2018年02月05日

月が綺麗ですね

全宇宙の明応世代ファンのみなさんこんにちは。
前回前々回とあれだけ畠山尚順の誕生日を推し推しに推しといて
今年の旧暦誕生日である今日を無言でスルーするのもなんなので
とりあえず挨拶してみました。
晴れた地域のみなさん、今夜は月が綺麗ですよ!
尚順が生まれた時の月(形的に)ですよ! 素敵ですね。


前回の話についてはまだまだ補足したい事があるのですが
まあひとまず今夜は

尚順、誕生日おめでとう!!!

…だけなのもなんなので
ちょっと後日談的な何かでも。



前回の永正4年(1507)秋冬の大和国大戦闘の翌年
永正5年(1508)6月8日
『明応の政変』から15年の時を経て遂に
流浪将軍 義材 が大歓声の中、京都への帰還を果たしました。
めでたしめでたし。

…で終わるのもなんなのでもう少し説明しますと
義材帰京に先立ち
これまで京都にいたクーデター政権陣営の将軍足利義澄
細川宗家(京兆家)家督の細川澄元たちは京都を捨てて没落していて
そして義材
これまで周防国の大内義興(よしおき)のところで長々とお世話になっていた訳ですが
この度満を持して、西国から大内義興の御供によるクルージングで上京したのでした。


というか、永正5年(1508)正月17日に河内国の嶽山城(←畠山義英がこもる)が
細川家内衆の赤澤たちの攻撃で落城した後
本来、大和国を軍事制圧しに来ていたはずの細川軍赤澤たち
大和国人たちへの攻撃をどうしたのかって思うかも知れませんが…
よく分からないんだな、これが。
大和国の様子を伝える『興福寺英俊法印記』がこの時期は永正4年12月までしかない
ってのもありますが
まあなんだ、なんかうやむやになってしまったらしい
あんなえらい大乱闘だったわりに。
尚順、どんなイリュージョン使ったん?



さて、義材帰還で平和が戻り、祝賀ムードに溢れる京都でしたが
なんとそこへ!!
空気も読まんと、あの赤澤一派大和国に再び乱入して来たのです!!
そしてボコられる大和国人筒井… ひどい (´;ω;`)
(『大日本史料』永正5年7月19日)


ここでハリウッドなら

大和を救う漢、畠山尚順が決着をつけるべく立ち上がり―――

とかいうヒーローものにするんでしょうが、実際は…
その通りなんだな、これが。
(『大日本史料』同上)


7月19日に河内国に出陣した尚順
交野の極楽寺にこもって赤澤一派(※与同勢力多数)の攻撃を受ける大和国人たちを救うべく駆け付けます。

尚順優しい!! (´;ω;`)

しかも、極楽寺は(防戦的に?)良くないとのことで
尚順は大和国人たちと共に若江城へと移動するのですが
若江城は河内守護畠山家の主要城の一つですから、セキュリティ万全マイホーム(豪邸)にご招待ってことで

つまり尚順優しい!! (´;ω;`)

しかし、懲りずに追い回してくる赤澤一派。しつこい。
(前回、尚順たちに遊ばれたのが相当頭に来ていたんだろうか…)
戦場はさらに、若江城から高屋城へと移り、大戦闘が続きました。
(『大日本史料』永正5年7月26日)
(若江城では、尚順方の後詰めでさすがに敵は手も足も出ず撤退。
 高屋城でも尚順は自身後詰めを指揮。圧勝。)


しかし、本気モードに入った尚順相手では
戦う前にカウントダウンが始まっていたようなもの。(え、前回はじゃあ遊び…)
7月28日、赤澤長経は大和国初瀬で生け捕られ、最期となったのでした。なむ。
(『大日本史料』永正5年7月28日)


ええと、どんな極悪非道の悪人でも、滅びた者には無常を感じたいところですが
しかしですよ
赤澤(※1年ほど前に赤澤朝経赤澤長経に代替わりしている)というのは
もう本当にどうしようもなく鬼畜外道な戦闘を繰り返していたようで
この敗北の報に対する公家たちの感想がもう…

「悪人悉く没落滅亡、不可思議の天道なり」(『実隆公記』)とか
近衛尚通なんて「春日御罪也」って2回も書いてるし。(『後法成寺尚通公記』)
大切な事なんですね、分かります。
まあ大和国荒らしまくってたからな。
(※大和国に鎮座まします春日社の神様は藤原氏の氏神。)

つまり、春日の神様に代わって天誅を下した尚順はもう京都公家界ってか大和国ってか
全国全宇宙のヒーローな訳ですよ!!
お前はどうしてそうかっこいいのかと。


これは大祝賀戦勝パーティーを開かねばなるまい!!


…という話の続きはまた次回。



では最後に
この度、明応世代のキャラを少しずつ描いていこうと思い立ちまして
まずは第一弾
周防国・長門国ほか西国を一手に治めるスーパー大名
大内義興(よしおき)です!!


大内義興



なんで尚順の話をしている時に義興なのかと。
まあ、大内さんは1番じゃないとわりと拗ねちゃうところがあるので。
でも、尚順のヒーロー話の回でビジュアルUPなんてしたらもっと怒っちゃうかも…

いや大丈夫大丈夫、表面では喧嘩コントしているけど
彼ら本当は仲良いから大丈夫、うん大丈夫。 うん… (´・ω・`)




posted by 本サイト管理人 at 23:55| Comment(0) | 明応日記(義材)

2018年02月13日

直義の最期に関するあれこれ(avay様への返信コメント)

以下は「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」に頂いた
avayさんのコメントへの返信です。
あまりに長くなってしまったので、ブログ記事として投稿しました。

返信コメントという形式ではありますが、もし興味がある方がいましたら
どうぞ(avayさんのコメントと合わせて)読んでみて下さい。

ただ、下記の本文中にも断りを入れましたが
(この私の返信コメントには)人によっては不快に思われる人物評を含みます。
もちろん、私の好悪による評価ではなく、あくまで客観的考察の範疇のものですが
イメージを損ないたくないという方は、スルー奨励です。

(それから、最後の最後は私の近況感想文です。すみません m(_ _)m )



………………………………

>avay様
始めましてこんにちは! コメントありがとうございます!!
室町仲間が増えてとても嬉しいです。それからテーマへの賛同も。
「観応の擾乱」「応仁の乱」「明応の政変」には
なんとうか、室町の序破急のようなものを感じて
その深い真意の探求に取り付かれています。


さて、直義の最期についてですが
基氏元服の翌日ということから尊氏の毒殺はない、という見解に私も同意です。
この辺りは比較的一次史料が充実していて
それらの記述を一つ一つ再検討する事で、尊氏への誤解も解け始めていて嬉しいですが
やはりまだ今は、諸説が並立しているのが現状のようですね。


直義が自ら命を絶ったという可能性を指摘しているのは
私は今のところ
別ブログの「暑中御見舞い申し上げます」(2015.8.5)で紹介した
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
しか知りません。
私は諸般の背景から、これ以外の可能性は無いとほぼ確信していますが
ただ確かに、義詮の直義への異常な敵意を考えた場合
義詮による毒殺説は一考の余地があるかも知れません。

ちなみに私は、当時京都にいた義詮が(尊氏の目を盗んで)そこまで巧妙な事を実行するのは不可能に近い(←能力的にも、置かれた立場的にも)との考えから
この仮説は早期に可能性を絶ってしまっていました。

(ついでに、病死説についても付け加えておきますと…
 たとえ急病だったとしても、少なくとも1〜2日前、まして半日前なら
 体調不良くらいの兆候は出ると思われ
 そうしたら基氏の元服は延引になっていたんじゃないかと思うのです。
 残る可能性としては
 基氏の元服を見届けて、ほっと肩の力が抜けた瞬間の本当に偶然の自然死…
 という可能性は現実的にゼロとは言い切れないので
 こればっかりは何とも言えませんが…。
 公式には「病死」と発表されながら、世間では毒殺が噂されたり
 少年基氏の心に生涯消えぬ影を落としたことを考えると
 疑問が残るほどに兆候の無い「突然の出来事」だったのは確かだと思います。)



という訳で一通り検討した結果、結論から申し上げますと
(ほぼ)「ない」と言っていいと思います。



では以下、avayさんの論点に沿って私の思う所を述べてみたいと思いますが
この論点を拝見するに、avayさんはとても深い知識をお持ちで、史料的考察をなされているので、私もその姿勢で論じてみたいと思います。

…というのも、以下の私の記述には
一般的な(あるいは小説などの)イメージを大切にされている方にとっては
非常に不快に感じるかも知れない…というか残念な事実が含まれるのですが
あくまで史料的考察であって、好悪に基づいた意見ではない事を了解して頂けると有り難いです。
(決して、各人のイメージを傷付ける意図はありません
 ってことでよろしくお願い致します。)


それからもう一つ、以下の私の見解は
考察思考過程すっ飛ばして「ほぼ結論のみ」の記述となっています。
(所々少しだけ論拠も紹介していますが、不親切で本当にすみません…orz )

というのも私は、本サイト『2-9』「歴史を見る目」でつらつら語ったように
「史料の記述をいく通りにも組み合わせて最適解を導き出す」
という方法で考察しているのですが
(つまり、これらの結果が史料に直接書いてある訳ではない)
その全思考過程を解説するのは、今すぐには困難でして
なので、いきなりこんな結論だけ言われてもきっと全然納得できないと思いますが
今のところの
「私が一次史料を中心に(※)導き出した一応の最適解」
(※…もちろん、適宜『太平記』や『梅松論』などの史料も参照しています。)

という事で受け取って頂けると嬉しいです。

(それゆえ、私の見解は一般の説とはかなり隔たりがあります。
 なので(他もみなさんも)テストや試験対策には絶対に参考にしないで下さい
 泣きを見る事になります (`・ω・´)b )




ではまず
義詮は師直が殺害された事で直義を恨んでいたのか?(義詮と師直は親しかったか?)
…という事ですが、これは
義詮高師直は "ある利害関係" において接近していましたが、義詮は(利害抜きの)心情としては、高師直にそこまで強い親愛の情を抱いてた訳ではなさそうです。
ゆえに、「何としても高師直のために仇を取ろう」という類の純粋な「恨み」は燃やさなかっただろう、というのが妥当な見解かと思います。

(その後の輪をかけた対立再燃を考えると
 "戦で負けた事" や "自分の立場" などといった
 別の意味での強い恨みは抱いていたでしょうが。)

それよりも、高師直敗死時に義詮を支配していた感情は
「恨み」よりも「(バレる)恐怖」だったと言えます。
義詮はただひたすら「バレる事を恐れていた」(あるいは「バレたと思って恐れていた」)のです。
何がバレるかというと…「義詮が高師直と手を組んで企んでいたという事実」です。
(↑企みの内容はもちろん、直義の失脚と義詮の将軍就任です。)

2月27日に尊氏が、2月28日に直義が入京したのに対し
義詮の帰京は3月10日。
義詮が帰る事を「頻りに難渋」していたのは(『園太暦』観応2年3月6日)
自身の罪が問われる事を非常に恐れていたためだと思われます。

(義詮と高師直の与党で、今度の反乱の主要人物だった7人は
 一旦罪に問われ、その後罪を許され所領の安堵を受けています。
 (『観応二年日次記』観応2年4月2日) )


それから
高師直敗死後の時期に、義詮が突然花押の形状を変える事、そして
以前の花押が高師直のそれと非常によく似ている事はわりと有名ですが
これは、高師直との関係を隠すためだったと言えます。

『太平記』には
これまでは、執事の立場として栄華を極めた高師直の恩恵にあずかろうと
多くの人々が彼の配下となって、烏帽子の折り方や直垂の紋様で高師直派閥たることを前面にアピールして大手を振っていたのに
高師直敗死後は打って変わって、人目につかぬよう姿を変えて顔をそむけ、かつて高師直派閥だったことがバレて後ろ指さされるのを心底恐れていた
…という話があって
なんて無常な手のひら返し…という感じですが
その手のひら返しの筆頭が、実は義詮だったっていう…。


まあ、尊氏はすべてお見通しで行動していた訳ですが
直義は人を信じて清すぎる心の持ち主なので
この時点では義詮の本心には全然気付いていない(あるいは、義詮は高師直に引きずられただけの可哀想な立場って思ってた)ようですがw

まだ戦の真っ最中、直義は(いま戦っている敵であるはずの)尊氏と義詮に対して
二人が無事に帰洛出来るようにと、その息災安穏を祈願しているのです。
祈祷を依頼された尊円親王が尊勝法を修しております。
(↑直義が尊円親王に修法を依頼するのは、相当に本気で特別だった証拠かと。)
(『大日本史料』観応2年正月21日)




次に
義詮は御前沙汰を行う事で直義の権限を奪ったのか?
…という事ですが
義詮が御前沙汰を志向したのは、これは制度上の良し悪しという観点からではなく
義詮自身の絶対王政的権力への強い願望ゆえと言えます。

つまり、直義の権限を奪うために御前沙汰を導入した、というよりは
その絶対的権力志向ゆえ、直義(そして尊氏)が目指し築き上げた「理非究明型の道理に基づく政道」を拒否し "結果的に" 破壊してしまった
といた方が適切です。
(↑ここのとこ、もしavayさんの言わんとしている事と私の解釈が違っていたらごめんなさい。ちょっと自信がありません…。)


義詮直義&尊氏、どちらが目指した政治が正しいかという事については
今、現代人が多様な価値観で議論するのは自由ですが
しかしやはり、歴史的意義を論ずるのならば
普遍的な理想・価値観というものに準拠した評価を下す責任があるかと思います。
古今東西を貫くこの普遍的理想・価値観というものは
例えば『建武式目』にもよく表れていますが
中世武士も読んでいた漢籍『六韜』『三略』などで学んで判断評価するのが一番手っ取り早いかと思います。

もちろん、答えは「直義&尊氏」
よく、直義が目指した政治は鎌倉的で古いと評価されますが
しかしこの問題は
(時間的な)新旧ではなく「普遍」で評価しないと間違ってしまいます。
北条泰時や直義が目指した政治理念は
古いどころか現代ですら実現に至っていない「普遍的に正しい理想の政道」でした。
それが壊され、両将軍(尊氏と直義)が築いた太平の日々が音を立てて崩れて行った
『観応の擾乱』が長引いた背景・根底には
まさにこの、不義と理不尽に対する人々の憤りが流れ続けていたのです。




すみません、少々話が逸れました。
続いて
南朝との講和条件に直義の追討が入っていたのは義詮の意向か?
…という事についてですが、これは
この時の正式な綸旨に関して言えば「尊氏が求めたもの」でしょう。

といってもこれは正しくは
「南朝の意向を見越した尊氏が、あえて策略的に求めたもの」
(かつ「この時は不本意でもこうせざるを得なかった事」)
であって
尊氏は「(文字通り)直義を追討するため」にこの条件を求めたのではなく
「直義を追討させないため」に、対直義戦における南軍の指揮権を自身が一括して掌握し、勝手な行動を抑止する事を意図して求めたのです。(さらにもう少し詳しく理由を後述↓)
もちろん、尊氏の真意を知らない義詮は文字通りに受け取って満足したと思いますが。

これ以前、義詮与党(←当然尊氏は含みません)は
幕府分裂内乱誘発を画策して、南朝との密通を謀っていたために
この時点で実は、全国的な大合戦が勃発寸前、まさに危機的状況でした。

この時の尊氏を含めた正式な南朝との和睦(というか全面降伏)は
(それに先立つ)義詮与党の陰謀の延長線上にあるので
その意味では、「直義追討」はもともと義詮の望みではあった訳ですが
尊氏はこの危機的状況を回避するため、現状の不利を逆手に取ったのです。

つまり、南朝への全面降伏自体が尊氏の策。
一般に、尊氏は
「直義派討伐のために、綸旨という錦の御旗南朝の軍事力を目当てに降伏した」
とされていますが、実際は
「合戦を未然に停止するための最速かつ唯一の方法として
 南朝への全面降伏という想像を超える手段に出た」

のです。


(少し混乱されてきたかも知れませんが
 尊氏は本心では、義詮とその与党による南朝との陰謀に激怒しています。
 尊氏が南朝との講和に乗り出したのは、この陰謀を骨抜きにするため
 つまり、軍事力増強のためではなく、軍事力解体のためです。)

(それからもうひとつ重要な事は
 尊氏はこの擾乱を通して最初から最後まで
 本当の意味で直義を敵だと認識した事は、ただの一度もありません。)




この正式な和睦(降伏)において「直義追討」を求めた尊氏の目的は
実は細かく言うともう一つ詳述を必要とする話があるのですが
(和睦交渉自体に継時的な変化があって複雑です)
ここでは主要な2つを挙げておきます。

一つには、(直義および直冬との戦闘において)南軍の指揮権を掌握する事
(↑これについては、綸旨に対する尊氏の請文に明言されています。
 (つまり推理ではなく事実)(『大日本史料』観応2年10月24日)
 それからもうご存知かと思いますが
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】…の p.291 が参考になります。)


そしてもう一つ
この時尊氏はどうしても「鎌倉へ東下する口実が欲しかった」のです。

一般には、尊氏は「直義を追討するために鎌倉に向かった」とされていますが
実際は「鎌倉に向かうために、直義追討を口実にした」のです。




最後に
義詮が直義の殺害を目論んだ場合、義詮の手足となって動く人間はいたか?
…という事ですが
まず前提として、義詮は「高師直の仇を討つために命日に直義を殺害する」という
明らかに高師直との関係がバレるような行為をしようとは、考えなかったと思います。
1つ目の論点で述べたように、義詮は高師直敗死後、無関係を装っていたので。
ただそうは言っても、1年前とは状況が違うので
仮に「思い直して復讐に出た」として検討してみますと…

例えばもし、手段として「刺殺」を選んでいたなら
京都から、素性も分からぬ差し違え覚悟の刺客(捨て駒)を送り込む事は出来たでしょうが
しかし「毒殺」となると
食事に毒を盛るには、(計画段階も含めて)しばらくの間直義の居所に出入りしても怪しまれない人間でなければならず
周囲の者達とも顔見知りでそれなりに信頼を得た者、となれば
そのような人物はいなかっただろうと思われます。

というのも、尊氏は鎌倉への東下に際し
共に東下することを望む義詮を、断固拒否しているのです。
従って、義詮の手足となり、かつ直義のそば近くに近寄れるような危険な人物を
尊氏が東下に随行させた可能性はかなり低いでしょう。
そもそも尊氏は、そこまで警戒していたと思います。
直義を守るために、鎌倉での直義の周囲には目を光らせていたでしょう
しかし、直義自身が望んだ死を防ぐことは出来なかった…





さて、一応avayさんが提示して下さった論点については大まかに返答したつもりですが
なんというか、非常に説明不足で本当にすみません。
この辺の考察を集中してやったのが、もう2年半以上前になるので
記憶を掘り返しつつ、今はこれが精一杯、という感じです。

それから上でも述べたように、私の『観応の擾乱』に関する考察は
ほぼ全容にわたって、一般の説とは乖離しています。
なので、こう断片的に述べられても非常に理解しづらく
むしろ混乱させてしまっただけかも知れません。

とても整理された論点で、着眼点も鋭く、avayさんは相当勉強されていると思うので
(学術書や主要な学説に沿ってではなく)この様な説で返答するのは
むしろ失礼になるんじゃないかとも思いながら
しかし私が解説できる『観応の擾乱』はこれ以外にないので
思う所を語らせてもらいました。


最後に、『観応の擾乱』の考察に際して良い視点を得られた論文を挙げておきます。
(ご存知かもしれませんが…)

【桃崎有一朗
 『観応擾乱・正平一統前後の幕府執政「鎌倉殿」と東西幕府』
 (『中世史研究』第36号 2011年5月)】

【田中奈保
 『高氏と上杉氏―鎌倉期足利氏の家政と被官―』2005
 …田中大喜編『下野足利氏(シリーズ中世関東武士の研究 第九巻)』(戒光祥出版)2013】






ところで―――
ここまでの記述で
義詮の性格というのはなんかかなりアレな感じ…と思われたかも知れませんが
実はこの義詮の性格上の問題が、『観応の擾乱』の最大の要因の一つだったりします。
なのですが…
最近の研究の傾向では、急速に義詮の再評価・高評価が進んでいるので
この辺の話は非常にしにくかったります…orz(w



実を言うと、私はつい最近までずっと「尊氏直義時代」に傾倒していたのですが
3年くらいやってみた手応えとして、どうも私の考察はあまり賛同を得られないということに気付きまして(気付くの遅すぎですよねw)
精神力も底を突いたので、しばらく『観応の擾乱』方面からは離れようと思っていました。
事実は明らかになって欲しいですが、私一人が叫んでいてもどうにもならないですし
何より、私は上手く人の心に届く文章を書く事が出来なかった
というのが、地味にショックだったりもします…w
「観応」「応仁」「明応」の中では
一番「観応」が研究の層が厚いし、イメージが定着しファンも多いので
私はもしかして、どこかで誰かのイメージを傷つけてしまっていたのかも知れませんね…


その点、今のところ注目度の低さでは無双の『明応の政変』〜永正
とても自由に語れるし、将軍義材畠山尚順は最強すぎるし
久々に私の心が燃え上がっているところですw
彼らに開眼したのは実は尊氏直義よりもずっと前で、私の原点だったりします。

『観応の擾乱』尊氏直義時代については今後は
あまり重い話にならない事を、時々気が向いた時に語ってみようか…くらいに考えています。



なんか、最後の方はご質問と関係ない私事になってしまってすみません m(_ _)m
拙い解説ですが、少しでもavayさんのインスピレーションの元になれば幸いです。
尊氏直義は、本当に無限の魅力にあふれた素晴らしい将軍なので
どうぞ、たくさんたくさん探求なさって下さい。
そしてもしよかったら、いつか「明応」にも足を踏み入れてみて下さい。
是非是非、お待ちしております!!
 
長文、失礼致しました。



posted by 本サイト管理人 at 03:21| Comment(6) | 観応日記(尊氏、直義)