2016年06月30日

観応3年、春の夢

こんばんは、今日は基氏妄想図第二弾です。

(※前回はこちら→「足利基氏25歳」

未だに直義基氏の妄想が止まらないので
最近絵描いてなかったし、もうひと妄想です。


というか、足利基氏というとやはり "初代鎌倉の主" としての研究が主流で
『観応の擾乱』においてはあくまで第三者という扱いですが…
まあ、擾乱当初はまだ幼かったせいで、事件への直接的な関わりが薄く
「『観応の擾乱』と基氏」という視点で議論される事が少ないのも当然ですが
しかしこれが意外と
むしろ真相解明 "要"(かなめ)となるポジションにいたりするのです。


というのも基氏
観応2年(1351)12月、駿河国薩埵山(さったやま)での
"西の尊氏""東の直義" 両軍の合戦の後(※合戦自体は尊氏の勝ち)
和睦した二人の間で交わされた密談の事や
直義亡き後、鎌倉で1年と数ヶ月尊氏のもとで教育された事
その後、鎌倉殿(=鎌倉公方)として関東を統治する過程で見せた方針意志
…などなど
一見、瑣末と見過ごされがちな関連性を有していて
これら基氏を取り巻く細かい事情を繋ぎ合わせると―――

一般には、『観応の擾乱』は観応3年(1352)2月26日の
直義の他界を以て終了したと捉えられている事が多いですが
(↑繰り返しますが、これは非常に大きな誤解ですので要注意です)
むしろ "その後の基氏" を探る事で
事件の顛末から尊氏直義の真意まで『観応の擾乱』の核心部分が浮かび上がってくる
という、スペシャルなカラクリとなっていたりします。


その上、基氏は人間的にも尊氏と直義の子に相応しい立派な人物で
(↑なんかちょっと変な言い方ですみませんw でも間違っちゃいない… )
流行り病(はやりやまい)で28歳で早世してしまったのが
なんとも残念で残念で仕方ありませんが
にも拘わらず、尊氏直義研究の鍵となる隠れたメインキャラで
言ってみれば…
 「尊氏直義の遺志のすべてを託された二人の希望
というくらいの存在ですので
今からイメチェン準備しておいて下さい。
(というか基氏こそ、二人亡き後の世界の主役… Σ(゚Д゚;)!!!!??? )

(※この時期の鎌倉については
 かなり概要ですがこちらでも少し語っています↓
 『Muromachi通り』「夏休みの宿題(その3)」





という訳で、今日の妄想は観応3年(1352)1〜2月の鎌倉
擾乱がほんの一瞬だけ小康状態にあった、幻のような春の瞬間です。



足利直義足利基氏

(※クリックすると拡大します。1000×750px)



基氏(※幼名光王)は元服前なので、髪が(わらわ)モードです。
でも数え13歳(満11〜12歳(1〜2月ならたぶんまだ11歳))にしては幼すぎる…
とは自分でも描いてる途中で気付いたのですが
き、きっと元服式理髪(※成人の髪型に整える事)した瞬間
急に大人っぽくなるに違いない!…という設定にして強引に描き進めてしまいました。

というか、私の中でのデフォルト基氏は「13歳理髪後」なので
「13歳理髪前」の今回は、またしてもイレギュラーってゆう…


ちなみに、幼名が「光王」(こうおう)なので金髪っぽくしてみました。
"重要な鍵を握る人物" という暗喩だったりもします。
私の中では、養父直義や兄の直冬(※尊氏実子、直義養子)から
(ひかる)と呼ばれている設定です。

(意外と見過ごされているように思いますが
 直冬基氏直義のもとで(少なくとも数年は)
 「同じ屋根の下、家族として過ごした実の兄弟」という事実は
 なかなか重要かと思います。(二人は約13歳差異母兄弟
 妄想的にもかなりの萌えどころかと。)




というか、直冬基氏「むちゃむちゃ直義に懐いていた」
という事実は誰しも認める所だと思いますが
調べれば調べるほど笑っちゃうくらいの慕われ方で
一体直義どんな育て方したのだろう…
とか、ものすごく疑問なのですが
しかしこれは、直義の性格を分析しているとわりと簡単に理解出来ます。
つまり…
直義にとって尊氏の子である直冬基氏って
尊氏の分身…というか「ちっこい尊氏」でしかないんですよw

だから、理屈じゃなくもう心の底から可愛がっただろう事は確かですが
しかし単に甘やかすのではなく
立派な人間に育て上げる為にせっせと薫陶を施したようなのです。
(実際、直冬基氏は非常に人望があります。
 その他エピソードはまたいずれ。)


薫陶(くんとう)って
によって人を感化し、優れた人間に育て上げる事」という意味で
もとはを焚いて薫りを染み込ませ、土をこねて陶器を作り上げる事」
から来ている言葉ですが
文字通り、毎日心を込めてきゅっきゅきゅっきゅこねこね磨き上げていたもよう…
優しいだけではなく、常に気を掛け心を添わせてくれる人というのは
子供にとって最良の愛情を感じさせるのでしょう。
でなきゃここまで愛されないと思う。



さて、そんな親子関係から見えてくるもう一つの事実は…
一般に、基氏や特に直冬
「養父直義を慕っていたから、実父尊氏に反感を抱いていた(憎んでいた)」
というような解釈をされいますが
それは極めて不自然な誤解だったりします。
直冬基氏は、養父直義を敬愛していたからこそ
「直義がこの世で一番愛する兄尊氏は、二人にとっても大切な人だった」
と解した方が、その他の事実と上手く合致するし解釈として自然です。

例えば…
直冬は、両殿(=尊氏直義)の為、あるいは父尊氏の為に戦っている
と明言している文書願文が存在するのに
それを(通説と折り合いが付かないからと言って)
すべて虚偽と切り捨ててしまうのは、少々安易過ぎる発想かと思います。

もし、そんな嘘で騙そうと考えるような人物だったとしたら
直冬に高い人望と統率力があったという事実と整合性が取れないし
(周りの人間も、それ程馬鹿じゃないだろうに)
さらに、当時の武士が神仏に嘘をつくというのは現実的に有り得ない
(そんな不敬な事するくらいなら初めから願文など書かないだけの話。
 神仏に嘘をつけば恐ろしい罰を受けるとの共通認識があったからこそ
 軍忠などの申告の際に「誓文」が有効だった訳で
 願文の内容を虚偽と見做すのは、極端に現代的過ぎる発想かと)

…という訳で「直冬、実父憎悪説」
論理的・実証的に、かなり早い段階で却下される説だったりします。


もちろん、中には言葉のままに解釈すべきでない情報もありますが
史料は(特に一次史料は)"最大限生かして" 成り立つ説を探し当てる事が
たった一つの正解にたどり着く唯一の方法です。


(↑これをすると自ずと(真に)裏を読むべき史料も浮かび上がって来ます。
 『太平記』でさえ(…といったら失礼ですがw)
 喧伝や物語上の捏造だといって簡単に切り捨てるのではなく
 深く背景を読み解く事で、隠れた別の事実が姿を現す事もあります。
 特に尊氏関連の言動や文書には、その裏に真意が隠れているものが多い。
 なんて厄介さんなの… (´・ω・`) )




という訳で、ちょっと話がそれましたが
これまで基氏は注目度低め、直冬は大誤解」という二人でしたが
むしろこの兄弟こそ

『観応の擾乱』の真相 "二人の父" 尊氏直義の真意を背負っている

という、新太平記時代のスペシャル大注目な兄弟ですので
めっちゃイメチェン待機していて下さい。




直冬基氏兄弟☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆来るでこれ




ところで
先日『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」にコメントを頂いて
(↑一つ目の2016年06月25日のねこ様からのコメントです。私の返信はそのすぐ下)
またまた三部作の解釈で脳内スパイラルが始まってしまったのですが
其の二の「対花懐昔」での紫荊花について
やっぱり、半分は故事としての意味(=兄弟仲も込められているかも…
と思い直しております。

というのも、もし基氏
直義は自ら命を絶った」という事を知っていたら(あるいはそう認識していたら)
の話なのですが
尊氏直義は観応3年(1352)正月5日に鎌倉入りした時点で既に和睦していて
(※『難太平記』『源威集』
 この時の和睦の密談内容は、基氏も大方聞かされているはず)

2月25日の元服式にも、なんら変わりなく同席していたはずですが
それなのに、その翌朝突然に直義が一人先立ってしまったのだとしたら
直義の胸の内を知らない基氏からしたら
「なぜ…」という思いが圧倒的に強かったのではないか?と思うのです。


兄の直冬直義から
「立派な人間となって将軍尊氏)の御助けとなるように」(『難太平記』)
常々言い聞かされていたように
基氏も幼少の頃から
尊氏に対する直義の思いを聞かされていたのは、間違いないと思われますが
そうすると素直に考えたら
直義の死に直面した基氏の心境は

仲直りしたのに、もう何も心配しなくていいはずだったのに
 なぜ、あれだけ好きだった人を置いて逝ってしまったのか…」


という疑問に苛(さいな)まれ続けていた、とするのが
最も自然な推測かと思われます。
(もちろん、基氏自身も先立たれた絶望的な悲しみがあったでしょうが
 ここでは「紛紛世事乱如麻」=『観応の擾乱』を背景として
 尊氏直義の関係に絞って考えています。
 それから、子供だった当時より大人になってからの方が
 益々強くそう感じるようになっていったのではないかなと。)



12年経ってもその疑問答えが見出せずに苦しみ続けていた
という基氏の、闇を彷徨うような心を
故事としての紫荊花(=仲の良かった尊氏直義)に降るで表現した
…とは、かなり考えられるかもな〜と
今さらながらに思った訳であります。



ただし、三部作全体として見た場合
其の二の花を架空の花とするのはやはり不自然なので
(「に対して…」と言っている辺り、実際に対面しているのでしょう)
たとえ紫荊花でなくても
何かしら記憶に焼き付いていた花はあったのでしょうが
ただ、観応3年(1352)にしろ貞治3年(1364)にしろ
2月26日では、春の花が咲くには若干時期が早いかな〜とも思われるので
(まあ、当時と今とで気候の違いも有るので何とも言えませんが)
おそらく実際に咲いていたとしてもそれは
2月26日を過ぎて、直義が完全に居なくなってしまった頃
真っ白な春の中に、無音で咲いていた紅色の花… みたいな
すべてが無くなってしまった世界の中の追憶的な存在だったかと。
なんか悲し過ぎますが (´;ω;`)

(※ちなみに旧暦2月26日
 観応3年(1352)では新暦3月12日
 貞治3年(1364)では新暦3月30日です。)

(※2017.3.6追記―――
 すみません、上記の新暦の日付は「ユリウス暦」でした!
 現行の太陽暦である「グレゴリオ暦」への変換では、旧暦の2月26日は…
 観応3年(1352)では新暦3月20日
 貞治3年(1364)では新暦4月7日となります。
 誠に申し訳ありません m(_ _)m
 …これは、貞治3年の方は、春の花咲きそろってそうですね。)





ところで、直義が自ら命を絶ったのだとしたら
そこには "強い理由" があったはずで
(なんたって、あの兄上大大大好き直義
 尊氏を置いて逝ってしまった…というのは
 これは想像以上の大問題かと)

これは、当時の擾乱の真相現状変遷と直義の性格の深層まで
とことん追求してようやく見えてくる…かも…
くらいのめっちゃ微妙な難問なので
私もようやく核心に指先が届いた…程度で、今でも無限ループしていますが
幼い基氏が分からなかったのは当然としても
当の尊氏はどこまで直義の思いに気付く事が出来たか?というのは
尊氏直義ファンとして、むちゃむちゃ気になるポイントであります。


(これは史料的証拠が少な過ぎて、推測の上の憶測でしかありませんが
 おそらく(なんでもお見通しの)尊氏でさえも
 確信を持つには至らなかったのではないかなぁ…と想像しています。
 ただ、生涯尊氏直義に謝り続けていただろうと思われます。
 これはほぼ間違いない事実。)




もし現代に二人が甦ったら
どうやってわだかまりを解いて行くのだろう…
…という妄想が、私の脳内物語のスタートだったりします。
二人にはどうしても、あの時伝えられなかった本当の気持ちを打ち明けて
途切れた明日の続きを始めて欲しい… 新しい物語で―――


…と、小さな願いをつぶやくバーボン室町の片隅であった。




という訳で、今日の妄想はここまで。
最後に初代鎌倉公方足利基氏初登場記念と致しまして
本サイトTOPページを更新してみました。


ああまた、義材の季節が終わってしまった… `;:゙;・(゚ε゚ )ブーッ!! ←義材



-
posted by 本サイト管理人 at 22:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: