単語や地名)を含む歌とか、同一の主題を詠んだ歌などは
連続して並べられるようになっています。
(つまり、前後周囲の和歌は、共通点関連性を持っている。(程度は様々ですが))

例えば、「秋」の部の前半の方には
「七夕」を詠んだ歌が連続で並べられている、といった具合です。
(※旧暦の7月は「初秋」に当たるので。)
「七夕」とか「天の川」とかいった単語が並ぶ中に
一首だけ「鹿」を詠んだ歌がぽつんと入っていたら、おかしい訳です。


この直義の和歌が収められているのは「雑」の部なので
守備範囲は広い訳ですが
それでもよく見ると、そこそこのカテゴライズの形跡が見出せます。


という訳で、直義和歌の前後をざっと観察してみますと
どうもこの辺は
憂き世への嘆きとか、そんな俗世にある我が身への悲嘆とか
だからと言って、世を捨ててみたところで一層しみる憂き世憂き身救われなさ、とか

遁世してもなお、逃げ場も慰めもない俗世の中で
独り脳内に山寺の鐘だけが遠く響く――― ような雰囲気の漂うエリアです。
ゴーーーン… (´;ω;`)

つまり―――

そんな憂き憂き出家遁世エリアのど真ん中に
空気を読まずに颯爽と現れる「愛人への恋歌」!!

って、なんでだよ!!


不自然です、実に不自然なのです。


実は、前回の解説で私が
「袖の色が変わった」を「出家した(=墨染の衣に着替えた)」と解釈すべき
もう一つの理由があるといったのは
直義和歌が、このエリアに位置していたからなのですが
(しかも、直前・直後の和歌には「墨染の」という単語がダイレクトに含まれる
 …という間違い無さ)

なのですが、なのですが…

しかしですよ
確かに、詞書が示す通りこの和歌は「出家」を詠った歌ではありますが
しかしそれでも、本質的には恋の歌です。
男女の心情が絡む歌がこのエリアに忽然と現れる、というは
どうにも不自然極まりない…と感じないではいられずにはいられない訳なのであります。




ではここで参考に
直義和歌の前後の歌を(適当なとこから適当なとこまで)
『新千載和歌集』より書き出してみたいと思います。



題しらず  藤原宗秀
花にそめ 紅葉に染めて まことなき 心の色の あだし世の中

信快法師
後の世も かくや歎かむ 身のうさに 猶のがれえぬ 心なりせば

徽安門院一条
いく程と 思ひながらも なげくこそ うき世をしらぬ こころなりけれ

宣光門院五条
今さらに うきをうしとて 驚くも 世のことわりを しらぬなりけり

安嘉門院四条
数ならぬ 身にも涙の こぼるるや いはきの山の しづくなるらん


あけくれ木のもとにのみすぐし侍りければ
身をかへたる心ちし侍りて思ひつづけ侍りける  大僧正行尊
木のもとは つひのすみかと 聞きしかど いきてはよもと 思ひしものを


世をのがれて後那智にまうでて侍りけるに、
そのかみ千日の山ごもりし侍りけることを思ひて
滝のもとにかきつけ侍りける  法眼慶融
三とせへし 滝のしら糸いかなれば 思ふすぢなく 袖ぬらすらん


山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の袖


…【ここに直義の和歌】…
建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける  左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな

是法法師
のがれても おなじうき世と 聞くものを いかなる山に 身をかくさまし




(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)




この後もまだまだ
憂き世、身を捨てる、身を隠す…と言った単語が続きます。


つまり…
なんというオーパーツ!!
と言いたいとこですが
ここはおそらく、逆に考えるべきなのだと思います。


勅撰集の配列パターンからすると
ここに位置する歌を「直義が愛人に対して詠んだ歌」だとするのは
やはりおかしいのではないか?…と。


詞書によれば、"ある女性" が出家した事は確かで
その事を、直義が歌に詠んだのも紛れもない事実ですが
しかし、この女性が "直義の愛人" だとは言い切れないのではないか…?
というかはっきり言って、前後の和歌のテンションからすると
これが愛人に送るために詠まれた歌だとは、どうしても思えないのです。

(※ネタ的に水を差すような事言ってすみません (´・ω・`)
 でも、『大日本史料』公認直義愛人ネタ
 ネタとしては永遠に不滅だと、私個人では思っております、はい。)



そう考えた場合、一つの可能性が浮上して来る訳で
これが「(直義にとっての)恋の歌」ではないのなら
歌を詠んで遣わせた相手はもしかして、この女性ではない "別の誰か" なのでは?―――


いや、それは穿ちすぎだろ(妄想の上に妄想盛ってるよ)と思われるかも知れませんが
私がここまで冒険的な解釈をするのには理由があります。



という訳で、ここで再び
直義和歌を含む前後4首に注目いたしますと…



山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の

(※詞書省略) 左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな



(適当な訳)
1首目
(出家して身を隠した超さみしい山里で)
これでこそ遁世というもの!と叫ぶ。(自暴自棄ぎみに)
3&4首目
出家したって、この世のに住んでいる事に変わりはないんだよね… (´;ω;`) と泣く。
(※「すみぞめ」は、「墨染」と「(世に)住む」の掛詞。)




直義和歌以外の3首には、すべて「墨染の(袖 or 衣)」というワードが含まれます。
直義和歌も「袖」が意味するのは「墨染の袖」だと言えますが
しかし、「墨染の」という同一単語が並ぶ中に
あえて(直接的には)それを含まない和歌をねじ込む…というのは
なんか…すごく… 違和感だと思うのですが。

これくらいのイレギュラー配列、別に普通かとも思ってはみたものの…。
「一首隔てて同一テーマ(単語)の歌を並べる」という複雑な配列法はあるようですが
それともちょっと違うような…
ってかそれどころか
3首目4首目の歌が、やたら似過ぎているのが気になってしょうがない。
よみ人しらずの歌まで探してきて、なんか…これでもかと "何かを" 駄目押ししている…??

そもそも歌の内容的にも
他の3首が、出家した自身の侘しさに直撃されているような歌なのに
直義のだけ、浮き過ぎてますよね?

直義和歌が、この4首の "間"(2番目)ではなく
最初(1番目)か最後(4番目)に来るのなら
(キーワード的になら)まだ分かるというものですが
なぜに… 割り込ませるのかと!!
なんかどう見ても「わざとらしい」んですよ! 色々と!!


そうつまり―――
私はこう大胆予想しているのです

何らかの理由があって、わざとこんな事をしたのではないかと!!

(ってゆうか誰が?)


……。


「モルダー、あなた疲れてるのよ」とかいう声が聞こえて来そうですが
大丈夫です。 私が疑っているのは、宇宙人みたいな人ですが宇宙人ではありません。



ところで、上掲の4首をもう一度見て頂きたいのですが
このエリアにはオーパーツってくらいの浮きっぷりを示す直義和歌
詞書が無いと、わりとしっくり馴染んでいると思いませんか?
若干の違和感に目をつぶれば、普通に憂き憂きムードいっぱいですよね。

「旅をしていた間に、親しかった誰かが出家してしまったのだろうな…」
という寂しさが胸いっぱいに広る
しょんぼりカタルシスがたまらない一首だと思います。

(あるいは、後に続く2首に共通性を見出すなら
 「出家しても俗世、から帰って来ても俗世
  どこに逃げても、憂き世は結局変わらない… (´;ω;`)ブワッ 」

 みたいな意味にもとれるでしょうか?)


うん、そうなんですよ
詞書さえ無ければ、さして気にも掛からず通過できるのですよ。

詞書があると
「は、はあ?? 女がどうしたって!!?」
ってなりますけど。


ただ一方で、詞書が無いとこの和歌は
ちょっと真意が解し難い…というか
「袖の色」といわれると、どうしても恋歌っぽく聞こえてしまうと思います。
そこで…
それを防止し、「袖の色」ってのは「墨染の袖」の事だよ!!
という事をアピールするために、こんなポジショニングを図ったのではないか…?
ここなら詞書が無くても
出家を詠んだ歌だって、誰の目にも明らかですからね。
逆に、詞書を添えるなら、何もここにねじ込む事はないと思うのです。


そうつまり―――
私は、更なるセカンド大胆予想をしているのです

この直義和歌は当初、詞書を添えずに掲載される予定だったのではないかと!!

!!?



「モルダー… (´・ω・`) 」とか呼ばれ出しそうですが
しかし、モルダーの 妄想 発想が無ければ、X-ファイルの謎は永遠に謎のままなのですよ!
冒険妄想を恐れたら、未知(と尊氏)未来永劫意味不明なのです!

私は普段は、考察には慎重に慎重を期していますが(小心者なので。プルプル)
しかし今回は… 冒険いたします。
夏だし☆ (ゝω・) v キャピッ



という訳で、この仮説のもとに強引に捜査を進めますと…

当初この和歌は、和歌単体で掲載される予定だった
それはなぜかと言えば
詞書の込み入った事情から察するに
隠しておきたい、あるいは、公にするには憚られる事情があったから
しかしこの和歌は、単独ではやや意味不明… ってゆうか
おそらく、単なる妄想恋歌と思われて終わる \(^o^)/
真相は伏せておきたいけど、事実の半分は記憶として正しく留めておきたい
(詞書無しに)和歌の真意をある程度伝えるためには―――
巧妙な配列によって、周囲の和歌から意味を察するように誘導する
コード【墨染】でがっつり前後を挟み
「これ出家の歌なんですよ、出家の歌!」と畳みかけるべく
後ろから2首の極似和歌で援護射撃し追い打ちをかける
完璧だ。
芸術の域に達した美しき完全犯罪
この真紅の薔薇を、我が愛しき直義への手向けとしよう―――
ふはははははっっっ!!!


(ただし、最終的に詞書が掲載されたため、この犯行は未遂と化し
 無駄な不自然さとまさかの直義愛人説が誕生しますた。)




つまり、謎はすべて解けたっっっ!!
(…せやろか?)

まあ、こう考えると
「そこまでしてこの直義和歌を撰出したのはなぜか?」
という新たな疑問が生じる訳で
そもそも「勅撰集にそんな細工施せる直義関係者がいるのかよ!」ってなる訳ですが
これに関しては… いますよね。


その人にとってこの和歌は
大切な思い出の和歌だったのではないかな。

どうしても
勅撰和歌集という最高の場所に、永遠に掲げておきたいと願うほどに
輝いた一瞬を記憶する歌だったのでしょう。




それでは次回「直義のスクープ和歌は謎(その5)」では
『新千載和歌集』という勅撰集の特質を考えてみたいと思います。

参考文献を先に紹介しておきますと…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちらの論文をどうぞ!


【深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』(笠間書院)2005】
 という書籍にも収録されているようですが
 すみません、未確認です。)



posted by 本サイト管理人 at 09:23| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
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