2017年03月03日

直義の季節(命日編)

こんばんは、今日は3月3日、桃の節句です。
でも私としては、「三」が並ぶ今日は「三条殿の日」です。
勝手な事言っているようですが、でも、わりと相応しい日なんじゃないかと。
なぜなら、春の一歩手前の今の季節は――― 「直義の命日シーズン」なのだから。


直義が亡くなったのは、観応3年(1352)2月26日(※旧暦)なので
「直義の命日」と言えば、今年は…
新暦ならば、先日の2月26日(日)
旧暦ならば、(旧暦2月26日に当たる新暦の)3月23日(木)となる訳ですが
まあ、正しい年忌は3月23日(木)なのでしょうが
やはり新暦で生活していると、2月26日が気にならないでいられる訳がないですよね。
「日付」と「追悼」が本来の目的ならば
新暦の2月26日も、独自の意味を持つ日であるように思います。


一番、直義を想うのに相応しい日はいつだろう…
と、そんな事を考えながら、ここ数日色々と思いを巡らせていのですが
やはり気になるのは、「665年前のその日、その時」な訳で
そうすると、「毎年の旧暦2月26日に当たる新暦の直義命日」というのは
年忌としては最も正統ではあるものの
旧暦(=太陽太陰暦)は「月」を基準とした暦なので
「観応3年の当時のその日」と比較すると
「月の形(満ち欠け)」は同じであるものの
「季節(=太陽の位置)」においては、毎年、若干のずれが生じてしまいます。


当時と同じ季節を感じたかったら
当時の新暦(=太陽暦、グレゴリオ暦)を考えればいいので
観応3年(1352)の旧暦2月26日に当たる新暦」となる訳ですが
これは、3月20日となります。
つまり、毎年(新暦の)3月20日は
「直義が亡くなった日と同じ季節(=太陽の位置が同じ)」
となる訳です。

まあ、6世紀半でどれだけ気候が変動したか…は、考慮していませんが
でも、花の様子とか、風のゆるさとか、陽の暖かさとか
だいたいは当時を感じられるのではないでしょうか。



ややこしくなって来たので、以上まとめると…

「直義の命日」候補

毎年、新暦の2月26日 (気持ち的に)

毎年、新暦の3月20日 (観応3年当時の、太陽の位置的に)

毎年、その年の旧暦2月26日に相当する新暦の日 (正統派、かつ、月の満ち欠け的に)
(※今年は3月23日。)



さて、こう考えるとどれも捨て難い、ならば―――
毎年、新暦2月26日から旧暦2月26日までの約1か月間を
「直義の命日シーズン」とすればいいじゃないか!!

毎年一日で終わってしまうのでは、気持ちが消化し切れないし
これなら、ひと月延々と考えている事が許されるし
しかも、3月3日の「三条殿の日」も入って来るし!!
直義目白押しです。
…どうでしょうか?


ちなみに、もう少し「月」の話をしたかったのですが
長くなってしまったのでまた次回。
直義の命日シーズンには欠かせない(と思う)、満月の話です。




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2017年03月06日

直義の季節(春の月編)

こんばんは、まず初めに
前回の記事「直義の季節(命日編)」のお詫びと訂正ですが…
観応3年(1352)2月26日に相当する新暦の日付について
当初、「3月12日」としてしまいましたが、これはなんと―――「ユリウス暦」でした!!
現行の太陽暦である「グレゴリオ暦」では、「3月20日」となります。
本当に申し訳ありません m(_ _)m
たった8日とは言え、春の初めの8日間って、かなり気候の違い大きいですからね。

以前の記事「観応3年、春の夢」(2016.6.30)でも、間違った事書いちゃってたんで
訂正の追記をしておきました。(記事の最後の方です。)
足利基氏(※尊氏の実子で、直義の養子)
今は亡き最愛の養父、直義に追悼の漢詩を捧げたであろう貞治3年(1364)の2月26日は
グレゴリオ暦では(3月30日ではなく)「4月7日」となります。


という訳で、季節的(=太陽の位置的)な直義の命日は

 毎年、新暦の3月20日

です!! 今年は春分の日です。(ちなみに観応3年当時も春分の日です。)

直義の最期の日って、2月26日という日付のイメージだと冬ですが
結構「春」なんですよねぇ… と思いましたマル。





さて、今日の話は、前回の続きです。
「直義の命日と春の月」と言えば… 基氏です!!
これについて詳しくは…
『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」(2016.6.19)を御覧下さい。
まあ、ほとんど私の妄想(でも至極真面目な考察)なのですが
「基氏は、亡くなる直前の時期の直義と、月を見た夜があったのではないか?」
と推測してみた訳であります。

直義追悼の漢詩では、「春月」が中秋の名月と対比されている事から
二人が見たのは満月に近い月だろう… と思われる訳で
そうすると、尊氏たちが鎌倉入りした観応3年(1352)正月5日以降、2月26日までの間に
満月は「1月15日」と「2月16日」の2回ありますが
1月の満月の方は、鎌倉入り直後でまだ慌しそうなので
落ち着きを取り戻した2月の満月の方が可能性が高いんじゃないかな〜 と考えたいと思います。


2月25日の元服式を前に、胸を弾ませる光王(=基氏)が
直義と眺めた(かも知れない)、2月16日辺りの最後の春の月…
とか考えるともう、居ても立っても居られなくなって来る訳ですが
直義亡き後、基氏が直義を想って涙し続けたこの「春の月」とはつまり―――

 命日と同様に、直義追悼に相応しいのではないか!!

…と私は思うのですが、どうでしょうか?


(うん、相応しい、相応しいに違いない… )
という訳で、観応3年(1352)のこの春の月に相当する今年(2017年)の満月を調べると…

 3月12日(日)の満月

となります。(太陽と月と地球の相対的な位置的に。)

今週の日曜日には、どうぞ春の初めの夜空に
「幸せだった日の最後の満月」を見上げてみて下さい。
な、涙で前が見えない (´;ω;`)
「直義の命日シーズン」にまた一つイベントが増えました、はい。


ちなみに、直義が亡くなって、基氏にとって世界が一変した後の最初の満月は
観応3年(1352)閏2月15日(※新暦では4月8日)となります。
(↑この2日後、南朝軍の進撃により、尊氏たちは鎌倉を脱出する事になります。)

観応3年(1352)2月26日を挟んだこの二つの「春の月」は
基氏にとって、全く違う意味を持った月になってしまったんだなぁ…
とか考えると、これまたもう (´;ω;`)
こちらの満月は、今年は4月11日(火)の月に相当しますので
散りかけた桜に重ねたりして、基氏の気持ちで直義を想ってみたりなんかしたら…
ああもう!!



新暦の直義命日、2月26日は過ぎてしまいましたが
まだまだ直義の季節は続きますので
花や月や季節の風に、直義を想い続ける事が出来ます。 良い季節です。



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2017年03月07日

直義の季節(あれ、なんかすごい事に気付いた…)

こんばんは、前々回の記事で
 3月3日は「三条殿の日」!!
とか勝手な事言いましたが、そうするとつまり…
7月7日は「七條殿の日」って事じゃないですか!!

(※「七條殿」は足利高経ってゆうか斯波高経の事。
 毎回説明入れなきゃいけないあたり、やつは南北朝の存在感最モブ四天王。)


と、言う事は…
3月7日の今日は、「直&経の日」じゃないですか!!
夢の七三コンビの日ですよ!!
それってつまり、つまり―――
まあ、どうという事ないですね。



さて、今回気付いてしまった事は、こんなどうでもいい事ではありません。
昨日の記事「直義の季節(春の月編)」を書いた後で
「あれ、なんか自分言ってる事おかしくね?」と、首をかしげてしまったのですが
直義が亡くなった日ってつまり、「春分の日」なんですよね。
厳密に言うと、春分を含む日(春分を迎える日)な訳ですよね。
(※春分は、太陽が春分点を通過する瞬間の事。)
だから、(グレゴリオ暦の)3月20日という「日付」に拘らずに
「春分の日」と言ってしまった方が、太陽の位置的にはより正確な訳ですよ。
(※「春分の日」は、年によって1日2日ずれます。だいたいは3月20日か21日です。)


要するに―――

季節的(=太陽の位置的)な直義の命日は

 毎年、春分の日!!

な、なんて覚え易いのだ!…というか
そんな事より、直義の命日がこんな象徴的な日だったなんて…
わりと衝撃的なのですが。
ってゆうか、いま気付いた。
昨日、自分でブログに「ちなみに観応3年当時も春分の日」とか書いておきながら
今日になって…

 (;゚Д゚);゚Д゚);゚Д゚) な、なんだってえぇぇぇぇーーーーー!!?

と、時間差で気が動転してる。
もう、今日から私の中では「春分の日」は「直義の日」ですよ!!
「直義の日」は、現在は国民の祝日なんですよ!!
祝日法では、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日と定められているので
つまりこの日は…

 「直義を讃え、直義を愛しむ日」って事ですよ!!

こ、こんな大イベントがあっていいのでしょうか。
今日から「春分の日」は、一年で最も愛しい日となりました。本当にありがとうございます。


ってゆうか、「春分の日」って「彼岸の中日」ですよね。
そう考えると、いよいよ妄想が涅槃に達しそうなので
とりあえず今日はもう寝よう…



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2017年03月14日

直義の季節(彼岸編)

こんばんは、一昨夜は直義の命日前、直近の大事な満月の日だったのですが…
関東では、曇り空で全く見えませんでした。
前日の夜空はすごく綺麗に晴れていたから、楽しみにしてたのに… (´;ω;`)
12日から13日に日が変わる直前、天の一番高い所で満月の瞬間を迎えたので
晴れた地域の夜空は、きっと特別な光に包まれていたことでしょう。


さて、まだまだ「直義の季節」は続いております。
とりあえず、これまでの関連記事↓
「直義の季節(命日編)」(2017.3.3)
「直義の季節(春の月編)」(2017.3.6)
「直義の季節(あれ、なんかすごい事に気付いた…)」(2017.3.7)

という訳で前回、「直義の命日は春分の日!!」という事実に気が付いて
え、そうすると「彼岸の中日」じゃん… それってつまり…
と、悶々としたところで終わった訳ですが。


(季節行事としての)「彼岸」(ひがん)とは…
「春分」または「秋分」を中日としてその前後各3日、計7日間のことをいいます。
(初日を「彼岸の入り」、最終日を「彼岸の明け」という。)

太陽が真東から上って真西に沈み、昼と夜の長さが(ほぼ)等しくなる「春分」(と秋分)は
「彼岸」「此岸」(しがん)、つまりは…
「あの世」(or 悟りの境地、涅槃)「この世」(or 煩悩の俗世)が最も近づく時期
と、日本では考えられていたようで
仏教の悟りの境地(=彼岸)を希求する思いから
古来この時期には「彼岸会」(ひがんえ)という法会を営んだり
先祖を供養する習慣が独自に発展した訳であります。




…という事はですよ
東西と昼夜、そして二つの世界が交差する「春分」にあちらの世界に帰った直義って…

 やっぱり菩薩だったんだよ!!

とかいう妄想をし出すと、もう本当っぽくって困る。
完全な妄想でしかないのに、直義の事だから有り得る… とか思えてしまう摩訶不思議。
尊氏のマニア過ぎる地蔵菩薩愛も、もしや重度のブラコンと表裏一体だったとかいう可能性…



ただ、ただですね
当時も「直義は春分の日に逝ってしまった…」という認識が(少しでも)あったかというと
これはなかっただろうと思われます。

というのも、当時の暦って、あまり厳密には正確ではなかったようで
二十四節気の算出法の違いから、現在の(正確な)暦とは
最大2日ほどのズレが生じるらしいです。
(つまり、観応3年(1352)2月26日は「正確な春分」ではありますが
 「当時認識されていた春分」とは違う可能性が高い、という事です。)


それに加えて、「彼岸の中日」を「春分」(or 秋分)とするようになったのは
実はわりと最近(江戸末期)の事で
それ以前は、「彼岸の中日」と「春分」(or 秋分)は一致させるものではなく
江戸前期以前の時代では
「春分」の2日後(場合によっては3日後)を「彼岸の入り」としていたので
「彼岸の中日」は「(当時の暦の)春分」の5〜6日後となっていたそうです。
(↑この辺の事は、「国立天文台」のHPの「暦計算室」の「暦Wiki」に詳しいです。)


…という訳で、中世の頃の実際を具体的に調べてみたところ
まず、二十四節気の一つ「立春」を『大日本史料』のデータベースで検索して
いくつか適当に検証したら
やっぱり1〜3日ほど、実際の立春より遅れておりました。
一方、春の「彼岸」については…
彼岸会の「結願」(けちがん。最終日のこと)が
実際の「春分」の12〜13日くらい後になっている例が見受けられます。
(現在の感覚だと、彼岸会の結願は「彼岸の明け(=春分の3日後)」となりそうですが。)
そこで、史料に明確に「彼岸の中日」の記述がある年を調べてみると…

文明15年(1483)、史料上では2月12日、実際の春分はその8日前
長享元年(1487)、史料上では2月25日、実際の春分はその8日前
長享2年(1488)、史料上では2月7日、実際の春分はその9日前
延徳元年(1489)、史料上では2月18日、実際の春分はその9日前
明応元年(1492)、史料上では2月22日、実際の春分はその9日前
(※上記の日付は旧暦表記です)


という事で以上、この頃の「彼岸」の7日間というのは
実際の「春分」とも、当時の暦での「春分」とも
 なんか重なっていない
…ってゆう。
(だから「春分の日」自体は、あまり意識されていなかったんじゃないかな…と。)


し、し、しかし!!
だからと言って「直義菩薩説」が覆った訳では…!!
(というかそもそもそんな説成立していない)

まあいいんです、私の中では直義は菩薩なので。
きっと尊氏の中でも、直義は菩薩だったに違いない―――


今年の彼岸の入りは3月17日(金)
中日(春分)が3月20日(月、祝日)「直義の太陽の位置的命日」
そして彼岸の明けの3月23日(木)はちょうど
今年の旧暦2月26日「直義の正統派命日」に当たります。
ああ、なんか今年の彼岸は直義に会えそう…

「春分」というのは、「太陽」が生まれ変わるような、新しい光を纏うような
そんな瞬間なので
夢窓国師と「夜半の日頭」を夢見続けた直義には、とっても相応しい日だと思います。



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2017年03月20日

直義の時間、夜明け前

こんばんは、今日は春分、「直義の日」です。
直義の命日には色々な捉え方があって、そのどれもに意味があると思いますが
「観応3年(1352)の春分の日だった」という事に気付いて以来私は
太陽の位置が同じになるこの日に、一番直義を近くに感じるようになってしまいました。

これまでの関連記事↓
「直義の季節(命日編)」(2017.3.3)
「直義の季節(春の月編)」(2017.3.6)
「直義の季節(あれ、なんかすごい事に気付いた…)」(2017.3.7)
「直義の季節(彼岸編)」(2017.3.14)

まあ、太陽の位置…というか、実際は太陽に対する地球の位置ですが
そう思うと益々、なんか考え込んでしまう…

ちなみに、観応3年(1352)2月26日(旧暦)の春分(…の瞬間)は15時半過ぎ
今日2017年3月20日の春分(…の瞬間)は19時半直前なので
今年は誤差も数時間です。


直義が亡くなった時刻は
『源威集』では2月26日の朝、『常楽記』では「卯時云々」(午前5〜7時頃らしい…)
となっていますが
おそらくこれは、発見された時刻であって
実際は真夜中過ぎ、少なくとも確実に夜明け前だっただろうと思われます、直義の事だから…
(↑この理由については、またいずれ。)
今これを書いている時刻(午前3時くらい)よりも、少し前かな…と。


って、もう過ぎてんじゃん!!
わ、私としたことが…
まあでも、今日3月20日(もしくは毎年「春分の日」)の0時〜夜明け前までは
「直義の命日シーズン」のクライマックス「直義時間」として
もんもんと物思いにふける時間、って事にしたいと思います。



(※ちなみに、上記の「真夜中過ぎ〜夜明け前だろう」というのは
 直義が自ら服毒し、亡くなった時刻についての推定です。
 (私は、直義は尊氏による毒殺でも病死でもなく、自死だと考えています。)
 ただ…、あまり考えたくないけれど
 「服毒したのは夜中だけど、息を引き取ったのは朝」という可能性も無きにしも非ず…
 知らせを聞いて駆け付けた尊氏の目の前で、助かる事なく永遠の眠りに…
 とか考えるともうやば過ぎるので無し!!この可能性は無し!!
 ってゆうか無しで!!!!!!
 本当にお願いします m(_ _)m )




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2017年03月23日

ふと思い立って畠山義就の話

こんばんは、今日は今年の旧暦2月26日に当たる直義の正統派命日!
そんな日になんですが、今日は『応仁』カテゴリのお話です。
実は、某スレに投稿しようと思って下書きをした話なのですが
いざ書き込もうと思ったら… なぜか全然書き込めない!!
なので諦めて自分のブログに記念投稿しておくことにしました。


では、まず初めにちょっと一言…
>>100の方、>>109の方
ありがとうございます!めちゃめちゃ嬉しいです!!
超亀ですみません、久しぶりに立ち寄ったもので。
折角応援を頂いていたのに、いまサイト情けない状態ですみません…


さて、ここからが応仁ネタです。
畠山義就の諱「義就」の読みは「よしなり」である!…という事については以前
『Muromachi通り』「畠山義就(その5)」(2014.7.16)
の冒頭で考察しましたが
今一度、色んな人の意見を聞きたいなぁ…と思って
例の「東寺百合文書」の記述が記された "時期" に着目して、話を展開してみた訳であります。


(↓以下、スレ用に書いた文章をそのまま転載します)

………………………

ところで、「義就」の読みについてなんですが
現在はかなり「よしひろ」のが優勢になってる?
でもやっぱり「よしなり」が正しいと思うのですよね。

「よしひろ」の出どころは、東寺百合文書・廿一口方評定引付という一次史料で
義政の御内書の写しの「義就」の「就」の部分に
小さく「ヒロト云々」って添え書きがある、というものですが
これって、寛正2年(1461)2月18日の記録なのですよ。

一方で、『応仁の乱』開始(1467)以降の時代の史料では
「よしなり」って読みの記録が複数残っています。
 『応仁略記』に「よしなり」
 『応仁私記』に「義なり」×3、「よし就」×2
 『金言和歌集』(略本)に「よしなり」
これらは日記ではありませんが
『応仁私記』と『金言和歌集』は実質一次史料と言っていい史料だと思うし
『応仁略記』は畠山家に近しい人物によるものらしい、って事と
『応仁私記』は当時をリアルタイムに知る当事者からの証言を書き留めた "聞書"
『金言和歌集』は将軍近習や奉公衆といった、幕府の元役人が多く関わっているらしい
…という史料の性質を考えると、これらの記述の重要度は侮れないものだと思います。


そもそも寛正2年(1461)って…
義就は享徳4年(1455)に諱を「義夏」から「義就」に改めて
この当時はまだ父持国の跡を継いだばかりの19歳で、しかもその5年後に在国隠居を命じられて
その翌年の事です。
つまりこの時の義就は
「諱を改めてまだ数年、若い、惣領の座を追われ在京していない」
っていう、わりとかなり影の薄い状態。

義就の知名度を思うに
元々管領家の当主だから、政治の中枢では知らぬ者はなかったでしょうが
この失脚以前の地位では「義就」という諱を口に出して呼ばれる事はそうなかったでしょうし
幕府での日数の浅さからも
諱の読みまで正しく知る人は、そんなに多くはなかったのではないか…と思われます。
一方、『応仁の乱』勃発後の天下では
それまでとは比較にならないくらい爆発的に世間に名が響き渡っただろう、という現実に加えて
一応幕府(東軍)の敵だから、遠慮なく「義就」って口に出して呼ばれまくっていたと思われます、下々に至るまで。

やっぱり、寛正2年の段階での「云々…」って自信無さげな記述より
広く天下に名が知れ渡った『応仁の乱』勃発以後の記録の方が
当時の人々が知り得た本当の事実を映し出しているのではないかと。

東寺百合文書は確実な一次史料だから
「よしひろ」の読みが採用されつつあるのだと思いますが
時系列的に義就を取り巻く現状の変化を考えると
これ一点だけで判断するのは、やはり不自然かと…
東寺百合文書も、その他の史料の記述も共に尊重して考察すれば

「諱の読みが知れ渡っていなかった時代は「よしひろ」と読み間違えられる事もあったけど
 本当の読みは「よしなり」」


これが最も妥当な結論かと思うのですが。

………………………


という訳でやっぱり

 義就は「よしなり」です!…と思います!!

そこまで突っ込まなくてもいいとか、別にどうでもいいとか思われてしまいそうですが
でも私は、史料の記述というものを
一言一句に至るまで最大限大切にしたいと、いつも思っています。
さらっと表面だけを読んで終わりにしてしまうのでは、あまりにももったいない。
もっと深く掘り下げて、一番深い所まで掘り下げて
そして真に正しい意味を解き明かす
それこそが「史料を尊重する」という事の、本当の意味だと思います。

(「義就の読みは「よしなり」である」という結論は決して
 「よしひろ」と記す東寺百合文書の記述を否定するものではなく
 東寺百合文書の記述を、記載時期まで含めてすべて肯定し尊重した結果です。)


すっごく拘って、馬鹿みたいに拘って、それで本当に馬鹿にしかされなくても
それでも、一番奥に眠る真実にたどり着いた時にはいつも―――

「この史料はきっと、真実を見つけてくれる事をずっと待っていたんだ…」

そう思える瞬間に出会う事が出来ます。

この、労力に見合わない下らない拘りの積み重ねが
もう過ぎ去った過去である歴史に新たな生命を吹き込んで
そうして蘇った歴史は、未来をつくる力を持っている―――
そう信じて、研究を続けてきました。



posted by 本サイト管理人 at 23:57| Comment(2) | 応仁日記(義政、義視)

2017年03月29日

三周年です

こんばんは、本日3月29日は… 本サイト開設三周年記念日です!!

まあ、だから何だという話ですが。
というか、サイト開設以来ただの1ページも増えていないフリーズサイトで
毎年、周年記念だけ祝う不毛さったら…

ちなみに、去年の二周年記念のブログ記事↓
『Muromachi通り』「二周年です」(2016.3.29)
「二周年です(…のおまけ)」(2016.4.8)

とは言え、今年は心が折れてしまって何も出来そうにないなぁ… と思っていたのですが
3年経つのに、まだ『応仁』すら語り尽くせていない私は
本当は『明応』を語りたかったのだ…
とかいう忘れかけた初心が蘇って心の奥がうずくので
急に思い立って、ものすごい久し振りに絵でも描いてみました。

私の原点公方11代目足利義材(よしき)(…というか義稙(よしたね))(右)と
義材の一蓮托生仲間、畠山尚順(ひさのぶ)(左)です。


義材と尚順
(※クリックすると拡大します。900×1200px)



義材はいつもドヤ顔です。
人生がコテンパンなので、それに負けないように生きていたら元気一杯になりました
…みたいな。

誰よりもコテンパンな人生を歩みながら、誰よりも晴れ渡った心で生きた二人にあやかって
三周年記念です。



posted by 本サイト管理人 at 20:32| Comment(8) | ☆開店休業中(2016.10.1-2017.6.13)