2017年01月15日

『太平記』の「鬼切鬼丸」の話って…(その1)

こんばんは、誰も覚えていないであろう一年ちょっと前の話なのですが
私は以前、2015年の秋に鎌倉に行った時の話を
「室町的鎌倉旅行記」と題してメインブログ『Muromachi通り』で連載していた訳ですが
足利家長(※高経の長男)や奥州相馬一族(相馬重胤とかいろいろ)の事を調べ始めたら
あまりにも面白くてどんどん話が大きくなってしまい
数か月にわたって記事を書き続けたものの未だ完結を見ず…

…という話がありました。
絵的に足利高経が初めて登場したのもこの流れですし
結構書き進めた未完記事もあったりして
私としては連載再開を願っている思い入れの強い話なのですが
もうすぐ一年放置って… (´;ω;`)

実は先日の高経絵は、この連載で語ろうと思っていた「鬼切」の話のために描いた絵なのですが
2017年の「七條殿ブーム」に先駆けてイラストをフライング放出してしまった事だし
「鬼切」の話も、この場で先走ってしまおうと思います。



さて、源氏累代の宝刀「鬼切」(おにきり)の行方については…

「室町的鎌倉旅行記(その2)」(2015.12.25)…の最後の方で「太平記」の話
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)…の冒頭
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」」(2016.3.21)…の終盤

で、二転三転しつつ検証を重ねた結果、おそらく…
越前での対新田義貞戦の勝利ののち
尊氏に献上された「鬼切」と「鬼丸」のうち、褒賞として「鬼切」が高経に下され
その後高経から、足利家長と共に当時東国で戦っていた甥の兼頼へと贈られたのではないか?
…と私は考えた訳ですが
ただ、もう少し単純に考えたら、もしかしたら「鬼切」は―――

尊氏から直接足利兼頼(斯波兼頼)に贈られた可能性のが高いんじゃなかろうか…

とか思う。
もしくは、一旦高経に渡っていたとしても、すぐに尊氏と高経の同意のもとで
褒賞として兼頼(※当時はまだかなり幼い)に下されたか…
うーん。まあとにかく
高経のもとに「鬼切」が所有されていた時間は
かなり短いか、あるいは全く無かった可能性があると思われます。

って何それ、高経と「鬼切」の関係や如何に… (´;ω;`)

(若干悲報…かと思いきや
 高経「鬼切」の関係は別の意味でもっと切っても切れないものなので
 どうぞご安心下さい、という話が以下に続く↓)




…以上は、「鬼切」を相伝する事となった足利兼頼(斯波兼頼)の
当時の役割や立ち位置を、現実的に検証した結果でありますが
では、なんか適当な話を伝えている『太平記』の「鬼切鬼丸」の話はなんなのさ…
という事になる訳ですが
実はこれも、よくよく検証すると非常に面白い隠しネタが浮上して来たりするのです。


どういう事かというと…
『太平記』の「鬼切鬼丸」の話は "ある人物" が噂として流した "作り話" ですが
これが "作り話" であるという事に最大の意味と価値があるのです。
(※ちなみに "ある人物" とは、『太平記』の筆者ではありません。)


これは、文和3年(1354)末〜文和4年(1355)初めに
京都で繰り広げられた大合戦の真相から導かれる結果なのですが
この「尊氏」「実子直冬(※直義の養子)」の最終決戦については
これはいわば『観応の擾乱』の真相…のみならず「尊氏直義時代」の全真相の総仕上げ
…と言える話ですので
現時点では、史料をもとに全考察過程について語る訳にもいかず…。
(※ちなみに、この最終決戦では高経直冬側で戦っています。)

なので、また無責任に結果だけになってしまうのですが
折角今年は高経ブームだし(←そんな大穴、全地球人がノーマーク)
先走って言い放ってしまいたいと思います。

…なのですが、長くなったので明日に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(0) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)
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