2016年04月08日

『Muromachi通り』通信【二周年…のおまけ】

こんばんは、『Muromachi通り』最新記事UPのお知らせです。
今日は、本サイト開設記念の特別おまけ
「二周年です(…のおまけ)」
です。


※※※以下、今日は少々ネタバレがありますので  
    どうぞ元記事を読んでから御覧下さい※※※



ようやく明応世代の一押しメインキャラ
畠山尚順を紹介出来て感無量です。
観応組に先を越されて、すっかり後発の新顔となってしまいましたが
私の中では明応メンバーは
かなり馴染みの深い古株だったりしますので
以後、よろしくお願い致します m(_ _)m


今回は、畠山尚順に焦点を当てた話になりましたが
『明応の政変』から京都凱旋
さらにその後の時代にかけて活躍する義材の仲間達
他にもたくさんいて
特に、周防・長門国の大内義興(よしおき)抜きには
この時代の半分も語れていない感じです。
(※大内義興は、『応仁の乱』での西軍筆頭大内政弘の嫡男)


というか、今回義材自身の動向も全然語れていないし…
なんて忘れられがちな公方なの。

(大雑把に言うと義材
  "政変〜凱旋返り咲き" までの15年間のうち
 前半は北陸の越中国畠山尚順の分国、ただし尚順は紀伊在住)
 ハーフタイム越前国に1年ちょっと朝倉貞景の分国)
 後半は西国の周防国大内さんのとこ)
 …に滞在していました。)


あとは、やはり伊勢一族
それから公家周辺の動向も(かなり)重要ですが
 (↑実はここが "天下の真相" に直結する超核心ポイント)
まあ続きはまたいつか。




ところで、どうでもいい話なんですが
実は尚順の如来名をどちらにするかですっごい悩んでて
最初の候補はこっちだったんですが…↓


畠山尚順


「無自覚英雄王子救国野生如来」を
  ↓
「無自覚英雄秘仏救国野生如来」にした。


"源氏の御曹司" という最強の王子属性が見事に希薄…
 (↑都落ちして野生に返ってしまったため)
というもったいなさが気になって
無理矢理前面に押し出してみようかと思ったのですが
でも、500年間ろくに御開帳されていない未確認秘仏も捨てがたくて
うーーーーーん
どう思いますか?


いや、おめーの考えた妄想如来名なんでどうでもいいよ!!
…とは、私も痛いほど思いますが
でもどうもこういう細かい事が
気になって気になってしょうがな… うん、まあいいか。


(※ちなみに「秘仏」(ひぶつ)とは
 厨子(ずし)などに納めて、普段は人に見せない仏像の事です。
 一年うん十年に一度、特定の日に公開されるものが多い。
 厨子は、仏像・経典などを安置する仏具で
 正面に両開きの扉がついた篭もり箱。 こもこもぬくぬく。)




まあ尚順は半分が義就ですからね
王子とか秘仏とか言われても本人は意味不明でしょうが。
ちなみにもう一つ
尚順について個人的に気になる所があって
"不思議なくらい色んな属性を持つ" という所なのですが…


戦の豪快さは義就に、戦の上手さは政長に
没落時の生命力は義就に、窮地での底力は政長に
義就のように一方的な政略でしょっぱい人生を歩まされながら
再び返り咲いても、政長の如く誰にも怨みの色を見せず
そして―――
我が世の春を目の前にして引き篭もる隠居聖人(ってゆうか隠居星人
なところは
尊氏を彷彿とさせるという… Σ(゚Д゚ )!!???


しかもなんか似ているんですよね
尊氏が政務から離れた "人には言えなかった理由" と
尚順が京都から離れた "人には言わなかっただろう理由" が。

前者は直義の為、後者は義材の為ですが
もう一箇所違うのは
尊氏は輪廻を "知っていた" けれど
尚順は(たぶん)知らずに輪廻の中に生きていた

という点でしょうか。


すみません、またなんか意味不明な事を言い出してしまいましたが
義材尚順というのはどうも
尊氏直義以来の "何か" を強く受け継いでいる気がしてならなくて…
もしかしたら
尊氏直義に始まった "伝説としての室町"
義材尚順と共に眠りに就いたのかも知れない…




☆☆今日のワンポイント☆☆

実は義材は、かなりの尊氏ファン



-
posted by 本サイト管理人 at 23:40| Comment(5) | 『Muromachi通り』通信
この記事へのコメント
はじめまして。
数年前よりサイトやブログを拝見させて頂いているのですが、
この度思い立ってコメントさせて頂きました。
 
私は織豊期から遡って畿内史を調べていった結果、
尚順から稙長・高政等を経て戦い続け、近世まで生き残った畠山尾州家の魅力に取り憑かれ、
特に畠山尚順は「義就と子供を取り違えたのではないかと思うくらいのモンガーぶり」「生涯を尽くす決意があったとしか思えない義稙への奉仕ぶり」
に気づいた結果、すっかり好きな武将の五指に入る程になっていました。
 
…にも関わらず、彼の生き様が注目されないどころか、否定的な評価がついて回ること(ごく稀に大ファンを見つけるのですが)
についてずっと首を捻らざるを得なかった所にこのサイトを見つけ、管理人さんの見解はまさに解釈の一致でした。
 
とはいえ、彼の晩年の動向は(義稙様絶対主義があったのは当然として)自分の中でどう評価すべきが結論がついていないので、
断片的に語られているその部分についての管理人さんの解釈が非常に気になっております。
なのでいつの機会か畠山尚順の人生について解明してくださる時が来ることを楽しみに、ひっそりとお待ちしておりますね。
Posted by 179 at 2018年01月07日 18:10
>179様
初めましてこんにちは!
数年前からこんな弱小サイトを見つけて下さって感無量です (´;ω;`)
その上、この度は胸躍るコメント本当にありがとうございます!!

というか、リンク先を拝見したらあああああーーーー!!!
ってなりましたw
私自身はツイッターのアカウントは持っていないのですが
(↑つぶやこうにもつぶやく日常が無くてつぶやき出せずにいる)
以前pixiv経由でツイッターを見て
結構室町あたりの歴史ネタ情報が行き交っているのを知って
義材(義稙)とか義教とかで検索してみた事があって
その時お見掛けしました。
(ちょっとアカウント名が違ったような気がしますが…?
 でも絵が好み&クオリティー高くて覚えてました。)
文章のテンポと発言の鋭さに「この人めっちゃ頭の回転早いww」と思った思い出。

畠山尚順は本当にすごいですよね。
私が尚順に開眼したのは(尊氏直義開眼より3年も早い)2011年10月で
その頃の日記に「政長・尚順はマジで全米が泣くね、ってか全宇宙だね!」
って(あほなこと)書いてあったのですが
あれから6年、未だ誰も泣いていない模様 (´・ω・`)
でもそんな宇宙で数少ない尚順ファンの方に会えて
尚順評価を共有出来て本当に光栄です。
畠山尚順は宇宙遺産なので宇宙規模での周知を図らなければならない!!
…とわりと密かに思っているのですが
この「現状・開眼者数人?」の状態から、はて、どうしたもんですかね。
わりと絶望。

さて今回コメントを頂いて、私の中で俄かに尚順熱が蘇って
過去の自分の関連ブログ記事を読み直してみたのですが…
(それでコメントの返信が遅れてしまってすみません)
自分の文章の分かり難さにマジ絶句w

まだまだ研究途上な上に、途中で尊氏直義時代に傾倒してしまって
史料を提示した納得いく解説が出来る日が益々遠のいてしまって
自分でも途方に暮れているのですが
(こんな体たらくでは、最終目標の宇宙なんてとてもじゃ…)
とりあえず、現時点での私の、晩年の尚順の解釈を
無責任に結論だけですが、簡単に語ってみたいと思います。
(根拠すっとばして、本当に結論だけですみません m(_ _)m
 その上、現時点では調査不足&考察不足なので
 ちょっとかなり自信無しですはい。)

(※長いので一旦切ります。下に続く↓)
Posted by 本サイト管理人 at 2018年01月09日 00:18
(※↑上の続き)

最後の義材の京都出奔と、畠山尚順との合流、あれは
京都に義澄の遺児・義晴を迎えるための "ひと芝居" だったと考えています。
これはもちろん
京都に残留した細川高国や伊勢貞陸も合意の上での秘密の策です。
(つまり、彼らはみな同陣営。高国は敵じゃないし悪くない。)
ただ、無事義晴を将軍として迎えた暁には、義材も京都に戻る予定だったのだが
各勢力の思惑やゴタゴタでそれは叶わず
義材と尚順は、京都を離れた地で没する事になってしまった
…という、少し悲しいけれど
でもこれ以上ないくらい、義材と尚順らしい人生だったと言えるかとw


義材は、京都凱旋後の平穏な時代
公家の日記も揃っているこの時期に、なぜか正室の記録が全くありません。
(唯一のそれっぽい関連記録は
 側室が懐妊し、しかし後に流産してしまったらしい…というものだけ。)
もし正室ががいたのなら、当時の室町殿の御台の事が
公家の日記に日常的に記されない訳がないので
つまり、これは史料の欠如ではなく
義材には本当に正室がいなくて、しかもそれは義材の積極的な意図だったと。
おそらく、意図的に正室を持たず(それゆえ嫡男をもうけず)
次期将軍に義澄の遺児を迎える事で
足利将軍家の分裂に終止符を打とうと、義材は考えていたのだと思います。
幼少の義晴をかくまっていた赤松義村と和睦を試みたり
細川澄元派との関係を絶つよう、再三求めていたのはその為かと。
なかなか義晴上洛が上手く行かなかったのは
澄元派が義晴を擁し、手放す事を阻止して武力行使も辞さなかったからでは?
と思っているのですが…。
(↑ちなみに彼らは、反義材ではなく、反細川高国と捉えるべきかと。)

自分の子孫繁栄を望む自己利益を犠牲にしてまでも
一族、ひいては天下の平穏を優先する義材はマジ良い子過ぎて大好きですが
でも、義材を守って来た大名たちからしたら
敵対し続けた義澄派の義晴を将軍に… なんて
目ん玉 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン ですよね。
頼むから結婚して子供作ってくれよ!!ってなりますよ。
義材の第二次将軍時代に
大内義興や細川高国らと意見が合わず近江に出奔したあの一件は
次期将軍や義材の世継ぎ問題での擦れ違いが原因だったのではないかと。


凱旋後の義材の言動は、よく意味不明で不可解だとされていますが
すべての義材の行動原理は
 「次期将軍を義澄の遺児に!」
だったと考えると
すっきり説明がつくし、首尾一貫していた事が分かるのではないかと思います。
(当初は義晴でも義維でもどっちもありだったのかなぁ…?とか思いますが
 義維の幼少期の動向にあまり詳しくないので何とも。。)

永正17年(1520)5月の、細川澄元赦免??で三好之長上洛謁見
…の一件も、義晴上洛の為の秘策だったのであり
ただこれは、義材はあまり関与していなくて
伊勢貞陸たちの描いた策略だったのでは… と予想しています。
でも大失敗したw(たぶん、細川高国が反撃に出るのが早過ぎた。)

どうにも上手く行かない義晴上洛計画に
ついに義材は、自身の公方生命を投げ打つ覚悟で最終手段に出たのが
大永元年(1521)3月7日の最後の京都出奔で
義材は、細川高国と決裂したという建前で出奔&蜂起して
自分が細川高国の敵対勢力(=義晴上洛妨害勢力)の求心力となる事で
彼らの武力行使をコントロールしながら時間稼ぎし
相対的に、義晴を細川高国側に送り届けたのではないかと―――


…って、長くなり過ぎてすみません orz
ちゃんとブログ記事にした方が良かったかな??
知識不足の上に、記憶もかなり頼りなくなっている部分ですので
話半分で、暇つぶしに読んで頂けたら十分です。
(というか、179さんの知識のが量と正確性で上回っていると思います。)
あわよくば、妄想のネタにでもなれれば光栄です (`・ω・´)ゝ

いつか、もっとちゃんと研究を深めて
畠山尚順のすごさを語り合いたいですが、今はこれが精一杯…
…いや、今でも妄想でなら尚順愛は尽きませんので
どうぞ、これからもよろしくお願いします!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年01月09日 00:27
いやはや、私の駄ツイートをご覧になられていたとは恐縮です(アカウント名はたまに弄っています)
私などはもっぱら興味のある論文や研究書を読む専で、原文の資料に当たることは怠りがち(読むのが苦手)なタイプなので、
色々見落としたり考えを修正しないといけない所だらけです。
管理人さんのように当時の資料を読み込んでいる人は尊敬できますし羨ましいですよ。
 
それにしても義晴を迎えるための芝居ですか!面白いですね。
義稙に子供がいないことは当然知っていますが、それが意図的なものとは。言われてみればそんな気もしてきます。
 
そして、それを聞いて以前にTwitterで他の方が考察していたことを思い出したのですが、
「義稙は後継を義晴に定めており、義維を本当に養子にしていたのか?」という話です。
 
確かに後年に義維は義稙の猶子と称していますが、義稙本人が養子縁組をしたかは当時の記録では見かけない気がします。
つまり、義稙は「2つの将軍」問題を継続させることは望んでおらず、
義晴が将軍就任した時点で、これ以上自分が将軍として振る舞えばまた混乱を招くと思い、以降は従容と死の床についた……みたいな。
 
 
更に尚順の行動ですが、これについては実は私も以前から考えていたことがありまして。
「自分は最期まで義稙に付き従うが、それは尚順一代限りで終わらせるつもりだったのでは」、と。
 
尚順はあれだけ子沢山にも関わらず、没落時にそれを連れていった形跡がありません。
(紀州支配に尚順の子も関わっているようなので、連れて行こうと思えば連れて行くのは不可能ではなかったと思います)
これも自分の死後、それを継いで稙長に対抗する一門が現れて、
家を割ってしまうのだけは避けようと意図的にやったのでは……?と考えているのです。
大分贔屓入った妄想かもしれませんけれどね。
 
いずれにせよ、義稙・尚順の行動の真相はどうあれ、御家が分裂することによる悲劇を十二分に体感していたこの主従は
争いを次代に持ち越さないことだけは間違いなく考えていた……
というのは、蓋然性のある話だと思いますし、そう信じたいですね。
Posted by 179 at 2018年01月09日 22:13
>179様
おおぅ、そのTwitterの方ってk-holyさんですよね?(違ったらすみません
k-holyさんの2016年7月12日のブログ記事(http://amago.hatenablog.com/entry/2016/07/12/184103)の
「義材はあえて子を持たず、義晴を後継者に据えるつもりだったのでは?」
って考察はめっちゃ同意で興奮しました!
(ちなみに、最近のコメント欄の id:m-dori は私です。)
私は『平島記』の興味深い記述は知らなかったのですが
やっぱり、そう考えるのが実は一番妥当で自然だと思うのですよね。

義維との猶子関係については
義材が義維を猶子にしていたとしても、それは義晴系と将軍位を争うためではなく
あくまで義維の身の上を保証する "後見的な意味" だったんじゃないかなと思います。
一次史料では、『二水記』大永7年7月13日に
「(義維を)嶋御所 為御猶子分 歟、可尋、」とあって
猶子らしいけど…?という確定的ではない書き方ですが
『実隆公記』には
義材の七回忌で、義維が相国寺恵林院に仏事料を寄進したとあって
やはり、何かしら私的な関係はあったようです。
(※『大日本史料』大永3年4月9日、義材の卒伝)
義材は優しいから、立場がなくなってしまったまだ子供の義維を
守ってあげたかったんだろうなぁ…くらいに思っています。
後で起こるあれこれは、あくまで結果論であって。


>「自分は最期まで義稙に付き従うが、それは尚順一代限りで終わらせるつもりだったのでは」
↑↑↑ものっっっすごい湧き上がるほど同意です!!
全然贔屓入った妄想じゃないですよ!!
私なんて、当然にそう思っていたから
 「尚順は没落時に誰も息子を連れて行かなかった」
って発想が全く浮かびませんでした!
この指摘、すごい説得力です!! 威力半端ない。

やつは、明応7年に義材の帰洛が叶いそうになった時
越中にいた弟を呼び寄せて、家督を譲るつもりでしたもんね。
(【久保尚文『越中中世史の研究:室町・戦国時代』(桂書房)1983】…の p.54-55
 でも、この時尚順は越中には行ってないと思う。。)
30歳そこそこで早々に出家しちゃったし
尾張守のまま、左衛門督への昇進すらせず…
義材の将軍復帰を見届けたら、速攻で紀伊に引き篭もってしまったのも
京都に残した幼少の稙長に畠山家を託した、という意味だったと思いますね。

『明応の政変』を境に、尚順は自分にとっての人生を終わらせ
その後は魂ごと義材に捧げる一生を誓ったって感じですよね。

歴史上、美しい主従は数あれど
義材と尚順ほど、常識じゃ計り知れない関係は他にないんじゃないかと。
自分として生きる道を捨て、主君のための名も無き戦士になることを選んだ―――
って、どんなハリウッドのキャッチコピーかよ!!
違うよ、史実だよ、尚順だよ!!!


ああやばい、やっぱり尚順やばい、尚順熱止まらなくなってきました!!
ちょっと前回の私のコメントの考察根拠が乏し過ぎたので
ざっと思い付くものだけでも羅列してブログ記事にするかもです!
Posted by 本サイト管理人 at 2018年01月10日 19:33
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