2017年09月05日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)

おはようございます
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その1)」
の続きです。

『鶴岡八幡宮』の参拝を終え
境内東の鳥居から外に出て
次の目的地、初訪問の源頼朝の廟所『法華堂跡』へと、旅は続きます。

てくてく… 着きました!!


鎌倉『法華堂跡』

まあ10分とかからない感じです。


鎌倉『法華堂跡』に続く階段


この階段を上った先の、丘の上一帯が『法華堂跡』です。
源頼朝は、生前の自身の持仏堂だった「法華堂」に葬られ
ここは以後、源頼朝の廟所(墓所)として信仰され続けますが
後に廃絶し
現在は、江戸時代に整備された源頼朝の墓石が安置されています。
(階段下、向かって左側には、源頼朝を祀る『白旗神社』がありますが
 こちらは明治時代に新設されたものです。)


鎌倉『法華堂跡』空間


これは上った先の、とりあえず右の方の風景。
(※写真左側にちらっと見えるのが、階段上って正面の頼朝さんの墓石領域。)

『法華堂 "跡"』なので、まあ空間です。
でも時空のひずみが観測されそうな空間です。 (; ・`д・´)ゴクリ…



さて、この『法華堂跡』室町的には どうかと言いますと…

尊氏たちが固い決意を胸に西へと旅立った『建武一年合戦』の頃
足利高経の長男の足利家長(斯波家長)は、尊氏から鎌倉を託されるのですが
その少年大将足利家長と共に
幕府再興の未来を背負った足利軍の為に壮絶に戦い抜いた―――
相馬重胤(そうま しげたね)の終焉の地 なのであります!!


(※この話については、以下の記事を↓
 『Muromachi通り』
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」(2016.3.9)
 …てゆうかこの旅行記、まだ話思いっきし途中だったわ。)


建武3年(1336)4月16日
京都に滞在していた北畠顕家が、再び奥州へと戻るその帰国の途次
鎌倉周辺を通過する際に起こった「相模国片瀬川での戦い」
迫りくる北畠軍を迎え撃つべく
一族の相馬胤康(たねやす)が、まず最前に馳せ向かって討死
そして相馬重胤は、当時の鎌倉の中心部に位置する「法華堂」で自害して果てます。

この時の状況についてですが…
『法華堂跡』の東、『浄妙寺』周辺に当時の足利邸があった訳ですが
地理的に考えて、おそらく相馬重胤は初めから―――

西の片瀬川より迫る敵軍から、大将家長たちを逃がす目的で
(↑当時、鎌倉の主君として幼少の義詮(※尊氏の嫡男)がいた)
時間稼ぎのために「法華堂」に立て籠もった、つまり…
"自害前提" で盾になった のではないか?

と私は見ているのですが。


え、もしそうだったとしたら
色々となんかもうどうなの!?(´;ω;`)どうなの!!?(´;ω;`) どうすんの!!?
…という、抑え切れない溢れる何かに背中を押されて『法華堂跡』に行きました。


足利家長ファン、かつ
相馬重胤と、彼に従った相馬一族
これ以上ない初志貫徹戦いぶりと忠誠ぶりの大大大ファンな私としては
この鎌倉時代の代表的史跡『法華堂跡』
室町的な意味で聖地なのですよ、聖地!!

この戦で散った相馬重胤相馬胤康
前年、足利軍に属して少年大将足利家長に従うことを決めた時
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのです。
つまり、死ぬ覚悟で尊氏に属する決意をしているんですよ!!(´;ω;`)
こういう、「まさに武士!」的な最強最高エピソード、ほんと好きなんですが。

相馬重胤とかもう、何なの!!…ってくらいに最強でむちゃむちゃ好きです。
(だったら早く上の旅行記完成させろよって話ですが。)



『建武一年合戦』への旅立ち…
この後の足利軍に起こった事を、私達は知っています。
それはすべてが過去となった後世から見たら、当たり前の歴史なのかも知れない。
でも、自分たちの明日を知らずに生きていた彼らにとって
未来は、何も確かなものを約束してくれないでしかなかった。
建武政権と袂を分かち、戻れない道を行く事を決めた足利軍の、この時の決断出発
よりももっと暗い闇夜の果て
誰も届いたことのないを掴むような、無謀な一歩だったはずで―――


相馬重胤彼に従った一族
そして尊氏直義
彼らがそれぞれの胸に予感していた時代の大転換という姿なき巨塔
未来を知らない彼らが抱いていた絶望と希望というリアル

彼らの立場であの日の明日を想像すると
歴史って、本当に壮大なドラマなんだな…って思い知らされます。
全身に、蘇るような戦慄期待が押し寄せて心が震えます。

「結果」を当然と思わない、「未来を知らない」視点で感じる歴史
…という妄想ジャンル、わりとかなり興奮度高いと思うのですが
え、どうなの?
全国展開に向けて緊急会議なの?




さて、『法華堂跡』室町的時空のひずみに陥落した私は
再び道に戻り、次の目的地へ向けてさらに東へ進みます。

ところで、『法華堂跡』のすぐ東の少し丘を登った場所にも
「北条義時の法華堂跡」とか「三浦一族のやぐら」とか色々あったっぽくて
折角なので探してみようと思っていたのですが
『法華堂跡』の階段を下りた先の道端
超低空旋回飛行し続ける謎の黒アゲハ蝶に遭遇して夢中になっている間に
その事をすっかり忘れてしまい
一通り黒アゲハに気が済んだあと、満足してそのまま立ち去ってしまいました。
不覚です。


という訳で、ひたすら東へてくてくとぼとぼ進みます。
向かった先は…

…と話を続けたいところですが
長くなってしまったので次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その3)」
に続けることにします。



posted by 本サイト管理人 at 07:57| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年09月12日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その3)

おはようございます
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)」
の続きです。


『法華堂跡』からひたすら東に進む私が向かった先は…

ここです、『永福寺跡』!!


鎌倉『永福寺跡』


「永福寺」(ようふくじ)
源頼朝が文治5年(1189)に奥州平泉を攻めた後
戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てた寺院です。
(※『永福寺跡』にあった御自由にお持ち下さい系パンフレットより。)

そんな歴史的大寺院「永福寺」の遺構の復元整備がこのほど完了し
今年の7月下旬から、待ちに待った一般公開が始まったのです!!


かなり荘厳な寺院だったようで、その広大な跡地から想像される規模は果てしなく
往時は、幕府の迎賓館的にも利用されていたプレシャス御殿寺院だったそうですが
室町時代、応永12年(1405)の火災の後
しばらくして記録から姿を消す事から
再建されずに、やがて廃絶してしまったと考えられています。

その時期については『鎌倉市史 社寺編』に…

「廃亡の時代はわからないが、
 勝長寿院の項で述べた年頭評定始の記事をみれば、大体想像できよう。
 恐らく成氏(しげうじ)が鎌倉を去った頃と思えば誤りあるまいと思う。」


(※【鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 社寺編』(吉川弘文館)1972(初版1959)】
 の p.472 より引用。カッコ内のふりがなと強調は私。)


…と書かれていて
まあそうだろうな、『享徳の乱』だよな (´・ω・`)『享徳の乱』だもんな (´・ω・`)
とか思います。


(※「勝長寿院」は、源頼朝が父の源義朝の菩提を弔うために建立した大寺院。
 廃絶の時期は「永福寺」と同じくらいと見られています。
 天文の頃まであったかも??との未確認情報もあるそうですが(『鎌倉市史』)
 まあ同時期ってことにしとく。
 少なくとも享徳は、終わりの始まりのスタートライン ではあったでしょう。
 On your marks... (´;ω;`) やーめーてぇぇーーー!!

 On your marks... (←『享徳の乱』1454)
 Get set... (←『文正の政変』1466)
 Go!! (←今年で開始550年 ゴーゴー『応仁の乱』1467)
 )



最後の5代目鎌倉公方 トランスフォーム 新生初代古河公方 足利成氏
享徳3年(1454)12月に始まった『享徳の乱』の翌年、鎌倉を離れます。
将軍あるいは公方という "主" の帰らぬ地となった鎌倉
源頼朝に始まり、名高き歴史を重ねた「武家の都」としての時を
掲げ続けた白旗と共に、静かな眠りの中に閉じたのでした。

しかし今、失われし幻の白旗を纏い、眠れる鎌倉を呼び覚ます 勇者ネオ成氏
悲しき擦れ違いの過去に引き裂かれた主従、上杉 との
時空を超えた 福音の元さや を実現して装いも新たにカムバック
ここに、リバイバル協奏曲「さよなら享徳レクイエム」を発動―――



…まあいいか。
享徳からやり直しとかどんな冗談ですかやめて下さい >< )
というか
源頼朝が建立した三大社寺『鶴岡八幡宮』「勝長寿院」「永福寺」のうち
二つまでもを眠りにつかせ
"幻の大寺院" へと伝説化させた『享徳の乱』マジ☆サバゲー…
でもそう考えると、生き残った『鶴岡八幡宮』のサバイバル能力、マジ☆菩薩
でもでもそうすると
史跡保護前に宅地化が進み
発掘不可能の永眠遺跡となってしまった「勝長寿院」に対して
敷地の大部分が鎌倉市によって公有地化され
遺構の発掘&整備が実現した「永福寺」の不死鳥の如きリバイバル値もぱない。
ここへ来て蘇るか!!…ってゆう常識破り感、胸が熱くなります。
(やっぱり享徳からやり直し始まってるくさい 足利上杉夢の元さや 来るでこれ!!)

まあ『鶴岡八幡宮』
伊勢新九郎盛時(いわゆる北条早雲が鎌倉入りして、都の復活を誓うまでは(※)
鎌倉もろとも、立ち枯れた花の社となりかけていたかもな訳で
拡散消滅危機のリミット状態から一転、エントロピー急速減少で
熱力学第二法則へのミラクル反逆力発揮してるっぽいですが。

(※…『大日本史料』永正9年8月13日
 『快元僧都記』天文3年11月20日の有名な和歌。
 枯るる樹に また花の木を 植え添えて 本の都に 成してこそ見め
 by しんくろう )




ちなみに伊勢新九郎盛時は、室町幕府の政所頭人伊勢貞宗(さだむね)の従兄弟。
伊勢貞宗は、15世紀後期『応仁の乱』〜『明応の政変』時期
色々な意味でやばすぎる室町幕府足利将軍
ある意味一人で支え抜いた、歴史的大きのこる先生
だから、従兄弟の伊勢新九郎盛時きのこる値(※)が高いのも納得なのです。
(※…将軍とか世の中とかが、この先生きのこる為にはどうしたらいいかを
 教えてくれる先生としての能力値。)

長らく素浪人と思われていた北条早雲(伊勢新九郎盛時)ですが
あの東国進出は、確実に伊勢貞宗の指示(※ただし極秘)ですわな。


そんな大先生、伊勢貞宗
本当はもっと表立って歴史に名を残してもいい人物なのですが
いかんせん、陰で色々お片付けしちゃうのが好きなアングラ志向の頭脳派だったもんだから
今の所、いまいち輪郭すらはっきり見えて来ない末恐ろしい子
でも、伊勢貞宗がいなかったら
「銀閣寺」(=『慈照寺』)も、8代目のどうしょもないが憎めん公方義政
確実にサバイブ不能で現在の京都の観光資源&茶道に禅にもろもろ京文化、マジ大打撃。
義政がサバイブしたせいで『応仁の乱』に京都が大打撃…とか言わない。)

しかしそんな義政の生存問題なぞ些末なこと(え…)
最も重要な論点は、この伊勢貞宗が…

 『明応の政変』において白い子だったのか黒い子だったのか―――

それが大問題なのですよ!!

私の見立てでは「黒すぎる純白な子」。 なんじゃそりゃ。
栄養満点毒キノコ!!みたいな感じで、はて?食っていいもんか…
でも、良薬口に苦しっていいますし、良キノコも口に猛毒なのですよ。
ほんとに効くんかいな。
もちろん! 『明応の政変』
猛毒きのこる先生による、主君生存のためのミラクル荒治療 だったのですから!!


毒を以て毒を制すべく、大きのこるドクター貞宗先生が水面下で戦った
本当の黒い毒の正体、コードネーム〇〇〇〇とは…
(ああああ゙((((( ;゚Д゚))))) 怖いからその話はよして!!
 でもこのコードネームは史実です。ハリウッドも真っ青よ!!!)

そんなことより
天才どSきのこ・ドクターブラック貞宗の神オペのお陰で(←ただし必ずしも予定通りに行ったかというと少し微妙)結果的にその尊いお命を永らえる事になったものの、あまりの大胆荒治療にすったもんだの流浪人生への出航を余儀なくされた、「白雪姫」のリンゴじゃなくてキノコバージョンと「眠れる森の美女」をうろ覚えでごちゃ混ぜにしちゃったみたいなストーリーのかわいそす将軍義材(よしき)の話しようよ! 義材の話!!


…まあいいか。
というか、伊勢の話をし出すとターボがマッハになってしまうので、もう自重します。
ただひとつ―――
源氏将軍足利家に仕えた伊勢家平氏ですから
彼らの関係を、宿命的な側面から読み解いてみるのは
決して無駄な考察ではない…のではないかと思います。はい。

伊勢貞宗の忠誠心、それが
『明応の政変』矛盾を一気に解消する、突破口になるのでしょう…




という訳で、室町時代半ばに幻となってしまった大寺院「永福寺」ですが
しかし、地名にはその痕跡がしっかり残っていて
現在、この辺り一帯は "二階堂"(神奈川県鎌倉市二階堂)と言いますが
それは、「永福寺」の中心の建物が二階建て
「二階堂」と呼ばれていた事に由来します。

(※「永福寺」は、「二階堂」とその両脇の「阿弥陀堂」「薬師堂」という
 三つの主要な堂が連結した構造で、正面には広大な苑池(えんち)を有し
 「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」(※上記パンフ引用)
 と形容されました。)


この『永福寺跡』は、発掘調査は何十年も前に始まっていましたが
10年前からは、基壇(基礎)庭園の復元のための整備工事が進められていて
そして先日、遂に一般公開が始まった!!
…という事を知ってから、是非訪れたいと思っていました。
5年前の秋、『瑞泉寺』に向かう途中で
まだ工事中の『永福寺跡』を柵の外から眺めた思い出が蘇ります。

と言いましてもまあ、この鎌倉時代の名跡「永福寺」旧跡
鎌倉時代ピヨピヨど素人の私にとっては
室町的に興奮するむろまチーノ史跡なのですが。 鎌倉(宝)の持ち腐れ。


しかも室町的って言っても、さらに尊氏直義時代に絞られるので
私の嗜好の許容範囲どんだけ心狭いんだよって話ですが
建武2年(1335)8月19日
京都から光速で駆け付けた 直義お助けマンの尊氏さん
『中先代の乱』をあっという間に平定してわーい鎌倉だぁ(はぁと)
と到着一番、直義と一緒に入った今夜のお宿が…

「二階堂の別当」『梅松論』
「二階堂御所」『鶴岡八幡宮寺社務職次第』

(※『大日本史料』建武2年8月18日、8月27日)

…となっている、とか
それから『観応の擾乱』の頃
直義を失った失意の尊氏さんに追い打ちをかけるように襲い掛かった
観応3年(1352)閏2月の南朝との講和の破局と、南軍の鎌倉進攻を受け
閏2月17日、一旦鎌倉を退いた尊氏さんたち幕府軍
武蔵国で大展開した戦闘で最終的に勝利を収め
観応3年(1352)3月12日
10日前に南軍が撤退した鎌倉へと、凱旋尊氏さん が入った先が…

「二階堂別当房」『鶴岡社務記録』
(※『大日本史料』文和元年3月12日)

…とかあって
私の中では二階堂と言えば尊氏さんみたいな認識になってます。



当時は、「二階堂」「永福寺」の別名でもあった訳ですが
(↑た、たぶん… 合ってるよね??)
ただ、「別当」とか「別当坊」(=別当(長官)の宿坊)とあるので
「永福寺」自体ではないっぽい感じ濃厚なものの
でも、滞在10日目にして「二階堂御所」と呼ばれている様子からすると
少なくとも近隣、場合によっては同じ敷地内に位置する建物のように思えるので
私の強引ジャッジとしましては
位置的には「二階堂別当坊」≒「永福寺」と考えても
まあだいたい合ってる、って許してもらえるんじゃないかな〜(誰に?)
という事で、そういう事にして妄想を展開しております。


という訳で―――
尊氏さんは鎌倉に着くと、いつもまず「二階堂」で宿をとる!!
…という歴史から、私の中で『永福寺跡』
尊氏さんの一番宿「ホテルニュー二階堂」的な何か〜となっています。

鎌倉の初代将軍渾身の歴史的意義重厚な「永福寺」になんか申し訳ないです。



まあいいか。
はい、それでは早速チェックインしたいと思います。


鎌倉『永福寺跡』

とりあえず入った。


鎌倉『永福寺跡』

池です。大きいです。( ^ω^)おっ?


鎌倉『永福寺跡』

基壇です。( ^ω^)おっ?おっ??


鎌倉『永福寺跡』

池です。
( ^ω^)フロントどこだお?


……。
という訳で、とりあえず一通り一周してみたものの
規模が大き過ぎて、ちっぽけな私の想像力にはとても納まり切れず
気の利いたリアクションも思い付かぬまま、空を仰ぐしかありませんでした。

私はまだ、基礎しか残っていない系の史跡を嗜む妄想訓練が足りていないようです。
建物が目前に現れるくらいまで、礎石フェチレベル上げたいです。
広い芝生見て「おにぎり食べたい…」とかいう感想しか浮かばない自分に失望しました。

(※ただし『永福寺跡』基壇は、発掘された実際の木材・石材と
 同素材のものを新たに用意した "復元" です。
 発掘調査を終えた当時の地面に、遺跡を保護するため60cmの盛土をして
 当時の様子を再現しています。
 池も30cmのかさ上げをして、当時の湖底を保護していますが
 庭石は、出来る限り本物を露出展示しているそうです。
 (※上記パンフより) )



まあでも、私の「妄想物語」(←時間軸現代)の中では一応
それなりにストーリーは展開していまして…
鎌倉に滞在する直義を、尊氏が京都から迎えに強行して来て
二人は『永福寺跡』で唐突の再会
息を切らせて言葉が出ない尊氏と、驚きのあまり言葉を失う直義
互いにそれ以上近付く事も出来ぬままただ立ち尽くし―――
…とかいう話を脳内再生しながら「お、このカットいいかも」
って挙動不審に参考写真を必死で撮ったりはして来ました、はい。


まあなんだかんだ言って、百聞は一見に如かずです。
皆さんも是非、実際に『永福寺跡』を訪れて
その往時の雄姿を心に蘇らせたなら
空では鳳凰の如く、池ではの如く、壮大なスケールで楽しんでみて下さい。
私は、陸においては蟻んこ、池においてはミジンコの敗北感で撃沈しました。


(…すみません、なんか私の敗戦記みたいな事になってしまいましたが
 この『永福寺跡』素晴らしかった 事だけは、紛れもない事実です。
 その歴史的価値の高さは、私が保証するまでもありませんし
 この広大な史跡が保存され復元された現実は
 決して当たり前の事ではなく
 数知れない幸運が重なった奇蹟の中の奇蹟だと思います。)



さて、『永福寺跡』の現地レポートはこれで終わりなのですが
もう少しだけ、尊氏さんと「二階堂」について考えたい事があるので
次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その4)」
に続きます。


というか…
こんなタイトルで出オチしてるネタ旅行記、1回で終わらせる予定だったのに
始めるとどうにも話が無駄に広がってしまう癖、なんとかしたい。
このタイトルで続編続けるとか、そろそろメンタル的にやばい。



posted by 本サイト管理人 at 08:50| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)