2017年06月27日

直義のスクープ和歌は謎(その1)

こんばんは、今日は
ずーっと話したかった、直義のあのスクープ和歌について
語り始めたいと思います。


直義と言えば、もう毎回しつこく解説していますが
清廉潔白謹厳実直誠実謙虚頭脳明晰
政治に私曲を一切挟まず
首尾一貫して「道理」に基づく言動は、いつでも果てしなく高潔
でも単に真面目なだけの堅物(かたぶつ)ではなく
人との交流が大好きで
人への思いやりに溢れていて
愛する者への情熱は誰よりも深く
新しいものをどんどん取り入れる好奇心とか
道理に適うとあれば、古いしきたりに囚われることなく自由な発想が出来る柔軟性とか
輝く理想の未来を信じて、不可能すら可能にしようとする信念とか
そんな果てのない夢を全力で追い続ける、どこまでも透き通った純粋な心とか

ああもうどこをとっても、史上最高の…!!☆※@!!☆?っっ!!


…ってまあ、褒め出すと切りがないのでこの辺にしておきますが
その他、直義の特徴としましては
和歌や連歌などを見るに、とても機知に富んでいる…というか
ユーモアのセンスも存分にあったようです。
まあ、頭の良い人って大抵、ギャグとかネタの引き出し多いですからね。

直義は、いつでもキリッと常時クール、というイメージが強いかも知れませんが
実際は、よく笑うとても明るい人だったようです。


ま、敢えて欠点を言えば…
人懐っこ過ぎて、警戒心が無さ過ぎる、とか
人を信じ過ぎて、疑う事を知らない、とか

そんな危なっかしい直義を、裏でフォローする尊氏の気持ちにもなって下さいよ!
毎回、どんだけヒヤヒヤしてたと思ってるんですか!!
某畠〇山さんとか、某〇細川さんとか、某上杉〇さんとか、某足利高経とか
あらゆるエージェントを駆使して弟を守る健気な兄、尊氏

まあ、伏字になってませんが。 ってか、高経は丸出しですが。



話がそれました。
直義の事になると、どうしても理性が吹き飛んで仕方ありません。
まあつまり、直義は本当に面白い…というか、かわいい(ポッ
…と尊氏さんが言っております。



さて、そんな直義は
とにかく、清く正しく美しい一途な心の持ち主なので
 「他犯戒」(たぼんかい)を持していた!! (『太平記』)
という話を先日しました。
「正室の他には女性関係を持たない」という(仏教としての)戒律、つまり
側室が当然の時代にあって、正室onlyを貫いていたのですよ!!

(※直義は俗人でありながら、既に建武元年(1334)頃には
 無学祖元の頂相(ちんぞう。肖像画)を拝して受衣
 弟子の礼を執っています。)



新生幕府の主導者という、側室持ち放題の地位&経済状況にもかかわらず
しかも、正室との間になかなか子供が出来なかったにもかかわらず

 正室以外は目もくれない!!

って、どんだけ 変わりもん の中のなのでしょうか。
素晴らしき貞操観念。 歴史的特別天然記念物です。


…ただ、私が思うに
実際のところは「仏教的な信条として身持ちが固かった」っていうより
直義の一途な情熱と、正室が足利一門の渋川家のお嬢さんで、かつ同い年である事からして
二人は(当時としては稀少な)「幼馴染の果ての恋愛結婚」だったのではないかな〜
と。
つまり…
「子供が出来ないなら側室持てばいいYO!」と方々(ほうぼう)から勧められまくるも
「あ、いえ、妻に惚れているので…」とは恥ずかしくて言えない直義は
「漢は黙って他犯戒!!」とかかっこいい事言って周囲を黙らせていた
とかいう真相。

…って、すみません。
多くの直義ファンに断固賛同を拒否されるような推測をしてしまったような気がしますが
まあ、私はもう既に、これに気付いた時の絶望は乗り越えました。
とかかっこいい事言ってみる。


まあでも、異母兄高義(たかよし)の早世後、足利家を継ぐ立場となって
鎌倉幕府の執権北条一族から、政治的に正室を迎えるまでにも
様々な紆余曲折があったらしい尊氏の場合を思うと
立場上、色々と制約の多かった兄の尊氏に比べて
弟の直義は、自分の気持ちのままに、かなり自由に生きる事が出来ていたのではないかな。

それはすべて、兄の存在のお陰で
でも別の見方をすれば
弟の自由のために、ひたすら堪(こら)え性を身に付けていったらすっかりドM将軍と化してしまった兄尊氏
…などという真相。




こっから☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆本題




さて、元来清廉で、予想通りの鉄壁な貞操観念を持つ直義ですが
しかし…!!
そんな直義のイメージに真っ向から異議を投げつける破壊力満タンの和歌がありました。
これは、直義の和歌の中でも1、2を争う有名な歌ですが…

尊氏の晩年(つまり直義亡き後)に撰集が始まった
後光厳天皇時代の勅撰和歌集『新千載和歌集』
詞書(=和歌の趣意、簡単な解説)と共に登場する直義の和歌―――


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さまかへ侍るよしをききてよみてつかはしける

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



尊氏たちが、入京成功後まさかの反撃敗退で丹波に逃げたのが建武3年(1336)正月末
そして、予想外の九州逃避行のち、そこからの復活快進撃で
Uターン足利軍が再入京を果たしたのが同年5月末
つまりこれは、幕府設立直前の
建武新政権との "一年合戦" の頃の逸話という訳です。

(※当時の解説は、本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)




―――※ちょっと余談―――

直義・尊氏たち足利軍が「打倒!新田義貞」を掲げて鎌倉を飛び出し
『竹之下・箱根の合戦』で最初の勝利を収めた建武2年(1335)11〜12月から
翌正月の京都での合戦、九州没落、復活上洛、5月の『湊川の戦い』、再入京
そして最終的に足利軍の優勢が確定したことで和平協定を結び(11月2日)
『建武式目』を制定して幕府再建を宣言する建武3年(1336)11月7日までの
約1年間の一連の合戦についてですが…

これほど歴史的に重大な意味を持つ大転換期の1年のわりに
特に「なんとかの乱」とか名前がついてないのは不憫…というか不便なので
私は個人的に『建武一年合戦』との命名を提案したいのですが。
賛同してくれる方、お待ち申し上げております m(_ _)m

まあ、本当は『建武一年戦争』ってしたかったのですが
それだと、モビルスーツとか赤い彗星の人とか出て来るあれになってしまうので
自重しました。

ちなみに、『建武一年戦争』とは
建武世紀002(ダブルオーツー)11月2日に
直義(アルテイシア)が新田義貞にブチ切れて始まったまさかの一年戦争です。
突然の宣戦布告に腰を抜かすほどびっくりしたキャスバル兄さん(尊氏)
思わず中立コロニー・サイド浄光明寺で出家しそうになりましたが
直義の危機を知って一転、尊氏専用ザクで出陣しました。

―――※ガンネタ終わり―――


しかしそうすると
ガンダムを操縦しているのはセイラさん(=アルテイシア)という事になりますが
ガンダムに乗った直義(アルテイシア)」というのは
史上最強の足利軍を率いながら
いまいちその性能を十分に生かし切れない史実の直義と合致して丁度いい…

すみません、ガンネタ終わってませんでした。
というか、ガンダムの救援に駆け付けるシャア専用ザクって…(胸熱)
(※シャア=キャスバル兄さん=アルテイシアの兄)


いや待てよ、尊氏がシャアってことは
大佐(=シャア)が拾ったララァ「さぬ」って事になって
『観応の擾乱』で実妹アルテイシア(直義)を(知らずに)討ちそうになってしまうシャア(尊氏)
さぬ「大佐、いけない!!」とか言って止めに入って―――


ああいい加減にしよう、刻(とき)が見えて来た…







さて、話がそれました。
この直義の和歌は、昔から有名で、かつ物議を醸して来たのですが
それはなぜかと言いますと…
『大日本史料』第6編之16(大正7年刊行)の、直義の卒伝(p.122〜)で
この和歌の注釈に―――

 愛人ノ許ニ遣ハセル和歌

と記されているからです!!
あ、あ、あ、愛人ってwwww


つまり、この和歌はこう解釈されているのです。

建武3年(1336)正月に、一旦入京に成功した足利軍は
反撃にあって予想外の九州落ちを余儀なくされてしまう訳ですが
そのせいで、直義の愛人京都に置いてきぼりにされてしまったと。
半年もせずに、直義は九州旅行から帰って来るものの
その間に彼女の様子が(すっかり)変わってしまった…との情報を伝え聞いた直義は
その哀れなる胸の内を、和歌にして彼女のもとに送った
…という、ちょっと悲しい(?)エピソード。

つまり―――
あの直義に愛人がいた!!…という大スクープ!!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?
…な訳です。




さて、直義ファンの多くは
直義の清廉な性格が好き、という方が多いのではないかと思うのですが
この和歌はどう受け止められているのだろう…
と、直義ファンの一人である私は、常々興味津々でした。
ちなみに、私はと言いますと
この和歌を知った時には… わりと肯定的に受け入れられました。
(↑当初は、直義の性格をそこまで深く知らなかったのもありますが。)
直義もこういうところあるんだwww これはスルー出来ない突っ込みポイントwww
という感じ。
むしろ、あの直義だからこそ面白い!…と思いました。
だから、これはこれで良かったのです。

しかし―――

『新千載和歌集』の中のこの和歌を、再度よく読んでみたところ…
どうも色々とおかしい点が存在する事に気付いてしまい
一通り考え直してみた結果
なんか別の何か…な和歌であるらしい事が判明しました。

実はこれは、直義が愛人に対して送った和歌ではないかも知れないのです。
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!? (一応)


直義の「意外性」を楽しんでいた方には、ちょっと残念(?)なお知らせかも知れませんが
やっぱり直義は「他犯戒を持して」いたのだ!!
という事実が再確認できた(…かも知れない)のは、めでたしめでたしかと。



ちなみに…
『太平記』って、初期の原型を留めたものとか
少し後の時代に、関係者の証言や当時の日記等の記録をもとに
色々と書き加えられたり書き換えられたりしたものとか
いくつかの諸本が伝わっているのですが
原型に近い『太平記』で「直義は他犯戒を持していた」と書かれている所が
後世の(色々加筆された)バージョンでは

左兵衛督直義は、他犯戒を持しながら、破戒の罪のある上に…

ってなっているものがあるのですよ!
(つまり「正室だけと言いながら浮気してた」と。)

おそらくこれは、『新千載和歌集』の直義和歌の誤解から
後になって書き換えられたんじゃないかなぁ〜と思うのですが
(この書き換えのために、その後の文とのつながりが
 ちょっと意味不明な感じになっている)
だとしたら、昔からこの和歌は
直義に愛人がいた証拠と解されていた、という事になります。

まあ、普通に詞書を読めばそうなりますよね。



では、この魅惑の和歌の真相とは―――
という話は、次回「直義のスクープ和歌は謎(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:08| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
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