2016年06月03日

直義ファンクラブ入会策

こんばんは。
今日は息抜きに、気まぐれ連載中の「直義ファンクラブ」シリーズです。

いやまあ、別に連載する予定があった訳ではないのですが
たまに妄想が弾むので、どうでもいい直義の日常を語りたくなった時の為に
カテゴリ「直義ファンクラブ」を新設し、前回までの3記事も移動しておきました。

直義ファンのための直義情報コーナーみたいなカテゴリかと思ってクリックしたら
直義直義ファンクラブに入会出来ずに門前掃いてる話」とかいう
まさにバーボンなトラップですみません。




さて、先日の「直義ファンクラブのぺーぺー(その3)」以来
門前払い食らって門前を掃き続けている直義のその後が
みなさん気になって気になって仕方なくなっている頃かと思われますが(別に…)
あれから直義はなんと…!!
未だにモブモブ達と門前を掃いているのであった。


今日もぽかぽか陽気の中
モブモブや、モブモブに身をやつした足利高経(=斯波高経と一緒に
にこにこと門前の掃き掃除に勤しむ直義
入会審査 "連続不合格記録" を絶賛更新中とは思えないほのぼの振りですが

誠意を尽くして正直に生きていれば、いつかきっと願いは叶う

と信じて疑わない本人は至ってマイペース
なんら打開策を講じる気配がありません。
なんという事でしょうか… 始まる前から既に万策尽きていたなんて…!!
これでは直義の入会より地球の寿命の方が早く来てしまいそうです。
はぁ…



しかし!
こんな入会不能ループな状況に
"あの" 尊氏が手をこまねいている訳はありません。
やつならきっと、直義入会を早急に実現させるべく
こっそりスペシャル級の方便を廻らせて来るに違いない!!
それが、尊氏という男です。


このところ、しつこく尊氏の潜在能力を熱く語って来ましたので
そろそろこれまでの…

尊氏はあまり自分の意思考えを持たず
 周りに任せっ切りの我関せずな無責任体質

とか
「黙ってても周りが何でもやってくれちゃう引っ張りラッキータコ将軍

みたいなイメージは払拭されつつあるかと思わますが…

(え、そうでもないですか? (´・ω・`) …。
 でも、尊氏は信じておいて損はありませんよ。
 というか尊氏信じておけば、みんなもラッキーになれるよ!!)


ただまあ尊氏
天下の物事が上手く運ぶように、無益な争いを未然に防ぐ為に
みんなのあずかり知らない "陰で" 方便を廻らして
問題が自然に収束するように取り計らってすっとぼけているので (´・з・)〜♪
やはり表面的には
ぼっけーーーっっと何考えてんのか分かんない将軍ではあったでしょうが。

事件争いが "起きてから" 対処(悪い方を処罰)するのではなく
 事前に察知して問題を骨抜きにしてしまう(火種のうちにこっそり消しちゃう
 というのが尊氏の "やり方" です。
 争いが起きて人が憎み合ったり、傷ついたりするのが嫌だったんだろうなぁ
 …と思う。)


人の見えない所で善い事するから、評判見返りもなんも返って来ないのに
尊氏にとっては、天下の為みんなの為に陰で骨を折る事は当然であって
人の幸せを少し離れた所から眺めていれば、それで幸せだったんだろうなぁ…
とか思うともう
このすっとぼけ将軍、ほんと泣かせてくれる (´;ω;`)
"無償の天下愛" という点で
この将軍兄弟は歴史上類を見ない奇蹟的な存在だと
改めて思う今日この頃でありますが
ただ、尊氏が祇園社に納めた願文に…

尊氏天下の為に仁徳なきあいだ、を惜しみを重ふする事なし…」

尊氏は天下の為に仁徳を尽くす覚悟であり
 を惜しんだりを重んじたりするつもりは決してありません… )


(※ "仁徳なき" の「ない(なし)」は「またとない、比類ない」の意味。)
(※出典…『大日本史料』延文3年4月30日など)


…で始まるものがあったりして
無償どころか、を惜しむ気配も無かったってゆう… (´・ω・`)


(ちなみに(当時の人たちは皆そうですが)中でも尊氏はとりわけ
 神仏の前では、ものっっっすごく真面目な人間なので
 この願文をはじめ、各種法楽和歌寄進状・奉納状の言葉には
 ”決して嘘偽りが無い”(それ故、時に事件の核心的ヒントを与えてくれる)
 …というのはかなりの重要ポイントとなってくるので
 是非覚えておいて下さい。)



そんな、天下愛に溢れまくった将軍ですが
ぱかっと頭ん中を覗くと――― 直義でいっぱい
…だったりするのがまた、直義ファンにはたまらん脳内状況です。

(これは『観応の擾乱』期はもちろん、直義亡き後はターボがかかりますので
 この時期の絶望的な悲惨さに凹みまくっていた方々は
 心安くワクテカしてて下さい。
 弟好きをこじらせたとあるブラコン将軍の切な過ぎる物語 (´;ω;`)
 …みたいな話。)




ばれてな〜い☆*:.。.:*・゚(´・з・)〜♪゚・*:.。.:*☆ばれてな〜い
俺の脳内ばれてな〜い




さあ、そんな訳で
尊氏は、ファンクラブ入会願書の「直義愛診断テスト」
直義ですら目つぶってても満点取れるようにちょっくら細工して
直義専用 ザク 願書を作成し
例の如く尊氏の "マル秘エージェント" を使って
直義が受け取る願書を、この特別仕様に摩り替えたのでした。


そんな事とは露知らず
今回も受付窓口で貰った願書を宿所(※)へ持ち帰り、早速記入を開始する直義

(※…直義は、モブモブ達と一緒に
 「直義ファンクラブ入会審査待ちのペーペーが待機する宿所
 で暮らしている設定です。 どうでもいい設定です。)


これで遂に―――
万年入会浪人の直義も、ファンクラブ御所の門をくぐれる日が…!!?


しかし…

ん、んん??
こんな大胆な設問じゃ、鈍感な直義も流石にちょっと困り顔…?



直義ファンクラブ



設問が若干季節外れですみません。
これを描いたのが1か月半くらい前でして、半お蔵入りしてました。


それでは以下解説↓


設問1「B 三条殿」
三条坊門高倉の幕府中央本部直義邸」(=三条御所に由来する
直義の代表的な呼び名の一つ


設問2「G 左馬頭」(さまのかみ)
「L 左兵衛督」(さひょうえのかみ)は官途で
「A 左武衛将軍」 "武衛"(ぶえい)は兵衛府の唐名(←これも結構メジャーな表記)

(※左馬頭→左兵衛督は、建武5年(1338)8月11日昇進
 官途は必ずしもイコール直義とはならんけど、一応基本情報という事で
 ちなみに、左馬頭の前は兵部大輔(元弘3年(1333)6月12日昇進))



「E 下御所」(しものごしょ)は、三条御所にいた頃の呼び名の一つで
上御所(かみのごしょ)=尊氏 に対応するもの

(※この頃の尊氏邸直義邸については本サイト『2-4』の
 「始まった場所」「室町御所map」をどうぞ)



「F 古山」(こざん)は道号、ちなみに尊氏は「仁山」(じんざん)
「C 慧源」(えげん)は入道後の法名で(貞和5年(1349)12月8日出家)
「D 錦小路殿」(にしきのこうじどの)「I 高倉殿」(たかくらどの)
貞和5年冬〜観応頃の住まいに由来する呼び名


「H 征夷大将軍尊弟」は『雪村大和尚行道記』(「続群書類従 9下」)より
他に「(尊氏の)尊弟三条殿とかも
"尊弟"(そんてい)は他人の弟の敬称  尊い弟… 尊い弟…


「J 左武衛大将軍殿下」は、鎌倉浄妙寺の住持実翁聡秀
戦火に焼かれてしまった明因寺の再興を直義に求めて送った書状での呼び名
(『大日本史料』暦応2年8月是月)
てゆうか大将軍殿下てww 直義赤面間違いなし


最後に「K 義元」(ぎげん)ですが…
これはどうやら "大陸" 風の(あざな)らしい(…という私の予想)
(※この頃の大陸は、南宋〜元の時代)
仏光禅師こと無学祖元(あざな)「子元」(しげん)に準えた命名なのでは?
と私は思っているのですが、まあ詳しくはまたいつか
てゆうか、こんな名前まで持ってたのかよ!!ww とか思って吹いた


(※無学祖元(むがくそげん)
 鎌倉時代に執権北条時宗の招聘で来朝した出身の臨済宗の僧
 鎌倉『円覚寺』の開山で、無学祖元の門派を「仏光派」といい
 代表的な弟子に後嵯峨天皇の皇子の高峰顕日(こうほうけんにち)がいて
 この高峰顕日の弟子の一人が夢窓疎石。(他にも重要な高僧たくさん)
 つまり「無学祖元―高峰顕日―夢窓疎石」法脈が繋がる訳ですが
 (※法脈…伝法の系統。俗人でいうところの家系図みたいなもの)
 直義は建武元年(1334)、数え28歳の時に
 この無学祖元受衣(じゅえ)しているのです。
 …といっても
 無学祖元は既に直義が生まれる20年前には示寂しているので
 その頂相(ちんぞう。高僧の肖像画を拝して弟子の礼をとった
 という特別な受衣ですが
 しかし紛れもなく、無学祖元直義が心から憧れ崇敬していたであり
 法孫にあたる夢窓疎石を、直義が心底信頼し父のように慕っていたのも
 なるほど納得な訳なのです。
 以上、この辺の情報は色々とかなりむちゃんこ重要になって来ますので
 よーーーーーく覚えておいて下さい。
 直義は、仏法や博識な禅僧たちに対する姿勢がものすごく純真健気なので
 この辺の関係から見えてくる真相(直義の本心)が少なくないのです。)



この他、直義の別名といえば追号の「大休寺殿」
神号の「大倉二位明神」なんてのもありますが
没後のものは本人が「なにそれ?」ってなっちゃうかもなので、今回は保留しました。
(まあ、大休寺殿の方は直義自身、生前に "分かっていた" 可能性が高いですが。)



はい、という事でつまり…

  全 部 直 義 !!!

ここここれなら、けしからんほどに直義愛皆無の直義でさえ
マルさえ付けりゃ「直義愛診断テスト」にパス出来る!!
なんという一寸の抜かりもない巧妙な策!!
まさに 尊 氏 !!

…のはずだったのですが
この後、選択肢の重複に気付いた正直な直義は、受付に自己申告しに行き
直義ファンクラブ入会の千載一遇のチャンスをみすみす逃す事になったのは
言うまでも無い…



直義ファンクラブ



あっけなく撃沈する尊氏マル秘策であった。

(´−ω−`) ちーん…


(※受付の女の子は、直義直義本人である事に気付いていません。
 あまりに盲点すぎて。
 それから、画像左端の「直義」の字体は旧字体の一種で
 直義の実際の自署を参考にしています。)



ちなみに
尊氏はファンクラブ御所で "管領" を務め、実務全般を取り仕切っていて
(尊氏が政務を執っている…だと?)
そして左は
奥の院で一部始終を御覧になっている最重鎮上杉憲顕様です。
憲顕様がお召しになっているのは
 ムルゴーニュ産の超高級ヴィンテージワインです。)

直義の突き抜けるような正直さを誰よりも愛する憲顕様
これにはちょっと苦笑い。



という訳でやっぱり
直義入会への道は、果てしなく遠いのであった―――


☆おしまい☆



(どうでもいいけど、お前らその直義人形直義掛け軸やめたまえ… )



-
posted by 本サイト管理人 at 02:05| Comment(0) | 直義ファンクラブ

2016年06月19日

『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】

こんにちは、『Muromachi通り』最新記事UPのお知らせです。
今日は、ちょっと寄り道して
「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」
です。

若干頼りない独自解説ではありますが
他の方の考察の参考になればと、私の思うところをとりあえず全部語ってみました。


この詩はどうも、すべて実際のエピソードを素材にしてるらしい…
という事はすぐに気付いたのですが
墨染めの衣という印象的なそれらが
物語と見紛(みまが)うほどに美しく描写されていて
漢詩ど素人な私でも、目前に当時の情景が甦る感覚を覚えました。

これは基氏の想いの深さか、義堂周信の技量の為せる業(わざ)なのか
それもあるけれどやはり…
ここまでの詩が生まれるほどに、直義愛されるものを持った人だったんだ…
というのが、私の一番の感想であります。



ところで、この詩が作られたのは
貞治3年(1364)2月26日の直義十三回忌だろうと推測しましたが
実はこの年は、尊氏の七回忌の年でもあります。
(※尊氏は延文3年(1358)4月30日卒)

年忌の法要はだいたい
一回忌(1年目)、三回忌(2年目)
七回忌(6年目)、十三回忌(12年目)、三十三回忌(32年目)

…辺りが重視されていたようですが(あとは百回忌(99年目)とかも)
尊氏七回忌に際して長寿寺殿(=等持院殿に捧ぐ詩は
「空華集」には見当たらなかったような…


あれ… 基氏? どうなってますの?
とかいう話は置いといてw
まあ、尊氏は大きな争乱がひとまず終息してしばらく経った頃
(一時的にとは言え)平穏と言える日々の中でで他界したのだし
基氏亡き実父尊氏の菩提を弔う為
鎌倉の『長寿寺』(尊氏のお墓がある)を整えていますから
当然法要は欠かさなかったろうし、心から冥福を祈り続けていたでしょう。

それから尊氏の鎌倉滞在時(観応3年(1352)正月〜文和2年(1353)7月末)
に教えられた(しょう)をちゃんと習得していたり
その後の鎌倉のしっかりした統治を見ても、着実に父尊氏の跡を継いでいますから
実の父は実の父で尊敬し、また敬愛していた事は確かですが
そうするとむしろ、突っ込むべきは…

尊氏スルーではなくて)「直義への追慕が尋常ではない」

という点なのではないかと。


つまり、この三部作から読み取れる基氏の感じ方
直義の死因についての若干の考察材料になるんじゃないか?と私は思うのですが…




直義コードの☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆予感!?




『太平記』にあるように
直義の突然の死が病死(黄疸)」と発表された事も
それを聞いた世間の人々が「(尊氏による)毒殺を噂した事も事実だとは思います。
その上で私は諸般の事情から
「病死」という発表は、直義が自ら命を絶った事を伏せる為の口実だと考えていますが
(…ただ、最近ほんの1%だけ別の可能性も考え中(後述↓))
一応「真相は闇の中」という前提で話を進めてみますと…

普通に「病死」という抗いようのない運命だったとしたら
10余年も経てば、もう少し気持ちの整理が付いていてもよさそうな気がするのですが…
いやもちろん、何年経とうが忘れられない悲しみがある事も事実ですが
ただこの時代は、今よりもずっと死別というのが身近にあって
寿命も50〜60年生きればそれなりに全うしたと言えた訳で
心から愛する養父とはいえ、享年46歳
(まあ、直義にはまだ何十年も生きて欲しかったけど)
しかも、子供の頃の感受性って大人ほど悲観的ではないと思うし
それなのに、数え13歳の少年の心にここまでの記憶を残した真相って…
と思うと、やはり何か事情があって

 「もっと生きていたはずなのに先立ってしまった」

という悔やみ切れない最期だったのではないか…?と、思ってしまう訳です。

其の二「対花懐昔」の第一句で
 「紛紛世事乱如麻」つまり『観応の擾乱』に触れていて
 何かしらの関連を感じさせるのも気になるところ。)




そうすると、「毒殺」か「自ら命を絶った(服毒)」か… となって来ますが
しかし流石に毒殺だったら、ここまで養父直義を慕って止まない基氏なら
尊氏に明確な反抗心を示すか
遁世するなりの強硬手段に出ていてもおかしくないと思います。
禅宗への姿勢を見ても、その後の鎌倉の統治を見ても
 基氏は実はかなり芯が強い。)


まあ毒殺説に関しては、その他の事情を勘案しても
尊氏にとって直義を守る理由はいくつも有れど、自ら失う理由は一つも無く
実は最も有り得ない選択肢だったりするのですが、一応確認しておきました。
(※直義の最期についての考察は、今のところ概略ですが
 『Muromachi通り』「暑中御見舞い申し上げます」の前半もどうぞ。)



という訳で私の結論としては、この三部作
「直義が自ら命を絶った事の僅かながらの補強材料となるのではないか
と考えているのですが…
『観応の擾乱』が起こらなければ、こんな運命をたどる事も無かっただろうし。)

ただ、幼い基氏が当時どこまで正確な真相を知り得たか?という問題もある訳で
もしかしたら基氏自身は
「不自然なまでの突然の急逝」という事しか知らなくて
しかし大人たちが言う「病死」という理由も、状況からはとても信じられず
真相が分からなかったがゆえに
一連の擾乱が養父直義を追い詰めたのではないか… という思いが残り
ここまで悲しみを抱え続ける事になってしまった
という可能性も無きにしも非ず…


(てゆうか、『太平記』には
 「2月26日忽(たちま)ちに死去し給ひけり、俄かに黄疸という病に犯され…」
 とあって、さらに「天正本」だと
 「(それまでは)病床に伏し給う事もなくて …… 俄かに逝去(黄疸で)」
 とさえ書かれていますが、全然酒豪でも無さそうな直義
 いきなり黄疸でしかも一晩で死に至るなんて事有り得るんだろうか…??
 とか思うけど、まあこれ以上病死説に突っ込まなくてもいいか。)


…とすると
その場合の真相の可能性としては「自らの服毒」というのも考えられますが
ただ、それ以外の "もう一つ" として…
(基氏が元服した2月25日の翌朝というピンポイントな日時である事から
 かなり確率は低くなるけど)
本当に "たまたま" の自然死だった、という場合が考えられ
もしそうだとしたら、それは―――

 「直義の事だから、召されるべき時に天に召されたってだけ」の話

とかいう "天の仕業" だった可能性が…

(すみません、おかしな事言っている様ですが
 どうも直義は若干人智を超えた不思議ちゃんな所がある、というか…
 すみません、やっぱり変な事言いました。)




ちなみに、当時「自ら命を絶つ」といえば普通は切腹であって
服毒というのは特殊過ぎるように思われるかもしれませんが
私は "とある理由" から
(基氏だけじゃなく)それこそ尊氏にさえ、一目では原因が分からなかったくらいに
直義の最期は "静寂な姿" だったのではないかと考えています。
(だから服毒天の仕業だろうと。 …え、は無いって?)


いずれにしろ、前夜2月25日の光王(=基氏)の元服式までは
なんの変わりも無く元気だったのではないかな
いつものように、優しく微笑んでいたのでしょう。



-
posted by 本サイト管理人 at 16:11| Comment(0) | 『Muromachi通り』通信

2016年06月24日

足利基氏25歳

こんばんは、先日はようやく
義堂周信作、初代鎌倉公方足利基氏(もとうじ)による
「令叔直義に捧げる三部作を紹介出来て感無量でありますが
解説だけで終わってしまったので、今日は久々に妄想イメージ図を描いてみました。

(※関連記事はこちら↓
 『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」
 『バーボンMuromachi』「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」


と言っても、解説の方もまだちょっと気になる所はあるのですが…
例えば
直義基氏は観応3年(1352)2月頃「一緒に月を見た夜がある(たぶん)」
…とか言ってみたものの、やっぱ飛躍し過ぎかな〜と思ったり
それから直義の緇衣(しえ。墨染めの衣)
亡くなった時に実際に着ていたものか? それともあくまで遺品の一つか?
…というのも気になって気になって仕方ないし(もちろん前者であって欲しい…)
そもそもこの詩は
「貞治3年(1364)2月26日の直義十三回忌の為に詠まれた」に違いない!
…という推測も、9割方そうだろうとは思うけど、絶対と言う保障も無く―――


どれも確かめようが無いので、これ以上考えても無限ループでしかない訳ですが
でもまあ、可能性として最も高い説を採用したつもりですので
強引にマイ解釈で三部作のイメージ図を作成してみました。

貞治3年(1364)2月26日
亡き養父を想い続ける12年目の足利基氏25歳(数え)です。




足利基氏、月




足利基氏、花




足利基氏、衣




基氏初登場!! …のわりに完成度低くてすみません。
しかも、私の中でのデフォルト基氏
直義が見た最後の姿であろう、元服直後の数え13歳の基氏ですので
今回の25歳バージョンはイレギュラーだったりします。(初登場なのに… )
デフォが幼君なので、25歳でもちょっと幼めです。


(ちなみに、意外に思われるかも知れませんが(それとも当然かな?)
 観応3年(1352)2月25日の基氏の元服式には
 尊氏と共に "間違いなく直義も参会している" …と思われます。
 詳しくはまた後日。)




私は直義がものすごく好きなせいで
直義を好きだった直義以外の人物に感情移入してしまうのですが
基氏は…
もうめちゃめちゃ気持ち分かる! 手に取るように分かる!!
(…と自分では思い込んでいる。)
この三部作を読んでいると、ほとんど基氏になりきっちゃって指先まで痛くなってくる
(…というくらいには重症。)

まあとにかく、基氏は全直義ファンの代弁者ですよ。
よくぞこんな史上最高超名作を残してくれた!!
歴史的にも文学的にも感動的にも、奇蹟としか言いようがない!!



ところで…
紫荊花は、あくまで "花蘇芳" という名で知れ渡ったのが江戸時代であって
 それ以前から細々と日本に渡来していただろう」
と推測しましたが…
まあ、禅僧の来朝最盛期な鎌倉時代後期に
「鎌倉幕府の別格御家人足利家の邸宅(or 隣の「浄妙寺」)に
 大陸の珍しい花の咲く樹が植えてあった」

というのは十分に有り得る無理の無い話だと思います、うん。

(というか、当時紫荊の樹があったとしても
 それは直義の居た「浄妙寺」「大休寺」周辺なのか?
 それとも基氏の住む「足利邸」の庭なのか?
 というのもむっちゃ気になるポイントですが… まあいいいか。)


ちなみに、現在の「浄明寺」の境内は四季折々の花の咲く素敵な場所ですが
ちょっと検索した感じでは紫荊(花蘇芳)の樹は無いようです。
(…たぶん。 もしあったらどんなに小さな樹でも嬉しいので
 知っている方がおられましたら教えて下さい m(_ _)m )



当時の紫荊花はどんな花を咲かせていたのだろう〜
とか考え出すと止まりませんが
もし、いつかまた「浄妙寺」の境内で紫荊の樹が満開に花をつけて
その隣に小さな看板でも立てられてこの詩が添えられて…
そんな日が来たとしたら
直義にとっての最高の弔いになるだろうなぁ… と夢見てしまいます。

というか、基氏に感情移入する全直義ファンの聖地になるに違いない!!
そしたらきっと、基氏が流し続けた
春の花のような笑顔に変わる事でしょう。


…と、今日もバーボン室町の片隅で
淡い妄想に耽る夜であった。



-
posted by 本サイト管理人 at 23:53| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2016年06月30日

観応3年、春の夢

こんばんは、今日は基氏妄想図第二弾です。

(※前回はこちら→「足利基氏25歳」

未だに直義基氏の妄想が止まらないので
最近絵描いてなかったし、もうひと妄想です。


というか、足利基氏というとやはり "初代鎌倉の主" としての研究が主流で
『観応の擾乱』においてはあくまで第三者という扱いですが…
まあ、擾乱当初はまだ幼かったせいで、事件への直接的な関わりが薄く
「『観応の擾乱』と基氏」という視点で議論される事が少ないのも当然ですが
しかしこれが意外と
むしろ真相解明 "要"(かなめ)となるポジションにいたりするのです。


というのも基氏
観応2年(1351)12月、駿河国薩埵山(さったやま)での
"西の尊氏""東の直義" 両軍の合戦の後(※合戦自体は尊氏の勝ち)
和睦した二人の間で交わされた密談の事や
直義亡き後、鎌倉で1年と数ヶ月尊氏のもとで教育された事
その後、鎌倉殿(=鎌倉公方)として関東を統治する過程で見せた方針意志
…などなど
一見、瑣末と見過ごされがちな関連性を有していて
これら基氏を取り巻く細かい事情を繋ぎ合わせると―――

一般には、『観応の擾乱』は観応3年(1352)2月26日の
直義の他界を以て終了したと捉えられている事が多いですが
(↑繰り返しますが、これは非常に大きな誤解ですので要注意です)
むしろ "その後の基氏" を探る事で
事件の顛末から尊氏直義の真意まで『観応の擾乱』の核心部分が浮かび上がってくる
という、スペシャルなカラクリとなっていたりします。


その上、基氏は人間的にも尊氏と直義の子に相応しい立派な人物で
(↑なんかちょっと変な言い方ですみませんw でも間違っちゃいない… )
流行り病(はやりやまい)で28歳で早世してしまったのが
なんとも残念で残念で仕方ありませんが
にも拘わらず、尊氏直義研究の鍵となる隠れたメインキャラで
言ってみれば…
 「尊氏直義の遺志のすべてを託された二人の希望
というくらいの存在ですので
今からイメチェン準備しておいて下さい。
(というか基氏こそ、二人亡き後の世界の主役… Σ(゚Д゚;)!!!!??? )

(※この時期の鎌倉については
 かなり概要ですがこちらでも少し語っています↓
 『Muromachi通り』「夏休みの宿題(その3)」





という訳で、今日の妄想は観応3年(1352)1〜2月の鎌倉
擾乱がほんの一瞬だけ小康状態にあった、幻のような春の瞬間です。



足利直義足利基氏

(※クリックすると拡大します。1000×750px)



基氏(※幼名光王)は元服前なので、髪が(わらわ)モードです。
でも数え13歳(満11〜12歳(1〜2月ならたぶんまだ11歳))にしては幼すぎる…
とは自分でも描いてる途中で気付いたのですが
き、きっと元服式理髪(※成人の髪型に整える事)した瞬間
急に大人っぽくなるに違いない!…という設定にして強引に描き進めてしまいました。

というか、私の中でのデフォルト基氏は「13歳理髪後」なので
「13歳理髪前」の今回は、またしてもイレギュラーってゆう…


ちなみに、幼名が「光王」(こうおう)なので金髪っぽくしてみました。
"重要な鍵を握る人物" という暗喩だったりもします。
私の中では、養父直義や兄の直冬(※尊氏実子、直義養子)から
(ひかる)と呼ばれている設定です。

(意外と見過ごされているように思いますが
 直冬基氏直義のもとで(少なくとも数年は)
 「同じ屋根の下、家族として過ごした実の兄弟」という事実は
 なかなか重要かと思います。(二人は約13歳差異母兄弟
 妄想的にもかなりの萌えどころかと。)




というか、直冬基氏「むちゃむちゃ直義に懐いていた」
という事実は誰しも認める所だと思いますが
調べれば調べるほど笑っちゃうくらいの慕われ方で
一体直義どんな育て方したのだろう…
とか、ものすごく疑問なのですが
しかしこれは、直義の性格を分析しているとわりと簡単に理解出来ます。
つまり…
直義にとって尊氏の子である直冬基氏って
尊氏の分身…というか「ちっこい尊氏」でしかないんですよw

だから、理屈じゃなくもう心の底から可愛がっただろう事は確かですが
しかし単に甘やかすのではなく
立派な人間に育て上げる為にせっせと薫陶を施したようなのです。
(実際、直冬基氏は非常に人望があります。
 その他エピソードはまたいずれ。)


薫陶(くんとう)って
によって人を感化し、優れた人間に育て上げる事」という意味で
もとはを焚いて薫りを染み込ませ、土をこねて陶器を作り上げる事」
から来ている言葉ですが
文字通り、毎日心を込めてきゅっきゅきゅっきゅこねこね磨き上げていたもよう…
優しいだけではなく、常に気を掛け心を添わせてくれる人というのは
子供にとって最良の愛情を感じさせるのでしょう。
でなきゃここまで愛されないと思う。



さて、そんな親子関係から見えてくるもう一つの事実は…
一般に、基氏や特に直冬
「養父直義を慕っていたから、実父尊氏に反感を抱いていた(憎んでいた)」
というような解釈をされいますが
それは極めて不自然な誤解だったりします。
直冬基氏は、養父直義を敬愛していたからこそ
「直義がこの世で一番愛する兄尊氏は、二人にとっても大切な人だった」
と解した方が、その他の事実と上手く合致するし解釈として自然です。

例えば…
直冬は、両殿(=尊氏直義)の為、あるいは父尊氏の為に戦っている
と明言している文書願文が存在するのに
それを(通説と折り合いが付かないからと言って)
すべて虚偽と切り捨ててしまうのは、少々安易過ぎる発想かと思います。

もし、そんな嘘で騙そうと考えるような人物だったとしたら
直冬に高い人望と統率力があったという事実と整合性が取れないし
(周りの人間も、それ程馬鹿じゃないだろうに)
さらに、当時の武士が神仏に嘘をつくというのは現実的に有り得ない
(そんな不敬な事するくらいなら初めから願文など書かないだけの話。
 神仏に嘘をつけば恐ろしい罰を受けるとの共通認識があったからこそ
 軍忠などの申告の際に「誓文」が有効だった訳で
 願文の内容を虚偽と見做すのは、極端に現代的過ぎる発想かと)

…という訳で「直冬、実父憎悪説」
論理的・実証的に、かなり早い段階で却下される説だったりします。


もちろん、中には言葉のままに解釈すべきでない情報もありますが
史料は(特に一次史料は)"最大限生かして" 成り立つ説を探し当てる事が
たった一つの正解にたどり着く唯一の方法です。


(↑これをすると自ずと(真に)裏を読むべき史料も浮かび上がって来ます。
 『太平記』でさえ(…といったら失礼ですがw)
 喧伝や物語上の捏造だといって簡単に切り捨てるのではなく
 深く背景を読み解く事で、隠れた別の事実が姿を現す事もあります。
 特に尊氏関連の言動や文書には、その裏に真意が隠れているものが多い。
 なんて厄介さんなの… (´・ω・`) )




という訳で、ちょっと話がそれましたが
これまで基氏は注目度低め、直冬は大誤解」という二人でしたが
むしろこの兄弟こそ

『観応の擾乱』の真相 "二人の父" 尊氏直義の真意を背負っている

という、新太平記時代のスペシャル大注目な兄弟ですので
めっちゃイメチェン待機していて下さい。




直冬基氏兄弟☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆来るでこれ




ところで
先日『Muromachi通り』「故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)」にコメントを頂いて
(↑一つ目の2016年06月25日のねこ様からのコメントです。私の返信はそのすぐ下)
またまた三部作の解釈で脳内スパイラルが始まってしまったのですが
其の二の「対花懐昔」での紫荊花について
やっぱり、半分は故事としての意味(=兄弟仲も込められているかも…
と思い直しております。

というのも、もし基氏
直義は自ら命を絶った」という事を知っていたら(あるいはそう認識していたら)
の話なのですが
尊氏直義は観応3年(1352)正月5日に鎌倉入りした時点で既に和睦していて
(※『難太平記』『源威集』
 この時の和睦の密談内容は、基氏も大方聞かされているはず)

2月25日の元服式にも、なんら変わりなく同席していたはずですが
それなのに、その翌朝突然に直義が一人先立ってしまったのだとしたら
直義の胸の内を知らない基氏からしたら
「なぜ…」という思いが圧倒的に強かったのではないか?と思うのです。


兄の直冬直義から
「立派な人間となって将軍尊氏)の御助けとなるように」(『難太平記』)
常々言い聞かされていたように
基氏も幼少の頃から
尊氏に対する直義の思いを聞かされていたのは、間違いないと思われますが
そうすると素直に考えたら
直義の死に直面した基氏の心境は

仲直りしたのに、もう何も心配しなくていいはずだったのに
 なぜ、あれだけ好きだった人を置いて逝ってしまったのか…」


という疑問に苛(さいな)まれ続けていた、とするのが
最も自然な推測かと思われます。
(もちろん、基氏自身も先立たれた絶望的な悲しみがあったでしょうが
 ここでは「紛紛世事乱如麻」=『観応の擾乱』を背景として
 尊氏直義の関係に絞って考えています。
 それから、子供だった当時より大人になってからの方が
 益々強くそう感じるようになっていったのではないかなと。)



12年経ってもその疑問答えが見出せずに苦しみ続けていた
という基氏の、闇を彷徨うような心を
故事としての紫荊花(=仲の良かった尊氏直義)に降るで表現した
…とは、かなり考えられるかもな〜と
今さらながらに思った訳であります。



ただし、三部作全体として見た場合
其の二の花を架空の花とするのはやはり不自然なので
(「に対して…」と言っている辺り、実際に対面しているのでしょう)
たとえ紫荊花でなくても
何かしら記憶に焼き付いていた花はあったのでしょうが
ただ、観応3年(1352)にしろ貞治3年(1364)にしろ
2月26日では、春の花が咲くには若干時期が早いかな〜とも思われるので
(まあ、当時と今とで気候の違いも有るので何とも言えませんが)
おそらく実際に咲いていたとしてもそれは
2月26日を過ぎて、直義が完全に居なくなってしまった頃
真っ白な春の中に、無音で咲いていた紅色の花… みたいな
すべてが無くなってしまった世界の中の追憶的な存在だったかと。
なんか悲し過ぎますが (´;ω;`)

(※ちなみに旧暦2月26日
 観応3年(1352)では新暦3月12日
 貞治3年(1364)では新暦3月30日です。)

(※2017.3.6追記―――
 すみません、上記の新暦の日付は「ユリウス暦」でした!
 現行の太陽暦である「グレゴリオ暦」への変換では、旧暦の2月26日は…
 観応3年(1352)では新暦3月20日
 貞治3年(1364)では新暦4月7日となります。
 誠に申し訳ありません m(_ _)m
 …これは、貞治3年の方は、春の花咲きそろってそうですね。)





ところで、直義が自ら命を絶ったのだとしたら
そこには "強い理由" があったはずで
(なんたって、あの兄上大大大好き直義
 尊氏を置いて逝ってしまった…というのは
 これは想像以上の大問題かと)

これは、当時の擾乱の真相現状変遷と直義の性格の深層まで
とことん追求してようやく見えてくる…かも…
くらいのめっちゃ微妙な難問なので
私もようやく核心に指先が届いた…程度で、今でも無限ループしていますが
幼い基氏が分からなかったのは当然としても
当の尊氏はどこまで直義の思いに気付く事が出来たか?というのは
尊氏直義ファンとして、むちゃむちゃ気になるポイントであります。


(これは史料的証拠が少な過ぎて、推測の上の憶測でしかありませんが
 おそらく(なんでもお見通しの)尊氏でさえも
 確信を持つには至らなかったのではないかなぁ…と想像しています。
 ただ、生涯尊氏直義に謝り続けていただろうと思われます。
 これはほぼ間違いない事実。)




もし現代に二人が甦ったら
どうやってわだかまりを解いて行くのだろう…
…という妄想が、私の脳内物語のスタートだったりします。
二人にはどうしても、あの時伝えられなかった本当の気持ちを打ち明けて
途切れた明日の続きを始めて欲しい… 新しい物語で―――


…と、小さな願いをつぶやくバーボン室町の片隅であった。




という訳で、今日の妄想はここまで。
最後に初代鎌倉公方足利基氏初登場記念と致しまして
本サイトTOPページを更新してみました。


ああまた、義材の季節が終わってしまった… `;:゙;・(゚ε゚ )ブーッ!! ←義材



-
posted by 本サイト管理人 at 22:11| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)