2017年07月21日

直義のスクープ和歌は謎(その3)

こんばんは、だいぶ間をあけてしまいましたが
「直義のスクープ和歌は謎(その2)」の続きです。

さて、ここで一旦基本に立ち戻り
当該和歌の文学的な考察をしておきたいと思います。



ではまず、詞書と和歌の再掲を…


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける    左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



(だいたいの訳(仮))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、都に残し置いていた女の様子が変わってしまった
という知らせを聞いて、歌を詠んで遣わせた

あなたが変わってしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…





さて、「袖」というのは昔から一般に「涙」と関連付けられます。
こぼれたを(和服の)で拭う、からです。
「袖を濡らす」=泣く
「袖の露」=袖にかかる涙、悲しみの涙

…などをはじめとして、様々な表現がありますが
和歌においてはやはり、恋に関する涙である事が多いです。


上記の直義の和歌では
(彼女の)「袖の色」が変わってしまった悲しみで
(直義の)「旅衣」(の袖)が「露けき」

となっています。
(※露けき…「露けし」(=露に濡れてしめっぽい、涙がちな)の連体形。)




ところでこの和歌は
以下の『古今和歌集』の歌を背景にしたように思うのですが…
(違うかな? でも少しは参考にはなると思うので紹介してみます。)

これは「離別歌」であって、恋歌っぽいけど恋歌ではないのですが


貞辰親王の家にて、藤原清生が近江介にまかりける時に
むまのはなむけしける夜によめる   紀利貞

今日別れ 明日はあふみと思へども 夜やふけぬらん 袖の露けき



藤原清生が近江に赴任となり、貞辰親王の家でその送別会を開いた夜の歌。
「あふみ」は、「近江」「逢ふ身」を掛けています。
近江は京都から1日で行ける距離なので
今日別れても、明日には(あなたは)近江に着く
(1日で逢いに行ける場所なのだから、悲しくなんてないはずなのに)
夜が更けて露がおいたためであろうか、袖がしめっぽいなあ…
で濡れている訳じゃないんだからね、そんなんじゃないんだから…(しくしく))
という意味の歌です。

(※参照【久曾神昇 全訳注『古今和歌集(二)』(講談社学術文庫)初版1982】
 詞書と和歌は、適宜ひらがなを漢字に改めてあります。)



つまり、別れは悲しいけれど、再会は嬉しいもの
という気持ちが含まれます。


なので、上記の直義和歌の解釈にも
その意味を(逆説的に)込めて
「旅立ちの別れで袖が濡れてしまうのは当然だけど、帰って来たら喜べるわーい!!
 …のはずだったのに、やっぱり袖が露けき …ってなぜ(´;ω;`)??」

という涙目感を読み取ってみました。




さて次に、「袖の色が変わる」の解釈ですが…

(※注意事項※
 以下の考察は、"和歌本体" の分析および試行錯誤、と思って下さい。
 詞書(ことばがき)を正しく考慮した場合
 かなりしなくていい無駄な考え方をしている…という事を
 この記事を大方書き終えた後に知ったのですが
 ちょっと訳あって、私の無駄な考察過程を残しておきます。(/ω\*)ハズカシイ
 詞書については、この下の方で説明します。)



これが恋の歌だった場合
(たぶん)最も一般的な解釈は
「あなたを想って涙を流し過ぎて、涙が枯れて血の涙となり
 袖の色が(くれない)に変わってしまった」

というものだと思います。
つら過ぎる恋想いの激しさを表す、比喩的な表現です。


ただ、この表現は
それほどに泣いた側が、自分の心を歌にする場合、あるいは
相手につらさを訴える場合に用いるものかなぁ…という印象があるので
今回の和歌の場合は、ちょっと当てはめ難いようです。

まあ、無理矢理考えれば…
「直義に会えない悲しみで、袖の色に変わるほどに泣いた彼女の
 心の痛みに同情して、直義も涙がちになった」
と出来ないこともないかもですが
うーん… やっぱり
「血の涙」「露けし」に温度差があり過ぎますかね、同じ涙でも。


ならば、もう少し単純に考えて
「袖」「色」も、どちらもを連想させる言葉なので
「袖の色が変わった」=「心変わりした(愛が冷めた)」
とも読めるかと思ったのですが
ただ… あまり(ってかほとんど)和歌の知識ないので
こういう用例があるのかどうか分かりません。(´・ω・`)
(一見したところ、一番シンプルで無難な解釈かな、とは思うのですが…。)




さて、それじゃあ一体何なのさ…という話になって来る訳ですが
この他に、「袖の色が変わる」といって思い付くものと言えば…
「墨染の袖」(すみぞめのそで)があります。
(※墨染(の衣)=僧衣)

実は、別のある理由からも(←次回の記事で解説します)
この和歌における「袖の色」とは、比喩的な "恋心" の問題というより
実際の「衣の色」と解すべきである事が分かります。
そうすると実は…

「袖の色が変わる」=「墨染の衣に着替える」=「出家する」

となって、女性は俗世を捨ててしまったという事になるのです。 Σ(゚Д゚;)ナント!!? 




※※※

…と、以上が私の無駄足考察過程ですが
こんな回りくどい考え方をしなくても
実は、詞書を読めば、女性が出家した事は一目瞭然でした。
というのも
先日、前回の記事に頂いたねこ様からのコメントで教わったのですが
詞書の「女のさまかへ侍る…」の「さまかふ(様変ふ)」という言葉には
(「様子(趣)を変える、姿かたちを変える」という意味と共に)
「出家する」という意味があったからです。

(私は、「さまかふ」を一語だと思っていなくて
 「さま」を、漠然とした「様子」とか「容姿」だと訳していました…orz )


なんという無知ぶり!!(´;ω;`)
本当にすみません&いつも有り難うございます m(_ _)m

そんな訳なのですが、ただ…
もしも詞書が無く、和歌だけを単独で見た場合
こんな誤解をしかねないんじゃないかな〜という事例を示しておきたくて
一応、ここに書き残してみた次第であります。

というのも、この和歌単独では
 「袖の色」の意味が実に曖昧 (とも出家ともとれる)
…という事が
どうやら、この和歌に秘められた真実の一側面らしい…
と、私が深読み観測しているからであります、はい。

※※※




さて、話を戻しますと…
つまりこの女性は
(彼女が直義の愛人だと仮定した場合の話ですが)
「直義がもう戻って来ないと悲観して、早まって出家してしてしまった」と。
京都に帰って来た直義はその事を伝え聞いて
「そ、そんな…orz」と絶望した
という訳ですが―――

しかし、しかしですよ
確かに、尊氏直義たちが京都を敗退した時には
もう、世を捨てて出家するしかない心境だったでしょうが
彼らが帰って来た時点では
世界は「これから尊氏直義の新時代が始まる!!」という
希望明るさに満ちていたと思うのですよ。
そんな乗りに乗った時代の雰囲気を考えると
若い女性が世を捨てて悲観したまま…というのは、どうにもちぐはぐな印象を受ける…。

何より、もし戦況による不本意な出家だったのだとしたら
気持ちは冷めていない可能性が高い訳で
直義も和歌を送るなら
こんな「俺たち、終わったんだね…」なんてしょぼくれた哀愁を漂わせてないで
還俗を勧めてよりを戻そうとすればいいじゃないのさ!
…とか思うんですが。

(え、それとも、そうやってかわいそぶった振りしつつ
 さりげなく「俺の気持ちはまだ冷めてないんだけど…」
 とか伝えて相手の反応見てるの? そんな作戦なの??)


…まあいいか。
そんな訳で、「出家してしまった愛人に未練を告げる歌」だと考えた場合
それはそれでやや疑問は残るのですが
詞書より(それから、次回に説明するもう一つの理由もあって)
この女性が「墨染の衣」に着替えて「出家」してしまったという事自体は
間違いない事実といえます。


従って、これを直義和歌の意訳に反映させますと…


袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

(訳(完?))
あなたが出家してしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…



…ひとまず、こんな感じで。





あと、一応確認しておきますと…
この和歌は、直義が愛人に向けて詠んだものではないのでは?
(ってか、直義の愛人なんていたの??)

…とは言いましたが
それは、この歌が「妄想の産物である」という意味ではなく
(↑歌というのは今も昔も
 妄想シチュエーションで詠まれる(作詞される)事が多いものですが)
当然の事ながら
詞書で具体的な背景が語られている事から
「直義が事実に基づいて詠んだ、実話の和歌である」
という点に疑いはありません。


いずれにしても私は
これが『新千載和歌集』に撰出された和歌である、という事に
それほど単純な歌ではないのではなかろうか…との予感を抱いています。



という訳で、今日は和歌の文学的な解釈を試みてみました。
なんか頼りない解説ですみません (´・ω・`)
次回「直義のスクープ和歌は謎(その4)」では再び
その謎に迫りたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 21:15| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月25日

直義のスクープ和歌は謎(その4)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その3)」の続きです。


この歌は『新千載和歌集』に撰出されたものですが
勅撰集の和歌の配列には、ある程度のルールや意味があって
同一キーワード(単語や地名)を含む歌とか、同一の主題を詠んだ歌などは
連続して並べられるようになっています。
(つまり、前後周囲の和歌は、共通点関連性を持っている。(程度は様々ですが))

例えば、「秋」の部の前半の方には
「七夕」を詠んだ歌が連続で並べられている、といった具合です。
(※旧暦の7月は「初秋」に当たるので。)
「七夕」とか「天の川」とかいった単語が並ぶ中に
一首だけ「鹿」を詠んだ歌がぽつんと入っていたら、おかしい訳です。


この直義の和歌が収められているのは「雑」の部なので
守備範囲は広い訳ですが
それでもよく見ると、そこそこのカテゴライズの形跡が見出せます。


という訳で、直義和歌の前後をざっと観察してみますと
どうもこの辺は
憂き世への嘆きとか、そんな俗世にある我が身への悲嘆とか
だからと言って、世を捨ててみたところで一層しみる憂き世憂き身救われなさ、とか

遁世してもなお、逃げ場も慰めもない俗世の中で
独り脳内に山寺の鐘だけが遠く響く――― ような雰囲気の漂うエリアです。
ゴーーーン… (´;ω;`)

つまり―――

そんな憂き憂き出家遁世エリアのど真ん中に
空気を読まずに颯爽と現れる「愛人への恋歌」!!

って、なんでだよ!!


不自然です、実に不自然なのです。


実は、前回の解説で私が
「袖の色が変わった」を「出家した(=墨染の衣に着替えた)」と解釈すべき
もう一つの理由があるといったのは
直義和歌が、このエリアに位置していたからなのですが
(しかも、直前・直後の和歌には「墨染の」という単語がダイレクトに含まれる
 …という間違い無さ)

なのですが、なのですが…

しかしですよ
確かに、詞書が示す通りこの和歌は「出家」を詠った歌ではありますが
しかしそれでも、本質的には恋の歌です。
男女の心情が絡む歌がこのエリアに忽然と現れる、というは
どうにも不自然極まりない…と感じないではいられずにはいられない訳なのであります。




ではここで参考に
直義和歌の前後の歌を(適当なとこから適当なとこまで)
『新千載和歌集』より書き出してみたいと思います。



題しらず  藤原宗秀
花にそめ 紅葉に染めて まことなき 心の色の あだし世の中

信快法師
後の世も かくや歎かむ 身のうさに 猶のがれえぬ 心なりせば

徽安門院一条
いく程と 思ひながらも なげくこそ うき世をしらぬ こころなりけれ

宣光門院五条
今さらに うきをうしとて 驚くも 世のことわりを しらぬなりけり

安嘉門院四条
数ならぬ 身にも涙の こぼるるや いはきの山の しづくなるらん


あけくれ木のもとにのみすぐし侍りければ
身をかへたる心ちし侍りて思ひつづけ侍りける  大僧正行尊
木のもとは つひのすみかと 聞きしかど いきてはよもと 思ひしものを


世をのがれて後那智にまうでて侍りけるに、
そのかみ千日の山ごもりし侍りけることを思ひて
滝のもとにかきつけ侍りける  法眼慶融
三とせへし 滝のしら糸いかなれば 思ふすぢなく 袖ぬらすらん


山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の袖


…【ここに直義の和歌】…
建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける  左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな

是法法師
のがれても おなじうき世と 聞くものを いかなる山に 身をかくさまし




(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)




この後もまだまだ
憂き世、身を捨てる、身を隠す…と言った単語が続きます。


つまり…
なんというオーパーツ!!
と言いたいとこですが
ここはおそらく、逆に考えるべきなのだと思います。


勅撰集の配列パターンからすると
ここに位置する歌を「直義が愛人に対して詠んだ歌」だとするのは
やはりおかしいのではないか?…と。


詞書によれば、"ある女性" が出家した事は確かで
その事を、直義が歌に詠んだのも紛れもない事実ですが
しかし、この女性が "直義の愛人" だとは言い切れないのではないか…?
というかはっきり言って、前後の和歌のテンションからすると
これが愛人に送るために詠まれた歌だとは、どうしても思えないのです。

(※ネタ的に水を差すような事言ってすみません (´・ω・`)
 でも、『大日本史料』公認直義愛人ネタ
 ネタとしては永遠に不滅だと、私個人では思っております、はい。)



そう考えた場合、一つの可能性が浮上して来る訳で
これが「(直義にとっての)恋の歌」ではないのなら
歌を詠んで遣わせた相手はもしかして、この女性ではない "別の誰か" なのでは?―――


いや、それは穿ちすぎだろ(妄想の上に妄想盛ってるよ)と思われるかも知れませんが
私がここまで冒険的な解釈をするのには理由があります。



という訳で、ここで再び
直義和歌を含む前後4首に注目いたしますと…



山家歌とてよめる  法印能信
山里を さびしと何か 思ふらむ かかれとてこそ 墨染の

(※詞書省略) 左兵衛督直義
袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき

題しらず  藤原宗行
そむきても 猶世の中に すみ染の ゆうべの袖は 涙なりけり

よみ人しらず
そむきても 世にすみぞめの 衣河 かはるしるしの なき我が身かな



(適当な訳)
1首目
(出家して身を隠した超さみしい山里で)
これでこそ遁世というもの!と叫ぶ。(自暴自棄ぎみに)
3&4首目
出家したって、この世のに住んでいる事に変わりはないんだよね… (´;ω;`) と泣く。
(※「すみぞめ」は、「墨染」と「(世に)住む」の掛詞。)




直義和歌以外の3首には、すべて「墨染の(袖 or 衣)」というワードが含まれます。
直義和歌も「袖」が意味するのは「墨染の袖」だと言えますが
しかし、「墨染の」という同一単語が並ぶ中に
あえて(直接的には)それを含まない和歌をねじ込む…というのは
なんか…すごく… 違和感だと思うのですが。

これくらいのイレギュラー配列、別に普通かとも思ってはみたものの…。
「一首隔てて同一テーマ(単語)の歌を並べる」という複雑な配列法はあるようですが
それともちょっと違うような…
ってかそれどころか
3首目4首目の歌が、やたら似過ぎているのが気になってしょうがない。
よみ人しらずの歌まで探してきて、なんか…これでもかと "何かを" 駄目押ししている…??

そもそも歌の内容的にも
他の3首が、出家した自身の侘しさに直撃されているような歌なのに
直義のだけ、浮き過ぎてますよね?

直義和歌が、この4首の "間"(2番目)ではなく
最初(1番目)か最後(4番目)に来るのなら
(キーワード的になら)まだ分かるというものですが
なぜに… 割り込ませるのかと!!
なんかどう見ても「わざとらしい」んですよ! 色々と!!


そうつまり―――
私はこう大胆予想しているのです

何らかの理由があって、わざとこんな事をしたのではないかと!!

(ってゆうか誰が?)


……。


「モルダー、あなた疲れてるのよ」とかいう声が聞こえて来そうですが
大丈夫です。 私が疑っているのは、宇宙人みたいな人ですが宇宙人ではありません。



ところで、上掲の4首をもう一度見て頂きたいのですが
このエリアにはオーパーツってくらいの浮きっぷりを示す直義和歌
詞書が無いと、わりとしっくり馴染んでいると思いませんか?
若干の違和感に目をつぶれば、普通に憂き憂きムードいっぱいですよね。

「旅をしていた間に、親しかった誰かが出家してしまったのだろうな…」
という寂しさが胸いっぱいに広る
しょんぼりカタルシスがたまらない一首だと思います。

(あるいは、後に続く2首に共通性を見出すなら
 「出家しても俗世、から帰って来ても俗世
  どこに逃げても、憂き世は結局変わらない… (´;ω;`)ブワッ 」

 みたいな意味にもとれるでしょうか?)


うん、そうなんですよ
詞書さえ無ければ、さして気にも掛からず通過できるのですよ。

詞書があると
「は、はあ?? 女がどうしたって!!?」
ってなりますけど。


ただ一方で、詞書が無いとこの和歌は
ちょっと真意が解し難い…というか
「袖の色」といわれると、どうしても恋歌っぽく聞こえてしまうと思います。
そこで…
それを防止し、「袖の色」ってのは「墨染の袖」の事だよ!!
という事をアピールするために、こんなポジショニングを図ったのではないか…?
ここなら詞書が無くても
出家を詠んだ歌だって、誰の目にも明らかですからね。
逆に、詞書を添えるなら、何もここにねじ込む事はないと思うのです。


そうつまり―――
私は、更なるセカンド大胆予想をしているのです

この直義和歌は当初、詞書を添えずに掲載される予定だったのではないかと!!

!!?



「モルダー… (´・ω・`) 」とか呼ばれ出しそうですが
しかし、モルダーの 妄想 発想が無ければ、X-ファイルの謎は永遠に謎のままなのですよ!
冒険妄想を恐れたら、未知(と尊氏)未来永劫意味不明なのです!

私は普段は、考察には慎重に慎重を期していますが(小心者なので。プルプル)
しかし今回は… 冒険いたします。
夏だし☆ (ゝω・) v キャピッ



という訳で、この仮説のもとに強引に捜査を進めますと…

当初この和歌は、和歌単体で掲載される予定だった
それはなぜかと言えば
詞書の込み入った事情から察するに
隠しておきたい、あるいは、公にするには憚られる事情があったから
しかしこの和歌は、単独ではやや意味不明… ってゆうか
おそらく、単なる妄想恋歌と思われて終わる \(^o^)/
真相は伏せておきたいけど、事実の半分は記憶として正しく留めておきたい
(詞書無しに)和歌の真意をある程度伝えるためには―――
巧妙な配列によって、周囲の和歌から意味を察するように誘導する
コード【墨染】でがっつり前後を挟み
「これ出家の歌なんですよ、出家の歌!」と畳みかけるべく
後ろから2首の極似和歌で援護射撃し追い打ちをかける
完璧だ。
芸術の域に達した美しき完全犯罪
この真紅の薔薇を、我が愛しき直義への手向けとしよう―――
ふはははははっっっ!!!


(ただし、最終的に詞書が掲載されたため、この犯行は未遂と化し
 無駄な不自然さとまさかの直義愛人説が誕生しますた。)




つまり、謎はすべて解けたっっっ!!
(…せやろか?)

まあ、こう考えると
「そこまでしてこの直義和歌を撰出したのはなぜか?」
という新たな疑問が生じる訳で
そもそも「勅撰集にそんな細工施せる直義関係者がいるのかよ!」ってなる訳ですが
これに関しては… いますよね。


その人にとってこの和歌は
大切な思い出の和歌だったのではないかな。

どうしても
勅撰和歌集という最高の場所に、永遠に掲げておきたいと願うほどに
輝いた一瞬を記憶する歌だったのでしょう。




それでは次回「直義のスクープ和歌は謎(その5)」では
『新千載和歌集』という勅撰集の特質を考えてみたいと思います。

参考文献を先に紹介しておきますと…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちらの論文をどうぞ!


【深津睦夫『中世勅撰和歌集史の構想』(笠間書院)2005】
 という書籍にも収録されているようですが
 すみません、未確認です。)



posted by 本サイト管理人 at 09:23| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月28日

直義のスクープ和歌は謎(その5)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その4)」の続きです。

さて、前回の記事では思い切った大胆予想で冒険してしまった訳ですが
別に、夏だからって羽目を外している訳ではありません。 (ゝω・) v キャピッ

『新千載和歌集』という勅撰集は
そんな冒険解釈を許してくれるほどに
ちょっと特殊な成立背景想いを秘めた歌集なのです。


そもそも勅撰和歌集とは
天皇の綸旨、または上皇(法皇)の院宣によって撰集される公的な歌集
平安時代の『古今和歌集』から、室町中期の『新続古今和歌集』まで
21集が存在します。
(↑最後の勅撰集『新続古今和歌集』
 後花園天皇6代目足利義教の治世のもの。お勧め!超お勧め!!)


このうち、17集目の『風雅和歌集』
花園法皇監修、光厳上皇親撰で
誕生間もない幕府の全盛期&安定期と、時を同じくして撰集が進められた歌集で
(↑つまりこれもお勧め!超お勧め!!)
貞和4年(1348)頃にほぼ完成し
尊氏直義の和歌も複数入選しています。


そして『新千載和歌集』は次の18集目にあたり
後光厳天皇の下命、撰者は御子左(二条)為定
『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年
延文元年(1356)6月に撰集が決定し
延文4年(1359)12月に全巻の完成となった、南北朝期の勅撰集の一つですが
なんと言っても『新千載和歌集』は…

 武家の奏請による勅撰集撰集の先例を開いた歌集」

として有名です。

つまりこの勅撰集は
尊氏が申し出て、朝廷がそれを承諾する」という形で撰集が始まり
以後、『新続古今和歌集』までの勅撰集で
足利将軍による奏請という形が継承されました。


そうなのです―――
尊氏さん、かなり斬新な事したのです。
和歌が大大大好きだったから…というのはもちろんあるでしょうが
尊氏が元来、意外なほど保守的で、朝家を殊のほか重んじていた事を考えると
これは尊氏にしては、極めて特異で大胆な発案&行動だったと言わざるを得ません。

(ちなみに、撰者を御子左(二条)為定(※以下、二条為定と表記)
 としたのも、尊氏の意向です。)



なぜ尊氏は、先例を乗り越えてまで勅撰集の撰集を望んだのか?
「そこには、何かしらの強い意図が存在したはずだ」
という視点で
『新千載和歌集』を詳細に分析し
撰出和歌の特徴配列
後醍醐天皇尊氏、撰者の二条為定の、それぞれ&三者の関係
崇徳院御霊鎮魂のために編まれたと考えられている『千載和歌集』との比較

…などから、その謎を解き明かした論文が

【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
 (『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】


です。

「尊氏の意図」というものに注目した考察は素晴らしいの一言に尽きます。
というのも、尊氏の行動
一見、考え無しとか行き当たりばったりとか成り行きof成り行きに見えて
実はそのすべてに明確で強い意図が存在するので。



という訳で、詳しく紹介…したいところですが
ここでは、ごくごく簡単に結論だけ要約させて頂きますと…

「要所要所に後醍醐天皇を言祝(ことほ)ぐ歌を置き、
 全体としてあたかも後醍醐天皇のための勅撰集であるかのような
 相貌を見せている」『新千載和歌集』
後醍醐天皇の鎮魂を、撰集の大きな目的の一つとして構想された勅撰集であり
それは、執奏者である尊氏の意図によるものだと考えられる。

(※「」内、上記論文より引用。読み仮名と強調は私。)

という事です。
なるほど納得、全面同意です。


足利将軍の執奏によって勅撰集撰集がなされる先例を開いたことが、
 この新千載集のもっとも重要な文学史的意義と目されながら、
 尊氏がそうした挙に出た理由が問われることは、従来ほとんどなかった。」

尊氏自身の和歌好み」が理由の一つであることに間違いはないが
その点だけに「この問題を集約させてしまう」には
勅撰集撰集の奏請という行為は、前例のないことであるだけに」
あまりにも重大なことのように思われるのである。」


という鋭い着眼点より『新千載和歌集』を分析した当論文は

新千載集は、武家執奏によるはじめての勅撰集である。
 足利尊氏が、前例のない勅撰集撰集の奏請などという行動に出たのは、
 直接的には、後醍醐天皇の御霊を畏怖し、
 それを慰める必要を感じたからであったと考える。」


という結論で締めくくられています。
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)

従来、なにかとスルーされがちな尊氏の意図について(政治史でも、文化史でも)
その存在を掘り起こしてくれた、有り難い論文であります。 (−人−。)ナムナム

(※以上、結論に至る考察部分がまるで紹介出来なくてすみません。
 特に、和歌の配列に関する考察は
 実証的で示唆に富んでいて素晴らしいです。)




しかしそうすると…ですよ
モルダーな私としては、やはりこう考えずにはいられない訳ですよ

尊氏の事だから、他にも胸に秘めた想いを反映させているのではないか…?

と!!

そもそも、勅撰集というものが
「本来「治まれる御代の証」としての性格を有している」という基本に立ち返れば
(※「」内、上記論文より引用。強調は私。)
『新千載和歌集』だって普通に考えれば
太平の御代(※この当時は、後光厳天皇の治世)を象徴する為のものであった訳で
戦乱の終息を宣言し
人々の心に安心を与えたい、との願いも込められていたと思います。
尊氏ほど、神仏に捧げる法楽和歌を好んだ武将もいない…ことを思い起こせば
『新千載和歌集』の撰集そのものを "天への祈り" だと考えたのではないか?
とすら思います。

おそらく、託した想いは一つではなく
そのうちの一大目的が「後醍醐天皇の鎮魂」だった、とも言えそうですが
しかしこれは本来
暗黙の了解というか、公然の秘密というか
表立って公言した訳ではないマル秘プロジェクトに近い性質のものです。
(だから、上記論文のような分析で初めて見えてくる。)

ならば―――
他にも "尊氏の策" で忍ばせた隠し扉があるはず!! (; ・`д・´) ゴクリ…
なんたって
撰者に二条為定を推したのは、外ならぬ尊氏ですよ。


二条為定は、尊氏の和歌の師であり
康永4年(1345)冬に
尊氏に三代集(古今集・後撰集・拾遺集)を伝授したりしていますが
他にも尊氏は晩年、二条為定邸を自宅にしていたり…
という二人の関係を考えると
かなり個人的な意向も、内々にやり取り可能だったろうと思うのです。

(※鷹司東洞院(土御門高倉)の尊氏邸
 観応2年(1351)2月22日
 『観応の擾乱』の中でボコボコ&焼失してしまい
 その後(色々あって)一旦鎌倉に下ったのち再度上洛した尊氏は
 文和2年(1353)10月20日に、為定の二条万里小路第に移り
 延文3年(1358)4月30日に他界するまで、ここに住み続けます。
 ちなみに、為定自身は別の場所に住んでいたようです。)


もちろん、あくまでも勅撰和歌集ですから
「和歌」という文化伝統のために撰集される事が大前提でしょうが
しかしそれでも、そこに携わった人々の想いというものは
少なからぬ彩りを添えていると思うのです。

それは、歌の並びの中に今も咲き続ける
永遠(とわ)に色あせぬ花として…



という訳で
尊氏の奏請に始まった『新千載和歌集』誕生に秘められた想いと
執奏者尊氏、撰者二条為定の関係を考えた時
直義和歌の真相究明は、いよいよ佳境に突入するのであった―――



次回「直義のスクープ和歌は謎(その6)」
モルダー全開で参ります。
夏だし☆



posted by 本サイト管理人 at 08:45| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年07月30日

直義のスクープ和歌は謎(その6)

おはようございます、「直義のスクープ和歌は謎(その5)」の続きです。
ようやく終章です。


『新千載和歌集』の成立背景と撰出和歌、その配列には
尊氏の意図が見え隠れする (´・з・) 〜♪

…という事実が明らかになった今
どう考えても、あの謎多き直義和歌の撰出&配列も間違いなく

   尊 氏 の 仕 業

巧妙なようでいてどこかずっこけるあのわざとらしさは
ワロス戦略将軍尊氏の、典型的な「尊氏節」(たかうじぶし)だったのですよ!!


そう、既に謎はすべて解けたのです。



あの歌は尊氏にとって
どうしても忘れる事が出来ない、大切な思い出だった。


誰があんな直義のプライベート和歌知ってたんだよ!
という謎には
「あの歌は、直義尊氏個人的に送った歌だった」
という答えを。

当初、詞書を添えずに掲載する予定だったのではないか
という推測には
尊氏的に、詳細を明かすには躊躇(ためら)われる事情があったから」
という理由を。

詞書に登場する女性は、直義の愛人でなければ誰なのか
という疑惑には
「彼女は、尊氏に関係する女性だった」
という推定を。

なぜ尊氏にとってこの歌が、そんなに大切だったのか
という問いには
落ち込んだ尊氏を慰めるための、直義からの優しさの歌だったから」
という愛を。



そうつまり―――
私はこう妄想してやまないのです


ある女性を京都に残してしまったのは尊氏だったのだと
そして、彼女が出家した事にショックを受けたのも尊氏だったのだと
その話を伝え聞いた直義
尊氏を慰めるために歌を送ったのだと
尊氏はこの時の直義の優しさが、ずっと忘れられないでいたのだと
それは、『観応の擾乱』という悲劇を越えた後でさえ
変わることのない「輝き」だった―――


 あの瞬間を、永遠の中に残したい


だがしかし!!
自分しか知らないはずのこんな私的和歌を勅撰集に撰出したら
尊氏の仕業だってばれてまう〜
というか、こんなプライベートを自ら天下大公開とか
俺もそこまでドMじゃねーし…
いや、周囲の目が気になったのではない!
直義がそれを許してくれるかどうか、尊氏には自信が無かったのだ―――

ならば、詞書を添えずにしれっと掲載しようと
策士将軍尊氏和歌友の二条為定と示し合わせて大胆な策に打って出た。
よし、これならどっから見ても、ただの憂き憂き出家和歌!


 やばい、俺 て・ん・さ・い

 (ゝω・) v イェイッ ☆☆



…と、ここで終われば良かった(?)のだが
どういう訳か一転して、最終的に詞書が掲載される事になった。
それはなぜかと言う事ですが―――


たぶん、最後に直義が許してくれたんじゃないかな。


私は、詞書を添えると方針転換した時期は
尊氏が世を去る直前、おそらく、遺言に近い形で
二条為定に意向が託されたのだと考えています。
『新千載和歌集』の最終的な完成は、この翌年の12月です。)

ただ…
やっぱりプライベート大公開には二の足を踏んだのか
主語目的語がうやむやな煮え切らない詞書にしてしまったら
直義愛人説とか生まれちゃうなんて…
天下の天才策士将軍尊氏大誤算てへ☆




室町名物☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍才将軍!




それでは、謎和歌の全容(?)が解明したところで
直義和歌最終意訳を完成させたいと思います。



建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける    左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき


(訳(妄想))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、(尊氏が)都に残し置いていた女が出家してしまった
という知らせを聞いて、(尊氏に)歌を詠んで遣わせた

あの方が出家してしまって、兄上が落ち込んでいると聞きました
旅を終えて再会を喜べるはずだったのに、また涙に袖を濡らすことになるなんて…
お痛み、お察しいたします。

直義より




この和歌で直義が
出家した(=墨染の衣に着替えた)」ことを表すために
袖の色が変わった」という、恋心を連想させるような表現を使ったのは
この女性尊氏との関係が、背景にあった為ではないかと思います。

つまりこれは「 "尊氏にとっての" 恋の歌 」であり
詠者である直義にとっての恋の歌ではなかったから
「恋」の部ではなく、「雑」の部に収められた
ってのもあるんじゃないかな〜 とか思います。


(あるいは、もう一つの可能性として…
 もともと初めから詞書も添える予定だったのだが
 しかしその場合、不要な誤解を防ぐ必要があるので
 詞書に登場する「女」ってゆうのは
 別に直義と恋仲にある訳じゃないよ!つまりこれは恋歌じゃないんよ!
 …という事を強調するために
 「雑」の部出家遁世エリアピンポイント墨染で念押しした
 ってパターンも考えられるかも知れません。
 でも結局誤解されますた。(´・ω・`) )




それでは、残る最後の疑問
「この出家してしまった女性とは、尊氏の愛人なのか?」
についてですが…
私は違うと思っています。

というのも
尊氏は(少なくとも)足利家の当主となる事が確定した以降は
かなり身持ちが固かったと思うので。
ならば、このただならぬ関係の女性は一体…??
となる訳ですが
実は私は…
もしかしてもしかしたとしてもしかするならばこれは―――
尊氏の知られざる側室「さぬ」なんじゃないかと
一人疑っております。

「それ以外に思い当たる女性がいない」ってだけで
証明してくれるものは何もありませんが
それでも、もしそうだったとしたらさぬは…

建武政権期に尊氏京都に呼ばれて
『中先代の乱』という非常事態に際しては、そのまま京都の安全な場所に留まり
しかし『建武一年合戦』で尊氏たちが九州に落ちて行った時は
流石に悲観して出家を決意し
でも、幸運にも尊氏たちが生還したので
完全にはにまではならなかったのだが、隠居に近い生活を送る事になって
だから、不思議なほど当時の記録に気配を見せず
尊氏の護持僧・三宝院賢俊による日常的な修法も行われていなくて
でもその子供たちは、尊氏のもとで大切に育てられていて―――


…と、色々と都合が良いように妄想解釈出来てしまって
どうにも止まりません。


先日の記事「足利さぬ …のこと(その3)」(2017.6.23)の最後で
「私の秘蔵(?)のさぬネタ」と言ったのは、この事だったのですが
蓋を開けてみたら、妄想の上に盛った妄想
ミラクルチョコレートトリプルプリンいちごチェリーサンデー抹茶ケーキ乗せホイップ増量キャラメルシロップはちみつパフェ
みたいな事になっててすみません。



夏の☆*☆。☆* c(・∀・っ)ミ 。☆*☆。☆珍パフェ



という訳で、「直義の謎のスクープ和歌」について
長らく内に秘めていた思いを語り尽くしてみました。

大胆にも、半ば妄想の冒険解釈を披露してしまいましたが
どうしてここまで冒険する気になったかというと…
確信が持てないものさえも含めて
尊氏が残した想いの一つ一つを、残らず拾い集めたいと思っているからです。


 尊氏を本気で知りたいと思ったら、冒険するしかない


…とか、どんだけ厄介な歴史的人物なんでしょうか。
でもそれだけ、どうしようもなく魅力的なのです。


ただ、たった一首の和歌ですらこれだけ時間がかかってしまう私には
尊氏さんの全容解明なんて…
マジ無理、考えただけで刻(とき)が見えます ><

『新千載和歌集』どころか、人生そのものに隠し扉仕込みまくってますからね、この将軍。
壮大な大規模プロジェクトを組んで欲しいです。
きっと日本の未来に…いや人類の未来に、多大な恩恵があると思います。



posted by 本サイト管理人 at 08:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)