2026年03月03日

初めに

やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボン室町へ。
この天野と練貫はサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

うん、『応仁』なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうと思った矢先に『明応』

でも、尊氏にはまり出した時、君は、きっと言葉では言い表せない
『観応』みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中なのに、どういう訳か『太平記』
そう思って、この店を始めたんだ。

じゃあ、注文を聞こうか。
(※元ネタ:バーボンハウス)
posted by 本サイト管理人 at 00:00| (御案内)

2017年10月24日

鎌倉国宝館の今期足利基氏展が悩ましすぎる

『鎌倉国宝館』で21日から始まった足利基氏展の出品リストすごすぎますよね?
何なんです?この常識破り感は。
尊氏願文に尊氏画伯地蔵菩薩像に、た、た、た、直義の自筆書状!!!!?????
はぁ〜〜
もうここまでくると胸が苦しくなって来るマジ切ない。

というか、こういう企画展って普通、メインの一押し展示は数点じゃないですか。
何なんです?この 全部盛り感 は。
足利ファンとか南北朝ファンの夢がぎゅうぎゅうに詰め込まれまくっててこれでもか状態で
ドリームすぎてトレジャーすぎて
どこの京都国立博物館の国宝展かよ!!
やばい錯乱してくる。 ちょっと京都行ってくる横須賀線で。

だって、常盤山文庫所蔵の建武3年の足利尊氏願文(重要文化財)って…
「この世は夢の如くに…」のあれですよ!!
あれは宇宙的価値で言えば、余裕で国宝ですよ?
というか室町南北朝的には、通常の3倍の国宝 ですよ!!
キャスバル兄さんが自筆で書いた「直義安穏に…」とかもう
チートすぎてやばい。

ああもう赤い彗星過ぎてつらい…
錯乱して来たので、私が3年くらい前に作って放置してあった尊氏願文画像でもどうぞ。
(※賜ぶ(たぶ)…お与えになる。)


建武3年尊氏願文




posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(8) | 日々のチラ裏

2017年10月21日

鎌倉国宝館の今期特別展すごい

『鎌倉国宝館』で今日から始まる足利基氏展の出品リストの発表楽しみだな〜
って思ってたんですけど
今朝ホームページを見たら解禁になっていて
きたーーーって思って見てみたんですけど
す……
すごすぎるですよ!!!

基氏はもちろんですけど、これ普通に尊氏ファンとか直義ファンやばすぎますよ。
足利ファンとか出品リスト見ただけで卒倒するので
体調が悪い時は見ない方がいいです。
コンディション整えてからにした方がいいです。
やばい、本当にやばい。何この威力。
出品リストだけで、ランとかいう名前の台風21号が軽く吹っ飛ぶレベル。

というかこれ、絶対前期後期両方行かないとじゃん!!
何なんですか?何なんですかこの鎌倉の本気は!!
え、何これ??何これ!!?
…って感想しか出てこないもうやばいやばすぎる!!!



posted by 本サイト管理人 at 08:12| Comment(0) | 日々のチラ裏

2017年10月20日

鎌倉国宝館の次回特別展すごい

『鎌倉国宝館』の秋の足利基氏展楽しみだな〜ってずっと思ってたんですけど
いよいよ明日から始まるんですけど
先日、パンフレットがホームページで公開になって
きたーーーって思って見てみたんですけど
なんと、あの尊氏さんの地蔵菩薩像が見られるんですよ!!
すごい、すごすぎるっっ!!

尊氏画伯の現存地蔵菩薩像で一番古いもので
これだけ他の地蔵菩薩像とはちょっと作風が違っててむちゃむちゃかわいいやつ。
つまり、すごい、すごすぎる!!
やばい、これ見られたらもう一生分のご飯のおかず要らない。

で、さらにパンフレットをマジマジと見たら
表の一番上の基氏の書状
こ、こ、こ、こ、これ……
貞治2年(1363)3月24日の
基氏が上杉憲顕に元さやを申し出たあの書状じゃないですか!!!
『観応の擾乱』によって鎌倉を去ることになって11年
「また関東管領お願い、帰って来て…」って手紙を胸についに鎌倉に帰って来た上杉憲顕―――
とかいう、歴史的足利上杉夢の元さや状。
(※翻刻は『大日本史料』貞治2年3月24日、第6編の25 p.17、ネット上で見られます!
 「ずっと思ってたんだ…」とか色々と歴史的に意味深すぎる内容です。
 『観応の擾乱』とは一体何だったのか…? )

こ、こ、こんな貴重なもの(というか国宝)が見られるなんて
歴史的な意味でも、文化的価値な意味でも、妄想な意味でも、色んな意味でやばすぎる!
というかこれ、基氏の自筆ですよね??
心なしか、直義(=基氏の養父)の字に似ているような気がしないでもないような…
子供基氏に、直義自ら直々に書道を仕込んだに違いない、そうに違いない!!
これは実物を見て確かめたい!!
ぬおぉぉぉーーーー

でも、今回の特別展は途中に展示替えがあって
この基氏書状は後期のみだそうです。
ぐわぁぁぁぁーーーー

でも前期も後期の行けば、尊氏さんの地蔵菩薩像に二度も会える!!
すごい、すごすぎる!!



posted by 本サイト管理人 at 15:18| Comment(0) | 日々のチラ裏

2017年09月12日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その3)

おはようございます
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)」
の続きです。


『法華堂跡』からひたすら東に進む私が向かった先は…

ここです、『永福寺跡』!!


鎌倉『永福寺跡』


「永福寺」(ようふくじ)
源頼朝が文治5年(1189)に奥州平泉を攻めた後
戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のために建てた寺院です。
(※『永福寺跡』にあった御自由にお持ち下さい系パンフレットより。)

そんな歴史的大寺院「永福寺」の遺構の復元整備がこのほど完了し
今年の7月下旬から、待ちに待った一般公開が始まったのです!!


かなり荘厳な寺院だったようで、その広大な跡地から想像される規模は果てしなく
往時は、幕府の迎賓館的にも利用されていたプレシャス御殿寺院だったそうですが
室町時代、応永12年(1405)の火災の後
しばらくして記録から姿を消す事から
再建されずに、やがて廃絶してしまったと考えられています。

その時期については『鎌倉市史 社寺編』に…

「廃亡の時代はわからないが、
 勝長寿院の項で述べた年頭評定始の記事をみれば、大体想像できよう。
 恐らく成氏(しげうじ)が鎌倉を去った頃と思えば誤りあるまいと思う。」


(※【鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 社寺編』(吉川弘文館)1972(初版1959)】
 の p.472 より引用。カッコ内のふりがなと強調は私。)


…と書かれていて
まあそうだろうな、『享徳の乱』だよな (´・ω・`)『享徳の乱』だもんな (´・ω・`)
とか思います。


(※「勝長寿院」は、源頼朝が父の源義朝の菩提を弔うために建立した大寺院。
 廃絶の時期は「永福寺」と同じくらいと見られています。
 天文の頃まであったかも??との未確認情報もあるそうですが(『鎌倉市史』)
 まあ同時期ってことにしとく。
 少なくとも享徳は、終わりの始まりのスタートライン ではあったでしょう。
 On your marks... (´;ω;`) やーめーてぇぇーーー!!

 On your marks... (←『享徳の乱』1454)
 Get set... (←『文正の政変』1466)
 Go!! (←今年で開始550年 ゴーゴー『応仁の乱』1467)
 )



最後の5代目鎌倉公方 トランスフォーム 新生初代古河公方 足利成氏
享徳3年(1454)12月に始まった『享徳の乱』の翌年、鎌倉を離れます。
将軍あるいは公方という "主" の帰らぬ地となった鎌倉
源頼朝に始まり、名高き歴史を重ねた「武家の都」としての時を
掲げ続けた白旗と共に、静かな眠りの中に閉じたのでした。

しかし今、失われし幻の白旗を纏い、眠れる鎌倉を呼び覚ます 勇者ネオ成氏
悲しき擦れ違いの過去に引き裂かれた主従、上杉 との
時空を超えた 福音の元さや を実現して装いも新たにカムバック
ここに、リバイバル協奏曲「さよなら享徳レクイエム」を発動―――



…まあいいか。
享徳からやり直しとかどんな冗談ですかやめて下さい >< )
というか
源頼朝が建立した三大社寺『鶴岡八幡宮』「勝長寿院」「永福寺」のうち
二つまでもを眠りにつかせ
"幻の大寺院" へと伝説化させた『享徳の乱』マジ☆サバゲー…
でもそう考えると、生き残った『鶴岡八幡宮』のサバイバル能力、マジ☆菩薩
でもでもそうすると
史跡保護前に宅地化が進み
発掘不可能の永眠遺跡となってしまった「勝長寿院」に対して
敷地の大部分が鎌倉市によって公有地化され
遺構の発掘&整備が実現した「永福寺」の不死鳥の如きリバイバル値もぱない。
ここへ来て蘇るか!!…ってゆう常識破り感、胸が熱くなります。
(やっぱり享徳からやり直し始まってるくさい 足利上杉夢の元さや 来るでこれ!!)

まあ『鶴岡八幡宮』
伊勢新九郎盛時(いわゆる北条早雲が鎌倉入りして、都の復活を誓うまでは(※)
鎌倉もろとも、立ち枯れた花の社となりかけていたかもな訳で
拡散消滅危機のリミット状態から一転、エントロピー急速減少で
熱力学第二法則へのミラクル反逆力発揮してるっぽいですが。

(※…『大日本史料』永正9年8月13日
 『快元僧都記』天文3年11月20日の有名な和歌。
 枯るる樹に また花の木を 植え添えて 本の都に 成してこそ見め
 by しんくろう )




ちなみに伊勢新九郎盛時は、室町幕府の政所頭人伊勢貞宗(さだむね)の従兄弟。
伊勢貞宗は、15世紀後期『応仁の乱』〜『明応の政変』時期
色々な意味でやばすぎる室町幕府足利将軍
ある意味一人で支え抜いた、歴史的大きのこる先生
だから、従兄弟の伊勢新九郎盛時きのこる値(※)が高いのも納得なのです。
(※…将軍とか世の中とかが、この先生きのこる為にはどうしたらいいかを
 教えてくれる先生としての能力値。)

長らく素浪人と思われていた北条早雲(伊勢新九郎盛時)ですが
あの東国進出は、確実に伊勢貞宗の指示(※ただし極秘)ですわな。


そんな大先生、伊勢貞宗
本当はもっと表立って歴史に名を残してもいい人物なのですが
いかんせん、陰で色々お片付けしちゃうのが好きなアングラ志向の頭脳派だったもんだから
今の所、いまいち輪郭すらはっきり見えて来ない末恐ろしい子
でも、伊勢貞宗がいなかったら
「銀閣寺」(=『慈照寺』)も、8代目のどうしょもないが憎めん公方義政
確実にサバイブ不能で現在の京都の観光資源&茶道に禅にもろもろ京文化、マジ大打撃。
義政がサバイブしたせいで『応仁の乱』に京都が大打撃…とか言わない。)

しかしそんな義政の生存問題なぞ些末なこと(え…)
最も重要な論点は、この伊勢貞宗が…

 『明応の政変』において白い子だったのか黒い子だったのか―――

それが大問題なのですよ!!

私の見立てでは「黒すぎる純白な子」。 なんじゃそりゃ。
栄養満点毒キノコ!!みたいな感じで、はて?食っていいもんか…
でも、良薬口に苦しっていいますし、良キノコも口に猛毒なのですよ。
ほんとに効くんかいな。
もちろん! 『明応の政変』
猛毒きのこる先生による、主君生存のためのミラクル荒治療 だったのですから!!


毒を以て毒を制すべく、大きのこるドクター貞宗先生が水面下で戦った
本当の黒い毒の正体、コードネーム〇〇〇〇とは…
(ああああ゙((((( ;゚Д゚))))) 怖いからその話はよして!!
 でもこのコードネームは史実です。ハリウッドも真っ青よ!!!)

そんなことより
天才どSきのこ・ドクターブラック貞宗の神オペのお陰で(←ただし必ずしも予定通りに行ったかというと少し微妙)結果的にその尊いお命を永らえる事になったものの、あまりの大胆荒治療にすったもんだの流浪人生への出航を余儀なくされた、「白雪姫」のリンゴじゃなくてキノコバージョンと「眠れる森の美女」をうろ覚えでごちゃ混ぜにしちゃったみたいなストーリーのかわいそす将軍義材(よしき)の話しようよ! 義材の話!!


…まあいいか。
というか、伊勢の話をし出すとターボがマッハになってしまうので、もう自重します。
ただひとつ―――
源氏将軍足利家に仕えた伊勢家平氏ですから
彼らの関係を、宿命的な側面から読み解いてみるのは
決して無駄な考察ではない…のではないかと思います。はい。

伊勢貞宗の忠誠心、それが
『明応の政変』矛盾を一気に解消する、突破口になるのでしょう…




という訳で、室町時代半ばに幻となってしまった大寺院「永福寺」ですが
しかし、地名にはその痕跡がしっかり残っていて
現在、この辺り一帯は "二階堂"(神奈川県鎌倉市二階堂)と言いますが
それは、「永福寺」の中心の建物が二階建て
「二階堂」と呼ばれていた事に由来します。

(※「永福寺」は、「二階堂」とその両脇の「阿弥陀堂」「薬師堂」という
 三つの主要な堂が連結した構造で、正面には広大な苑池(えんち)を有し
 「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」(※上記パンフ引用)
 と形容されました。)


この『永福寺跡』は、発掘調査は何十年も前に始まっていましたが
10年前からは、基壇(基礎)庭園の復元のための整備工事が進められていて
そして先日、遂に一般公開が始まった!!
…という事を知ってから、是非訪れたいと思っていました。
5年前の秋、『瑞泉寺』に向かう途中で
まだ工事中の『永福寺跡』を柵の外から眺めた思い出が蘇ります。

と言いましてもまあ、この鎌倉時代の名跡「永福寺」旧跡
鎌倉時代ピヨピヨど素人の私にとっては
室町的に興奮するむろまチーノ史跡なのですが。 鎌倉(宝)の持ち腐れ。


しかも室町的って言っても、さらに尊氏直義時代に絞られるので
私の嗜好の許容範囲どんだけ心狭いんだよって話ですが
建武2年(1335)8月19日
京都から光速で駆け付けた 直義お助けマンの尊氏さん
『中先代の乱』をあっという間に平定してわーい鎌倉だぁ(はぁと)
と到着一番、直義と一緒に入った今夜のお宿が…

「二階堂の別当」『梅松論』
「二階堂御所」『鶴岡八幡宮寺社務職次第』

(※『大日本史料』建武2年8月18日、8月27日)

…となっている、とか
それから『観応の擾乱』の頃
直義を失った失意の尊氏さんに追い打ちをかけるように襲い掛かった
観応3年(1352)閏2月の南朝との講和の破局と、南軍の鎌倉進攻を受け
閏2月17日、一旦鎌倉を退いた尊氏さんたち幕府軍
武蔵国で大展開した戦闘で最終的に勝利を収め
観応3年(1352)3月12日
10日前に南軍が撤退した鎌倉へと、凱旋尊氏さん が入った先が…

「二階堂別当房」『鶴岡社務記録』
(※『大日本史料』文和元年3月12日)

…とかあって
私の中では二階堂と言えば尊氏さんみたいな認識になってます。



当時は、「二階堂」「永福寺」の別名でもあった訳ですが
(↑た、たぶん… 合ってるよね??)
ただ、「別当」とか「別当坊」(=別当(長官)の宿坊)とあるので
「永福寺」自体ではないっぽい感じ濃厚なものの
でも、滞在10日目にして「二階堂御所」と呼ばれている様子からすると
少なくとも近隣、場合によっては同じ敷地内に位置する建物のように思えるので
私の強引ジャッジとしましては
位置的には「二階堂別当坊」≒「永福寺」と考えても
まあだいたい合ってる、って許してもらえるんじゃないかな〜(誰に?)
という事で、そういう事にして妄想を展開しております。


という訳で―――
尊氏さんは鎌倉に着くと、いつもまず「二階堂」で宿をとる!!
…という歴史から、私の中で『永福寺跡』
尊氏さんの一番宿「ホテルニュー二階堂」的な何か〜となっています。

鎌倉の初代将軍渾身の歴史的意義重厚な「永福寺」になんか申し訳ないです。



まあいいか。
はい、それでは早速チェックインしたいと思います。


鎌倉『永福寺跡』

とりあえず入った。


鎌倉『永福寺跡』

池です。大きいです。( ^ω^)おっ?


鎌倉『永福寺跡』

基壇です。( ^ω^)おっ?おっ??


鎌倉『永福寺跡』

池です。
( ^ω^)フロントどこだお?


……。
という訳で、とりあえず一通り一周してみたものの
規模が大き過ぎて、ちっぽけな私の想像力にはとても納まり切れず
気の利いたリアクションも思い付かぬまま、空を仰ぐしかありませんでした。

私はまだ、基礎しか残っていない系の史跡を嗜む妄想訓練が足りていないようです。
建物が目前に現れるくらいまで、礎石フェチレベル上げたいです。
広い芝生見て「おにぎり食べたい…」とかいう感想しか浮かばない自分に失望しました。

(※ただし『永福寺跡』基壇は、発掘された実際の木材・石材と
 同素材のものを新たに用意した "復元" です。
 発掘調査を終えた当時の地面に、遺跡を保護するため60cmの盛土をして
 当時の様子を再現しています。
 池も30cmのかさ上げをして、当時の湖底を保護していますが
 庭石は、出来る限り本物を露出展示しているそうです。
 (※上記パンフより) )



まあでも、私の「妄想物語」(←時間軸現代)の中では一応
それなりにストーリーは展開していまして…
鎌倉に滞在する直義を、尊氏が京都から迎えに強行して来て
二人は『永福寺跡』で唐突の再会
息を切らせて言葉が出ない尊氏と、驚きのあまり言葉を失う直義
互いにそれ以上近付く事も出来ぬままただ立ち尽くし―――
…とかいう話を脳内再生しながら「お、このカットいいかも」
って挙動不審に参考写真を必死で撮ったりはして来ました、はい。


まあなんだかんだ言って、百聞は一見に如かずです。
皆さんも是非、実際に『永福寺跡』を訪れて
その往時の雄姿を心に蘇らせたなら
空では鳳凰の如く、池ではの如く、壮大なスケールで楽しんでみて下さい。
私は、陸においては蟻んこ、池においてはミジンコの敗北感で撃沈しました。


(…すみません、なんか私の敗戦記みたいな事になってしまいましたが
 この『永福寺跡』素晴らしかった 事だけは、紛れもない事実です。
 その歴史的価値の高さは、私が保証するまでもありませんし
 この広大な史跡が保存され復元された現実は
 決して当たり前の事ではなく
 数知れない幸運が重なった奇蹟の中の奇蹟だと思います。)



さて、『永福寺跡』の現地レポートはこれで終わりなのですが
もう少しだけ、尊氏さんと「二階堂」について考えたい事があるので
次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その4)」
に続きます。


というか…
こんなタイトルで出オチしてるネタ旅行記、1回で終わらせる予定だったのに
始めるとどうにも話が無駄に広がってしまう癖、なんとかしたい。
このタイトルで続編続けるとか、そろそろメンタル的にやばい。



posted by 本サイト管理人 at 08:50| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年09月05日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)

おはようございます
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その1)」
の続きです。

『鶴岡八幡宮』の参拝を終え
境内東の鳥居から外に出て
次の目的地、初訪問の源頼朝の廟所『法華堂跡』へと、旅は続きます。

てくてく… 着きました!!


鎌倉『法華堂跡』

まあ10分とかからない感じです。


鎌倉『法華堂跡』に続く階段


この階段を上った先の、丘の上一帯が『法華堂跡』です。
源頼朝は、生前の自身の持仏堂だった「法華堂」に葬られ
ここは以後、源頼朝の廟所(墓所)として信仰され続けますが
後に廃絶し
現在は、江戸時代に整備された源頼朝の墓石が安置されています。
(階段下、向かって左側には、源頼朝を祀る『白旗神社』がありますが
 こちらは明治時代に新設されたものです。)


鎌倉『法華堂跡』空間


これは上った先の、とりあえず右の方の風景。
(※写真左側にちらっと見えるのが、階段上って正面の頼朝さんの墓石領域。)

『法華堂 "跡"』なので、まあ空間です。
でも時空のひずみが観測されそうな空間です。 (; ・`д・´)ゴクリ…



さて、この『法華堂跡』室町的には どうかと言いますと…

尊氏たちが固い決意を胸に西へと旅立った『建武一年合戦』の頃
足利高経の長男の足利家長(斯波家長)は、尊氏から鎌倉を託されるのですが
その少年大将足利家長と共に
幕府再興の未来を背負った足利軍の為に壮絶に戦い抜いた―――
相馬重胤(そうま しげたね)の終焉の地 なのであります!!


(※この話については、以下の記事を↓
 『Muromachi通り』
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」(2016.2.25)
 「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」(2016.3.9)
 …てゆうかこの旅行記、まだ話思いっきし途中だったわ。)


建武3年(1336)4月16日
京都に滞在していた北畠顕家が、再び奥州へと戻るその帰国の途次
鎌倉周辺を通過する際に起こった「相模国片瀬川での戦い」
迫りくる北畠軍を迎え撃つべく
一族の相馬胤康(たねやす)が、まず最前に馳せ向かって討死
そして相馬重胤は、当時の鎌倉の中心部に位置する「法華堂」で自害して果てます。

この時の状況についてですが…
『法華堂跡』の東、『浄妙寺』周辺に当時の足利邸があった訳ですが
地理的に考えて、おそらく相馬重胤は初めから―――

西の片瀬川より迫る敵軍から、大将家長たちを逃がす目的で
(↑当時、鎌倉の主君として幼少の義詮(※尊氏の嫡男)がいた)
時間稼ぎのために「法華堂」に立て籠もった、つまり…
"自害前提" で盾になった のではないか?

と私は見ているのですが。


え、もしそうだったとしたら
色々となんかもうどうなの!?(´;ω;`)どうなの!!?(´;ω;`) どうすんの!!?
…という、抑え切れない溢れる何かに背中を押されて『法華堂跡』に行きました。


足利家長ファン、かつ
相馬重胤と、彼に従った相馬一族
これ以上ない初志貫徹戦いぶりと忠誠ぶりの大大大ファンな私としては
この鎌倉時代の代表的史跡『法華堂跡』
室町的な意味で聖地なのですよ、聖地!!

この戦で散った相馬重胤相馬胤康
前年、足利軍に属して少年大将足利家長に従うことを決めた時
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのです。
つまり、死ぬ覚悟で尊氏に属する決意をしているんですよ!!(´;ω;`)
こういう、「まさに武士!」的な最強最高エピソード、ほんと好きなんですが。

相馬重胤とかもう、何なの!!…ってくらいに最強でむちゃむちゃ好きです。
(だったら早く上の旅行記完成させろよって話ですが。)



『建武一年合戦』への旅立ち…
この後の足利軍に起こった事を、私達は知っています。
それはすべてが過去となった後世から見たら、当たり前の歴史なのかも知れない。
でも、自分たちの明日を知らずに生きていた彼らにとって
未来は、何も確かなものを約束してくれないでしかなかった。
建武政権と袂を分かち、戻れない道を行く事を決めた足利軍の、この時の決断出発
よりももっと暗い闇夜の果て
誰も届いたことのないを掴むような、無謀な一歩だったはずで―――


相馬重胤彼に従った一族
そして尊氏直義
彼らがそれぞれの胸に予感していた時代の大転換という姿なき巨塔
未来を知らない彼らが抱いていた絶望と希望というリアル

彼らの立場であの日の明日を想像すると
歴史って、本当に壮大なドラマなんだな…って思い知らされます。
全身に、蘇るような戦慄期待が押し寄せて心が震えます。

「結果」を当然と思わない、「未来を知らない」視点で感じる歴史
…という妄想ジャンル、わりとかなり興奮度高いと思うのですが
え、どうなの?
全国展開に向けて緊急会議なの?




さて、『法華堂跡』室町的時空のひずみに陥落した私は
再び道に戻り、次の目的地へ向けてさらに東へ進みます。

ところで、『法華堂跡』のすぐ東の少し丘を登った場所にも
「北条義時の法華堂跡」とか「三浦一族のやぐら」とか色々あったっぽくて
折角なので探してみようと思っていたのですが
『法華堂跡』の階段を下りた先の道端
超低空旋回飛行し続ける謎の黒アゲハ蝶に遭遇して夢中になっている間に
その事をすっかり忘れてしまい
一通り黒アゲハに気が済んだあと、満足してそのまま立ち去ってしまいました。
不覚です。


という訳で、ひたすら東へてくてくとぼとぼ進みます。
向かった先は…

…と話を続けたいところですが
長くなってしまったので次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その3)」
に続けることにします。



posted by 本サイト管理人 at 07:57| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月31日

夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その1)

おはようございます
先々週、いつもの一人室町ツアーをしに鎌倉に行って来たんですが
今回は、いつにも増して朝早く出発して歩き回り
初めての場所にもいくつか訪れたので
今日はちょっとその報告でもと。


という訳で早速、鎌倉に到着… なんと朝8時ちょい過ぎ!
早い! 早過ぎて前につんのめりそう!!

さて、まず最初に駅の南に進みます。
実は今回は、一つ目の目的地が、初訪問最大メインだったりします。
好きなもの最後にとっとく派の私としては、非常に斬新なプランニングです。

いつもは鎌倉に着いたらまず真っ先に
駅の北の『鶴岡八幡宮』を目指すのですが
今日は駅の南の…
元鶴岡八幡宮『由比若宮』(ゆいのわかみや)にやって来ました!!


鎌倉、元鶴岡八幡宮『由比若宮』


ここに… ここに一度訪れたいと、ずーーっと思っていたのですよ!
なぜならここは
私の大好きたろちゃんこと、源八幡太郎義家に始まった神社だから!!

以前『Muromachi通り』「源八幡太郎義家」(2014.8.16)の冒頭の
「武家源氏の "八幡様クロニクル" 」でちょっと触れましたが
鎌倉の『由比若宮』
康平6年(1063)、奥州平定を成し遂げた源頼義・義家父子がその帰途で
源氏の氏神「八幡大菩薩」へ勝利の感謝を込めて
京都の『石清水八幡宮』を勧請して建立した、平安時代の神社です。
この八幡社が約120年後
鎌倉時代の幕開けと共に
源頼朝によって、規模を新たに『鶴岡八幡宮』として生まれ変わる訳ですが
それゆえ『由比若宮』「元八幡」とも呼ばれています。


訪れてみると、とってもこぢんまりとした神社で
(↑創建当初は、また規模も違ったのでしょうが… )
盛大荘厳な現在の『鶴岡八幡宮』とは、まるで印象が異なりますが
それでも、ここが鎌倉八幡様の始まりの場所なんだ…
と思って時の流れを仰ぎ見ると
果てしないほど大きな存在を感じます。

境内の片隅の、現在は切り株だけになってしまっている松の木に
 「源義家公 旗立の松」
という小さな看板が添えられていました。
たろちゃんが、たろちゃんが源氏の白旗掲げた松… (´;ω;`)

あふれる感慨が時空を超えてゆきます。


以前話しましたが
うちの近所にも、源義家がちょっと立ち寄った〜的な神社があって
(↑ちょっと立ち寄っただけでも、千年近く言い継がれるたろちゃん
 マジ最強☆)

で、最近は毎朝のように、そのたろちゃん神社に立ち寄っては
たろちゃんに語りかけている私ですが
(↑別に菩提寺でもお墓でもないのに、たろちゃんがいると思ってる私
 マジとんだ勘違いしてる☆)

この日の朝も
「たろちゃん、今日は『由比若宮』に行くよ。一緒に行こうよ」
と言って、たろちゃんを誘ってやって来たのでした。

たろちゃん…
始まりはいつだって、小さな一歩なんだね―――



という訳で、朝一でメインを堪能し尽くして
再び駅の方へと戻ります。

まだまだ朝9時前という、おはよう感にあふれた時間帯ですが
この後の、ノンストップ無休憩探索に備えるべく
一休み&ブランチをすることにしました。

訪れたのは…
駅のちょっと西にあるスターバックス「鎌倉御成町店」!!
先日のどうでもいい記事「Ashikaga チョコレート Shogunate」で自分で適当なこと言ったからには責任もって行かないと…じゃなくて
ここすごいんですよ、お店の作りが。
全国にいくつかある、スタバのコンセプトストアというのの一つなんですが
漫画「フクちゃん」の作者の邸宅跡地に建てられた平屋の店舗で
テラスプールまである、ってゆう!


スターバックス「鎌倉御成町店」
(↑これは、店内からガラス越しに撮った写真)



さてさて、今日はここで夏の室町会議が開かれると聞いてやって来たんですが…
あ、あれ? 誰もいない…
( ^ω^)おっ?おっ? 時間まちがえたかお??
と、店内を見渡して挙動不審に―――
…なったりはしてませんが(うそです、少しキョロりました)
まあでも
残念ながら室町好きっぽい人も南北朝っぽい人も会議っぽいものも見当たりませんでしたので
一人、脳内室町会議に浸るため
ソファー席を確保して…


スタバでブランチ


私、8月は誕生日月なので
ここでケーキを食べようと、何日も前からワクワクしておりました。
(※このお店は、普通のスタバにはないケーキがある。)

写真左が「オレンジのシブースト」です。
誕生日モードなので、好きなだけ何でも頼んじゃえと
サンドイッチももりもりにして…
(゚д゚)ウマー

ああ、流石にお腹いっぱい。
このままソファーに沈み込んでまったりうとうと…
してる場合ではありません!
まだまだこれからは長い!!

という訳で
居心地の良さに後ろ髪を引かれながらお店を後にします。

ご馳走様でした!

鎌倉御成町のスタバ
( ^ω^)おっ?おっ? 日付まちがえたかお??




さて、再び駅から仕切り直して、本日のセカンドスタートです。
まずはいつものコースで『鶴岡八幡宮』へ。

境内に入ってすぐの左右に広がる「源平池」
この時期、が元気にもっさもさしております。


これは右手の「源氏池」

鶴岡八幡宮「源氏池」


こちらは左手の「平家池」

鶴岡八幡宮「平家池」



北条政子源頼朝の必勝を祈願して造らせたと伝わる「源平池」
「源氏池」に浮かぶ三つの島は、繁栄の "産" を意味し
「平家池」四つの島は "死" を意味する…
と言われる、歴史を刻んだ池ですが―――

(いわゆる)"源平合戦" の末に訪れた源氏の時代である「鎌倉時代」
源氏平家、あるいは
三代で幻となる源氏将軍と、平氏である執権北条一族
両者の間の因縁が安からぬものであるのは
たどらねばならなかった必然の歴史だったと思いますが
しかしそれゆえ
その先に訪れた「室町」という新しい時代には
源平の関係にもまた、新しい展開が待っていたのではないか―――
いや、はっきりと言えば


源平の新しい関係を迎えるために、鎌倉が終わり室町が始まったのです。


「…のです。」っておまえ… (´・ω・`)
いきなり何ドヤっと言い切ってんだよ?あほなの?とか思われそうですが
実はこれ、かなりあなどれない論点なのですよ。
というか、他のあらゆるすべてに最優先される最重要事項だったとすらいえるのですよ

尊氏さん的には。


鎌倉幕府への反旗とか、建武政権との決裂とか
将軍家として歩み始めた足利家の新時代
初期幕府に訪れた最大の危機『観応の擾乱』……

これらの歴史的大転換もすべては、"源平" と切り離せないところにあった

尊氏さん的には。


歴史って、「時の偶然」「人の恣意」の積み重ねのように思われていて
それゆえ、事象として軽視されがちな所がありますが
否、実際は
歴史って、その根底に流れる因果「普遍」(宇宙法則、物理法則)に繋がっています。
そんな見方する人は確かに多くはないかも知れませんが
しかし、少なくとも
足利尊氏という人には、そういう世界が見えていたようです。


生み出された結果である世界の「現実」と、世界を生み出す原因である「根源」
二通りの見方をしていた、という事です。
といっても、この二つはあくまで「一つの世界の別の側面であって
例えるなら「一つの世界を別の言語で表現したもの」に過ぎません。

「建武の出家騒動」(←浄光明寺の)とか
将軍になってからの政務放棄的意味不明スタンスとか
特に『観応の擾乱』での数々の奇怪な動きとか……

「考え無し」とか「軽く見積もって病気」とか言われる尊氏の
発言、行動、発想の謎を解明し、論理的に理解するには
尊氏が見ていたこの二通りの世界を、それぞれに叙述する必要があります。

(逆に言えば、そうする事で
 尊氏が極めて理に適った人間で、かつ頭脳明晰である事が証明される!!)



例えば…
尊氏が、先読み・先回りを得意としていたのは
世界を生み出す原因である「根源」を見る能力があったから、なのです。
(普通の人は、結果である「現実」を見て動く。)

以前、本サイト『2-9』「天を読む者」で紹介した
『六韜』(りくとう)の言葉をここで再び…

 聖人は天地の動きに徴す、たれか其の紀を知らん

(聖人は、天地の動き(根源)を把握しそれに順応する
 (聖人の他は)誰もその条理を知らない。)


でも、人には見えない世界が見えてしまうと
その言動を誰も理解してくれない…ってゆう。
(でも、少なくとも尊氏は、当時から人に愛されていたよね。)




あ、ああ…また話がおかしな国に迷い込んで来た。。
こういう話をするから友達が出来ないのは分かっているのですが
でも、こういう話したい…
こういう話したいけど、友達が欲しい… (´;ω;`)





ええと、話が逸れましたが
いま仮に、"源平の関係" から鎌倉室町を見るならば…

平安までの
政治の基準が権威縁故社会階級であった貴族の時代からの進化を求めて
「鎌倉」という、全く新しい武士の時代…すなわち
この国で道理に立脚した武家政治を実現するための時代」を切り拓くため
(その理不尽な代償として)敵対し傷つけ合う事を宿命として歴史を築いた両者は
次の段階では
天下に真の泰平を根付かせるため
その因縁に安らかな結末(※)を与える事を求められた

そのために訪れたのが、「鎌倉」の終焉であり「室町」の始まりだったと。

(※…なぜなら、宿怨という強大なエネルギーは
 現状を打破し、時代を動かす原動力となる…と同時に
 常に泰平を破ろうと作用する破壊力にもなるから。)


もちろん、彼らは(少なくとも大半は)
このような時代の流れの意味を、知らずに生きていた訳ですが。


「源氏」「平氏」という二つの存在は
どちらかが勝者となり、どちらかが滅亡するという
淘汰決着の為に生まれたのではなく
相対である事に意味がある…というか
「源平」とは
相対である為に生まれて来た「陰陽」のような関係にある
のだと思います。


二つの「融和」「均衡」、互いの「肯定」「尊重」「補完」
負の因縁の昇華により、天下泰平を目指すことが
足利家の家督尊氏に課せられた使命だった―――


…という秘密を推測させてやまない史料的事実が、よく見るとちらほらわんさかしていて
( ^ω^)おっ??おっ??? …ってなってる。


平氏である日向秀政(→改名して足利秀政)を「御父」と呼び
その娘「さぬ」と婚姻したのも
この尊氏が背負う宿命がさせた行動の一つだと、私は考えているのですが…
 (; −`д−´) むむむ。
あと、『観応の擾乱』での行動にも顕著に影響してるっぽくてぬぬぬ。

(※足利さぬについては
 「足利さぬ …のこと(その1)」(2017.6.17)と
 続きの関連記事をどうぞ。)





あーさて、いよいよ話逸れ過ぎですので
重要な話ですが、不本意ながら今回はこの辺にしておきます。

何が言いたかったのかと今さらながら言いますと
尊氏さんが秘めていた(…かも知れない)想いに敬意を払い
その祈りが届くよう、私からもささやかな助力がしたくて
「源氏池」「平家池」
二つの池に行って、二つの写真を撮って、等しく並べてみようと思った訳です
二つで一つの "互いの蓮" として
室町より愛を込めて―――




さてさて、話と旅を先に進めます。

「源氏池」の方には、池の中央に『旗上弁財天社』が鎮座ましましておりまして
ここにいつも群れを成している白鳩たちが好きで
最近は、鎌倉に来るたびに立ち寄っています。

大抵は木の上にいる事が多いか、池のほとりを思い思いに歩いていたりするのですが
この日はなぜか…


『旗上弁財天社』の白鳩たち


うずくまってプルプルしてた。

近付いて写真撮ってても、一向にテンション低いままで
なぜかいつもより毛並みが悪く
イライラしたり、真顔でつっつき合ったりしているものもいたりで
軽く見積もって世紀末なただならぬ空気に
慰めの言葉ひとつ、掛けることが出来ませんでした。

何やってるんだろう…と思いつつ
もんもんとしながら『旗上弁財天社』を立ち去ろうとしたその時―――
背後で一斉に飛び立った!!

振り返った鳥居の向こうには、高い木の枝に元気に止まる白鳩たちが…
え、マジなんだったの??

ここの白鳩たちは、朝10時まではプルプルしてる
とかいう習性があるのだろうか…?




さて、不思議な鳩たちにすっかり翻弄され尽くし終わった私は
いそいそと「本宮」へ。

日曜日ですが、まだ10時を回ったくらいなので混雑も無く
楽々スムーズ参拝です。

南無八幡大菩薩!!!


『鶴岡八幡宮』


いつ見ても安定の鶴岡、そびえ立つ八幡宮!!


この後、『白旗神社』歴代源氏を偲び
境内東の鳥居から外に出て
次の目的地、これまた初訪問の源頼朝の廟所『法華堂跡』へ向かいます。

てくてく…

…と話を続けたいところですが
長くなってしまったので次回
「夏の室町会議が開催されると勘違いして鎌倉に行ってきました(その2)」
に続けることにします。


それでは最後に
元鶴岡八幡宮『由比若宮』初参拝記念!!…という事で
源八幡太郎義家の、時を越えて「ただいま八幡様」の図です。


『由比若宮』源義家


平安だろうと、平成だろうと、いつの時代でもお構いなしに
義家がいればそこに、その瞬間から、果てない未来が拓けて始まる
…そんなイメージです、源氏の英雄八幡太郎義家は。



posted by 本サイト管理人 at 08:57| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月17日

『新千載和歌集』の隠し扉(その3)

おはようございます
「『新千載和歌集』の隠し扉(その2)」の続きです。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)




それでは早速、前回の内容を踏まえつつ
『新千載和歌集』「雑歌 中」より
直義和歌と、それに続く4首をどうぞ。



貞和百首歌めされし時  左兵衛督直義
うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

述懐歌の中に  左近中将義詮
とにかくに 世の人ごとの なげかれて 心のうちの やすきまぞなき

百首歌たてまつりし時、おなじ心を
世の中の 人のうれへの あるにこそ おろかなる身の 程はしらるれ

建武二年人人題をさぐりて千首歌つかうまつりける次によませ給うける
後醍醐院御製
身にかへて 思ふとだにも しらせばや 民の心の をさめがたさを

百首歌めされし次に  御製
猶ざりに 思ふゆゑかと 立ちかへり をさまらぬ世を 心にぞとふ



(※「左近中将義詮」は、2代目将軍足利義詮(よしあきら)(※尊氏の嫡男)
 「御製」は、北朝の当今である後光厳天皇(の詠歌)を指します。)
(※御製(ぎょせい)は元々、天皇(上皇など)の作った詩歌・文章を指す普通名詞。)



(訳)
直義
この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
何を生きていく慰めにしたらいいのか…
義詮(一首目)
世の人々の嘆かわしい諸々がとにかく思い悩まれて、心が休まる暇がない。
義詮(二首目)
世の中の人々の憂いや苦しみを思うにつけ、我が身の愚かさを思い知る。
後醍醐天皇
この命に代えてもいい、と思っている事だけでも知らせたいものだが
民の心というのは、治め難いものであることよ…
後光厳天皇
ふと立ち止まって、我が心に問い直す。
いつまでも世が治まらないのは
自分が心のどこかで、疎かに思ってしまっているせいだろうか…と。




…という訳で。
『新千載和歌集』の撰集時期と
『観応の擾乱』の、禁忌にも近い暗黒な真相を考えた時
この配列は―――
極めて深い意図を込めた、本命級の隠し扉と言えそうですが…


(※後光厳天皇は、光厳上皇の皇子で
 『観応の擾乱』勃発以前まで当今であった崇光天皇の、同母弟
 本来、天皇に即位するはずの無かった弥仁王(=後光厳天皇)ですが
 『観応の擾乱』の非常事態の中で廃位されてしまった崇光天皇のあとに
 幕府によって極めて異例な形で擁立され践祚した、北朝の天皇です。)

(↑かなり端折った説明ですみません。)

(※『観応の擾乱』における、直義の突然の失脚
 そして唐突な義詮の登場と
 人々の思惑を超えて、長引きながら悪化の一途をたどる擾乱
 その一連を背後で結ぶ、ある明確な理由
 おっとこんな時間にピンポン来たよ誰だろう級のタブー… )

(↑もっと言いたい事あるので、下の方でもう少し暴露します↓)




さて、まずこの「配列」から一番に読み取れるのは
 直義 → 義詮(2首)
 後醍醐天皇 → 後光厳天皇

この二組の和歌の並びの「対比」である事は、異論がないと思います。


これは単純に
和歌の内容の類似性と社会的地位で「相似」をなしている、という
「和歌の表面から読み取れる基本情報」から容易に想定されるものですが
(特に義詮の和歌は2首とも、直義のにめっちゃ似てる… )
ではなぜ、このような目を引く「対比」を演出したのか?
…そこに、この配列の真の意図がある訳ですが
それは―――
上で示唆した事情、いわば
 「歴史の経緯の中における、各人の立場
これを表明するためだった、…のだろうと考えられます。

…何のために?
これはまあ、尊氏のやる事ですから
一言で言えば「太平を祈るために」という事でしょう。
この配列はつまり―――
「過去に許しを請う」ためのものなのです。


(前者は、過去、その地位にあった人
 後者は、現在、その地位にある人
 そしてその歴史的変遷が、どちらも尋常ではない…。
 その歴史をどう捉えているか、過去に対する現在の立ち位置、責任…
 それらをこの配列が "強く" 示唆しているのではないかと。)




歌に☆*。.:*・゚☆(−人−。)☆゚・*。.:*☆祈る



ま、とりあえずは先に
「和歌のぱっと見情報」を整理しておきますと…

直義義詮の和歌の方は
「世の中の人々の憂い」が共通の主題となっています。
そして、幕政を担う将軍(or 実質将軍)という立場にある者として
「人々の苦しみ(の軽減)に、最も重きを置いていた」という
為政者としての心構えを、読む者に印象付ける和歌となっています。

直義和歌の方は、一見、憂いているのは直義本人ですが
 『風雅和歌集』の「しづかなる…」の和歌も考慮すれば
 直義の憂いの元は「人々の憂いが絶えない世」である
 (だから、その人々の為に政治をしよう、って言ってる)という事で
 やはりテーマは「人々の憂い」であると読めるかと思います。)



後醍醐天皇後光厳天皇の和歌(御製)の方は
「治め難い世へのもどかしさ」が共通の主題となっています。
そして天皇として「この世を我が身そのものほどに思っている」
(だからこそ、治まらぬ世に深く苦悩する)という
天子本来の姿を、感情豊かに表現した和歌となっています。

古来、この国では
天子は徳によって天下を治めるもの、つまり、徳ある天子こそが民を安んずることが出来き
逆に天下が乱れるのは、自身の修養が足りない為だという認識があり
(端的に言えば)天子「存在そのものが天下の安危に直結する」
という感覚が、社会的に共有されていた訳でして
そういった背景を考慮すると
この2首の御製は、より実感のこもった歌に感じられると思います。


さらに言うと、この2首の次には
「雑歌 中」の部立の最後の歌として…

題しらず  伏見院御製
世をすくふ 心のうちの なほざりに 民のうれへを なすぞかなしき

という、伏見院(※後光厳天皇の曽祖父)の御製が配されていて
天皇「世に対する在り方・思い」
重ねて印象付ける仕様となっています。




…以上
それぞれの和歌の共通点を整理してみましたが
「過去と現在で同じ立場(将軍 or 天皇)から同じ主題を詠った」この二組の和歌を
続けて配置する」ことで
そこに何かしらの強い主張を感じずにはいられない、特徴的な配列となっている訳です。

(※直義和歌〜伏見院御製までの一連の6首の和歌は
 「雑歌 中」の部立の最後尾に位置していて、猶さら目立って見えます。)


特に注目なのは、義詮に関して
同様の和歌2首も配するという「強調」が見られますが
これはつまり―――
この配列に込められた意図において「最も重要なのは義詮」
という意味であり
ここに配列の真意が凝集されていると言っても過言ではない… かと。



擾乱の☆*。.:*・゚☆(−人−。)☆゚・*。.:*☆帰結



…さて
ここまでは、和歌自体とその配列の表面的な基本情報、つまり
単なる事実ですので「ふーん、そうだね」で済む話ですが
この先は…
『観応の擾乱』の真相が絡む考察となる、というか
この配列の意図が、『観応の擾乱』の真相を補強するものとなる訳で
(↑『新千載和歌集』の撰集時期から考えて)
色々と問題がある話になって来る訳であります、はい。


そもそも、この二組の和歌はそれぞれ
「過去(の人)→ (の人)の順に並んでいる訳ですが
「過去に倣(なら)う」あるいは「過去を踏襲する」かのように
「過去」同じ心を詠った「今」を追随させる配列がもう
非常に気になって仕方ない訳です。

だって、この擾乱の経緯を考えれば
直義を崇敬するかの如く、類似した義詮の和歌が後に続いてるって…
え?? え??
って感じですよね。
(※『観応の擾乱』において義詮
 なぜか直義を一方的に敵視し、ものすごく嫌っていた… )


つまり…
尊氏&二条為定による今回の隠し扉は、たぶんきっととても重い―――





という訳で、長くなってしまったのと
この先は、推測交じりの実験的な考察になるだろうと予想されるので
また記事を分ける事にしまして
次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その4)」に続きます。

情報としては今回で終わりでもいいかと思うのですが
 まあ折角なので、もう少し感想文を続けてみたいと思います。)





あ、上で「もう少し暴露する」とか言っといて忘れてました。
まあつまり『観応の擾乱』というのは―――

 義詮なんですよ!! 義詮!!

と言っても、全責任義詮にあるとまでは言わないし
そういう意味でもありませんが
「主眼を義詮に置いて、経緯を追うべき事件」である事は確かです。
では、続きは次回!



posted by 本サイト管理人 at 08:07| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)

2017年08月16日

『新千載和歌集』の隠し扉(その2)

おはようございます
「『新千載和歌集』の隠し扉(その1)」の続きです。


(※以下、歌の出典は…
 【「新編国歌大観」編集委員会編『新編国歌大観 第1巻 勅撰集編 歌集』
 (角川書店)1983】
 歌の意訳は私による適当です。)



以前、このブログでも紹介した
直義の清さを象徴してやまない有名な和歌の一つ


うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

(この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
 何を生きていく慰めにしたらいいのか… )


これは『新千載和歌集』に撰出された歌なのですが
今日はこの和歌の意味を
周辺和歌との「配列」から考えてみたいと思います。



まずはじめに、(勅撰集の)和歌の配列について
簡単に復習(と予習)をしておきますと
和歌の配列には意味があり
 主題や含意、キーワードに関連性共通項を持つように並べられている」

(※配列の具体的な方法については、各種様々な手法があるようです)
という、基本の一つはだいたい分かって頂けたかと思いますが
これはつまり、和歌を文学的に見た場合の規則性です。

一方で、和歌というのは個人の作品ですから
「どういう思いを込めて誰が詠んだ歌か」という
私的な側面も重要になってくる歌もある訳で
そのような歌の場合
テーマ・単語の共通項のみならず
具体的「思い」や、「詠者」の関係に主眼を置いて配列する
という事もある訳です。

例えば、勅撰和歌集というものの性質を考えた場合
当今(or 治天の君)の詠歌や、その御代を言祝(ことほ)ぐ歌などで
意識的な配置・配列が見られる
…のは、分かり易い例だと思います。
(※当今(とうぎん)…当代の天皇。今上天皇。)


配列に込められたこのような意図については
先日から紹介しております…
【深津睦夫『新千載和歌集の撰集意図について』
(『皇學館大学文学部紀要』第39輯 2000年12月)】

こちの論文で
『新千載和歌集』における後醍醐天皇尊氏の和歌の気になる並びについて
重要な考察がなされています。
どれも非常に興味深い内容です。
なので全部紹介したいところですが、流石にそれは無理 (´・ω・`) …と諦めようかとも思ったのですが、やっぱりとても参考になる考察なので頑張って一例だけ引用で紹介したいと思います。



(※以下、上記論文の p.43-44より引用。)

 たとえば次の神祇部の九八二・九八三番の配列。

元弘三年立后月次屏風に、春日祭の儀式ある所を  後醍醐院御製
立ちよらばつかさつかさもこころせよ藤の鳥居の花のしたかげ(九八二)

                        等持院贈左大臣
諸人もけふふみ分けて春日野や道ある御代に神まつるなり(九八三)

 九八二番の後醍醐天皇の歌は、新葉集にも採られたもので(巻第九・神祇歌 五九四)、
後醍醐天皇の神祇歌としては代表的な一首ということになろうか。
朝廷に仕える百官に向かって春日の神徳に心するように呼びかけている歌である。
それに続く九八三番歌は、後醍醐天皇のそれと同じ元弘三年立后月次屏風の際の尊氏詠で、
正しい政治がおこなわれている今日、
臣下一同、春日社に参拝して神を祀ると詠むものである。
ここでは、春日祭をテーマとしつつ、
天皇が臣下に呼びかけ、
臣下を代表する尊氏がそれに応えつつ天皇のすぐれた治世を言祝ぐ

という構図が形作られていると見ることができよう。

(※引用ここまで。 改行と強調は、私による適当です。)




…という訳で
大変鋭い指摘&解説で、和歌の配列の奥深さを感じてもらえたかと思います。
つまりここにも―――
執奏者尊氏と撰者二条為定による『新千載和歌集』の隠し扉が!!
しかも今回、超真面目なやつ。
尊氏二条為定は、やればむちゃむちゃ出来る子。



この様に「和歌は、詠者に関して意図的に並べられる場合もある」
という予備知識を踏まえて
今日の本題に進みたいと思います。




本題!☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆本題!




さて、この「うきながら…」の直義和歌は
為政者としての直義の天下への無私の献身
人間としての直義の利他・他愛といった
直義が生まれながらに持つ本質を鏡のように映し出した珠玉の和歌であります。

人々の苦しみを思うだけでも、この世を憂いてやまない直義ですが
政道においてもまた
道ある世を目指し夢見る直義にとって
道の守られない現状に向き合う日々は、嘆きの多いものだったでしょう。
(※↑この辺の心境については
 『Muromachi通り』「画像修正しました」(2014.10.21)冒頭の
 上杉憲顕に宛てた直義の自筆書状の意訳をどうぞ。)

それでも、この天下にある人々の為だと思う事が
苦しみの中にある直義の唯一の支えになっていた、そういう歌です。

直義にとって、政道を担うという事は「人の憂いを除く為」であって
自己の欲心や権勢、自尊心の充足の為ではなく
本当に直義って、自分よりも人、人の幸せこそが自分の幸せという
天から降って来たような生まれながらの聖人
ナチュラルにして菩薩、仏界からいらしたとしか思えない救世の弥勒候補
そろそろ人なのかどうかすら怪しくなってくる 謎の生命体直義―――


(また直義の話で今日が終わってしまうところでした。)


それからこの和歌は、前回の直義和歌と同様
『風雅和歌集』撰集の際に詠進された「貞和百首歌」の中の一首です。
貞和2年(1346)という、天下の実質将軍直義(←幕政的な意味で)が率いる初期幕府の最盛期
「天下執権人」(『園太暦』康永3年9月23日)としての直義のありのままの心
治天の君である光厳上皇に伝えた美しい歌であります。


ちなみに『風雅和歌集』といえば
「雑歌 下」に収められた為政者直義の和歌…

述懐の歌の中に  左兵衛督直義
しづかなる よはの寝覚に 世中の 人のうれへを おもふくるしさ

(静かな夜にふと目が覚めると
 世の人々の憂いや悲しみが胸に押寄せて… 苦しい )


『風雅和歌集』の撰者光厳上皇の心を射止めたのはこちらの歌でしたが
ほぼ同じ心を詠んだ今回の直義和歌も
それを御覧になった時の光厳上皇の感激やいかに… (´;ω;`) 滝滝滝
いやむしろ、安定の以心伝心ツーカーで (ゝω・) v ブィ☆
…とか、「貞和百首歌」は妄想が無限に捗って困る。

(※光厳上皇直義の関係についてのとあるエピソードは…
 『Muromachi通り』「直義の年齢(その2)」(2015.11.3)
 こちらの前半〜中ほどをどうぞ。)



さて
そんな、単独でも十二分に貴重な情報を提供してくれる今回の直義和歌ですが
実はこの和歌は
その「配列」が、非常ぉぉーーーに気になるものとなっているのです。
つまり、ある意味こっからが本番!!
…の可能性が無きにしも非ず。というか間違いなくたぶんそう。(←尊氏的な意味で)



という訳で、問題の配列を紹介…するその前に
『新千載和歌集』どういう時期に誕生したものかという事を
今一度確認しておきますと…

『観応の擾乱』の最終決戦(直冬戦)が終結した翌年の、延文元年(1356)6月
尊氏の奏請より撰集が決定、開始され
そして最終的な全巻の完成は
延文3年(1358)4月30日の尊氏の薨去を経た、延文4年(1359)12月


つまり…
『新千載和歌集』は謂わば
『観応の擾乱』尊氏の人生の、締めくくりとなった歌集」
と言う事も出来ると思います。
そう考えると益々、この勅撰集に託された想いが重みを増して来る訳ですが…。

(※『新千載和歌集』には「後醍醐天皇の鎮魂」という意図が込められている
 …などの、当勅撰集の特質・基本性格については
 先日の記事「直義のスクープ和歌は謎(その5)」を御覧下さい。)




それでは、以上の背景を意識しつつ
今度こそ本題の「配列」を…

…と思ったのですが
長くなってしまったので一旦切って
次回「『新千載和歌集』の隠し扉(その3)」に続きます。



本題...*・゚(´・ω・:;.:... .本題:;.:....



結局今日も、8割直義で終わってしまいました。
あとの2割は、尊氏の気配が始まった感

次回、開かずの隠し扉の向こうから テッテレッテレー こんにちは…!!
…とふざけたいところですが
今回は真面目な話なので、真剣に行きたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 08:06| Comment(0) | 観応日記(尊氏、直義)