2017年06月17日

足利さぬ …のこと(その1)

こんばんは、先日の記事「尊氏さんの命日(その1)」
謎の尊氏の室「さぬ」の事を紹介したら
私の中で俄かに、気になって気になって仕方ないモードが再燃してしまったので
もう少し話を続けたいと思います。


尊氏の室といえば、鎌倉幕府の御家人時代に鎌倉で婚姻した正室
北条一族出身の赤橋登子が有名ですが
しかしその後、新生幕府の初代将軍ともなったにもかかわらず
尊氏には側室に関する記録がまるで無い、というのも有名かと思います。

まあ、北条一族から正室を迎える前の青春時代では
竹若(庶子、長男)の母とか、直冬(庶子、次男)の母といった
非正嫡的な、一夜限り的な事はあった訳ですが
しかしこの時期は
まだ尊氏さん20代(場合によってはぎりぎり10代)ですし
政局とか大人の事情とかで正室が決まらず
悶々(もんもん)とした日々に耐えていた訳ですし
そのくらいのロマンスはいいじゃないか!!…と思います、はい。


(鎌倉時代の足利家の嫡男は、北条一族から正室を迎えるのが通例で
 それゆえ、北条一族の血を継いだ者が代々足利家当主となっていた訳だが
 家督を継ぐ予定だった尊氏の兄「高義」が21歳で他界してしまった事で
 (※この時、尊氏は元服前の13歳)
 高義の遺児はまだ幼いし
 次男尊氏の母は、上杉家の上杉清子だし
 足利家の家督どうすんのさ!!…という政治的な大人の事情が発生していた。
 最終的に、尊氏は赤橋登子を正室に迎え、家督の継承も決定したものの
 兄高義他界から少なくとも10年近く(最大12年ほど)
 立場の決まらぬ微妙な青春時代を過ごしていたのだった、マル。)


この辺の、尊氏の鎌倉時代の(しがない)身の上については
【清水克行『(人をあるく)足利尊氏と関東』(吉川弘文館)2013】
…の、p.20-30あたりをどうぞ。
この時代の尊氏に関しては、これで最終結論!ってとこまで達していると思います。



ちなみに、尊氏の第一子、竹若(たけわか)は
『元弘の変』(鎌倉幕府倒幕)に際し、戦乱の犠牲者として
元服前(10歳前後?)で早世する事になってしまう長男です。
その母は、足利一門の加古六郎基氏の娘
(当時、家督継承もあやしく立場の中途半端だった)尊氏の「最初の正室」
とも見られていますが
ただ、年代的に… うーん…?

加古六郎基氏って、足利頼氏の兄弟なので
基氏の娘と、足利頼氏のひ孫に当たる尊氏とじゃ、かなり世代が違うのですよね。
頼氏・基氏の兄弟の年齢が相当(20歳以上?)離れていて
(↑彼らは多兄弟で、基氏は末の男子なので有り得る)
基氏の娘も晩年(40〜50代くらい?)の子
…だと仮定すると
二人が同年代だったという事は十分に有り得るのですが
ただ可能性としては、尊氏よりも数歳は年上だったのではないかと。

それに加えて、足利家と加古家の家格差を考えると
やはり彼女は「尊氏の室」というより
身の回りの世話をする「家女房(侍女)」だったんじゃないかな〜
と思うのですが、そうすると…
身も固められぬ日々にもんもんが限界を突破した20歳そこそこの尊氏さんは
年上の彼女に抑えきれない魅力を感じて―――

…というとこまで想像してみた。




はい次、直冬(ただふゆ)の母についてです。
直冬の誕生秘話を伝えるのは『太平記』のみで、これは有名な逸話ですが
直冬は、その昔…
「尊氏がお忍びで一夜通いした越前局(えちぜんのつぼね)という女性が生んだ子」
だと。
直冬の生年は、嘉暦2年(1327)(尊氏23歳の時の子)との見解が最有力なので
尊氏22歳の時の 過ち ロマンスという事になります。


さて、この直冬の母について
なぜか現在では
「直冬の母は身分が低かった(だから直冬は尊氏に認知されなかった)」
と思われている事が多いような気がしますが
(極端な話、遊女だったとかいう説もある?)
でも、そんな事ないんじゃないかな〜 と思います。

というのも、彼女については
『太平記』では「越前局」(えちぜんのつぼね)あるいは「越前殿」
『足利系図』でも「越前局」と記されているのですが
この名称からして
素性がはっきりした結構な身分の女性だったと思われるので。
(ちなみに『尊卑分脈』では、直冬の母は「家女房」と書かれていますが
 まあこれは「正室ではない」程度の意味かと。)


しかも、足利家の御曹司が一目惚れ的な事をしてしまうくらいですから
かなり魅力的だった…というか、相当な美人だったのではないか
というのが私の予想なんですが。

ってことは、直冬は相当にかっこよかったのではないか!!

…というとこまで想像して
直冬ファンの私は昇天しました。


まあしかし、このような込み入った素性にも拘らず
後年の直冬が、目を見張る人望の厚さを示した事実からすると
ビジュアル的な素質の良さはあったように思います。
(というか、尊氏に(生き写しレベルで)そっくり… の疑い2000%。)






という訳で、尊氏の室については
若い時に(全然許せる範囲の)淡い話があるだけで
京都で将軍となってからは記録に残る側室はいない
というのがほぼ定説となっているかと思います。
(綺麗な将軍!!)


…なので、尊氏の子供たちについては
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
で、詳しく論じられていて全貌が明らかになっていますが
わりと子供が多いわりに、側室の記録がなく
え、(竹若と直冬以外)全部赤橋登子が生んだの??
という疑問があった訳ですが
ここへ来て…「足利さぬ」ですよ!!



といっても、さぬはあくまで特別な事情があって迎えた室なので
やっぱり尊氏さんは、自制心の強い綺麗な将軍だと思います!!



…と、持ち上げておいて何ですが
女の子は普通に好きそうなので
身持ちを堅くしていたのはたぶん
「他犯戒を持して」(by『太平記』)正室以外一切目もくれなかった弟直義にならった
というか、直義に嫌われたくなかったのが本音
だったに違いない!!

…というとこまで想像して悶(もだ)えました。




という訳で、全然さぬの話が出来なかったので
次回「足利さぬ …のこと(その2)」に続きます。




(ちなみに、直義には愛人がいた!とかいうスクープの元となっている
 有名な魅惑の(?)和歌がありますが
 あの歌の真相は… 後ほど解説したいと思います。)


(それから、尊氏さんがあちこち女色にふけらず
 特に将軍となって以降、決して無節操に側室を持たなかったのは
 本当は、真面目な理由がありますので
 (自分でネタにしておいて何ですが)
 頑張った(我慢した?)尊氏さんは、もっとみんなに讃えられていいと思います!)



posted by 本サイト管理人 at 20:10| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: