2017年06月23日

足利さぬ …のこと(その3)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その2)」の続きです。

さて、さぬの父、足利秀政の改名(日向→足利)の、いわく有り気さから考えても
(八幡大菩薩に誓ったらしい)両家のただならぬ関係から考えても
尊氏にとって、さぬとの婚姻は隠された深い意味がありそうだ…
というのは想像に難くない訳ですが
そうすると、さぬはかなり特別な側室…というか
「準正室」くらいの存在だったのではないかと思えてしまうのですが
にも拘らず…
どうにも、当時の記録上ではさぬの気配が全くしないのですよねぇ…


以前『Muromachi通り』「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
尊氏の腹心の僧、三宝院賢俊の日記『賢俊僧正日記』の中の
尊氏の家族「衰日と年齢」についての記述を3つほど紹介しましたが
これらには、さぬらしき女性の記述は全く見られない…
という事は
(賢俊による)さぬの日常的な修法は行われていなかったし
とりあえず尊氏邸には同居していなかったっぽい
というのは間違いないようです。



ただ、賢俊の日記にはちょっと気にかかる部分もあって
まず、暦応5年(1342)2月の記述を再掲いたしますと…


二月  御衰日
 将軍(尊氏)卅八卯酉  三条殿(直義)卅六丑未
 大方殿(上杉清子)七十三卯酉
 御台(赤橋登子)卅七丑未  三御台(直義室)卅六丑未
 鎌倉若君(義詮) 若君(聖王)四辰戌  三若君(基氏)三子午

 姫君  一ヽ姫君 六丑未

(※「三御台」「三若君」の「三」は、三条殿=直義のことです。
 三若君(=基氏)は尊氏の実子ですが、直義が養子として養っていました。)



この記述の「並び順」に関する特徴は
尊氏 → 直義 → 尊氏室 → 直義室 → 尊氏子(義詮・聖王)→ 直義子(基氏)
となっている事といえますが
ただ、男子まではいいのですが、女子(二人の姫君)についてが謎な訳で…

最下段の最初の「姫君」とは
この頃生まれたばかりの、赤橋登子の娘の「鶴王」と考えられるのですが
そうすると、(年上にも拘らず)6歳になる姫君がその後に書かれている
…というのが、どうにも疑問な訳でして。
うーん、ぱっと思い付くのは
この姫君が、赤橋登子の所生ではないからなのではないか…?
という可能性な訳ですが…。


でも「一ヽ姫君」の「一ヽ」の意味が分からない…
「三」じゃないから三条殿(=直義)の養女という訳でもないし
(※直義は、この翌年に生まれた尊氏の娘を養女にもらいます)
そもそも、この姫君は建武4年(1337)生まれ
記録に残る尊氏の娘としては、最初の女の子(長女)なので
赤橋登子が産んだ子だったとしたら、どこかに養子に出すとは考えにくい…
というか、「鶴王」がとても大切に育てられた様子からすると
やはり、この頃生まれた「鶴王」こそ、赤橋登子の最初の女の子であって
この6歳の姫君は、どう考えても母が違う…
まあつまりはっきり言って
さぬが生んだ姫君なのではないか…!!
と思ってしまった訳ですが。

つまり、二人の姫君の記述は
正室赤橋登子の姫君」「さぬの姫君」
と、正嫡の順番になっている、と。




それからもう一つ
賢俊の日記の貞和2年(1346)の記述(2か所)についてですが
赤橋登子の姫君に関して…


正月4日  上台 44 辰戌  同姫

10月13日  上台 44 辰戌  同姫


(※上台=赤橋登子。年齢の「44」は実際は漢数字です。)


と、どちらも赤橋登子に姫君が一人だけいるように書かれていて
この子は、この年に5〜6歳になる「鶴王」の事だと考えて間違いない訳ですが
しかし…
実はこの頃、尊氏にはもう一人姫君がいて
でもその子は、この年の7月7日に3歳で夭折してしまいます。

もしこの姫君も、赤橋登子の所生だったとしたら
正月4日の記述の方は
上台 44 辰戌  同姫 同姫
と書かれているはずなのに、なぜか一人分…

私は以前、上記の記事「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
この正月4日の「同姫」とは
「鶴王」「3歳の姫君」をまとめて記したものだろうと考えたのですが
よく考えたら、それはちょっと不自然かなぁ…と。

という訳で、つまり何が言いたいかというと
この年に夭折した3歳の姫君
赤橋登子の子ではない…ってゆうか、さぬが生んだ子なのではないか!
とこれまた思う訳です、はい。




妄想が☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆妄想を呼ぶ




と、こんな感じで妄想をたくましくすると
当時の記録上では、これまで影も形も見えなかったさぬの存在
なんか、見えて来た…かも…??

まあしかし
それでも「賢俊による修法が行われていなかったっぽい」というのは
やっぱり気にかかるし
この二人の姫君も、生年的には、赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないので
私は、考えらる可能性として
もしかしてさぬは… わりと早い時期に亡くなってしまっていたのではないか!?
という、(´;ω;`)な事態も考えてみたのですが…


しかし、ここにその可能性を打ち消してくれるかも知れない
気になる史料が一つありまして―――


【小松茂美『足利尊氏文書の研究 V解説篇』(旺文社)1997】
の、p.210-213 の解説の中で登場する書状なのですが…


これは、建武4年(1337)7月25日に発給された「足利尊氏寄附状」に関連して
その43年後の康暦2年(1380)6月3日に発給された文書で
(詳しい解説は、まるで省かせてもらいますが)
この文書を自筆でしたためたのが「平氏女」(へいしのめ)という女性で
その内容から、彼女は
「足利家一門の高貴な女性」(※上記文献より引用)
と考えられ
この文書が伝えられた多田院では、その伝来の途次でいつしか
この「平氏女」は、尊氏の正室の赤橋登子に擬定されて来たそうです。

室町時代初期の、地位の高い平氏の女性…といったら
北条一族の赤橋登子しかいないから、そう考えられて来たのも当然だと思いますが
しかし!!
既に貞治4年(1365)5月4日に60歳で没している赤橋登子が
康暦2年(1380)にしたためられた書状の発給者である訳がない…
つまり、この「平氏女」が誰なのか謎…
上記文献では
「しかしながら、それ(=赤橋登子)に代わるたれなのか、いま追及の手がかりがない。」
(※原文より引用。カッコ内は私による註。)

とされています。


…はい、という訳で
私はこの解説を読んだ時
「え、それって「さぬ」なんじゃないの!?」
と思ってしまった訳であります。

もしこの(かなり適当な)思い付きが正鵠を射ていたとしたら
さぬはわりと長生きしたって事になるので(※この時点で、尊氏没後22年)
ひと安心!…と言いたいとこですが
うーん、どうだろう…

というか、父の秀政が足利に改姓したのに
その後もさぬは「平氏女」と署名していたってことは…
え、つまりさぬは「足利さぬ」って自覚してた訳じゃないの??
それ(名字)とこれ(血筋)は別問題なの??
…いやそもそも
この「平氏女」をさぬと推定するのは、裏付けが無さ過ぎるので
これ以上、妄想に妄想を重ねても仕方ない訳で
赤橋登子の姉妹でもいたのかな〜
と考えるのが、現実的なところでしょうか。

まあ一応、私の勝手な「さぬ妄想」という事で語ってみました。




以上、尊氏の謎の室「さぬ」について
今のところ語れる事を、大略語り尽くしてみました。
まあつまり結論は… です。
だから妄想の余地∞無限大です。 やったね!

なので、もう少しだけ「さぬ」で引っ張りたいと存じますので
次回「尊氏さんの子供たち」をちょっとだけ解説したあと
満を持して
私の秘蔵(?)のさぬネタを披露したいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
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