2018年02月21日

お知らせ2つと伊勢の事

こんにちは、今日はまずお知らせが2つあります。

まず1つ目
先日の「☆☆Happy Birthday 尚順!!(旧暦編)」
少々訂正がありましたのでお詫び申し上げます m(_ _)m


永正4年秋冬の大和戦の最中、それまで同盟関係にあった両畠山(=尚順義英の和が
12月4日に破れた時の尚順の行動を分析して↓こんな事言ってしまいましたが…

…もちろん、赤澤長経へ嶽山城攻撃の直接的な指示を出すのは主君細川澄元だから
尚順はまず細川澄元に講和を持ちかけたと思われ
そうすると、両畠山の和が破れたのが12月4日
尚順が赤澤に馬と太刀を遣わせて嶽山城攻撃よろ!ってしたのが12月10日だから
12月4日以降、尚順は京都の細川澄元のとこへ爆速で早馬を飛ばしてたことになる。

よくよく史料読み返したら、
「12月4日時点で既に、尚順細川澄元の間で和睦は締結済みだった」
って事に気付きました。てへ。


『興福寺英俊法印記』『多門院日記』)の12月4日条には
両畠山(=尚順と義英)の和が破れた」
という記述と共に
摂津衆一万ばかりが河内に入国。細川尚春細川高国は堺に。」
と記されていて
12月4日時点で、細川澄元方の援軍が現地へ派遣されていた、ってゆう。
(↑これらの細川軍は『不問物語』の記述より
 大和国殲滅隊ではなく、尚順への援軍である事が分かる。)

つまり、尚順が京都に早馬を飛ばしたのは
これ "以降" ではなく、これ "以前" の事ってことで、すまぬ (´;ω;`)

12月4日というのはあくまで
尚順と義英の和睦の "破綻開始時点" ではなく
もうすっかり事後、尚順は既に先手を打って戦略変更済みで
互いに敵方となって "戦闘開始が決定事項となった時点" です。

…とすると
尚順と義英の和は12月4日 "以前" に破綻し始めていたという事になる訳で
(↑おそらく、修復不可能なフェーズに入ったのが11月半ば辺りと予想)
この(たぶん)想定外の「両畠山の同盟破綻」という事態に際し
尚順は一転戦略変更して
京都の細川澄元「和睦&嶽山城攻撃」を持ちかける訳ですが
その時期は、11月17日直近かそれ以降になると推測されます。
(↑11月17日までは、細川被官赤澤による大和焦土化戦が続いていて
 少なくともこの時点までは、尚順と細川澄元は敵陣営だったので。)

そして、12月4日にはもうすっかり新同盟を結んでしまっていた、と。


(↑この11月17日〜12月4日
 いったい何がどうなってこんな不可能意味不明な逆転現象が起きたんだ??
 ってことが最大の謎な訳ですが。)



つまり、「同盟破綻 避けられない気配 → 新戦略発案&決断」
ほんの数日でこなした神速尚順の早馬プレイが健在である事に変わりはありませんので
やっぱり尚順 最強に出来る子!!!

…という事を上記ブログの本文中にも訂正を入れておきましたのでよろしくです。

(※ちなみに、畠山尚順は畠山政長の子で
 畠山義英は畠山義就の孫です。)


ところで、この永正4年秋冬の大和戦については、改めてもうちっと詰めた話をしたい
と思っているのですが
気が方々(ほうぼう)に散り易い性格なのでいつになるかは分からん。
でもおもろ過ぎるので早くまとめたい。




さて、2つ目の報告です。
私、先日遂に twitter を始めました。(→こちらです。)
そろそろチラ見しているだけでは追いつけなくなって来たので
尚順ネタを拾いに行くことに致しました。
私、ネットは基本ROM専のSNS超初心者なので
今のところ全然正しい活用法出来ていませんが、どうぞよろしくお願い致します m(_ _)m




さて、以上でお知らせは終わりですが
お知らせだけなのも何なので
明応世代キャラ第2弾!!
伊勢貞陸(さだみち)と伊勢貞遠(さだとお)兄弟の初お披露目です。


伊勢貞陸と伊勢貞遠


兄弟と言っても、義理なんですが。
貞陸の実父で、伊勢宗家(伊勢守家)当主の伊勢貞宗(さだむね)が
同族(分家の下総守家)の貞遠を猶子にしたので
この二人は兄弟とみなされていました。
(群書類従『長禄二年以来申次記』続群書類従『澤巽阿弥覚書』『伊勢系図(別本)』)

(※ちなみに、政所頭人伊勢貞宗
 私が勝手にきのこる先生と呼んでいる室町幕府の超能吏です。
 応仁世代の人物ですが、『明応の政変』〜永正の義材将軍復活時代までも
 活躍(てゆうかもろ暗躍)する、やばすぎるキーパーソンです。)


伊勢一族なんて、政所頭人を務めた宗家伊勢守家に限らず
みんながみんなってくらい
申次とか奉公衆とか御供衆とか、それぞれに幕府の役人として働いていた訳で
そうすると
貞宗はあえて貞遠を養子にする必要あったんか??…とか思う訳ですが
そこで考えてしまうのは
もしかして貞遠は、相当器量が良かったのではないか?と。

当時はやはり、御供や使いの者というのは容姿容儀が重視されていたようで
貞宗がわざわざ貞遠を養子にしたのは
自分のそばに置いて、重要な仕事をさせる為だったのではないかなぁ〜
とか思ってみてみる。
実際、貞遠は将軍付近での仕事が目に付く気がしますし
(↑まあこれは貞遠に限った事ではないが)
武家故実書『殿中申次記』を書いたりしてますし。
『伊勢系図』でも、貞遠は「義政公へ奉公」と書かれていますが
まあ8代目義政に限らず歴代将軍に仕えています。
もちろん、義澄にも義材にも。


というか、私は明応世代の義材陣営の標語
「必ず京都に戻る」という決意を表して「We'll be back !!」としていますが
この二人(貞陸貞遠兄弟)は帰って来るも何も
義材流浪の15年間、最初から最後まで京都にいたんですねどね。
そんで普通に新将軍義澄に仕えていたんですけどね。
にも拘らず
義材が京都に帰って来てからは、普通に義材に仕えているんですけどね。
ってなにそれ

あ・や・し・い !!

…と言わざるを得ない訳ですが
彼らはつまり(父の伊勢貞宗も含めて)
京都に居ながらにして「We'll be back !!」だったんですよ!!
…としか考えられないんですよね。



まあそれにしても、伊勢家自体誰それ状態なのに
伊勢貞陸どころか伊勢貞遠まで出して来られてもおめー誰だよ感ぱないですが
しかしですよ
実は貞遠には、"義理の兄" 貞陸だけではなく
"実の兄" が別にいて
この貞遠の実兄、伊勢貞仍(さだより)ってのがまた
将軍義材流浪時代の重要人物の一人でして…
『明応の政変』を語る上ではもう、絡まずにいられないポジショニングかまして来るんですよ。
(※伊勢貞仍は、初め貞頼貞仍に改名してのちに出家して宗吾。)


実は貞仍貞遠兄弟は、『明応の政変』勃発当初
義材の河内国正覚寺の陣に祗候していたために、京都の自宅を焼かれしまいます。
(↑おそらく…ってか間違いなく、クーデター政権側による見せしめ)
そして二人は、成す術無く5日後に上洛する事になる訳ですが…

(※これは『晴冨宿禰記』明応2年閏4月3日条と
 『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月5日条より。
 この件ついては、なんかの文献・論文で知ったはずなんだけど
 それが何だったのか思い出せない…
 明応関連の知識、ホント頭からぶっ飛んでる
 一から入れ直しとかどうしようマジつらい (´;ω;`)www)



さて、この政変によって将軍義材は河内国で身柄を拘束され
京都に護送→幽閉ののち、都を脱走して越中国(※畠山尚順の分国の一つ)に逃れ
We'll be back !! を掲げた流浪生活がスタートする訳ですが
では一方、貞仍貞遠兄弟はどうしたかというと―――

弟の貞遠は、京都に残って義父貞宗&義兄貞陸と共に新将軍義澄に仕え
実兄の貞仍は、京都から越中国の義材のもとに駆け付けて15年の流浪生活を共にするのです。
って―――

あ・や・し・い !!

この貞仍の行動を、宗家の伊勢貞宗貞陸が知らない訳はないですからね。
それを示唆するヒントの一つとして
15年後に義材と共に京都帰還を果たした貞仍
京都残留組の貞宗貞陸貞遠と、普通に仲良くやっています。
つまり―――

あ・や・し・い !!


『明応の政変』〜義材帰還までの伊勢家の行動は
「両陣営をうまく渡り歩いた」とか
「義澄方から義材方に転向した」と評されている事が多いかも知れませんが
(…てゆうか、意味不明過ぎてほぼまるでスルーされているのが現状)
しかし彼らは最初から最後まで―――
「一貫していた」
と私は思います。

だから、義材流浪の15年間ずっと京都にいた伊勢貞陸貞遠義兄弟
「We'll be back !!」のメンバーってことになってます。




という訳で以上、明応世代キャラ第2弾
伊勢貞宗の嫡男 政所頭人伊勢貞陸と、二人の兄を持つ謎の美青年(?)伊勢貞遠でした。


ちなみに、私の中のイメージでは
伊勢貞陸は、一応頭脳派系策略家風を漂わせているけれど
肝心なところで今一歩父の貞宗に及ばないのでみんなにずっこけられるタイプ。
一見どSっぽいけど、仮面の下は突き抜けたどM
なんだろうこのイメージ。(我ながら)
でも
見た目は 絵に描いた女の様 を目指して、内には 鬼神をねじ挟んどけやゴラァァ
とかいう美学の一族ですよ?(それはあくまで伊勢貞藤の変態美学。)
だいたい、どMでもなければあんな公方様たちの世話を甲斐甲斐しく焼いていられないですよ!!
…あんなとは失礼な。
あんな愛しい公方様たちもいまい。
(尽くしちゃう伊勢の気持ち分かる (´;ω;`) すごく分かる (´;ω;`) )



まあいいか。
最後に、ついでですのでかなり昔に作った伊勢家系図です。


伊勢家系図


赤字応仁世代(※ただし貞親は、応仁でも活躍したけど年齢的にはひと世代上)
青字明応世代
応仁世代でありながら、明応世代期にも活躍した貞宗は二色刷り
それから、世代的には応仁と明応の間だけど
主に明応世代期に活躍した貞仍新九郎盛時紫字
点線(…)は猶子関係、二重線(=)は婚姻関係
1〜10の数字は、宗家伊勢守家の歴代当主
…となっています。

(※私の勝手な分類ですが
 「応仁世代」は1440年代生まれ、一部1430年代も含む
 「明応世代」は1470年代生まれ、一部1460年代も含む
 でもって
 伊勢貞仍と伊勢新九郎盛時は、その間の1450年代生まれ、と。
 ちなみに、伊勢貞仍の生年は史実ですが
 伊勢新九郎盛時の生年は、現在主流の学説に基づきます。
 以前は、もっとじいさんってされてましたよね。)

伊勢新九郎盛時は、いわゆる北条早雲のことです。
貞遠は、新九郎の事を九ちゃんって呼んでそうなイメージ。
どうでもいいか。


そんな事よりどうです
見事にみんな 通字が「貞」!!
(盛定と盛時だけ、また別の家系ですが。)
なんか↓こんなのがいっぱいいる感じでかわいい

( ´・ω・)( ´・ω・)(・ω・`) (・ω・` )

【審議中】
   ∧,, ∧  ∧ ,,∧     どうする?
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つ と ノ(ω・`)   どうする?
| U (  ´・) (・` ) と ノ
u-u(l  ) (   ノ u-u
    `u-u'. `u-u'


こんなに気になる一族もいまい。
一族総出で公方様のお世話しまくりですよ。
そのうえ美学突き抜けているし。 伊勢貞藤とか、伊勢貞藤とか。
もう最高。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 明応日記(義材)