2017年06月13日

尊氏さんの命日(その1)

こんばんは、2か月半ぶりの更新となってしまいました。
「見てくれる人いるのかな…」とつぶやく弱気な心を振り払い
尊氏さんへの追悼を捧げようと思い立ちました。

まあ、3月頃さんざん「直義の命日」を語り尽くしておいて
尊氏さんスルーするなんて無いですからね。

(直義の命日についての関連記事は、こちらにまとめてあります↓
 「直義の時間、夜明け前」(2017.3.20))



尊氏さんの薨去に関する史料は
『大日本史料』延文3年4月30日にまとめられていますが
延文3年(1358)4月15日頃から癰瘡(ようそう。腫物)を患い
それが日に日に悪化して
4月30日の暁天(夜明け)に亡くなられたそうです。
時刻については、亥or子の刻(22時 or 0時前後。つまり夜中)と記すものもありますが
おそらく、夜半から容態が悪化して
明け方に息を引き取ったのではないかと思います。

(「暁天」は『五壇法記』、「亥or子」は『愚管記』の記述。
 『太平記』には「寅刻」(午前4時前後)とあります。)


癰瘡については、『太平記』のみが
「背」に出来たものと記していますが、事実なのでしょう。
享年、数え54歳。
直義に遅れること6年。
最愛の人を失って過ごした日々が
ここにようやく、幕を下ろしたのでした。




ところで、尊氏が病を患ったという記録は
晩年では、文和2年(1353)(※他界の5年前)に集中していて
この時はかなり大変な事態までいったようですが
幸いにも回復し、その後は特に深刻な病を繰り返していた風でもないのですよね。

もちろん、身体的にはもう無理は利かない年齢だったでしょうし
精神的にも弱ってしまう事は多かったでしょうが
しかし、癰瘡を患い始めてからたった半月で…
というのは
当時の人々からしたら、かなり思いもよらないというか
心の準備をする間もないくらい、唐突な出来事だったのではないかなぁ…
と、私は思っているのですが。
だとしたら、将軍尊氏を失った人々の悲しみはひとしおだった事でしょう。
うう… (´;ω;`)


ただ、尊氏自身は、心の準備は出来ていたようです。
義理の御父である、足利秀政(足利大和守秀政)なる人物に宛てて
他界の3日前の4月27日付で、遺言をしたためているので。
(『南北朝遺文 中国四国編』第3巻 2969)

おそらく、自分の死期を悟って
尊氏亡き後の幕府の事、天下の事
あらゆる後事を、抜かりなく、残る者たちに託したのでしょう。

(この時、最も多くを託されたのはおそらく…足利高経(斯波高経)です。
 尊氏が高経に託しただろう後事が
 管領制誕生の隠された真相だと、私は考えています。)




ちなみに、この足利秀政、非常ぉーーーに気になる人物ですが
彼はもともと "平姓" であり、日向秀政と言ったのですが
尊氏との契約により "源姓" に改めたのです。
しかも、時の源姓の頂点、トップオブ源氏の「足利」に!!

もっと言うと、「足利大和守秀政」の「大和守」(やまとのかみ)も
尊氏から名乗るように言われたものなのですが
その理由は、「大和」が「日本の惣名」だから。
そしてこの時同時に、足利の二つ引両紋も賜りました。

どんなスペシャルな人物だよ!! って感じですが
足利秀政は、尊氏の軍事の師範であると同時に
その娘の「さぬ」が尊氏に嫁いでいるのです。
(尊氏が足利秀政を「御父」と呼んでいるのは
 娘をもらい、彼の猶子となる事を望んだためです。)


…って、「さぬ」って誰だよ!!!



私はこの辺の話を
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
で初めて知ったのですが
そりゃあもう、驚いたのなんの。
ほとんど知られていない尊氏の室だし、平氏でありながら足利を名乗ったその父とか
ミステリー過ぎて、一見信じ難い話ですが
しかし、これは断言できます
確実に確実な史実ですよ。 なぜなら…

尊氏の生涯を探ると、このエピソードこそが
尊氏の生涯、その秘められた謎を裏付ける強力な証拠となってくれる
…というくらいの核心を突いた話で
色々と色々な事実に合致するのです。
『観応の擾乱』での尊氏の行動原理とか
実子の直冬(=直義の養子)に対する複雑な言動などにも関連してきます。


尊氏が自分の意志で娶(めと)った室、というと
尊氏ファンにはちょっと気が気じゃない存在かも知れませんが
(え、そんなんでドキドキしてるのは私だけですか…?)
尊氏さんには、深く思う所があったのです。
足利家のためにも、天下のためにも、そして、直義のためにも―――



さて、話が大幅にそれました。
尊氏さんの命日の話をしていたのでした。
仕切り直して「尊氏さんの命日(その2)」に続きます。



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尊氏さんの命日(その2)

こんばんは、「尊氏さんの命日(その1)」の続きです。

尊氏が他界したのは延文3年(1358)4月30日
これは旧暦ですが、新暦で生活している現代においても
「4月30日」という日付には、気持ちの上では意味があると思いますし
「正統な命日」というと、やはり毎年の旧暦4月30日に相当する新暦の日も外せないし
そして、延文3年当時と同じ季節を感じたいなら
現行の太陽暦であるグレゴリオ暦に換算した日が
毎年、地球に対する太陽の位置が同じになる日な訳で
そうすると、延文3年4月30日は
グレゴリオ暦では1358年6月15日となります。


という訳で、直義命日と同様に
「尊氏さんの命日候補」を列挙いたしますと…


毎年、新暦の4月30日 (気持ち的に)

毎年、その年の旧暦4月30日に相当する新暦の日 (正統派、かつ、月の満ち欠け的に)
(※今年は5月25日。)

毎年、新暦の6月15日 (延文3年当時の、太陽の位置的に)



となります。

ただ、注意事項として
旧暦4月30日という日は、毎年存在するとは限りません。
(旧暦では、30日まである月と、29日までしかない月が交互にくる。)
だから、旧暦が4月29日までしか無い年は…
どうすんのさ…とか思ってしまいますが
まあ、普通に考えても、月齢的に考えても
新月(旧暦5月1日)の前日ということで
毎年旧暦4月の最終日(30日 or 29日)が、尊氏さんの正統派命日でよいようです。



という訳で、新暦4月30日も、今年の旧暦4月30日に相当する新暦5月25日
もうとっくに過ぎてしまっていますが
季節的(太陽の位置的)尊氏さんの命日ということで
追悼の意を捧げたいと思います。

尊氏の最期の日は、ぎりぎり春という印象でしたが
わりと梅雨真っ盛りの、夏に近い季節だったんだなぁ…と。




ところで、季節的な尊氏の命日は6月15日なのに
なぜちょっと早目の今日に記事をUPしたのかと言いますと
どうも、今年は(6月15日でなくて)6月14日の方が
延文3年(1358)4月30日当時の太陽の位置に近いのですよね。
まあ、太陽の位置は1日で1度ほどしか違わないのだから
そんな細かい事どうでもいいっちゃどうでもいいのですが
気分的に、今年は14日の明け方が、あの当時と一番近い空になるかな〜と思って
前日の今日(13日)に、間に合わせてみました。


明け方と言えば、直義尊氏
どちらも、夜明け前〜明け方くらいの時間に天に召されているのですよね。
そう考えると、なんかまた色々妄想してしまう訳ですが。
尊氏直義を追いかけていたんだろうな…とか
直義尊氏を迎えに来たのだろうな…とか
ありふれた妄想ですみません。

でも、夜と朝が触れ合う頃
もうすぐ近づく尊氏さんの季節に
空に祈れば、何かが届くような気がしてしまいます。



どうしても諦められなくて、私は今も、岐路に立ったままです。
大袈裟かも知れないけれど
私にとって歴史研究とは、社会貢献でした。
歴史の中に眠る、実在した過去の理念理想感動が、人の心に広がれば
今や未来をより良く出来ると信じていました。
夢を…見過ぎていたのでしょうか。
やり方が自己流過ぎたのがいけなかったのでしょうか。
思いのほか早く、目を覚まさなければならない日がやって来てしまいました。
それでも―――
一年に一度のあなたの季節に、明日を信じて祈ります。




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2017年06月17日

足利さぬ …のこと(その1)

こんばんは、先日の記事「尊氏さんの命日(その1)」
謎の尊氏の室「さぬ」の事を紹介したら
私の中で俄かに、気になって気になって仕方ないモードが再燃してしまったので
もう少し話を続けたいと思います。


尊氏の室といえば、鎌倉幕府の御家人時代に鎌倉で婚姻した正室
北条一族出身の赤橋登子が有名ですが
しかしその後、新生幕府の初代将軍ともなったにもかかわらず
尊氏には側室に関する記録がまるで無い、というのも有名かと思います。

まあ、北条一族から正室を迎える前の青春時代では
竹若(庶子、長男)の母とか、直冬(庶子、次男)の母といった
非正嫡的な、一夜限り的な事はあった訳ですが
しかしこの時期は
まだ尊氏さん20代(場合によってはぎりぎり10代)ですし
政局とか大人の事情とかで正室が決まらず
悶々(もんもん)とした日々に耐えていた訳ですし
そのくらいのロマンスはいいじゃないか!!…と思います、はい。


(鎌倉時代の足利家の嫡男は、北条一族から正室を迎えるのが通例で
 それゆえ、北条一族の血を継いだ者が代々足利家当主となっていた訳だが
 家督を継ぐ予定だった尊氏の兄「高義」が21歳で他界してしまった事で
 (※この時、尊氏は元服前の13歳)
 高義の遺児はまだ幼いし
 次男尊氏の母は、上杉家の上杉清子だし
 足利家の家督どうすんのさ!!…という政治的な大人の事情が発生していた。
 最終的に、尊氏は赤橋登子を正室に迎え、家督の継承も決定したものの
 兄高義他界から少なくとも10年近く(最大12年ほど)
 立場の決まらぬ微妙な青春時代を過ごしていたのだった、マル。)


この辺の、尊氏の鎌倉時代の(しがない)身の上については
【清水克行『(人をあるく)足利尊氏と関東』(吉川弘文館)2013】
…の、p.20-30あたりをどうぞ。
この時代の尊氏に関しては、これで最終結論!ってとこまで達していると思います。



ちなみに、尊氏の第一子、竹若(たけわか)は
『元弘の変』(鎌倉幕府倒幕)に際し、戦乱の犠牲者として
元服前(10歳前後?)で早世する事になってしまう長男です。
その母は、足利一門の加古六郎基氏の娘
(当時、家督継承もあやしく立場の中途半端だった)尊氏の「最初の正室」
とも見られていますが
ただ、年代的に… うーん…?

加古六郎基氏って、足利頼氏の兄弟なので
基氏の娘と、足利頼氏のひ孫に当たる尊氏とじゃ、かなり世代が違うのですよね。
頼氏・基氏の兄弟の年齢が相当(20歳以上?)離れていて
(↑彼らは多兄弟で、基氏は末の男子なので有り得る)
基氏の娘も晩年(40〜50代くらい?)の子
…だと仮定すると
二人が同年代だったという事は十分に有り得るのですが
ただ可能性としては、尊氏よりも数歳は年上だったのではないかと。

それに加えて、足利家と加古家の家格差を考えると
やはり彼女は「尊氏の室」というより
身の回りの世話をする「家女房(侍女)」だったんじゃないかな〜
と思うのですが、そうすると…
身も固められぬ日々にもんもんが限界を突破した20歳そこそこの尊氏さんは
年上の彼女に抑えきれない魅力を感じて―――

…というとこまで想像してみた。




はい次、直冬(ただふゆ)の母についてです。
直冬の誕生秘話を伝えるのは『太平記』のみで、これは有名な逸話ですが
直冬は、その昔…
「尊氏がお忍びで一夜通いした越前局(えちぜんのつぼね)という女性が生んだ子」
だと。
直冬の生年は、嘉暦2年(1327)(尊氏23歳の時の子)との見解が最有力なので
尊氏22歳の時の 過ち ロマンスという事になります。


さて、この直冬の母について
なぜか現在では
「直冬の母は身分が低かった(だから直冬は尊氏に認知されなかった)」
と思われている事が多いような気がしますが
(極端な話、遊女だったとかいう説もある?)
でも、そんな事ないんじゃないかな〜 と思います。

というのも、彼女については
『太平記』では「越前局」(えちぜんのつぼね)あるいは「越前殿」
『足利系図』でも「越前局」と記されているのですが
この名称からして
素性がはっきりした結構な身分の女性だったと思われるので。
(ちなみに『尊卑分脈』では、直冬の母は「家女房」と書かれていますが
 まあこれは「正室ではない」程度の意味かと。)


しかも、足利家の御曹司が一目惚れ的な事をしてしまうくらいですから
かなり魅力的だった…というか、相当な美人だったのではないか
というのが私の予想なんですが。

ってことは、直冬は相当にかっこよかったのではないか!!

…というとこまで想像して
直冬ファンの私は昇天しました。


まあしかし、このような込み入った素性にも拘らず
後年の直冬が、目を見張る人望の厚さを示した事実からすると
ビジュアル的な素質の良さはあったように思います。
(というか、尊氏に(生き写しレベルで)そっくり… の疑い2000%。)






という訳で、尊氏の室については
若い時に(全然許せる範囲の)淡い話があるだけで
京都で将軍となってからは記録に残る側室はいない
というのがほぼ定説となっているかと思います。
(綺麗な将軍!!)


…なので、尊氏の子供たちについては
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
で、詳しく論じられていて全貌が明らかになっていますが
わりと子供が多いわりに、側室の記録がなく
え、(竹若と直冬以外)全部赤橋登子が生んだの??
という疑問があった訳ですが
ここへ来て…「足利さぬ」ですよ!!



といっても、さぬはあくまで特別な事情があって迎えた室なので
やっぱり尊氏さんは、自制心の強い綺麗な将軍だと思います!!



…と、持ち上げておいて何ですが
女の子は普通に好きそうなので
身持ちを堅くしていたのはたぶん
「他犯戒を持して」(by『太平記』)正室以外一切目もくれなかった弟直義にならった
というか、直義に嫌われたくなかったのが本音
だったに違いない!!

…というとこまで想像して悶(もだ)えました。




という訳で、全然さぬの話が出来なかったので
次回「足利さぬ …のこと(その2)」に続きます。




(ちなみに、直義には愛人がいた!とかいうスクープの元となっている
 有名な魅惑の(?)和歌がありますが
 あの歌の真相は… 後ほど解説したいと思います。)


(それから、尊氏さんがあちこち女色にふけらず
 特に将軍となって以降、決して無節操に側室を持たなかったのは
 本当は、真面目な理由がありますので
 (自分でネタにしておいて何ですが)
 頑張った(我慢した?)尊氏さんは、もっとみんなに讃えられていいと思います!)



posted by 本サイト管理人 at 20:10| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月18日

足利さぬ …のこと(その2)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その1)」の続きです。

ところで、タイトルについてなんですが
当時の社会では、結婚しても女性は家名を変えませんので
夫婦は別姓です。
(例えば、赤橋家出身の赤橋登子は、生涯赤橋登子です。)

しかしさぬの場合は、父が日向秀政から足利秀政に改名したので
娘のさぬも「足利さぬ」となったと思われます。
…ってことはですよ
尊氏とさぬは「夫婦で足利」だったのですよ!
一族や血縁者同士の婚姻じゃないのに!

まあ、だから何だという話ですが。
そもそも、当時の女性のフルネームが意識される事って
ほとんどなかったような気がしますが
しかしそれでも、敢えて言うと「さぬ」「足利さぬ」なんですよ!
もう、気になって気になってしょうがない…



ではまず、そんな尊氏の謎の室「さぬ」に言及した文献を再掲しますと…
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
の、p.189-190 の日録と、p.197の系図で
主な出典は『萩藩閥閲録』という史料です。

ちなみに、尊氏の室については他にも謎情報があって
二階堂氏の系図で、二階堂時綱の娘の注記に「尊氏妻」とあるそうですが
これは "たかうじ" は "たかうじ" でも
「佐々木 "高氏" の妻」の間違いですね。(※佐々木高氏=佐々木道誉)

鎌倉幕府御家人時代、尊氏の最初の諱は「高氏」だったので
それで後世の誰かが勘違いしてしまったのでしょう。

(倒幕後、建武新政権が始まって間もない元弘3年(1333)8月5日に
 後醍醐天皇から偏諱「尊」を賜って「尊氏」に改名しました。)



―――ちょっと余談―――

鎌倉幕府倒幕では、後醍醐天皇に従い大活躍した人物はたくさんいて
みんなそれぞれ恩賞にもあずかっている訳ですが
とはいえ、尊氏が後醍醐天皇の諱「尊治」(たかはる)から偏諱「尊」を賜った
…というのは、ミラクルスペシャルなのはもちろんですが
かなりイレギュラーな恩賞だったと思うのですが。

もともと(近臣の讒言さえなければ)極めて良好だった後醍醐天皇と尊氏の関係や
後醍醐天皇を慕い続けた尊氏の心中から思うに
後醍醐天皇が偏諱「尊」を授けた経緯って…

「あれ、高氏って尊氏にしても "たかうじ" じゃん?
 読み変わらないじゃん? ワロスwwwww
 じゃあ尊氏にしちゃえばいいじゃん? 問題なくね?www」

くらいの、ギャグに近いノリだったのではないかと…。
だとしたら―――
決裂後も生涯「尊氏」の名を名乗り続けた尊氏の気持ちはどんなものだったろう…
帝と笑い合った思い出… (´;ω;`)

ついでに言うと、「尊氏」って良い名前ですよねぇ〜
「足利高氏」「足利尊氏」とでは
なんかラグジュアリーさが雲泥の差、スペックが圧倒的に違う!!
すべては後醍醐天皇の御恩のお陰… (´;ω;`)

―――感想文おわり―――





さて、『萩藩閥閲録』とは
江戸時代に、萩藩が諸家に伝わる古文書家の系譜を集めて編纂した史料で
ここに、足利秀政の子孫(※秀政の3代後から家名を「大和」に変更)が所蔵していた
複数の書状の写しと代々の系譜が掲載されています。
そのうち、足利秀政尊氏から送られた書状の写しが4通
これが大変興味深い訳ですが
順不同で並んでいるので、それを内容から年代順に並べ替える必要があります。
以下に、書状の概略だけ紹介しますと…


【1】尊氏から足利秀政への遺言状
(先日紹介したもの。詳しくは…【『南北朝遺文 中国四国編』第3巻 2969】)
 日付:延文3年(1358)4月27日
 宛所:御父足利大和守殿


【2】いつもさぬに言ってるんだけどー
 秀政の猶子になりたい!(その証に)太刀を二振りちょうだい!
 (その後はちょっと意味が取りにくいのですが…)
 両家の安泰や繁栄への願いと、さぬの上洛が滞りなく進んだ事などについての書状
 (「おなじくは治世を給う可く候」とか「子孫の事〜」とか
  なにかと意味深な内容です。)
 日付:(年不詳)2月1日
 宛所:やまととのへ(大和殿=足利秀政)


【3】秀政の名字を「足利大和守」にすべきことと
 幕紋の沙汰(足利二つ引両紋の下賜)についての書状
 日付:(年不詳)8月16日
 宛所:日向殿(日向秀政=のちの足利秀政)


【4】東海道の先陣を務め、殊に関東で忠節比類ない戦いを見せた足利秀政への
 尊氏からの戦功を讃える感状
 (「大菩薩の記文に任せ、当家の子孫が朽ちることはないだろう」
  …という気になる文言も。両家について、八幡大菩薩に何を誓ったのか…?)
 日付:建武3年(1336)12月13日(←『竹之下・箱根の合戦』の最終日)
 宛所:御父大和守殿



さて、これらを年代順に並べ替えますと…
まず【1】は尊氏薨去の3日前なので、間違いなく4番目(最後)です。
そして【3】以外は宛所が改名後の「大和(守)」となっているので、【3】が1番目
【2】の時点では、まだ尊氏は秀政の猶子ではないので
【2】→【4】(=宛所が「御父」)の順番
ということで…

【3】(年不詳)8月16日
【2】(年不詳)2月1日
【4】建武3年(1336)12月13日
【1】延文3年(1358)4月27日


となる訳ですが
【3】は署名が「尊氏」となっているので
(それを信じれば)元弘3年(1333)8月5日以降
そして【2】では、尊氏は京都に在住しているようなので
(『中先代の乱』で直義救助に向かう)建武2年(1335)8月2日以前
…以上を踏まえると
年不詳の2つの書状は
【3】が元弘3年(1333)or 建武元年(1334)の8月16日
【2】が建武元年(1334)or 建武2年(1335)の2月1日

と推定される訳ですが
ただ、両家の意味深な関係、秀政を「契約」によって足利姓とし
さらには猶子になる事まで望んだ尊氏の真意を思うと
おそらくこれらの行為は、倒幕という宿命的な時代の変動に起因するものであった思われ
そうすると、尊氏は新政権が始まって日を置かずに行動に出たと考えるのが妥当…
という事で

【3】は、元弘3年(1333)8月16日
【2】は、建武元年(1334)2月1日


と考えて問題ないのではないかと思います。



(どちらにしても)さぬが尊氏に嫁いだのは
まだ室町幕府開始以前の、建武政権時代の事だったと推定されます。

(あるいは、側室として迎えるくらいなら、北条一族に憚りなく出来たとしたら
 もっと以前、鎌倉時代中の可能性も無きにしも非ずですが
 それでも、時代の変動を感じ始めた『元弘の変』開始(元弘元年(1331))よりも後
 父の足利貞氏が他界(元弘元年(1331)9月5日)して
 百箇日が過ぎた後の事だったのでは…?
 と、想像しています。)



建武新政権が始まり、尊氏が鎌倉に帰る事なくそのまま在京となった時点で
さぬは… おそらくは鎌倉にいたのだと思いますが
尊氏が、さぬを京都に呼んだと。

ここ、わりとポイントなので覚えておいて下さい。


(ちなみに、足利秀政の家系
 秀政の先代から「日向」を名乗っているし
 子孫は萩藩に仕えているし、もとはと言えば平氏だし
 西国に地盤のある一族かなぁ…とも思ったのですが
 ただ、秀政の先代の日向義高
 「足利式部少輔義直より軍倍を伝授」されたとあるので
 (足利義直が誰かは謎。『尊卑分脈』では見当たらず…
  うーん、吉良あたり?)

 既に鎌倉時代から、足利家とは関係を持っていたようだ
 …という事で、さぬは鎌倉から京都に上ったのだと推定しました。)




さて、書状の年代と、さぬとのだいたいの婚姻時期が判明したところで
次回「足利さぬ …のこと(その3)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:07| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月23日

足利さぬ …のこと(その3)

こんばんは、「足利さぬ …のこと(その2)」の続きです。

さて、さぬの父、足利秀政の改名(日向→足利)の、いわく有り気さから考えても
(八幡大菩薩に誓ったらしい)両家のただならぬ関係から考えても
尊氏にとって、さぬとの婚姻は隠された深い意味がありそうだ…
というのは想像に難くない訳ですが
そうすると、さぬはかなり特別な側室…というか
「準正室」くらいの存在だったのではないかと思えてしまうのですが
にも拘らず…
どうにも、当時の記録上ではさぬの気配が全くしないのですよねぇ…


以前『Muromachi通り』「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
尊氏の腹心の僧、三宝院賢俊の日記『賢俊僧正日記』の中の
尊氏の家族「衰日と年齢」についての記述を3つほど紹介しましたが
これらには、さぬらしき女性の記述は全く見られない…
という事は
(賢俊による)さぬの日常的な修法は行われていなかったし
とりあえず尊氏邸には同居していなかったっぽい
というのは間違いないようです。



ただ、賢俊の日記にはちょっと気にかかる部分もあって
まず、暦応5年(1342)2月の記述を再掲いたしますと…


二月  御衰日
 将軍(尊氏)卅八卯酉  三条殿(直義)卅六丑未
 大方殿(上杉清子)七十三卯酉
 御台(赤橋登子)卅七丑未  三御台(直義室)卅六丑未
 鎌倉若君(義詮) 若君(聖王)四辰戌  三若君(基氏)三子午

 姫君  一ヽ姫君 六丑未

(※「三御台」「三若君」の「三」は、三条殿=直義のことです。
 三若君(=基氏)は尊氏の実子ですが、直義が養子として養っていました。)



この記述の「並び順」に関する特徴は
尊氏 → 直義 → 尊氏室 → 直義室 → 尊氏子(義詮・聖王)→ 直義子(基氏)
となっている事といえますが
ただ、男子まではいいのですが、女子(二人の姫君)についてが謎な訳で…

最下段の最初の「姫君」とは
この頃生まれたばかりの、赤橋登子の娘の「鶴王」と考えられるのですが
そうすると、(年上にも拘らず)6歳になる姫君がその後に書かれている
…というのが、どうにも疑問な訳でして。
うーん、ぱっと思い付くのは
この姫君が、赤橋登子の所生ではないからなのではないか…?
という可能性な訳ですが…。


でも「一ヽ姫君」の「一ヽ」の意味が分からない…
「三」じゃないから三条殿(=直義)の養女という訳でもないし
(※直義は、この翌年に生まれた尊氏の娘を養女にもらいます)
そもそも、この姫君は建武4年(1337)生まれ
記録に残る尊氏の娘としては、最初の女の子(長女)なので
赤橋登子が産んだ子だったとしたら、どこかに養子に出すとは考えにくい…
というか、「鶴王」がとても大切に育てられた様子からすると
やはり、この頃生まれた「鶴王」こそ、赤橋登子の最初の女の子であって
この6歳の姫君は、どう考えても母が違う…
まあつまりはっきり言って
さぬが生んだ姫君なのではないか…!!
と思ってしまった訳ですが。

つまり、二人の姫君の記述は
正室赤橋登子の姫君」「さぬの姫君」
と、正嫡の順番になっている、と。




それからもう一つ
賢俊の日記の貞和2年(1346)の記述(2か所)についてですが
赤橋登子の姫君に関して…


正月4日  上台 44 辰戌  同姫

10月13日  上台 44 辰戌  同姫


(※上台=赤橋登子。年齢の「44」は実際は漢数字です。)


と、どちらも赤橋登子に姫君が一人だけいるように書かれていて
この子は、この年に5〜6歳になる「鶴王」の事だと考えて間違いない訳ですが
しかし…
実はこの頃、尊氏にはもう一人姫君がいて
でもその子は、この年の7月7日に3歳で夭折してしまいます。

もしこの姫君も、赤橋登子の所生だったとしたら
正月4日の記述の方は
上台 44 辰戌  同姫 同姫
と書かれているはずなのに、なぜか一人分…

私は以前、上記の記事「直義の年齢(その1)」(2015.10.31)で
この正月4日の「同姫」とは
「鶴王」「3歳の姫君」をまとめて記したものだろうと考えたのですが
よく考えたら、それはちょっと不自然かなぁ…と。

という訳で、つまり何が言いたいかというと
この年に夭折した3歳の姫君
赤橋登子の子ではない…ってゆうか、さぬが生んだ子なのではないか!
とこれまた思う訳です、はい。




妄想が☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆妄想を呼ぶ




と、こんな感じで妄想をたくましくすると
当時の記録上では、これまで影も形も見えなかったさぬの存在
なんか、見えて来た…かも…??

まあしかし
それでも「賢俊による修法が行われていなかったっぽい」というのは
やっぱり気にかかるし
この二人の姫君も、生年的には、赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないので
私は、考えらる可能性として
もしかしてさぬは… わりと早い時期に亡くなってしまっていたのではないか!?
という、(´;ω;`)な事態も考えてみたのですが…


しかし、ここにその可能性を打ち消してくれるかも知れない
気になる史料が一つありまして―――


【小松茂美『足利尊氏文書の研究 V解説篇』(旺文社)1997】
の、p.210-213 の解説の中で登場する書状なのですが…


これは、建武4年(1337)7月25日に発給された「足利尊氏寄附状」に関連して
その43年後の康暦2年(1380)6月3日に発給された文書で
(詳しい解説は、まるで省かせてもらいますが)
この文書を自筆でしたためたのが「平氏女」(へいしのめ)という女性で
その内容から、彼女は
「足利家一門の高貴な女性」(※上記文献より引用)
と考えられ
この文書が伝えられた多田院では、その伝来の途次でいつしか
この「平氏女」は、尊氏の正室の赤橋登子に擬定されて来たそうです。

室町時代初期の、地位の高い平氏の女性…といったら
北条一族の赤橋登子しかいないから、そう考えられて来たのも当然だと思いますが
しかし!!
既に貞治4年(1365)5月4日に60歳で没している赤橋登子が
康暦2年(1380)にしたためられた書状の発給者である訳がない…
つまり、この「平氏女」が誰なのか謎…
上記文献では
「しかしながら、それ(=赤橋登子)に代わるたれなのか、いま追及の手がかりがない。」
(※原文より引用。カッコ内は私による註。)

とされています。


…はい、という訳で
私はこの解説を読んだ時
「え、それって「さぬ」なんじゃないの!?」
と思ってしまった訳であります。

もしこの(かなり適当な)思い付きが正鵠を射ていたとしたら
さぬはわりと長生きしたって事になるので(※この時点で、尊氏没後22年)
ひと安心!…と言いたいとこですが
うーん、どうだろう…

というか、父の秀政が足利に改姓したのに
その後もさぬは「平氏女」と署名していたってことは…
え、つまりさぬは「足利さぬ」って自覚してた訳じゃないの??
それ(名字)とこれ(血筋)は別問題なの??
…いやそもそも
この「平氏女」をさぬと推定するのは、裏付けが無さ過ぎるので
これ以上、妄想に妄想を重ねても仕方ない訳で
赤橋登子の姉妹でもいたのかな〜
と考えるのが、現実的なところでしょうか。

まあ一応、私の勝手な「さぬ妄想」という事で語ってみました。




以上、尊氏の謎の室「さぬ」について
今のところ語れる事を、大略語り尽くしてみました。
まあつまり結論は… です。
だから妄想の余地∞無限大です。 やったね!

なので、もう少しだけ「さぬ」で引っ張りたいと存じますので
次回「尊氏さんの子供たち」をちょっとだけ解説したあと
満を持して
私の秘蔵(?)のさぬネタを披露したいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 22:14| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月25日

尊氏さんの子供たち

こんにちは、前回「足利さぬ …のこと(その3)」であれこれ話題に挙げたので
「尊氏さんの子供たち」について
ここで簡単にまとめておきたいと思います。

尊氏さんは、正室の赤橋登子以外に、明確な側室の記録がないのもあって
子供もそんなに多くない印象がありますが
実は、わりといるのですよね。 ただ…
幼くして亡くなってしまった子が非常に多いのです (´;ω;`) うぅ…



◇◇◇「尊氏の子」◇◇◇

竹若(たけわか)
 ? 〜 正慶2年=元弘3年(1333)5月8日 10歳前後くらい?
 尊氏長子、母は加古六郎基氏の娘

直冬(ただふゆ)  長門探題、のち鎮西探題
 嘉暦2年(1327)? 〜 応永7年(1400)3月? 74歳 慈恩寺玉渓谷道昭
 母は越前局(えちぜんのつぼね)、幼名新熊野殿、直義猶子

義詮(よしあきら) 2代目将軍
 元徳2年(1330)6月18日 〜 貞和6年(1367)12月7日 38歳 宝篋院殿道惟瑞山
 母は赤橋登子(北条久時の娘)、幼名千寿王

男子
 ? 〜 建武元年(1334)7月16日  生後まもなく?

女子
 建武4年(1337)〜 康永元年(1342)10月2日 6歳

聖王(しょうおう)
 暦応2年(1339)〜 康永4年(1345)8月1日 7歳

基氏(もとうじ) 初代鎌倉公方
 暦応3年(1340)〜 貞治6年(1367)4月26日 28歳 瑞泉寺殿玉巌道マ
 母は赤橋登子、幼名光王、直義猶子

鶴王(たづおう)(女子)
 暦応4〜5年(1341〜1342)? 〜 文和2年(1353)11月9日 12〜13歳?
 母は赤橋登子、卒後2年の三回忌の頃「頼子」と命名

女子
 康永2年(1343)〜 貞和3年(1347)10月14日 5歳
 直義養女、法名了清(りょうせい)

女子
 康永3年(1344)〜 貞和2年(1346)7月7日 3歳

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(※生没年月日の後ろの年齢は、享年です。)





「尊氏の子供達」を詳述したのは
もう何度も紹介していますが
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
この文献の p.1-9 を御覧ください。
ただ、義詮のすぐ下の男子(建武元年(1334)7月16日卒)については
【小松茂美『足利尊氏文書の研究 W日録・資料篇』(旺文社)1997】
の、p.197の系図で知りました。
(※原典は『常楽記』です。)




さて、上記の10人の内
成人したのは、直冬義詮基氏の3人だけ… (´;ω;`)
といっても、長生き出来たのは直冬ただ一人ですよ。
夭折してしまう子が多かったので
尊氏さんのもとには、常時1〜3人の子供がいた程度です。
(※義詮は、成人するまでずっと鎌倉です。)

一方、上記の子供たちの内
直冬基氏(光王)、女子(了清)の3人は、直義の養子(猶子)となっていて
さらに直義には、貞和3年(1347)6月8日に実子「如意王」が生まれますので
一時期ですが、直義は最大4人の子供に囲まれていた時代がある、ってゆう。

つまり…
尊氏は子供に恵まれたのに、弟の直義にはいつまでも実子が出来なかった」
(※如意王が生まれたのは直義41歳の時。ほぼ奇蹟。)

という対照的な二人ですが
実際の家庭的には、子供のにぎやかさはほとんど同じだったのです。
なにそれ、ほのぼの!


尊氏と直義は、将軍の地位を半分こしたようなものですが
実は、子供も半分こしてたってゆう。
ついでにいうと、運命そのものも半分こ。
源八幡太郎義家の転生(魂…ってか体?)も半分こ。
どんだけ仲良いんだよ!!


今もどこかで、チョコレート半分こしたりしているのでしょうか。
スタバ行ったら、ラテフラペドーナツスコーン
全部きっちり半分こしているんでしょうか…
まあいいか、そんな妄想は。




さて、尊氏の子については
今回ちょっと保留してしまったのですが…
もう一人、「英仲法俊」という禅僧がいるそうです。
(※詳しくは、上記1つ目の文献 p.7-8 を御覧ください。)

『日本洞上聯燈録』(※曹洞宗の僧の伝記を集成したもの。江戸時代成立。)によると
暦応3年(1340)5月21日に生まれた彼は
幼い頃より仏書を好んだので、父(尊氏)が禅宗の道を歩ませ
やがて永徳2年(1382)に3代目将軍足利義満が創建した丹波国「円通寺」の開山となり
応永23年(1416)2月26日に77歳で示寂したそうです。
生年が、赤橋登子の男子、基氏(光王)と同じなので
母は別人ということになります。

…という事は、彼こそさぬが産んだ子なのではないか!?
と思いたいところなのですが
しかし、英仲法俊の母は――― 彼が7歳の時に亡くなってしまっているそうなのです。

貞和2年(1346)というと
京都での尊氏直義時代の真っ盛り、って時代です。
やっぱりさぬは、かなり早い時期に他界… と一瞬考えてしまいますが
うーん、しかし
足利秀政(さぬの父)への書状で
尊氏が、両家の子孫の繁栄を妙に気にかけていた様子からすると
子供を幼少期から出家させるだろうか…?

とすると、彼の母は第三者の可能性が高くなりますが
そうすると、え、尊氏さんどういうことなの??
とかいう疑問がめくるめく沸いて来てしまうので
まあ、この件は深く考えないでおきたいと思います、はい。





さて、話を元に戻しますと
上記の10人の尊氏の子の内
竹若直冬については、正室赤橋登子の子ではない事がはっきりしていますが
では…
「それ以外の8人は、全員赤橋登子が産んだのか?」
という疑問が、謎としてが存在します。
そうだ、という意見も、いやどうだろう…という見解もあるようですが
ただ、史料的に、明確に赤橋登子の子だと判明しているのは
義詮基氏鶴王の3人だけ
だったりします。
生年的には、全員赤橋登子が産んだとしても何ら不都合はないのですが
でもそうすると、かなり連年で出産していて、なかなかすごい事にはなります。


という訳で、残りの5人をそれぞれ見ていきますと…
まず、直義の養女となった女子(了清)
やはり嫡出(=母が正室赤橋登子)の可能性が高いと思います。
その他の女子については
最初の女子(建武4年(1337)生まれ、享年6歳)
最後の女子(康永3年(1344)生まれ、享年3歳)
前回のブログ記事で、「母がさぬっぽい?」と考察した2人の姫君です。
まあ、確証はありませんが
でももし、最初の女子(享年6歳)が赤橋登子の長女だったとしたら
直義のところに養女に出されていたのは
次女となる鶴王だったのではないかな、順番的に
と思います。


次に、男子で幼名が判明している聖王についてですが
結論から言うと、彼も嫡出ではないのではないかなぁ…と思います。
というのも、聖王は、基氏(光王)の1年前に生まれたですが
直義に養子に出されたのは、弟の基氏(光王)なので。
(※基氏(光王)の母は、確実に正室赤橋登子です。)

この時代は、直義が幕政を主導していたので
その直義の後継ぎとなると、相当な地位を約束されることになります。
例えばもし、聖王も赤橋登子が産んだ子だと仮定した場合
この当時は、赤橋登子の長男義詮が "鎌倉の主君" として遠く関東に在住していたので
「自分の子(男子)を一人は手元に置いておきたい…と望んだから
 弟の基氏(光王)が養子に出されることとなった」
…とも考えられなくもありませんが
しかし、嫡男義詮の弟として手元に置いておくより
当時の幕政主導者、直義の養子とした方が
将来の立場が圧倒的に高くなるのは(少なくとも当時の時点では)目に見えていた訳で
我が子を思えばこそ、普通はを養子に出すのではないかと。
(聖王が成人まで生きたとしたら
 立場が 弟基氏(光王)>兄聖王 となりかねない…。)



なので、聖王も母が違う…?と思った次第でありますが
ただ、千寿王(義詮)や光王(基氏)と同じ、尊い感じ(?)の幼名からしても
また、亡くなった時の朝廷(北朝)の対応からしても
(↑天下触穢とするか、とか、雑訴や文殿沙汰の停止とか)
母が違くても、子供たちはみな尊氏のもとで大事に育てられていたようです。



あと最後に、義詮のすぐ下の男子ですが
この子は、『常楽記』 建武元年(1334)7月16日条で(←建武新政権時代です)
「足利殿御子息他界」と記されているだけで、生年は不明ですが
おそらく、生後まもなくだったのではないかなぁ…と思います。

というか、この前年元弘3年(1333)の鎌倉幕府倒幕に際しては
当時、鎌倉にいた尊氏の嫡男、当時4歳の千寿王(義詮)は
家臣の手で密かに鎌倉の館から脱出し
また、尊氏長男の竹若
この頃、母方の伯父のいる伊豆の走湯山権現にいたのですが
上洛を試みた途次、北条方の者に見つかって討たれてしまう
…という、激しい出来事があったので
出来ればこの子は
世の中が一旦静まった建武新政権開始以降に、京都で生まれていて欲しい…
とかいう、私の願望で
そう思ってみました。

しかしそうすると、この男子の母は…
個人的にはさぬも有り得る…と思っていますが
まあ、赤橋登子の可能性が高いでしょうか?




以上、生母についてまとめると…


竹若 … 加古六郎基氏の娘
直冬 … 越前局

義詮(千寿王)… 赤橋登子
男子(赤橋登子?)
女子さぬ?
聖王さぬ?
基氏(光王)… 赤橋登子
鶴王赤橋登子
女子(法名、了清)… 赤橋登子?
女子さぬ?


竹若と直冬以外の8人中
正室赤橋登子の所生と思われるのが4〜5人
別の母(さぬ?)と思われるのが3人
といった結果となりました。

これなら、赤橋登子的にも、わりと現実的かと思います。うん。




という訳で、今日は「尊氏さんの子供たち」について
思う存分突っ込んだ話を展開してみました。

本日の要旨は「半分くらいは、さぬが産んだ子っぽい」という結論ですが
まあ、なんだかんだ言って一番言いたかったのは
尊氏直義は、子供を半分こしたのだよ!!」
これに尽きますね、ええ。


それでは、さぬの事を語り尽くしたところで
次回、直義のあの和歌の話をしたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 17:18| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月27日

直義のスクープ和歌は謎(その1)

こんばんは、今日は
ずーっと話したかった、直義のあのスクープ和歌について
語り始めたいと思います。


直義と言えば、もう毎回しつこく解説していますが
清廉潔白謹厳実直誠実謙虚頭脳明晰
政治に私曲を一切挟まず
首尾一貫して「道理」に基づく言動は、いつでも果てしなく高潔
でも単に真面目なだけの堅物(かたぶつ)ではなく
人との交流が大好きで
人への思いやりに溢れていて
愛する者への情熱は誰よりも深く
新しいものをどんどん取り入れる好奇心とか
道理に適うとあれば、古いしきたりに囚われることなく自由な発想が出来る柔軟性とか
輝く理想の未来を信じて、不可能すら可能にしようとする信念とか
そんな果てのない夢を全力で追い続ける、どこまでも透き通った純粋な心とか

ああもうどこをとっても、史上最高の…!!☆※@!!☆?っっ!!


…ってまあ、褒め出すと切りがないのでこの辺にしておきますが
その他、直義の特徴としましては
和歌や連歌などを見るに、とても機知に富んでいる…というか
ユーモアのセンスも存分にあったようです。
まあ、頭の良い人って大抵、ギャグとかネタの引き出し多いですからね。

直義は、いつでもキリッと常時クール、というイメージが強いかも知れませんが
実際は、よく笑うとても明るい人だったようです。


ま、敢えて欠点を言えば…
人懐っこ過ぎて、警戒心が無さ過ぎる、とか
人を信じ過ぎて、疑う事を知らない、とか

そんな危なっかしい直義を、裏でフォローする尊氏の気持ちにもなって下さいよ!
毎回、どんだけヒヤヒヤしてたと思ってるんですか!!
某畠〇山さんとか、某〇細川さんとか、某上杉〇さんとか、某足利高経とか
あらゆるエージェントを駆使して弟を守る健気な兄、尊氏

まあ、伏字になってませんが。 ってか、高経は丸出しですが。



話がそれました。
直義の事になると、どうしても理性が吹き飛んで仕方ありません。
まあつまり、直義は本当に面白い…というか、かわいい(ポッ
…と尊氏さんが言っております。



さて、そんな直義は
とにかく、清く正しく美しい一途な心の持ち主なので
 「他犯戒」(たぼんかい)を持していた!! (『太平記』)
という話を先日しました。
「正室の他には女性関係を持たない」という(仏教としての)戒律、つまり
側室が当然の時代にあって、正室onlyを貫いていたのですよ!!

(※直義は俗人でありながら、既に建武元年(1334)頃には
 無学祖元の頂相(ちんぞう。肖像画)を拝して受衣
 弟子の礼を執っています。)



新生幕府の主導者という、側室持ち放題の地位&経済状況にもかかわらず
しかも、正室との間になかなか子供が出来なかったにもかかわらず

 正室以外は目もくれない!!

って、どんだけ 変わりもん の中のなのでしょうか。
素晴らしき貞操観念。 歴史的特別天然記念物です。


…ただ、私が思うに
実際のところは「仏教的な信条として身持ちが固かった」っていうより
直義の一途な情熱と、正室が足利一門の渋川家のお嬢さんで、かつ同い年である事からして
二人は(当時としては稀少な)「幼馴染の果ての恋愛結婚」だったのではないかな〜
と。
つまり…
「子供が出来ないなら側室持てばいいYO!」と方々(ほうぼう)から勧められまくるも
「あ、いえ、妻に惚れているので…」とは恥ずかしくて言えない直義は
「漢は黙って他犯戒!!」とかかっこいい事言って周囲を黙らせていた
とかいう真相。

…って、すみません。
多くの直義ファンに断固賛同を拒否されるような推測をしてしまったような気がしますが
まあ、私はもう既に、これに気付いた時の絶望は乗り越えました。
とかかっこいい事言ってみる。


まあでも、異母兄高義(たかよし)の早世後、足利家を継ぐ立場となって
鎌倉幕府の執権北条一族から、政治的に正室を迎えるまでにも
様々な紆余曲折があったらしい尊氏の場合を思うと
立場上、色々と制約の多かった兄の尊氏に比べて
弟の直義は、自分の気持ちのままに、かなり自由に生きる事が出来ていたのではないかな。

それはすべて、兄の存在のお陰で
でも別の見方をすれば
弟の自由のために、ひたすら堪(こら)え性を身に付けていったらすっかりドM将軍と化してしまった兄尊氏
…などという真相。




こっから☆*:.。:*・゚(´・ω・`)゚・*:。.:*☆本題




さて、元来清廉で、予想通りの鉄壁な貞操観念を持つ直義ですが
しかし…!!
そんな直義のイメージに真っ向から異議を投げつける破壊力満タンの和歌がありました。
これは、直義の和歌の中でも1、2を争う有名な歌ですが…

尊氏の晩年(つまり直義亡き後)に撰集が始まった
後光厳天皇時代の勅撰和歌集『新千載和歌集』
詞書(=和歌の趣意、簡単な解説)と共に登場する直義の和歌―――


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さまかへ侍るよしをききてよみてつかはしける

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき



(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



尊氏たちが、入京成功後まさかの反撃敗退で丹波に逃げたのが建武3年(1336)正月末
そして、予想外の九州逃避行のち、そこからの復活快進撃で
Uターン足利軍が再入京を果たしたのが同年5月末
つまりこれは、幕府設立直前の
建武新政権との "一年合戦" の頃の逸話という訳です。

(※当時の解説は、本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)




―――※ちょっと余談―――

直義・尊氏たち足利軍が「打倒!新田義貞」を掲げて鎌倉を飛び出し
『竹之下・箱根の合戦』で最初の勝利を収めた建武2年(1335)11〜12月から
翌正月の京都での合戦、九州没落、復活上洛、5月の『湊川の戦い』、再入京
そして最終的に足利軍の優勢が確定したことで和平協定を結び(11月2日)
『建武式目』を制定して幕府再建を宣言する建武3年(1336)11月7日までの
約1年間の一連の合戦についてですが…

これほど歴史的に重大な意味を持つ大転換期の1年のわりに
特に「なんとかの乱」とか名前がついてないのは不憫…というか不便なので
私は個人的に『建武一年合戦』との命名を提案したいのですが。
賛同してくれる方、お待ち申し上げております m(_ _)m

まあ、本当は『建武一年戦争』ってしたかったのですが
それだと、モビルスーツとか赤い彗星の人とか出て来るあれになってしまうので
自重しました。

ちなみに、『建武一年戦争』とは
建武世紀002(ダブルオーツー)11月2日に
直義(アルテイシア)が新田義貞にブチ切れて始まったまさかの一年戦争です。
突然の宣戦布告に腰を抜かすほどびっくりしたキャスバル兄さん(尊氏)
思わず中立コロニー・サイド浄光明寺で出家しそうになりましたが
直義の危機を知って一転、尊氏専用ザクで出陣しました。

―――※ガンネタ終わり―――


しかしそうすると
ガンダムを操縦しているのはセイラさん(=アルテイシア)という事になりますが
ガンダムに乗った直義(アルテイシア)」というのは
史上最強の足利軍を率いながら
いまいちその性能を十分に生かし切れない史実の直義と合致して丁度いい…

すみません、ガンネタ終わってませんでした。
というか、ガンダムの救援に駆け付けるシャア専用ザクって…(胸熱)
(※シャア=キャスバル兄さん=アルテイシアの兄)


いや待てよ、尊氏がシャアってことは
大佐(=シャア)が拾ったララァ「さぬ」って事になって
『観応の擾乱』で実妹アルテイシア(直義)を(知らずに)討ちそうになってしまうシャア(尊氏)
さぬ「大佐、いけない!!」とか言って止めに入って―――


ああいい加減にしよう、刻(とき)が見えて来た…







さて、話がそれました。
この直義の和歌は、昔から有名で、かつ物議を醸して来たのですが
それはなぜかと言いますと…
『大日本史料』第6編之16(大正7年刊行)の、直義の卒伝(p.122〜)で
この和歌の注釈に―――

 愛人ノ許ニ遣ハセル和歌

と記されているからです!!
あ、あ、あ、愛人ってwwww


つまり、この和歌はこう解釈されているのです。

建武3年(1336)正月に、一旦入京に成功した足利軍は
反撃にあって予想外の九州落ちを余儀なくされてしまう訳ですが
そのせいで、直義の愛人京都に置いてきぼりにされてしまったと。
半年もせずに、直義は九州旅行から帰って来るものの
その間に彼女の様子が(すっかり)変わってしまった…との情報を伝え聞いた直義は
その哀れなる胸の内を、和歌にして彼女のもとに送った
…という、ちょっと悲しい(?)エピソード。

つまり―――
あの直義に愛人がいた!!…という大スクープ!!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?
…な訳です。




さて、直義ファンの多くは
直義の清廉な性格が好き、という方が多いのではないかと思うのですが
この和歌はどう受け止められているのだろう…
と、直義ファンの一人である私は、常々興味津々でした。
ちなみに、私はと言いますと
この和歌を知った時には… わりと肯定的に受け入れられました。
(↑当初は、直義の性格をそこまで深く知らなかったのもありますが。)
直義もこういうところあるんだwww これはスルー出来ない突っ込みポイントwww
という感じ。
むしろ、あの直義だからこそ面白い!…と思いました。
だから、これはこれで良かったのです。

しかし―――

『新千載和歌集』の中のこの和歌を、再度よく読んでみたところ…
どうも色々とおかしい点が存在する事に気付いてしまい
一通り考え直してみた結果
なんか別の何か…な和歌であるらしい事が判明しました。

実はこれは、直義が愛人に対して送った和歌ではないかも知れないのです。
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!? (一応)


直義の「意外性」を楽しんでいた方には、ちょっと残念(?)なお知らせかも知れませんが
やっぱり直義は「他犯戒を持して」いたのだ!!
という事実が再確認できた(…かも知れない)のは、めでたしめでたしかと。



ちなみに…
『太平記』って、初期の原型を留めたものとか
少し後の時代に、関係者の証言や当時の日記等の記録をもとに
色々と書き加えられたり書き換えられたりしたものとか
いくつかの諸本が伝わっているのですが
原型に近い『太平記』で「直義は他犯戒を持していた」と書かれている所が
後世の(色々加筆された)バージョンでは

左兵衛督直義は、他犯戒を持しながら、破戒の罪のある上に…

ってなっているものがあるのですよ!
(つまり「正室だけと言いながら浮気してた」と。)

おそらくこれは、『新千載和歌集』の直義和歌の誤解から
後になって書き換えられたんじゃないかなぁ〜と思うのですが
(この書き換えのために、その後の文とのつながりが
 ちょっと意味不明な感じになっている)
だとしたら、昔からこの和歌は
直義に愛人がいた証拠と解されていた、という事になります。

まあ、普通に詞書を読めばそうなりますよね。



では、この魅惑の和歌の真相とは―――
という話は、次回「直義のスクープ和歌は謎(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 21:08| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年06月30日

直義のスクープ和歌は謎(その2)

こんばんは、「直義のスクープ和歌は謎(その1)」の続きです。

まずは、詞書和歌を再掲しますと…


建武の比(ころ)思ひの外の事によりてつくし(筑紫)へくだり侍りけるが
程なくかへりのぼりて侍りけるに、都に残しおきて侍りける女の
さま(様)かへ侍るよしをききてよみてつかはしける   左兵衛督直義

袖の色の かはるときけば 旅衣 たちかへりても 猶ぞ露けき


(※出典【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】)



(だいたいの訳(仮))
建武の頃、予想外に九州へ下る事になった訳だが
程なく帰って来たところ、都に残し置いていた女の様子が変わってしまった
という知らせを聞いて、歌を詠んで遣わせた

あなたが変わってしまったと聞きました
(旅立つ時にも、別れの悲しみに涙がちになりましたが)
旅から帰った今もまた、涙に袖を濡らすことになるなんて…



(※ちなみに「袖の色」の解釈の仕方が難しいところですが…
 これについては、また後ほど。)



なんという涙目な和歌 (´;ω;`)!!!
ハートブレイク(?)な直義に幸あれ!!

…というのが、一見したところのこの和歌の意味でありまして
(ただし、泣いてはいても、必ずしも失恋歌という訳ではないかもです)
これでも十分に おもしろエピソード 興味深い逸話ではあるのですが
しかしそれでも、真実が別の姿をしているなら
それを知りたくなる訳です。




さて、あまりに面白いので
この歌の背景をもっと知りたくて、まじまじと見つめていたところ
なんか変な事に気付きました。

この歌が収められているのって、「雑歌」の部立(ぶだて)なんですよ。

歌集というのは(特に勅撰集は)
その中に「部立」(ぶだて)という区分が設けられていて
歌がその種類によって分類されています。
四季(春・夏・秋・冬)、恋、雑、羈旅(きりょ)、離別、哀傷、釈教、神祇、慶賀…
などが主なところですが
もしこの和歌が、直義愛人に向けて詠んだものなら
「恋」の部に収められているはずなんじゃないかと…?

まあ、ちょと「旅」とか他の要素もあるので雑部に分類されたのかな〜
とも考えたのですが
しかし、さらによくよく見ると、やっぱりどうも変なのです。



そもそも…
この時期に「直義は京都に愛人がいた」…って?

直義は、建武新政権が開始した年の元弘3年(1333)12月14日
関東の統治に当たるべく、京都を立って鎌倉に拠点を移している訳ですが
次に京都の地を踏んだのは、約2年後の建武3年(1336)正月11日
しかも、この時の滞在はせいぜい半月ちょっと。 その上、合戦真っ只中

東国から京都に攻め上って、新政権軍との死闘を繰り広げると同時に
半月の間に京都で愛人を作ってプライベートも充実☆
…って、どんな早業なんですか!!

というか、京都を敗退した時には
尊氏直義のおじの上杉憲房を含む勇士たちが「命に代えて二人を逃がした」
という、あの感動のエピソードを残した壮絶な戦があったほどで
愛人作るような暇があったとは思えない…


直義は、おじの上杉憲房の件でも
九州での少弐貞経(妙恵)と一族家人の戦死の件でも
部下の犠牲には、人一倍心を痛める誠実な性格の主君なので
(↑一人で引きこもって喪に服し始めようとする(『梅松論』))
日々家臣が散りゆく合戦のさなかに
自己の快楽を求める精神的衝動は生まれないんじゃないかな〜と。

というか、平時でさえ筋金入りの禁欲大好きマンなんだから
死が隣り合わせの戦場なんて、それこそ涅槃に片足突っ込んだ仏教僧の境地だったはず。


その上『梅松論』によると…
この京都での対戦時、足利軍は
「両将、浮勢にて河原に御控ありしゆへに、軍勢の心そろわず…」
つまり、どこかの寺院とかとかに本陣を定めずに
大将である尊氏直義も「河原にいた」とかいう臨時営業状態だったので
みんなの心が揃わなかったそうで
(それが敗因だったので、4か月後の再上洛の際には「東寺」に陣を構えた、と)
そうするといよいよ
そんな浮ついた環境で、どうやってちゃっかり愛人作ったんだよ!
と突っ込まずにはいられない訳です。



考えられる可能性の一つとしては(かなり有り得ないけど)
「直義は、鎌倉から愛人を連れて来ていた」
というパターンかも知れませんが
そうすると、駿河国の手越河原でも、箱根でも
女性としてあれほどの大合戦を潜り抜けた、というミラクルもすごいですが
(特に手越河原では、直義は一旦は討死を決心しています(『梅松論』))
そこまで戦場をついて回れるのに
なぜ、京都では置いて行かれることになってしまったのか…?
京都撤退後、尊氏直義たちは、しばらく丹波兵庫でぐずぐずしていたのだから
追いかける事は出来ただろうに。
というか、そこまで深い直義の関係者だったなら
当時の京都に残るなんて、アウェイ過ぎて危険極まりないですし。

そう考えると、やはりこの女性はもともと京都の人
(少なくとも、それまで京都にいて、京都に居場所のある人)
…だとしか思えないのですが
でもそうすると、京都で直義と関係を持てそうなタイミングが見いだせない…



残る可能性としては
戦場には、個人的な女性の同伴というのはそうそうなかったでしょうが
遊女の出入りはあったと思うので
彼女も、そんな遊女の一人として直義と出会った―――
…とかいうベタなストーリーも考えてみましたが
しかし、そんな一朝一夕の関係なら
この様な歌まで送って未練を告げるような、深い関係だったことと矛盾するし
「一夜とはいえ、燃えるような恋に落ちた」…というのなら
戦場に出入りする遊女であればそれこそ
丹波でも兵庫でも、九州まででもついて行けるはず。
「京都専属の遊女だっらから、(プロ意識で)自ら京都に残った」というのであれば
和歌の詞書に「(直義が)彼女を都に残し置いた…」という言い方がされているのは
おかしい訳で。

あるいは、ついて来ようとする彼女を制止して
「すぐ戻る!!」とかかっこいい事言い放って、戻れなかっただけとか?
そういえば、『梅松論』によると
直義は、九州への退却を説得する尊氏の言う事に耳を貸さず
「都に攻め上りて命捨つべし!!」
何が何でも京都に戻ろうとしていたんだったな…


…って何を言ってるんですか!!
あれは、天下の未来のためなら
命を塵よりも軽くして戦い抜く直義魂が炸裂しただけです!! ><


だいたい、天下の行く末を賭けた戦場で遊女にうつつを抜かす直義…とか
どこの並行宇宙の直義だよ!!…ってレベルのキャラ改変ですが。

直義は自分で「俗人で俺ほど禁戒を犯さぬ人間はいない!!(ドヤッ」
と豪語していたほどの人物なのですよ。(『太平記』)
当時すでに数え30歳だから、「若さゆえの過ち…テヘ」とかいう訳でもないでしょうし
そもそもこの頃は
直義が憧れてやまない無学祖元(の頂相)に受衣して2年と経たない時期。
それこそ、フレッシュかつ強烈な禁欲禁戒フィールドを張っていたと思いますよ。

やはり、戦時に愛人…って
人物像的にどうにも無理があり過ぎる…。
だいたい、こんな背徳的なアバンチュールを、なにも勅撰集で採用しなくても―――


そう、これは勅撰集なのですよ!
勅撰集に撰出されるには、ちょっとプライベートに過ぎる歌のような気がするのですが…?
極秘案件ですよね、常識的に考えて。
それがよりにもよって、キングオブオフィシャルな勅撰集で天下大公開!!
有り得ないですよ。

そもそもよく考えたら…
『観応の擾乱』の中で悲劇的な最期を迎え
当時すでに故人だった直義の、こんな秘密の和歌を

一体誰が知っていたというのですか!!


謎です。あまりにも謎です。


出会うはずのない恋、いるはずのない愛人、知られるはずのないロマンス…
直義は、誰に向けて、誰の心を詠んだのか―――


しかし、この和歌の謎はまだまだこれでは終わりません。
という訳で次回「直義のスクープ和歌は謎(その3)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:54| Comment(4) | 観応日記(尊氏、直義)